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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

暖かいおかゆの馳走に酒がついていた(岡田啓介)

2022-02-05 04:06:40 | コラムと名言

◎暖かいおかゆの馳走に酒がついていた(岡田啓介)

 岡田啓介述『岡田啓介回顧録』から、第八章「二・二六事件の突発」を紹介している。本日は、その八回目。原文に施されていた傍点は、下線で代用した。

     参内の気持で一杯
 やがて明治神宮外苑前【がいえんまえ】にたどりついて、もう大丈夫ということになった。この上は一刻も早く参内しなければならない。今の場合わたしのとるべき道はそのひとつしかない。福田〔耕〕にこれからどこへ行くんだ、と聞けば、一時安全なところへ落ちつかなければなりません、という。それはいかん、とにかくすぐ参内しなければならないから、車を回せ、と言ったところ福田は……むかしでいえば忠義一徹、ここまでこうしてやっとの思いで脱出させることが出来たんだから、今は安全をはかるのが第一だと考えたらしい。
 福田は、今、参内することは出来ません。国務大臣〔拓務大臣〕の児玉秀雄さんも司法大臣の小原直〈オハラ・ナオシ〉さんも、一ぺんでは宮内省へ入れなかった。小原さんは反乱軍にさえぎられて神田の錦町署にある警視庁の移転先にすら行けなかったくらいだという。わたしが今、参内しようとして反乱軍にさえぎられた場合、どういうことになるか、想像に難くありません、と車を回すことを承知しない。わたしを思ってくれる心はありがたいし、といって参内出来ずに、どこかへ身を隠さなければならないということは、なんとも残念でしようがなかった。
 さらに福田は、『参内するとなれば、まず、からだを清めてからでないといけません』という。そうもあろうか、と思っているうちに、自動車は、わたしの思いもよらないところに着いていた。本郷の蓬莱町〔本郷区駒込蓬莱町〕二三番地にあった東本願寺派の真浄寺というお寺である。
 寺田慧眼という人が住職だった。福田が大学を出て世帯を持ったときその寺の貸家に住んでいた関係から、その後もいろいろ世話になり、慧眼師を尊敬していたということで、事情を打ち明けて頼める人物だと見こんでいたのだろう。
 門を入って庫裡【くり】までいきつくのに一町ほどもある大きな寺で、その門は法主〈ホッス〉が見えるとき以外は、くいで通行止めしてある。かねて福田が打ち合わせておいたとみえて、くいはとってあった。寺では、わたしがまる一昼夜も官邸に閉じこめられて、食事もろくにとっていないだろうと気をきかせて、暖かいおかゆのちそう〔馳走〕にあずかった。酒のついていたのがなによりのしあわせ、こうして、どうにか落ちついた気分になったのは午後一時ごろだったと思う。
 憲兵のほうでは、落ちつき先を知らせてくれ、といったそうだが、福田は、それも知らせておかなかったらしい。家へも知らせなかったようだ。ずいぶん用心深い男だよ。その寺にいたのは夕方までだ。車を止めたままにしておくと、人に不審を起こさせるおそれがあるといって、わたしはまた福田に案内されて自動車に乗り、こんどは車の持ち主である淀橋区下落合の佐々木〔久二〕さんの家へいった。車が官邸で行方不明になっておこっていた佐々木さんは、車といっしょに死んだと思っていたわたしが姿を現したのでびっくりしていたが、参内までのわたしの滞在を快く引き受けてくれた。
 福田は、わたしが一応落ちつくと、宮内省の中の閣僚へ電話した。ちょうど閣議中で、出てきたのは鉄道大臣の内田信也〈ノブヤ〉だったが、わたしが無事でいて、さきほど官邸を脱出することにも成功した、ついては参内したいんだがと通告した。すると閣議の席では、参内はもうすこし待ってくれという意見もあるとのこと。これはいささかふ〔腑〕に落ちかねることであった。

     護衛は岩佐憲兵司令官
 一方、迫水〔久常〕はわたしが官邸を脱出したあと、ひとり残って松尾のいがいのそばについていたが、心細くなり、わたしの軍事参議官時代の副官だった平出英夫〔海軍中尉〕が焼香にきたので、事情を打ち明けていっしょにいてもらった。棺を取り寄せて、角筈の私宅に引き取ったのは夕方のことで、納棺のときいがいをひとに見られてはいかん、と思って平出のほかは大久保秘書官、鈴木武といった身近なものたちだけで取り扱ったが、反乱軍は、玄関から議事堂あたりまで整列して見送っていたそうだ。いがいの始末をしてから、迫水は参内についての打合せをするため夜に入ってふたたび宮内省へいった。それで閣僚の間に起っている意見の対立状態がよくわかった。首相は反乱軍にねらわれている。その首相が宮中にはいって、反乱軍の銃口があとを追ってくるようなことになってはおそれ多い次第であるという人もいるし、これだけの大事件をひき起こした責任が首相にはあるんだから、そのまま隠退して、陛下に対してはひたすら謹慎の意を表すべきである。今さら参内せずとも、辞表は出せるではないか、との考えもある。参内を遠慮すべきであるとの論を持っていたのは、後藤文夫〔内務大臣・内閣総理大臣臨時代理〕が中心だったようだが、内田信也、小原直、川崎卓吉〔文部大臣〕、町田忠治〔商工大臣〕といった人々は、これとは意見を異にし、総理大臣が生きておったなら即刻参内しなければならない、と主張していたとか。
 そのような事情を迫水から電話してきて、きょうのところは参内はおぼつかないし、あすのことにしては、という話だったので、やむなくおさえようのない気持をおさえて一夜待つことにした。
 翌廿八日、迫水はまた宮内省へおもむいて閣僚に会ったが、後藤の意見は前日同様、そのことを電話で知らせてきた。吉田調査局長官が佐々木邸へきて、わたしに『参内は思いとどまったほうがよろしいでしょう。辞表はお取次ぎいたします』というので、不本意ながら、とりあえず辞表をしたためて吉田に託したが、あとですぐに迫水を電話で呼び出して、今日の夕刻までに参内出来ないのであれば、もはや自分としては重大な決意をしなければならん、と話した。
 ひとの意見はいろいろあるだろうけれど、わたしとしては参内してお詫びを言上することすらかなわぬとあれば、せっかく脱出してきたことも無意味になる。それは堪えがたいことだった。
 迫水はわたしからの電話に接してから、また町田〔忠治〕に会い、首相はどうしても参内したいといっていますから、呼びますよ、と相談したら、それがよかろうと同意してくれたそうだ。折り返し迫水から『いらっしたらいいでしょう』との知らせがあったのでわたしは閣僚の中の反対を押しきって参内することに決めた。身支度をととのえている間に、迫水は護衛について手配してくれた。警視庁(神田錦町署に移っていた)へいって、小栗総監〔小栗一雄警視総監〕に、なにぶんの手はずをととのえるよう頼むと、警視庁側でば今の場合、護衛を全うする自信がない、という。それでは憲兵隊にたのもうということになって、福田〔耕〕のほうから手配した。
 ときの憲兵司令官は岩佐禄郎〈ロクロウ〉中将だった。中気のため半身不随だったが、事件が突発すると『申しわけない』と病床で泣き、自分が行って反乱軍を説得すると、むりに起き上がり半蔵門までいったが、反乱軍に阻止され、『それでも天皇の軍隊か』と叫んで口惜しがったということも聞いている。福田からの護衛依頼の電話があったと聞いて……その日も床についていたんだそうだが、『一死もって護衛の任に当たります』と自身でその役目を買って出てくれた。岩佐はすぐ憲兵隊の車を出し、みずから助手台に乗って、佐々木方へわたしを迎えにきた。後に岩佐は、小坂〔慶助〕、青柳〔利一〕、小倉〔倉一〕というわたしの脱出に協力した三人の部下を表彰したが、陸軍部内の空気を考えて、表彰状はついに公表されなかった。
 そのころ宮内省に引き返していた迫水が、広幡〔忠隆〕侍従次長のところへいって、『総理はただいま参内いたします』と通告した。『それは結構だ』と広幡さんは言っていたが、そのすぐあとで本庄〔繁〕侍従武官長が迫水のところに現れ、『総理は生きていて、参内されるという話があるがほんとうか』と聞く。迫水が『そのとおりです』と答えたところ、本庄は立ち去ったが、まもなく広幡さんが迫水を呼び、『侍従武官室の意見では、総理の参内は見合わせてもらいたいといっているよ』という。迫水はわたし〔岡田〕に連絡すればまだまに合うとは思ったが、とっさに『いや、もう車はこちらへ向かっています。おっつけ到著するところですよ』と答えると、広幡さん『ああそれならしょうがない』とにやにや笑ったという。まァ広幡さんの腹芸だったんだろうね。
 わたしの乗った車が宮内省についたのは午後四時半ごろだった。そこで迫水に迎えられたが、白根書記官長〔白根竹介内閣書記官長〕は、わたしの手をとって泣きだす。岩佐司令官に礼をいい、すぐ迫水たちをともなって、閣僚のいるへやへいき、みんなにあいさつした。ついで陛下の御都合をうかがってから御殿のほうへ向かった。
 日はもう暮れていた。宮中の廊下は暗い。千種【ちぐさ】の間や豊明殿の前の廊下を通って、御学問所のほうへすすんでいった。廊下のあちこちに舎人【とねり】舍人が二、三人立っていたが、だんだん近づいてゆくわたしを、じっと見つめているかと思うと、急におびえたような顔をして、逃げだそうとする。生きているはずのないわたしがモーニングで、暗いところから現れたので、幽霊が出てきたと思ったらしい。両手で顔をおおってしゃがみこんだものもいた。【以下、次回】

「護衛は岩佐憲兵司令官」の節に、「吉田調査局長官」という名前が出てくる。内閣調査局長官の吉田茂(一八八五~一九五四)のことである。戦後、首相になった吉田茂(一八七八~一九六七)とは別人である。

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