礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その1

2018-08-01 02:11:36 | コラムと名言

◎桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その1

 昨日、知人の桃井銀平さんから、当ブログ宛に、「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」と題する論文の投稿があった。これは、本年七月一八日から二六日にかけて、このブログで紹介した「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の「1,<ピアノ裁判>における思想・良心」に続く、「2,西原学説と教師の抗命義務」の全文である。
 ここでは、これを「西原学説と教師の抗命義務」という表題で紹介させていただくことにする。
 A4で二四ページに及ぶ長文なので、以下、何回かに分けて、紹介してゆきたい。

日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務(承前)   桃井銀平

2,西原学説と教師の抗命義務

 東京都公立学校教職員集団訴訟第3次日の丸君が代訴訟で大きな影響力を持った巻美矢紀意見書には、早稲田大学教授西原博史の所説を彷彿させるものがある。それは、教師個人の思想・良心の自由侵害という問題の存在を認めつつも、その意義に対する評価はきわめて低く、一方で教師に過大な公的責務を担わせる点である。この点はこの第3次訴訟の原告側主張の大きな特色となった。
 西原はドイツ憲法学の造詣が深く、その立場から日本国憲法第19条について<思想>とは区別して<良心>の意義を強調している。一方、彼はいくつもの国旗国歌関係の裁判に関わり、学校儀式における起立斉唱拒否・伴奏拒否等の行為に対する懲戒処分を不当として出訴した原告側の意見書を多く著している。憲法学者のうちでこの問題の裁判に継続的に直接関与している代表的学者として、その影響力は大きい。関与した裁判の代表的なものはいわゆる<北九州ココロ裁判>と<ピアノ裁判>である。
 一方、国民の教育権説に対する厳しい批判者としても著名であって、東京のいわゆる予防訴訟(国歌斉唱義務不存在確認等請求事件)が、教師個人の思想・良心の自由を主要な争点の一つとしたことに対して、<国民の教育権>説批判の立場から激しい批判を行っている。かれの<教師の抗命義務>についての主張は、教育現場で不服従を貫いて抵抗を続ける教師たちに心情的に大きく響くものを持っていたがゆえに、彼の発言のインパクトは極めて大きかった。
 本章では、国旗国歌問題についての西原学説の全体像を明らかにした上で、<教師の抗命義務>説の主要な論点についてコメントしたい〔1〕。

(1) <教師の抗命義務>説

① 『良心の自由 増補版』より 
 主著『良心の自由 増補版』(2001〔2〕)第4部「国旗・国歌の強制と良心の自由」の一節に、<教師の抗命義務>説が、要約的に示されている(下線は引用者)。
「 教師が国旗・国歌の指導に反対するのは、多くの場合、自分一人の良心の自由が関わるからではない。子供たちの基本的人権が侵されるからである。
 上の考察では、国旗・国歌の指導を特定内容の「愛国心」を子供に植え付ける目的での直接的なイデオロギー的教化として利用することは許されないことを確認した。そして、仮に国旗・国歌付随行為の指導が許容されるとしても、参加の自発性が条件となることも確かめた。しかし、実際の我が国における学校実務は、この憲法理論上当然の確認からはほど遠い所を動いている。
 そのような状況の中で、生徒を預かる教師は、子供の基本的人権を保護する義務を負う。すべての国家権力が義務づけられるこの人権保護という任務は、国家権力の最前線で日常的に子供に接する教師に対して、特別な責任を投げかける。文部省・教育委員会・校長によって組織的な子供の良心の破壊が行われるなら、教師は、子供の人権を侵害するがゆえに違法な学校活動に関わってはならず、反対に、自分の影響力の範囲内にある手段を用いて人権侵害を妨げる責務を負う。形式的に職務命令に違反しても、人権保護義務を行使する教師の活動は、違法性が阻却されなければならない。
 もとより保護義務は、国家を主体に置いて考えられてきた。ただ、この義務を憲法論上肯定し、すべての国家機関それぞれが権限の範囲内でこの義務を引き受けると考えるならば、他の国家機関の違法な活動に対する救済の文脈でも、保護義務の認定はあり得よう。その文脈では、まさに抗命義務こそが、憲法による人権保障の帰結となる。かくして問題は抵抗権の領域に近づく。国旗・国歌をめぐる問題は、究極的には、国民一人ひとりを人格的自律のある人権主体であり、また主権者として尊重するのか、それとも支配者による操作の客体としての地位におとしめるのかという、全体主義との体制選択に関わる。〔3〕」
 論旨を要約すると以下のようになる。
 学校儀式における国旗国歌儀礼は、特定内容の愛国心を子供に植え付ける目的での直接的なイデオロギー的教化である。仮に許容されるとしても、参加の自発性の明示が条件となるが、それは満たされていない。教師は、国家権力の最前線に位置する存在で、すべての国家権力が義務づけられる人権保護という任務を有する。教師は、子供の人権を侵害する違法な学校活動に関わってはならず、反対に、自分の影響力の範囲内にある手段を用いて人権侵害を妨げる責務を負う。形式的に職務命令に違反しても、人権保護義務を行使する教師の活動は、違法性が阻却されなければならない。
 なお、この場合の職務命令が、具体的に何であるかはここでは明示されていないが、具体的な事件に関する文章では、国旗に向かって起立斉唱することと国歌斉唱のピアノ伴奏をすることが職務命令の内容として問題となっている。

② いくつかのモデル
 西原は教師の抗命義務のモデルとして3つの事例を提示している〔4〕。一つはニュルンベルク裁判で国内法の遵守が国際法的な個人責任を免責することを許さなかったこと、次に、旧東ドイツで越境者の射殺について主張された国境法による違法性阻却を統一後のドイツの司法が否定した例、三つ目は兵士がに上官の命令の違法性を判断する義務を負わしたドイツの軍事刑法である。これらの事例において「国家機関として行為する主体の、自らの良心に従う義務という構図」が生じているという。
 また、それは、「その良心に従い独立してその職務を行」う裁判官に共通するものであるとしている。2003年の雑誌論文で以下のように記している。
「 国のルールに縛られながら、現場では弱い立場の個人を前に、国家権力を一人で背負って権力的存在として立ち現れる。そうした職務の強度の公共性により,社会的には、聖職視され、私生活においても強度の自己規律が要求される。裁判官と教師は、そうした点において共通性がある。〔5〕」
 公教育における教師の義務の範例として、国家指導者、兵士、裁判官を持ち出すところは議論のあるところであろう。【以下、次回】

注〔1〕西原は2018年1月22日、中央高速道で事故死した。その当時、私は、小さな研究会で発表したこの原稿を研究会での議論を踏まえて完成に向けて作業していた。59才という研究者としては働き盛りの時に世を去らざるを得なかったことは、西原にとって受け入れがたいことであったと思う。冥福を祈りたい。
注〔2〕成文堂(初版は1995年)。第3部第3章と第4部が増補された部分で、そこには1995年10月以後に発表された論文が収めらられている。
注〔3〕前出『良心の自由 増補版』p461-462。
 東京都教育委員会が都立学校での国旗国歌儀礼の実施徹底を目的にいわゆる「10.23通達」を発したその翌年、西原は以下のように激しい口調で<抗命義務>の行使を呼びかけている。
「 公務員の職務の公共性と全体の奉仕者性は、職務遂行に対する公務員の人格的な責任を認める。一方で公務員は,職務の公共性にもとづき、自らの個人的信条を絶対化することを禁じられ、その限りで良心の自由を制限される。しかし他方、自らに対して発せられた職務命令の適法性を判断する上で頼りになるのは、最終的には自らの良心でしかない。(中略)
 子どもに強制を及ぼすために、形式的な権限を有する人々が教師を道具として使い、その道具を動かすために職務命令を利用するなら、その命令は―たとえていえば、「あの生徒を殴ってこい!」という命令と同様―子どもの人権を侵害する行為を内容とするものであり、公共性と全体の奉仕者性を義務づけられた教師としては従ってはならないものとなる。教師の職務の公共性は、教師の良心の自由に対する制約原理として機能するだけではない。子どもを守り、育てるという教師の職務の公共性を全うするには、教師の良心の自由よりほかに頼るもののない場面がある。」(『世界 2004.4』p81-82) 
注〔4〕前出『良心の自由 増補版』p411。ドイツ軍事刑法の事例は「教師における「職務の公共性」とは何か」p81(『世界』2004.4)にもある。
注〔5〕「国歌強制問題から司法の責務を考える 法治主義、順法精神の危機」(『世界2004.9』p38-39)

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