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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

重光葵が振り返る「二・二六叛乱」

2022-02-23 01:45:06 | コラムと名言

◎重光葵が振り返る「二・二六叛乱」

 本日以降、重光葵(しげみつ・まもる、一八八七~一九五七)の筆によって、「二・二六叛乱」を振り返ってみよう。引用するのは、『昭和の動乱』上巻(中央公論社、一九五二)の第二編「二・二六叛乱(斎藤、岡田海軍内閣)」の「二・二六叛乱」の章である(九五~一〇四ページ)。

     一
皇道派と統制派 天剣党から血盟団に及んだ青年将校を中心とする国家革新を志すものは、多くは国粋主義皇道派の諸将を先輩として崇敬し、彼等によつて革新事業を実現せんと意図した。その目的に向って途を開くため、まづ自ら率先して、国家の改造に障害となる人物を、直接行動をもつて除かんと決意して、中央地方の同志間に相互に気脈を通じてをつたことは既に述べた。荒木〔貞夫〕大将が陸軍大臣となり、真崎〔甚三郎〕大将が閑院総長宮〈カンインソウチョウノミヤ〉の下に参謀次長となつて、皇道派の勢力は俄然頭を抬げ〈モタゲ〉て来た。而して、荒木大将に代つて、林〔銑十郎〕大将が陸相の地位に就くに及んで、皇道派、統制派の派閥争ひは公然となり、深刻な軍部内の闘争が表面化した。
 元来、陸軍の系統から見れば、薩派の上原〔勇作〕元帥は長州の田中〔義一〕大将と対立してゐたが、田中全盛の時代には、上原元帥を継ぐものに宇都宮〔太郎〕、福田(雅太郎)の両大将があつた。武藤〔信義〕元帥(満洲国独立後の初代関東軍司令官)がこの勢力を継いで、荒木、真崎両大将等の皇道派に及んでゐる。多くは統帥系統武人型の人々である。田中大将を継ぐ者は、山梨〔半造〕大将、宇垣〔一成〕大将以下の上級及び中堅の軍政系統の政治家肌の将校で、のち、統制派と呼ばれ、相次いで軍中央の位を占め軍の主流をなしてゐた。

     二
相沢事件(永田局長惨殺)昭和十年 荒木陸相に代つた林大将は、軍の統制維持の緊要なるを痛感し、直接行動のごとき不穏行為を厳罰して青年将校を取り締り、危険分子に弾圧を加ふる方針に出た。林陸相が、当時青年将校の信望を集めてゐた真崎教育総監を罷免するに至り、青年将校の憤概は極度に達した。その時に一不祥事が起つた。
 青年将校の団体とは直接の連繋はないが、彼等と志を同じうする単純にして一本気の相沢〔三郎〕中佐は、最近台湾に転任を命ぜられたものであるが、真崎大将の罷免は、永田〔鉄山〕軍務局長の実権を握る統制派の策謀によるものであるから、自ら代つて天誅を加ふるとて、白昼、陸軍省軍務局長の事務室において、永田少将を刀殺して平然たるものがあつた。陸軍内部の闘争は、最も無法な手段によつて血の洗礼を受けた。
 ここにおいて、軍部内の派閥闘争は、俄然沸騰点に達し、相沢中佐の永田少将惨殺をもつて義挙となす同情者は、悉く立つて彼を擁護し、軍法会議の相沢裁判において、左翼戦術を応用して、弁護の形においてその立場を宣伝した。弁護人満井〔佐吉〕中佐等は、極力日本政治の腐敗を摘発し、革新の必要を力説し、さらに軍部内の情弊を指摘して、統制派の幹部を攻撃した。かやうにして、青年将校の革新運動は、軍部内の派閥争ひと関連して、北一輝、西田税〈ミツギ〉の陰然たる指導の下に、愈々直接行助に訴ふる気運を作つた。【以下、次回】

「一」に、「閑院総長宮」とあるが、これは、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王参謀総長の通称である。

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