◎「何か起らねば片附かぬ」村上軍事課長
津久井龍雄『証言 昭和維新』(新人物往来社、一九七三)から、「二・二六事件と北一輝」の部の一部を紹介している。本日は、その三回目。
川島陸相らも叛乱を煽動か
二・二六事件については、戦前・戦時中は、その詳しい真相について、多くは秘密に付されていたが、戦後になって漸次その全貌が明らかにされるようになってきた。特に最近になってすでに述べたように、磯部浅一の新しい手記の発見や、湯川康平の西園寺〔公望〕公首謀説などというものがあらわれ、これまで不審のままに打ちすてられていた二・二六事件の問題点に多くの灯がともされるようになった。
以下、それらの新資料をも参考として、この事件の昭和史の中でもつ重さや、問題点についての、より進んだ解明を試みることにする。
まずこの事件は単に純真な青年将校や下士官達だけの計画にかかるものか、それとも軍の上層部や、あるいはさらにひろく政界、財界等の一部のものがこれに関係し、政治的に利用する意図が背後にかくされていなかったどうかということである。この点について、誰でもすぐに想い出すのは、真崎甚三郎大将のことであるが、彼ははたして、どこまでこの事件に直接の関係をもっていたのだろうか。
真崎大将が永田〔鉄山〕軍務局長刺殺の相沢〔三郎〕中佐や、二・二六を指導した青年将校たちの尊信を集め、個人的にも接触していた事実はむろんおおうことができない。相沢中佐が永田局長を刺殺したのも、真崎大将が教育総監を罷免〈ヒメン〉されたことに対する怒りからであるし、二・二六の決起も、その直接の原因と見るべきものは、やはりこの真崎教育総監罷免が軍の統帥を干犯〈カンパン〉するという一事であった。
二・二六の決起趣意書には「所謂元老重臣軍閥官僚政党等ハ此ノ国体破壊ノ元兇ナリ、倫敦海軍条約並ニ教育総監更迭ニ於ケル統帥権干犯、至尊兵馬大権ノ僭窃ヲ図リタル三月事件或ハ学匪共匪大逆教団等利害相結ビ陰謀至ラザルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ」と書いてある。
当時、軍の内部に真崎、荒木〔貞夫〕両大将らを首脳とする皇道派なるものと、宇垣〔一成〕大将らに源を発し永田鉄山少将を中心とする統制派なるものとが存在し、両々対峙していたことは知られているが、皇道派にいわせると、真崎罷免は要するに統制派の陰謀に出たものだと主張する。元来、参謀総長、陸軍大臣、教育総監の三大官の罷免は、三者の同意の下に行われなければならないのに、真崎の同意を得ないで、その罷免を強行したことは不当であるというのがその派の言い分である。
真崎はこの罷免がよほど口惜しかったらしく、その憤懣を周囲にぶちまけ、訪ねてくる青年将校たちにも痛憤の面持〈オモモチ〉でこれを語り、軍部内の腐敗紊乱が極点に達していることを告げて憚らなかった。
そして暗に彼らの奮起をうながし、いざといえば、後のことは引きうけたくらいのことは、言外に匂わした模様である。これについては次のような磯部浅一の獄中遺書(河野司編著『二・二六事件』)の記述がその間の消息をもらしているが、おどろくべきことにはたんに真崎大将のみならず、むしろその反対派と見るべき川島〔義之〕陸軍大臣や古荘〔幹郎〕陸軍次官、山下陸軍省調査課長〔山下奉文陸軍省軍事調査部長〕、村上〔啓作〕軍事課長 などまでが、暗に磯部らの決起を奨励するかの態度をとっていたことである。
この辺に、当時の陸軍内部の複雑な情勢と、この事件が二重にも三重にも利用的に煽動されたと解される半面もあるわけである。磯部は事をあげるにはまず軍上層部が、どんな考えをもっているかをあらかじめ打診しておく必要があるとして、事件をおこす約一カ月ばかり前、川島陸相や真崎大将を訪問している。次の記述は、その折のことに関したものである。
「……この会見に於て、余〔磯部〕の川島から受けた感じは、何事か突発した場合、弾圧はしないということであった。夜十二時過ぎ帰宅せんとするとき大臣は、わざわざ銘酒の箱詰になったのを玄関に持ち出し……一本あげよう、自重してやり給え、などといってすこぶる上機嫌であった所などを考えても、何だか育年将校に好意を有している事を推察するに難くなかった。
川島との会見に於て充分なる結果を得なかったので、川島と交友関係に於て最も厚い真崎を訪ねることにして、一月二十八日相沢公判の開始される早朝、世田谷に自動車をとばした。……
真崎は何事かを察知せるものの如く、何事か起るのなら何も言ってくるな、と前提した。余は統帥権干犯問題に関しては決死的な努力をしたい、相沢公判も始まることだから、閣下も御努力して頂きたいと言って、金子〈キンス〉の都合を願った。……
余はこれなら必ず真崎大将はやってくれる、余とは生れて二度目の面会であるだけなのに、これだけの好意と援助をしてくれるということは、青年将校の思想信念行動に理解と同情を有している動かぬ証拠だと信じた。陸軍に於て陸軍大臣とこれを中心とした一団の勢力が吾人の行動を認め、且つ軍内の強硬派たる真崎が背後から支援をしてくれたら、元老重臣に突撃する所の吾人を弾圧する勢力はない筈だ。……
これは真崎、川島、古荘、山下、村上軍事課長と直接面会して感得した所だ。村上の如きは余に対して、君等を煽動するのではないが、何か起らねば片附かぬ、起った方が早い、といって、あたかも事の起るのを待つが如しであった」
事件後、真崎大将は憲兵隊の取調べをうけ、軍法会議にもかけられたが、相沢中佐の行動を称揚したり、青年将校を国体明徴問題で煽動した事実は、真崎の否認にも拘らず、証拠によりこれを認めうるが「しかるにこれが叛乱者を利せんとするの意思より出でたる行為なりと認定すべき証拠十分ならず」として無罪の言渡しをうけた。【以下、次回】
磯部浅一は、事件直前に接触した陸軍関係者として、真崎、川島、古荘、山下、村上の五人を挙げている。
真崎甚三郎大将は、一九三六年(昭和一一)一月、東京陸軍軍法会議に起訴されたが、同年九月、無罪となった。一九五六年(昭和三一)八月、死去。川島義之(よしゆき)陸軍大臣は、事件のあと予備役となった。一九四五年(昭和二〇)九月、死去。古荘幹郎(ふるしょう・もとお)陸軍次官は、事件後、航空本部付となる。一九三九年(昭和一四)五月、陸軍大将、軍事参議官。一九四〇年(昭和一五)七月、死去。山下奉文(ともゆき)軍事調査部長は、一九四一年(昭和一六)一二月、第二十五軍司令官としてマレー作戦を指揮。戦後、フィリピンで軍事裁判にかけられ、一九四六年(昭和二一)二月に絞首刑。村上啓作陸軍省軍事課長は、一九四四年(昭和一九)一一月、第三軍司令官に就任。戦後、シベリアに抑留され、一九四八年(昭和二三)九月、病死。