◎津下剛「外国人の観たる近世の日本農業」序言
昨日は、津下剛『近代日本農史研究』(光書房、一九四三)から、「外国人の観たる近世の日本農業」(初出、一九三〇)の一部を紹介した。
いきなり、「人糞尿肥料」について述べている部分を紹介してしまったが、これはコラム子の不徳のいたすところであって、ご寛恕いただければ幸いである。
この「外国人の観たる近世の日本農業」は、三六ページに及ぶ本格的なもので、その全部を紹介することはできない。しかし、津下剛の学風を知っていただくためには、やはりその冒頭部分は、紹介しておくべきであろうと考え直した。そこで、本日は、同論文の冒頭「一、序言」(三ページ弱)を紹介することにする。
外国人の観たる近世の日本農業
一、序言
近世初期ポルトガル人の来航以来幕末に至る迄我国に渡来して滞留した外国人の数は、非常に多くの例を挙げ得るであらう。そしてその国籍も葡・西・蘭・瑞〔スウェーデン〕・独・英・米・仏等殆ど世界全部に亘るものであるが、これを年代順に眺めてみるとポルトガル人は慶長以前に、元禄以後は和蘭〈オランダ〉人を中心としたものであり、幕末に至つて露・英・仏・米が代つたと云ふことになるのである。その中で最も我国と交渉の深い一連の外国人は云ふ迄もなく、長崎出島の和蘭商館に関係ある人々であつた。
斯うした〈コウシタ〉多くの外国人は、その滞留期間に長短の差こそあれ、その書簡に手記に著述に各〈オノオノ〉独自の立場から日本国内の種々なる事象について記してゐる。本論稿はこれ等の記されたる日本国内の事象の中〈ウチ〉、農業に関する部面を整纏したものである。併し乍ら〈シカシナガラ〉手記と云ひ書簡と云ひ著書と云つても、観察者の中には純粋な農学者と目さる可き者は後述する如く一人も居ないのであるから、正しく日本農業を把握したものとは云はれない。宣教師は宗教家としての立場から、自然科学者は自然科学の立場から、或は亦単なる行ずり〈ユキズリ〉の一旅行者の眼に映じたものとして記されてあることは是非もないし、反面から云へば、そうしたことによつて惹き起される独断的、認識不足の面白味も感ぜられるものである。亦こうした事は滞在期間の長短や交際した日本人の範囲によつても相異が起るものであるし、鎖国政策のために微細な点に於ける締密な科学的観察は決してなし得る所ではなかつたのである。
とは云ふものの筆者は当時渡来した外国人のものしたものを全部目を通した訳ではない。これは不可能な事に違ひない。こゝでは主として手近にある「異国叢書」本を中心としたものであつて、これとても一つ一つ原本に拠つたものではない。唯ケンプェルの「日本志」のみは英語本によつた。今筆者が準拠した署名を挙ぐれば次の如きものである。
日本西教史 耶蘇会士日本通信 異国往復書簡集 慶元〔慶長・元和〕イギリス書簡 増訂異国日記抄 モンタヌス日本志 ドン・ロドリゴ日本見聞録 ヴイスカイノ金銀島探報告(=寛文以前) ケンプェル江戸参府紀行(=元禄) ツンベルグ日本紀行(=安永) ヅーフ日本回想録 クルウゼンステルン日本紀行(=寛政・文化) フイッセル参府紀行 シーーボルト江戸参府紀行 シーボルト日本交通貿易史(=文政) ゴンチヤロフ日本遠征記(=嘉永) スパイスのプロシア日本遠征記(安政・文久) この他に呉秀三博士著「シーボルト先生 其生涯及功業」 E.Kaempfer,The History of Japan,1906,Glasgow.
尚武藤長蔵〈ムトウ・チョウゾウ〉氏は、「国家学会雑誌」(三九巻一〇号、四〇巻九号)に於てツンベルグが農業経済学者なることを例の氏一流の文献的博引傍証もて説かれてゐるが、「日本紀行」のみを以てすれば日本農業に対する彼の認識は見る如く一家をなしてゐる説とは云はれないと思ふ。