◎モーニングには、あっちこっち穴があいていた
岡田啓介述『岡田啓介回顧録』から、第八章「二・二六事件の突発」を紹介している。本日は、その七回目。原文に施されていた傍点は、下線で代用した。
弔問客に紛れて脱出
それはともかくとして、〔麹町〕憲兵分隊のほうでは、森隊長〔森健太郎分隊長〕がついに決心して、「人命救助は憲兵の任務である」と暗にわたし〔岡田〕の救出を小坂〔慶助〕曹長に指示した。そこで小坂が動きだしたわけだ。廿七日の朝、小坂は福田〔耕〕秘書官に会って、『お味方になります』と申し出てきたそうで、はじめはどっちも、わたしの生存については言葉に出さず、たがいの胸の中を探りながら禅問答みたいなことをしていたが、どっちも真相を知っていることがわかって、では、と協力を約したそうだ。
一方弔問客を官邸に入れることについて、迫水〔久常〕や福田が運動し、また陸軍の千葉少佐というのが栗原〔栗原安秀中尉〕に会って交渉したので、やっと少人数なら官邸にきてもいい、と反乱軍側も折れた。もっともその前に海軍の士官で警戒線を突破して、弔問にきたのはいたらしい。山田法務局長〔山田三郎海軍省法務局長〕は、いつ官邸に入ったか知らんが、松尾〔伝蔵〕の死体を見て帰り、『あれは総理ではなかった』ともらしていたとか。
さて、宮内省の中にいた迫水、官舎にいた福田は、それぞれ電話で連絡をとり、角筈の私宅では親戚の加賀山学(国鉄総裁〔加賀山之雄〕の実兄)が事情はまだ知らされていなかったが、迫水らの指図に従って采配をふるい、いよいよ栗原が官邸に弔問客のくることを承知したという電話がかかると同時に、なるべく老人ばかりを十名くらいえらんで、自動車で官邸に送りこんだ。老人ばかりにしたのは、わたしをまぎれこませるのに便利だと思ったからなんだろう。十一時すぎだった。
福田も官邸に入ってきた。わたしの二男の貞寛〈サダヒロ〉が、どうしても仲間に入れろといって、ついてきたらしい。福田はなかなか用心深い。この計画にちょっとでも手違いが起こるとたいへんなことになる。せっかくここまでこぎつけたんだというわけで、官邸に入った弔問客を松尾のいがいのある寝室へは通さない。居間へ入れて控えさせてあったらしい。いがいを見せないばかりではない。どんなことがあっても驚いたり、ものをいったりしてはいけない、と固くみんなに約束させてあったそうだ。
その前に、小坂は、女中に寝室の洋服だんすからわたしのモーニングを出させ、こっそりとわたしのところへ運んできた。着物を脱いでそのモーニングに着替えようとしたら、どういうんで、あんなところまで銃弾が飛んできていたのか、わからないが、服にはあっちこっち穴があいている。あとで聞くと、洋服だんすにも、弾の貫通したあとがついていたそうだ。モーニングは、それでも着れたが、いよいよわたしを脱出させる瀬戸際なんだからだれも彼も興奮しておったんだね。持ってきてくれた靴は、わたしのじゃない。松尾がはいておったもので、ガタガタなんだ。松尾はわたしより大足だったらしいね。それから、眼鏡をかけさせられ、大きなマスクをさせられた。
支度がととのって待っていると弔問客がやってきた。青柳〔利一〕軍曹がその人たちを今に控えさせた。わたしの脱出口は裏門である。小倉〔倉一〕伍長が、反乱軍歩哨のところへいって、とりとめのないことを話しかけ、注意を外のことへそらせている。ちょうどいいころあいを見計らって、小坂がわたしを抱きかかえるようにし、福田がそばにつきそい、日本間の玄関へ急ぎ足で向かった。
玄関に近づくと同時に小坂が大きな声を出した。『だから言わんこっちゃない。あれほど死体を見るなといっておいたのに、死に顔を見るものだから、気持が悪くなるんだ』と小坂にもたれているわたしをしかりつけた。いがいのむごたらしい様子を見て、気分悪くなった老人に、わたしを仕立てたわけなんだ。気転のきいたやり方であった。ぐあいのよかったのは日本間の出口が狭かったことだ。灯台もと暗しといってね。あんまりま近にいる人間の顔は、よく見えないし、それに、近すぎると視野もせまい。その狭いところに両側に立っていたふたりの反乱軍歩哨の前を、小坂が大声で怒鳴りながらす早く通り抜けてしまった。なにからなにまで、まことに都合よく出来ていたことになる。
反乱軍の関所は、その一ヵ所しかない。玄関口へ出ると同時に、福田が『自動車!』と呼んだ。するといきなり目の前に走ってきて止まったのは、佐々木久二〈ヒサジ〉の車だ。この人は福井の出で、尾崎行雄の婿〈ムコ〉に当たる。そのときはだれの車なのか確かめようともしない。福田がしゃにむにわたしを押しこんで『すぐ行け』と運転手に命じた。走りだしてから、その車の持ち主がわかった次第で、あとで官邸からみんなが帰るだんになって車がなくなっていることに気がついてこれはどうしたことか、とあっけにとられたそうだが、わたしの乗った車が官邸を出るのと入れ違いに、迫水が宮内省からやって来て、とりつくろったらしい。弔問にきた人たちは、いつのまにやら福田はいなくなる、いがいは見せられない。さぞキツネにつままれたような気分だったろう。
車は鉱山監督局のところから溜池〈タメイケ〉の電車通りに出て、その間一ヵ所だけ、歩哨の立っているところへさしかかったが、どうやらとがめられずに走り抜けた。福田がしきりと「右へいけ、こんどは左へいけ」と運転手に指図している。そのうちに麻布三連隊の前へ出てしまった。いうまでもなく反乱軍の出てきた連隊だ。福田が、これはいかん、と急に乃木坂へ折れて走るうちに、こんどは高橋是清さんの家の前にさしかかった。
車中で反乱の状況を聞き高橋さんがなくなられたことを知ったときは、なんともいえない気持だったけれども、こうして無事脱出の道すがら、非命に倒れた方の家の前を通り、しかもごいがいがあそこにあるかと思うと、哀惜の念というか、複雑な感情をおさえることは出来なかった。ただどうすることも出来ず頭を下げて、黙祷しながらいきすぎた。わたしのために、あれほど骨を折った高橋さんに対し申しわけない気持だった。【以下、次回】
文中、「その前に海軍の士官で警戒線を突破して、弔問にきたのはいたらしい」とある。ここで岡田の言う、「その前に」(弔問客が入る前に)弔問にきた海軍士官としては、海軍陸戦隊隊長の佐藤正四郎(せいしろう)大佐とその副官・安田義達(よしたつ)中佐のふたりが考えられる。このほか、のちほど名前が出てくる平出英夫中佐も、「その前に」弔問にきた海軍士官に含まれるかもしれない。これら海軍士官が、弔問を許された理由は明らかでない。ここで岡田が、これら海軍軍人の名前を出さなかったのは、おそらく、何か理由があったのだろう。
また文中に、「親戚の加賀山学(国鉄総裁の実兄)」とある。この「国鉄総裁」とは、『岡田啓介回顧録』の刊行時(一九五〇年二月)の日本国有鉄道総裁・加賀山之雄(かがやま・ゆきお)を指す(任期、一九四九年九月~一九五一年八月)。ちなみに、この部分は、中公文庫版(一九八七)では、「親戚の加賀山学(のちの国鉄総裁加賀山之雄氏の実兄)」と校訂されている。