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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

黒正巌が語る津下剛の思い出

2014-03-17 21:05:29 | 日記

◎黒正巌が語る津下剛の思い出

 津下剛〈ツゲ・タケシ〉『近代日本農史研究』(光書房、一九四三)の「序」は、学問上の先輩にあたる黒正巌〈コクショウ・イワオ〉(一八九五~一九四九)が書いている。本日は、これを紹介してみよう。

 
 昭和三年の春の農学大会の時であつたと思ふ。那須皓〈ナス・シロシ〉先生が、今年駒場〔東京帝大農学部〕を卒業した津下剛といふものが農業史を研究したいとの希望だが、駒場には適当な指導者も居ないし、又本人も京都で勉強したいといつてゐるから、君にたのむとの事であつた。当時私の研究室には若い農史研究者が沢山居たが、多くは経済学部の出身者であつて農業経済史を専攻するものが多かつたので、とても充分に指導は出来ぬと思つたが、津下君の如く農学部を出て新〈アラタ〉に農業技術史を専門とする人を大に歓迎した次第である。間もなく津下君は京都に現はれた。農学士と思はれぬ瀟洒〈ショウシャ〉な洋服を着た繊細白晢〈ハクセキ〉の青年であつた。恰も芥川龍之介を思はしむるものがあつた。併し津下君は風貌に似ず、烈々たる闘志と熱情の持主であり、同時に深い友情の持主であつた。従て新参〈シンザン〉の彼は、古くから教室に居た同学の友人とも兄弟の如く温い交りをなし、彼も気持がよかつたと見えて研究もぐんぐんと伸びて行き、従来の農業史家の到らざる方面に研究の鍬を深く打功込み、処女地を開拓して行つた。私は充分に津下君を指導する事も出来ず、性格的にも相当の差異はあつたが、然かも私は津下君を信頼し且つ愛した。津下君も亦あの一徹者の性情を持ち乍らよく私に弟従された。その内に津下君の格恰迄が段々私に似て来た。私は当時和服一点張りだつたが、津下君もよく和服を着た。その格恰がよく私に似て居たので、人は津下君を小黒正といつたさうである。昭和八年に日本経済史研究所が設立され、その所員となつて以来、亡くなつた原伝〈ハラ・ツトウ〉君と肝胆相照して二人ともよく頑張つて勉強したものである。その努力は段々と実を結び、農史学界の一新星として認めらるゝに至つた。偶々〈タマタマ〉台北帝国大学文政学部に経済史と農業政策との講師が要るとの事にて、本庄先生その他関係者は期せずして津下君を推薦したのである。津下君は京都が心から好きだつたので、大分去りがて〔去りにくそう〕であつたらしいが、終に決心して渡台した。台北へ行つてからもその不順な気候と闘ひつゝ、京都で蒐集した資料をこなして着々立派な研究を発表した。併しこの奮闘は遂に津下君の健康を害した。【以下は次回】

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