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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

松尾がお役に立ったとすれば満足です(松尾稔穂)

2022-02-08 02:10:29 | コラムと名言

◎松尾がお役に立ったとすれば満足です(松尾稔穂)

 岡田啓介述『岡田啓介回顧録』から、第八章「二・二六事件の突発」を紹介している。本日は、その十一回目(最後)。原文に施されていた傍点は、下線で代用した。

     真崎も結局は無罪
 反乱軍への攻撃開始は、廿九日の朝ということになっていた。永田町一帯の住民には避難命令が出され、市内の交通もとまって、いよいよ流血の惨を見るのかと思わせた。なるべく下士官兵には犠牲者を出さぬ方針なんだから帰順するように飛行機からビラをまく。
 香推司令官〔香推浩平戒厳司令官〕はラジオで帰順を勧告したが、それが例の『兵に告ぐ』という話題になった放送だ。あれはあとでだいぶ問題になったということだ。というのは『今からでもおそくはない。抵抗をやめて軍機の下に復帰するようにせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである……うんぬん』という文句。その『罪を許す』というのはいい過ぎだというんだね。
 罪を許すか、どうかは国法の問題で、戒厳司令官の権限外だ、というわけなんだが、司令部としては、法律上の罪を戒厳司令官が許せるものか、許せないものか、常識で考えてもわかることだ。司令官はその作戦行動において『罪を許す』といっているのであって、つまり反乱者を撃滅すべきところを、そうしないでやる、という意味だ、と弁じていた。
 だんだん周囲の情勢は、反軍に不利になって、将校たちは、その日の正午ごろになって陸相官邸で腹を切るという話が伝わり、兵隊たちも帰営して武装解除され、どうにか血を見ないでことはすんだ。しかし自決したのは野中〔野中四郎大尉〕だけで、ほかの将校連中は逮捕されて軍法会議に回されてしまった。その中には丹生誠忠〈ニブ・マサタダ〉という中尉がいたが、これは迫水の母方の従弟に当たる。事件の当日のひるごろわたしの娘万亀子(迫水夫人)のところへ電話であやまってきたそうだが、惜しい若者をあやまらせたとつくづく思ったことだ。
 当時久原房之助〈クハラ・フサノスケ〉にもいろいろと世間の疑惑があった。久原が政治上の情報をとるために使った金のうち間接的には反乱に加わったものの手へ渡ったものもあったようだが、久原自身は直接関係していない。資金というと三井の池田成彬〈シゲアキ〉から金が出ているといううわさもあって、調べたところ事件とは全然関係は&かったそうだ。昭和十年〔一九三五〕の東北飢饉の折り義捐金【ぎえんきん】にからんで北一輝が三井に結びつき、その後、北がちょいちょい池田から金を引き出していたとかで、三井としては、ときどき右翼関係に金をとられているが、とくに反乱軍のために出したということは夢にも思わぬということだった。真崎も背後指導者みたいにいわれたが、結局証拠不十分で無罪になった。

     今も祈る犠牲者のめいふく
 わたしは三月一日に宮内省から臨時首相官邸(当時農林大臣官邸)にうつり、松尾の葬儀の営まられる三月三日、事件以来はじめて角筈の私宅へ帰った。帰宅にさきだって高橋〔是清〕、斎藤〔実〕両家を弔問し、おふたりのめいふくを祈った。わたしが生存していたということは、廿九日午後四時内閣から発表されて国民に意外の感を与えたようだったが、こうして世間の騒ぎもおさまったあと、自宅で松尾〔伝蔵〕のいがいと改めて対面するのは、感慨深いものだった。すまんとも思う、ありがたいとも思う、いいようのない気持でひたすら松尾のめいふくを祈った。
 松尾のいがいが角筈に着いてからの有様は、聞いて泣き笑いするほかはなかった。坊さんはいそいで院殿大居士号の戒名をつけたがるし、弔問客はわたし〔岡田〕の最期の模様を聞きたがる。友人、知己は、はやくいがいに対面したい、と迫水〔久常〕をせかせる。迫水は、検視がすむまで待って下さい、とみんなをなだめていたそうだ。
 松尾の妻の稔穂〈トシオ〉は、わたしの妹だが、わたしの死体というふれこみで、いがいがきてから、自分の夫はどうなったんだろうということについて、気になることもあったにちがいないと思うんだが、一言も松尾については尋ねようとしない。迫水のほうでがまんしきれなくなって、その夜おそく身内を集めて、はじめて、棺の中にいるのが実は松尾であることを打ち明けたところ涙もこぼさず『松尾がお役に立ったとすれば満足です』といったそうだ。これを聞いて、わたしはまたしても生き残ったもののつらさを感じさせられた。
 わたしと同クラスの竹下勇大将などは、廿八日になっても葬儀の用意をする様子がないので、とうとうおこりだし、こんなことでは岡田が浮かばれん、いがいを水交社に引き取って、クラスのものだけで葬式を出す、といって迫水をしかりつけた。迫水は反乱軍のしまつのつくまでは待って下さい、とやっと落ちつかせたということだった。
 そんなわけで、わたしが生きていることがわかると、こんどは、これからどうやって生活するのか、むかしの落人【おちうど】のように蔵の中にでも閉じこもって、一生日陰で暮らすのか、とまじめな顔で心配してくれるものもいた。そういう考え方にも、あのころの人心が現れていると思う。
 しかし、わたしは暴徒のために倒されなかったことはよかった、と今でも考える。そのため人の批評など意に介するに当たらない。ただこの事件のために、斎藤さんや高橋さんまで犠牲になったことは、いつまでもわたしの胸を痛ませた。松尾と四人の警察官のいはいはいまも家の仏壇におさめてあるが、毎年忌日にはお墓参りをすることをならわしとしている。それがせめてものわたしのつとめと思って……。

「真崎も結局は無罪」の節に、「わたしの娘万亀子(迫水夫人)」とあるが、岡田啓介の娘(次女)の名は、正しくは万亀(まき)。万亀は、迫水久常に嫁しているので、岡田啓介にとって、迫水久常は、義理の息子ということになる。
 映画『二・二六事件 脱出』(ニュー東映、一九六二)では、迫水万亀は、「速水夫人」として登場する。これに扮したのは、星美智子さん(好演)。
「今も祈る犠牲者のめいふく」の節に、「松尾の妻の稔穂は、わたしの妹」とある。岡田啓介の妹・稔穂(としお)は、松尾伝蔵に嫁しているので、岡田啓介にとって、松尾伝蔵は、義理の弟ということになる。なお、松尾伝蔵の長女・清子は、「昭和の参謀」として知られる瀬島龍三(せじま・りゅうぞう)に嫁している。
 第八章「二・二六事件の突発」の紹介は、ここまで。
 このあと、岡田啓介述『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社、一九五〇)の「あとがき」を紹介したいと思っているが、明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2022・2・8(9位の土肥原賢二、10位の西部邁は久しぶり)

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