◎諸子の真意は国体顕現の至情に基づくものと認む
津久井龍雄『証言 昭和維新』(新人物往来社、一九七三)から、「二・二六事件と北一輝」の部の一部を紹介している。本日は、その四回目。
〝義軍〟から〝叛乱軍〟への転落
筆者は二・二六について永いあいだこんな疑問をもちつづけてきた。即ち二・二六の将校たちはロンドン条約から真崎〔甚三郎〕教育総監罷免に至るまで、しばしば繰り返された統帥権の干犯という事実に憤激して決起したのであるのに、当の自分たちが、ほしいままに部下の兵士を動かし、陛下の親任する大官をみだりに殺害したのは、これこそ実に許すべからざる統帥権の干犯ではないか。このことについて彼らはどのような解釈を下し、または反省の思いを示しているのであろうか、と。
私のこの疑問は、実に今日に至るまで、当事者たち自身の口や筆を通しては答えられてはいないのであるが、しかし前に引いた磯部〔浅一〕手記を見ると、多少その間の事情が氷解するような気持もするのである。
ということは、彼らの挙は、実は彼らだけの独断的決行ではなく、その背後では暗に真崎大将や荒木〔貞夫〕大将はむろんのこと、川島〔義之〕陸相以下軍首脳部の了解をえていることであって、必ずしも叛乱というような大それたことを意味しない。むしろ自分たちが事をあげることは、軍首脳も歓迎することであって、それは直ちに維新政権の実現につらなるものであるとの考えをもった(少くとも磯部自身はそう思った)のではあるまいか。
そのために、考えようでは実に重大な統帥権干犯であり、皇軍の私兵化であるところの行動を、案外平気で実行にうつし得たのではあるまいか(二・二六参加の湯川元少尉によって発表された西園寺〔公望〕公が事件の背後に在ったというようなことが、もしも事実とすれば、この点はさらに容易に肯定され得ることとなる)。
この解釈は、相沢三郎中佐が永田〔鉄山〕軍務局長を刺殺したのち、ただちに新任地たる台湾に赴こうとしていた奇怪な事実にも適用されることである。普通の常識でいえば、自分の上官を刺殺して、そのまま何の咎め〈トガメ〉なしに任地に赴くことなどができるとは、夢想もされないことだが、相沢中佐は、少しもそのことをあやしまなかったというのも、自分の行動は、軍首脳中にも多くの是認者があると信じたからによるのではあるまいか。少くとも彼にそう信じさせるような雰囲気が存在したのではあるまいか。
ちなみに、相沢中佐は永田刺殺について、「実をいえば永田少将が頭いのか良いのかよくわからないが、自分は悪いと信じてこのことを決行する。だから、もし自分の行為があやまっているのであれば、これを失敗に帰せしめ給えと明治神宮に祈った」という意味のことをもらしているのは、無責任といえば甚だ無責任のことで、こんなあいまいなことで、むやみに殺人を敢行されてはたまらない。相沢という人物はきわめて純真で、いわゆる直情径行の士であったようだが、直情径行はおうおう暴虎馮河〈ボウコヒョウガ〉に傾く危険がある。
ところで川島陸相以下の軍首脳が、青年将校たちの奮起を暗に待望し、これを煽動するような言動さえもしていたという事実を知るとき、二・二六決起部隊に対し、ただちにこれを肯定し賞讃さえもするような「陸軍大臣告示」が発せられたことも、きわめて自然な成行きであることを解することができよう。
その告示は次のようなものである。
一、決起の趣旨に就ては天聴に達せられあり。
二、諸子の真意は国体顕現の至情に基づくものと認む。
三、国体の真姿顕現に就ては恐懼〈キョウク〉に堪えず。
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨により邁進することを申し合わせたり。
五、これ以上は一に〈イツニ〉大御心〈オオミココロ〉に待つ。
右の告示は二月二十六日午後三時三十分、東京警備司令部から各部隊に配付されたものだが、特に陸相官邸に在った決起将校たちに対しては山下奉文少将が派遣され、口頭で通達された。このとき、この告示文のうち、第二項の「諸子の真意」は「諸子の行動」となっていた。これは重大なことで、真意と行動とは明らかに意味が異るものである。厳密にいうと、この告示の文句も、あいまいに解されるフシが多く、特に第三項のごときは何のことやらわからない。しかし大体において、決起軍の行動を是認したものと解することができるし、この告示に引きつづいて、決起部隊を警備部隊として小藤〔恵〕大佐の指揮下におくことを決定したのだから、後になってこれを叛乱軍だというのは、たしかに軍首脳の態度に大きな矛盾があることは、磯部手記のいう通りであろう。
この時の軍首脳は、軍事参議官をふくめ、かねてある程度の予感ないし予知はあったとしても、その大規模な部隊的行動には驚愕したことであろうし、したがって周章狼狽のかぎりをつくしたことも十分に想像される。ともかくこれを鎮撫しなければならぬが、それにはまず彼らを懐柔することが必要であるし、それには例によって〝大御心〟が物をいうのである。陸軍大臣告示は参議官会議で初めに作ったものを基にしたものだが、山下奉文や村上啓作らが筆を執ったものらしい。
真崎大将に決起部隊と心中するくらいの意気込みがあるか、それとも決起部隊の方に、国体とか大御心などという敵の持ち出す泣き落し戦術をあくまでもはね返す太々しさ〈フテブテシサ〉があるか、そのどちらかであれば、この事件も、もっと違った形のものに発展したと思われる。【以下、次回】
文中、「湯川元少尉」とは、湯川康平(やすひら)のこと。旧姓は清原。事件当時、歩兵第三連隊第三中隊の歩兵少尉。