礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

清水幾太郎、「奴隷的翻訳」を批判

2016-05-29 03:02:38 | コラムと名言

◎清水幾太郎、「奴隷的翻訳」を批判

 尾崎光弘さんが、そのブログ「尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅」で、「訳読」ということを採り上げられていた(今月一四日、二一日)。
 たまたま、清水幾太郎の『常識の名に於いて』(古今書院、一九三七)という本を読んでいて、尾崎さんの右コラムと、問題意識が重なるエッセイを見つけたので、本日は、それを紹介してみたい。

 翻 訳 の 良 心
 最近私はドイツの或る哲学書を邦訳で読み始めたが、数頁と進まぬうちに我慢が出来なくなつて投出してしまつた。古典であるから一応の難解は素より覚悟してゐたし、哲学書の邦訳が一般に読みづらいといふことも心得てはゐたが、今度のはどうも桁はづれである。考へて見ると、それが桁はづれであるのは、他の訳書を夫々〈ソレゾレ〉或る程度まで読み難くしてゐる幾つかの要素が剰す〈アマス〉ところなくこの本の中に含まれてゐるからである。
 試みにこれ等の要素のうち目ぼしいものを拾つて書きとめておくことにしよう。第一に前出の名詞を受ける代名詞が凡べて〈スベテ〉「それ」、「これ」といふ風になつてゐる。これは多くの場合に平気で用ひられる方法であり、当然のことのやうにも考へられるが、日本語には性といふものがないことを思ひ出して見れば、それがどんなに乱暴なやり方であるかは直ぐに判る筈である。ドイツ語の代名詞が何を指してゐるかといふことは大低少しも迷はずにきめることが出来る。性や数が框〈ワク〉を作つてくれるからである。ところが日本語ではさういふ框や軌道がないのである。そこで「それ」は何でも受けることができる。「それ」の正体を掴むために私は何と苦労したことであらうか。――第二には例の関係代名詞で名詞と結びつけられた文章が一々後から前へ帰つて訳されてゐるので「……ところの何々」といふ恐しく長い文章が現れる。ドイツ語では決して訳文のやうな不自然な順序で書かれてゐるのではなく、極めて自然に配列されてゐるのである。原文に一度出る名詞を訳文で二度出すだけの手間をかければ、普通の日本文が生れて来るのである。――第三は訳文を読んでゐると、飛んでもないところに「併し」とか「だが」とか「故に」といふ語が現れて来る。不思議に思つて原文を覗くと、それはこれに該当するドイツ語の位置をそのまま守つてゐるのである。きつとその位置を変へるのが原著者に対する冒?なのであらう。併し独自の配語法を持つ日本語は少しも冒?されてゐないのであらうか。――第四にコンマは必ず読点になり、プンクトは何時も句点になつてゐる。ドイツ語では二つ以上の独立の文章をコンマで切ることがある。それを一々読点で結びつけてゐるのである。而も不幸なことに構文が四分明きに組んであるから読点は一向に目立たない。「……である、……は……」といふ場合に一つの文章が読点で終つてゐるのか、それとも前の文章が後の文章の主語を修飾してゐて一気に読むべきか全く迷はざるを得ない。――これは前に述べたことと関係があるが、第五に日本語の名詞には性がないのに、机を指す代名詞を「彼」と訳したり、学問の場合に「彼女」と呼んだりしてをり、また名詞の複数を現はさうとして、必要もないのに「諸」、「等」、「達」を用ひて「王等」といふ風に訳してゐる。
【中略】
 翻訳にも実証主義があると言へないであらうか。由来実証主義といふものは人間が丁度幼児のやうな心を持つてゐれば、そこに世界の真実を映すことが出来ると信心てゐる立場であつて、幼児の心といふのは積極的な働きを営まずにただ外から来るものを素直に受取る心といふ意味である。中間に立つ自分の影を淡くしようと心がけて、自分といふものの働きに禁止を命ずる翻訳者はこの実証主義を良心としてゐるのであらう。
 けれども凡べての実証主義がさうであるやうに、翻訳の実証主義も根本から誤つてゐる。流れるものに自分の影を落すまいとするには、ただ日本語を用ひながらドイツ語の文法を忠実に守つて見てもそれで出来るのではない。自分といふものの働きを禁じても駄目である。大切なことは自分に最大の働きを命じることであり、自分の影で流れるものを完全に蔽ふことである。著者への尊敬は常に必要である。併し尊敬のみか何が生れて来るであらうか。要求せられてゐるものは尊敬に劣らぬ自信であり自負である。若しそれがないならば翻訳は最初からせぬがよいのである。だが実証主義的な翻訳者も尊敬と共に自負を持つてゐる。ただその尊敬は著者に向けられ、自負は読者に向けられてゐるのである。著者に対しては必要以上の謙譲と読者に対しては必要以上の尊大と。人間は必ず一定量のエティケツトを持合せてゐるのであらうか。
【一行アキ】。
 外国文化の盲目的な崇拝といふ罪を糺されてゐる明治の人々が決してこのやうな実証主義者でもなく、さういふ意味で良心的でもなかつたといふことに注意すべきではないであらうか。彼等は著者に向つて尊敬と同時に十分の自信を示してゐた。彼等は自分の影を流れに落すことを恐れはしなかつた。彼等の眼は著者に向つて注がれると共に読者の上に注がれてゐた。今日のやうなグロテスクな日本語でなく、風格のある本当の日本語で外国の思想が伝へられてゐたのである。それが今日のやうに変じて来たことは、それだけ外国思想に対する理解が深められたことを意味するのであらうか。日本に於ける学問の伝統が鞏固〈キョウコ〉になつたことの現れてあらうか。――或るドイツ人が「日本には奴隷的な翻訳が多い」と言つてゐた。併しこの奴隷的な良心の持ち主は求めに応じて日本の文化が世界に卓越してゐるといふ信仰を告白するのである。我々は良心的翻訳者の功罪を明かにする必要がある。既にその時期が来てゐるのである。 ―(昭和一四・一)―

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