礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

憲法学者・穂積八束の特異な憲法観

2014-03-04 04:20:23 | 日記

◎憲法学者・穂積八束の特異な憲法観

 昨日の続きである。本日は、『国家学会雑誌』第二四号(一八八九年二月一五日発行)に掲載されている、穂積八束の論文「新憲法ノ法理及ヒ憲法解釈ノ心得」を読んでみたい。
原文は、カタカナ文であるが、これをひらがな文とし、濁点を補ったり、テンをマルに変えたりしたが、それを除けば、基本的に原文のままである。

【前略】又欧州諸大国中行政法に属すべき臣民の権利を憲法法典中に列記するを以て殆んど恒例となすが如し。故に深く憲法の法理をも究めずして、之れを憲法の本相なりと誤認し、往々憲法の要は被冶者が主治者に対する権限を確定するに在りといへる説をなす者あり。蓋し論者をして此〈カク〉の如き誤謬に陥らしむるの原因は、憲法の成文と憲法の本躰とを混淆するに在りと断言せざるべからざるなり。
 純然たる法理論に由れば憲法成文と其他の法律規則とは敢て其効力を異にすべきものにあらず。憲法発布の儀式荘厳を極むと雖ども、是れ只だ政治上の事のみ。国民の之を尊重する尋常ならずと雖ども、是れ只だ政治上の感覚たるのみ。之が為めに憲法は毫も〈ゴウモ〉其効力を加減せず。国民は憲法の明文に対するも、街頭の巡査の命令に対するも其遵奉すべきの義務に於ては純理上敢て差異あるを見ず。【以下略】

 まず、「臣民の権利」の保障を「憲法の本相(本性?)」とするのは誤認であって、これは、深く憲法の法理をも究めないことからくる、と言い切っていることに注目したい。すなわち穂積は、憲法が持つ「権利章典」としての役割を否定しているのである。
 また、「憲法の要は被冶者が主治者に対する権限を確定するに在り」という論があるが、これも誤謬であるとしている。これは、立憲主義の否定であろう。立憲主義の考え方というのは、憲法とは、国民が守るべき規範ではなく、権力者の専横を防ぐことを目的とする最高法規であるとするものであるが、穂積は、主治者の専横が憲法によって制限されるという立場をとらない。
 そもそも穂積は、憲法を「最高法規」としては捉えていないのである。憲法の明文も巡査の命令も、国民が「遵奉すべきの義務」という点において差異はないと極言している。きわめて特異な憲法観と言わざるを得ない。
 これは、明治時代における一憲法学者の憲法観にすぎない、と冷静に構えているわけにはいかない。自民党の憲法改正草案(二〇一二)においては、憲法というのは主治者ではなく、国民が尊重すべきものである。安倍首相にとって憲法というものは、政府の最高責任者である「私」の解釈によって、いくらでも改憲できるものらしい。いずれも「特異な憲法観」であり、穂積八束の「特異な憲法観」に通ずるものがある。最も深刻なのは、そうした自民党や安倍首相の憲法観を、「特異な憲法観」と意識することなく、これを支持している政治家や国民が多いことである。【この話、続く】

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