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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

高杉晋作、馬関の一挙と比較すべし(林八郎)

2022-02-20 04:19:45 | コラムと名言

◎高杉晋作、馬関の一挙と比較すべし(林八郎)

 津久井龍雄『証言 昭和維新』(新人物往来社、一九七三)から、「二・二六事件と北一輝」の部の一部を紹介している。本日は、その七回目。

  二・二六はなぜ敗れたか
 昭和四十二年〔一九六七〕はロシア革命五十周年にあたり、当のロシアでは盛大な記念の催しがもたれたし、日本などでもその想い出がいろいろの人によって語られた。ロシア革命をいう場合、多くは共産主義のイデオロギーに立脚した必然的変革として取り上げられるが、それが共産主義の公式である資本主義爛熟の結果として必然に招来されたというようなものでないことは、当時のロシアが資本主義国家としてはむしろ後進的であったことにみてもあきらかだろう。
 ロシア革命は、むしろ資本主義前期の封建的君主独裁に対する不満と、日露戦争および第一次世界戦争における敗北の結果として招来されたものであり、特に指導者としてレーニンのような天来の革命児を得たことが、その成功の主因をなしている。
 二・二六事件をロシア革命に比することは、いろいろの点でむろん大きなあやまりを犯すものだが、しかしそれがともかく日本において、明治維新以来空前の大規模な内乱であったことはまちがいない。そしてそれははっきり昭和維新=革命を標榜しておこなわれたものであって、明治十一年〔一八七八〕に西南戦争に対する恩賞の不公平に基づいて暴発した近衛竹橋連隊事件のごときものとは性質においても、規模においても、まったく雲泥の相違といわなければなるまい。
 ところで明治維新が成功し、昭和維新が失敗した理由はどこにあるかといえば、それは決して一、二に尽きないだろうが、その第一のものは、明治維新の目標が徳川幕府打倒というきわめて明確なものに帰一したのに反し、昭和維新の打倒目標たる重臣、軍閥、財閥、政党等が、その性質と立場において、決して明治維新当時の徳川幕府のような明確性をもっていなかったことである。きわめて明白な一事をあげてみれば、徳川幕府は京都朝廷に対して明らかに対立する存在とされたが、重臣、軍閥、財閥、政党はいずれも天皇を取り巻く勢力であり、特に政党は国民によって選ばれたものであって、徳川幕府のような封建的独裁者とは、その性質をまったく異にするものである。
 ひとり二・二六事件の諸君のみならず、当時唱えられた昭和維新論なるもの(錦旗革命論)は、みな右の重大な点に気づかなかったか、あるいは故意に気づかない風をよそおったか、いずれにせよこれを忽諸〈コッショ〉に付した感があり、国体明徴=尊皇討奸の下に、特権階級の打倒を標榜したのである。ところが右に述べたように、これらの勢力は天皇制という政治体制のワクの中で重要な地点を占めるものであって、これらの勢力を打倒するためには天皇制そのものと正面から対決しなければならぬ必然があった。しかしそれは尊皇を標榜する立場として出来かねることであったから、その態度はいきおい不徹底なものとならざるをえず、体制そのものにいどむことをやめて、これらの勢力中の最も兇悪とみられるもの若干を倒し、残余のものには自発的反省を求めるという態度に出るほかはなかった。しかしその場合でも、再も兇悪とみられる勢力家であればあるほど、それは天皇の信任が最も篤いものであることを示すという矛盾をいかんともすることができず、自ら任じて尊皇の義挙としたものが、逆に反体制の叛逆者であるというかたちをおびざるをえなくなった。二・二六事件で、天皇の統帥下におかれる皇軍兵士を、ほしいままに動かしたということ自体、そもそも初めから統帥権干犯のそしりをまぬかれることはできないものであった。
 もしこの間の矛盾を解決しようとするならば、消極的に諫死の方法をとるか、血盟団、五・一五のようにきわめて小規模のものにとどめるとかしなければならぬ筋合のものであったが、二・二六の場合は、これらの方法をとらず、きわめて大規模に軍隊を動かし、その力を通じて昭和維新を実現しようと図った。
 ここまで大胆な決意をした以上は、もはや名目上の義軍とか叛乱軍とかいうことに拘泥することなく、たとえ一時は朝敵や国賊の汚名を蒙るとも、敢然として自己の目的実現のために邁進すべきであったのに、そこまで徹底することができず、初めは軍首脳部の見せかけの同調(陸軍大臣告示、戒厳部隊への編入)に心を許し、のちには大権私議、奉勅命令違反の攻め道具に屈したのである。
 「大義のために奉勅命令に抗して一歩も引かぬ程の大男児になれなかったのは僕が小悪人だからだ、小悧巧だからだ、小才子、小善人だったからだ」と磯部〔浅一〕大尉みずからその獄中手記に述べているところだが、林八郎少尉も同じ感想を述べて、「大臣告示出で戒厳部隊に入りしことによって安心して攻撃の手を弛め〈ユルメ〉しは一大不覚なり。何ぞはからんその時一大策謀行われつつありしとは……高杉晋作、馬関の一挙と比較すべし」と痛嘆せざるをえなかった。
 二・二六将校中、随一の革命児と見られた磯部でさえも、高杉から見ればまだその胆気において及ばぬところがあったわけだが、明治維新の前夜において岩倉具視は公武合体にくみされた孝明天皇に対し強硬措置をとったと伝えられるのを見ると、磯部らの思慮の甘さが改めて顧みられるのである。革命は順逆不二の法門だと師の北一輝から、平生教えられていた筈であったろうに。【以下、次回】

 津久井龍雄の『証言 昭和維新』を、初めて読んだのは、一九八〇年前後のことだったと記憶するが、本日、引用した部分の最後のところを読み、驚愕した。こんな危険なことを言って大丈夫か、という驚きだった。
「明治維新の前夜において岩倉具視は公武合体にくみされた孝明天皇に対し強硬措置をとったと伝えられるのを見ると、磯部らの思慮の甘さが改めて顧みられるのである。」という部分である。おそらく津久井は、孝明天皇暗殺説があること、そして、この説に信憑性がある場合、その黒幕は岩倉具視と目されていることを知っていて、こういうことを言っているのだと思った。少なくとも、そのように受けとる読者がいることを承知の上で、こういうことを言ったのであろう。

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