◎前図書新聞代表の井出彰さん、亡くなる(七十八歳)
東京新聞五月一〇日朝刊で、井出彰さんの訃報に接した。亡くなったのは八日で、七八歳だったという。記事には「前図書新聞代表」と紹介されていた。井出さんに私は、一度だけ、お目にかかったことがある。二〇一六年一二月一七日、築地本願寺で開催された「コスモス忌」で、井出さんの講演を拝聴したあと、名前を名乗って挨拶し、面識を得た。翌年の一月に、所用で神田の図書新聞社を訪れたことがあったが、あいにく井出さんは「会議中」で、面会は果たせなかった。
その後、二〇二〇年一二月一日に、私は、当ブログに「よど号と三島事件はいずれも木曜日だった(井出彰)」という記事を書いた。本日は、この記事の全文を再掲し、故人を偲ぶことにしたい。
◎よど号と三島事件はいずれも木曜日だった(井出彰) 2020/12/01
先月二五日は、作家・三島由紀夫の命日だった。そのせいか、新聞やネットで、三島関連の記事を何度か見かけた。
二〇一三年二月二〇日と言えば、私がこのブログを始めてしばらくたったころだが、その日の日本経済新聞の「文化」欄に、日本図書新聞代表の井出彰(いで・あきら)氏が、「日本の書評文化」を論じた文章を寄せていた。いま、その「切り抜き」を探し出すことはできないが、その文章のなかで井出氏は、三島由紀夫の自決事件についても触れていた。
当時、井出氏は、日本読書新聞の編集委員だった。事件当日、社にいた井出氏に電話がはいった。評論家の村上一郎が、事件を聞いて興奮し、日本刀を持って家を出た、何とか止めてくれ、という連絡だった。井出氏は、市ヶ谷の自衛隊正門前に急行し、やってきた村上を呼び止めて、説得した。――といったことが書かれていた。初めて聞く話で、その話を私は、その日のブログの末尾「今日の名言」のところで、ごく短く紹介した。
それから三年以上たった二〇一六年一二月一七日、築地本願寺で開催された「コスモス忌」(アナキスト詩人の秋山清を偲ぶ集まり)に参加し、井出彰氏の「内山愚童と川崎長太郎」という講演を拝聴した。たしか井出氏は、この講演のなかでは、三島事件には言及されなかったと思う。
しかし、講演のあと、その会場で売られていた井出彰氏の『書評紙と共に歩んだ五〇年』(論創社、二〇一二)を手に取ってみたところ、三島事件についての言及があった。さっそく一冊、買い求めた。
本日は、同書から、「6 よど号、三島事件、村上一郎」のところを紹介してきたい。なお同書は、井出彰氏に対するインタビュー記録で、「インタビュー・構成」は、評論家の小田光雄氏である。
6 よど号、三島事件、村上一郎
井出 それ〔最も印象に残っていること〕はやっぱりよど号と三島由紀夫事件に尽きます。
その頃『日本読書新聞』は金曜日に刷っていた。それで土曜日に出社して新聞を発送したり、編集会議をやったりしていた。ところがよど号と三島事件はいずれも木曜日だった。よど号の時はその夕方の六時頃、先に埴谷〔雄高〕さんにインタビューし、次に五木寛之さん、最後は秋山駿さんで、秋山さんは飲んで帰ってくるのを待っていたから、午前一時ぐらいになってしまった。でもあの頃は若かつたから、徹夜で三人のテープを起こし、七、八枚ずつにまとめた。彼らには何回もインタビューしていたし、親しかったこともあって、名人の文体に合わせてまとめることができた。通常は金曜日の朝から刷るのだけれど、それをずっと待ってもらい、構成を入れ換え、昼には責了に持ちこみ、金曜日の夜に刷り、土曜日の一番で取りにいき、何とか発売日に間に合った。
―― よど号事件が一九七〇年三月で、三島事件が十一月でしたね。
井出 それも十一月二十五日、『豊饒の海』の完結した日と同じ日付です。あの日も木曜日で、酔っ払って会社の宿直室で寝ていた。そうしたら午前十時頃に村上一郎さんの奥さんから電話がかかってきた。三島が市ヶ谷の自衛隊に乗りこんだことを知り、自分も行動を共にすると村上がいい、日本刀を持って出かけていったから、井出さん、止めてほしいということだった。会社は石切橋〈イシキリバシ〉だから、タクシーを飛ばして〔市ヶ谷駐屯地の〕門で待つことにした。つまり村上さんは吉祥寺から車できたので、私のほうが間一髪早かったことになる。
―― 本当に日本刀を持ってきたのですか。
井出 持ってきていたし、興奮もしていたので、まかり間違えば、私も切られるのではないかと思った。とにかく阻止しなければならないので一生懸命落ち着かせて、前にあった喫茶店に連れていった。そこで先に連絡してあった桶谷秀昭〈オケタニ・ヒデアキ〉さんと合流することになっていた。それからすぐ桶谷さんがきた。それから三人で色々と話し、様子を見ながら村上さんをなだめた。そうしているうちに三島が自決したという知らせが入ってきた。午後一時ぐらいだったんじゃないかな。
それから興奮している村上さんを家まで送っていった。でもこちらもやはり商売のこともあるから一晩中雑談をしているようにして、村上さんに三島事件に関してしゃべってもらった。その話を明け方までかかってまとめ、新聞に掲載した。すると飛ぶように売れた。まさに号外のように売れたらしく、紀伊國屋や御茶ノ水の茗溪【めいけい】堂からはすぐに追加注文が入ってきた。
七〇年のよど号と三島事件を扱つた号はその週に二度刷り増ししたと記憶している。
ここまでが「6」で、このあと、「7 三島由紀夫とのつき合い」に続くが、こちらの紹介は、明日。
――以上が、二〇二〇年一二月一日の記事である。