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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

二・二六の失敗で錦旗革命論は終焉

2022-02-21 01:29:06 | コラムと名言

◎二・二六の失敗で錦旗革命論は終焉

 津久井龍雄『証言 昭和維新』(新人物往来社、一九七三)から、「二・二六事件と北一輝」の部の一部を紹介している。本日は、その八回目(最後)。

  錦旗革命の終焉と軍部の制覇
 二・二六事件が失敗に帰したことは、どういう意味合いを昭和維新史の上に持つかといえば、これで昭和維新実現のための錦旗革命論なるものが終焉をとげたということである。ということは、つまり昭和維新というキャッチ・フレーズの中にふくまれる国内革新という要素がこれで息の根をとめられてしまったということである。
 いわゆる昭和維新論なるものの中には、むろんワシントン条約、ロンドン条約によって脅かされた日本の国防を充実し、これによって日本の安全保障を図るとともに、大陸への備えを固めて、共産主義ソ連の南下を抑えようとする意図が存したことは明白である。しかし、そればかりではなく、あるいはその目的を達するために、国内の政治経済における根本的変革を必要とすることを主張したのであって、その志向するところを一言にして約す〔要約す〕れば国家社会主義的変革の実現とよんでさしつかえなかった。その最も代表的な主張として知られたものが北一輝の日本改造法案であるが、たんに北の改造法案のみならず、当時、民間に存在した愛国団体といわれたものは多く似たり寄ったりの主張をかかげたもので、その基本とするところは、「一君万民の国体に基づき搾取なき新日本の建設を期す」ということに約すことができよう。
 これは見ようによっては、左翼社会主義の主張にきわめて似たものであって、ただ左翼が階級闘争を通じて行おうとするものを、天皇の大権によって行おうとするという点に相違があった。だからこれに対して一部から仮面をかぶった社会主義であり、天皇を利用して共産主義の実現をはかるものだとの批判をうけたものである。日の丸共産主義などの造語も、この辺の消息を示すものである。
 従来の左翼運動に対しては、これを国体叛逆、治安維持法違反等の名で取締ることができたけれども、天皇を奉じて革新を行おうとする主張には、当局も従来の左翼同様の弾圧を加えることができず、ことにこの主張に共鳴するものが軍人の中に存在するということになっては、上層特権層にとってはすこぶる重大事といわなければならない。これは考えようでは左翼以上に危険であるとして、漸くこれに対する処置が練られ始めたのである。
 昭和維新、錦旗革命の主張が、はじめて実践に移されようとしたのが三月事件、十月事件であり、血盟団、五・一五、神兵隊等の諸事件もこの流れにほぼ沿うものであるが、これが、二・二六においてついに大爆発をみたのである。三月事件、十月事件は未発に終ったが、二・二六を企図した青年将校たちは、右の両事件は政権の奪取をねらった策謀であって、天皇大権を干犯するもので、断じてくみすることができないと非難したが、しかも自分達も実際に行うところは皇軍を勝手に動かして政権の移動を図ったという点で、彼らが非難した三月事件、十月事件となんらの違いがないという審判をうけ、彼らが最も大声疾呼〈タイセイシッコ〉したところの国体明徴をそのまま逆用されて、国体叛逆の罪で処罰されることになったのは、正に歴史の大いなる皮肉といわなければなるまい。
 いずれにせよ、天皇を奉じて行う革新となれば、天皇の同意がなければならず、天皇がそれに反対である場合、それは一方的な主張として抑えられる運命をまぬかれない。二・二六事件がおこるや天皇は嚇怒〈カクド〉して自らこの叛徒を征せんとさえいわれたというのだから、二・二六後において、錦旗革命論がその根拠を失うのは必然である。軍人が革新に熱意をもったのは二・二六までであって、その後は、意図するとしないを問わず、軍部の政治的制覇に努力し、対外的軍事行動を活発化する方向へと動いたのである。
 二・二六事件の挫折によって錦旗革命が終焉したといったが、では二・二六が成功していたら錦旗革命が遂行されたかといえば、それもきわめて疑しい。真崎〔甚三郎〕、荒木〔貞夫〕、柳川〔平助〕たちに、政治経済の両面にわたる基本的変革への意思などどれほどあったか疑問であり、それはむしろ統制派の方が熱意をもっていたと見てよかろう。真崎、荒木らの将軍達は国家社会主義というものには恐らく最も反対であり、国内諸制度に対しては最も保守的な考えをもっていたものと判断される。北一輝自身、当局の訊問に対し、真崎や柳川らによって自分の改造方策が実行されるなどとは考えておらぬと陳述している。
 北としてはおそらく、これらの将軍などは一時的に利用するだけのことだと考えていたのかもしれぬが、北と二・二六事件との関連もなお大いに検討して見る余地がある。二・二六将校中でも北の改造法案に対する考え方はまちまちで、磯部〔浅一〕などは絶対にこれに共鳴していたらしいが、中には批判的だったものも少くなく、とくに北の考えが天皇機関説に近いことが問題とされている。北が改造法案を書いたのは大正八年〔一八一九〕だから、二・二六の頃には彼自身の思想にも相応の変化があったと見るべきかも知れない。
 いずれにせよ、二・二六事件は軍内部の急進異端分子を排除したことで、軍部内の結即を一応固め、統帥権強化を通じて軍人の政治支配が確立され、一歩々々戦争への道を急ぐこととなるのである。

「二・二六事件と北一輝」の部は、このあと、さらに二六ページ分、続いているが、割愛する。
 明日は、いったん話題を変える。

*このブログの人気記事 2022・2・21(10位になぜかクイチエ・マヤ語)

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