◎恥しくつて足がすくむやうだつたあ(ピカサン)
きだ みのるの『気違ひ部落周游紀行』(吾妻書房、一九四八年四月)を紹介している。本日は、その十回目で、「50 英雄ピカサンは如何にしで自己の畑を荒す男を小さくなつて見てゐたかについて」を紹介する。この節は、全文を紹介したい。
文中、傍点が施されている箇所は、下線で代用した。
50 英雄ピカサンは如何にしで自己の畑を荒す男を
小さくなつて見てゐたかについて
五月、この辺でせえだと呼はれるじやがいもがそろそろ肥りはじめる頃になると、部落では心配が一つふえる。それは畑泥棒だ。
――今年はひどからうよ。とピカサンが心配さうに云ふ。
――南の部落ぢやあ、もう照さんの畑がやられたよ。とサダニイがねころびながら応ずる。昨日通りがかりに見たがよ。先づ五貫目は持つて行かれたな。盜んだのは町場の者に違えねえ。せいだを抜いてな、それについた奴だけ持つて行ったんだから。照さんかんかんに怒つてな。見つけたらひでえ目に会はすと云つてゐたあ。
――だがよ。村の衆ぢやさうも行かねえしよな。とビカサンがしみじみと云ふ。おらあ去年困つたよ。夕方畑を通り掛つたらよ、おらがかぼちや畑に人がゐるのよ。見ると知らねえ衆ぢやなし、歴〈レッキ〉とした人ぢやねえか。おらあ恥しくつて足がすくむやうだつたあ。気づかれちや気の毒だんべえ。茶の蔭で小さくなつてゐただよ。何んでも好い形の奴を二つばかり持つて行かれたが、あんな困つたこたあ、なかつたぞや。
【一行アキ】
盜まれる方が恥しくて小さくなり、泥棒が立ち去るまで隠れてゐるといふこの態度は論理と権利の世界ではなささうであるが、この態度は残つてくれる方が世の中は楽しさうである。だがこんな考へは単なるセンチメンタリズムで日本社会に常にもやもやを残し、整然たる論理の浸透を妨げるといふ人もあらう。
この文章は、私にとって思い出深いものである。最初に『気違ひ部落周游紀行』を読んだとき(そのときは、冨山房百科文庫版で読んだ)、この文章が妙に印象に残った。泥棒を発見して恥しくなるというピカサンの心意が、よく理解できたからである。