◎中間団体が抵抗権のとりでになる
昨日の続きである。講談社の「人類の知的遺産 62」の『マックス・ウェーバー』(安藤英治著、一九七九)の月報から、丸山眞男と安藤英治の対談を紹介している。
昨日、紹介した部分に続いて、次のようにある。
安藤 全然違いますね、そこんとこ……。ところで、先生、話がちょっと変りますが、最近「ウェーバーとシュミット」をいわばつなげるような見解が大分出ているようですが、その点どうお考えか、一言コメント願えませんか?
丸山 いやあ、大変な問題を出されちゃったな。それは論文でも書かないことにはとても意を尽せないが……ウェーバーとシュミット〔カール・シュミット〕がどんなに似ている点があっても、架橋すべからざる断絶があるということは、一つ一つ挙げてゆくとキリがないから、二人の思考モデルを比べてみると一番はっきりすると思うんです。ウェーバーの場合はご承知のようにブロテスタントの「ゼクテン」〔宗派〕でしょう。ゼクテンが自発的結社の典型であり、良心の自由のとりでであり、イェリネックの研究から彼が示唆されたように基本的人権の基盤です。だからどんなに権力国家的モメントを強調しても、ウェーバーはつねに権力に対するチェックを考えている。具体的には「行動する議会」とかいろいろ構想は変るけれど、権力集中と行政権の優位への一方的なクレッシェンドには決してならない。
ところがシュミットの思考モデルは一つはホッブスの『レヴァイアサン』だし、もう一つはド・メイストルとか、ドノソ・コルテスとかいった反革命の権威主義者です。『レヴァイアサン』においてなにより否定されるのは国家と個人との間の「中間団体」の自立性なんですね。だから、まさに「ゼクテン」も教会も政党もたたきつぶさないと本当の全体国家は出てこない。「身分権(Standesrecht)もなければ、抵抗権(Widersandesrecht)もない」とシュミットが言葉のしゃれまで使って得意になって言っているように、まさに中間団体が抵抗権のとりでになるからこそ、「政治的統一【アインハイト】」とは氷炭〈ヒョウタン〉 相容れない敵になるんです。ウェーバーにとっても、シュミットにとっても、このそれぞれの思考モデルはたんに認識上の理念型ではなくて、あきらかに共感の対象になっています。したがって、政治的危機に面しても、ウェーバーはブルジョアジーの政治的未成熟を労働者階級が受けついでいること――つまりビスマルクの「負」の遺産になによりも苛立ち、シュミットの方は、複数政党がそれぞれ敵味方の決定者になってしまって、政治的統一が多元化することになによりも苛立つ、というように、すべて強調する方向性がむしろ逆になる。こういう文脈の中で見れば、シュミットがあれほど自由主義(立憲主義)と民主主義とを峻別するのもちゃんとわけがあるんですね。この二人の間には、直接的に論じられる関連があることを前捉したうえで、なおかつ思想と学問の底まで貫いているような違いがあるんじゃないでしょうか。
ただね、シュミットはもう九十幾つの筈ですが頭は実にハッキリしているらしいので、会ってみたいという好奇心は僕にも大いにありますね。あなたは文通もあるんだとしたら、なんとか直接にヒアリングをとっておいでなさいよ。なんといったって、第一次大戦後の激動の時代の、また、晩年のウェーバーについての、ほとんど最後の有力な証言者ですからね……。
安藤 はい。……どうも有難うございました。
対談は、ここで終わっている。明日は、『マックス・ウェーバー』(人類の知的遺産 62)の本文を見てみたい。