礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ケンプェルが聞き取った長崎における徴税方法

2014-03-26 07:57:00 | 日記

◎ケンプェルが聞き取った長崎における徴税方法

 昨日は、津下剛の論文「外国人の観たる近世の日本農業」の「三、日本の農業事情」の「(ロ)縦断的観察」のうちの「農産物」を紹介した。
 本日は、同論文の「五、農政観」の前半を紹介してみよう。

 五、農政観
 初期の外国人が眺めた日本農民の階級的地位とその報酬は次のやうに述べられてゐる〔出典は、『耶蘇会士日本通信』〕。
『当国には三四種類の人あり。第一は武士及び貴族にして戦争絶えざるが故に怠惰ならず。第二は商人にして国民民の生命を支る〈ササエル〉為め多数あり。第三は司祭にして殆ど俗人と同数なり。第四は農夫なるが、彼等は土地を所有せず、領主の土地を耕作し、三分の二を領主に与へ、彼等は一を取りて自己の給養に当つ。借地料を納めざる土地の所有者は武士にして、彼等は自ら之を耕作す。武士及貴族は良習慣を有し、司祭は一切の悪行に耽り〈フケリ〉甚だ貪欲なり。農夫は低級にして健康なり。彼等は皆領主の法律に服従し国民は大に道理に服す。』
 これは宗教家らしき観察と云ふことが出来やう。比較的平戸・豊後・京都・堺等の大都市を中心に布教に従事してゐた彼等に、近世初頭の漸く統一の気に向はんとする混沌たる社会状勢を認識することは無理であつた。唯〈タダ〉七公三民の分配率は、ヴイスカイノも『収納米十袋の内七袋』と記して、これは当時の一般的概算に妥当する。ケンプェルになると観察はもつと微細になる。勿論その頃に既に徳川幕府成立以来一世紀を経てゐるのであるから、あらゆる制度は粗々〈ホボ〉完備されてゐたのである。彼はその著書に土地の上中下の品等別を記し、その収穫の分配率は諸侯の場合は六公四民、天領の場合は四公六民と計算し、これは恐らく通詞〈ツウジ〉なり、側近の日本人よりの聞書きであらうが、検見〈ケミ〉制度を述べ、長崎近郊の例を示せば次の如くである。
『此等〈コレラ〉の地方には将軍が収税のため特別の収税吏を置きて年貢を徴収し、それとしては耕作したる田畝〈デンボ〉・果実みのる庭園・野地よりの米穀其他の収穫より、一定の率を定めて納入せしむ。此〈コノ〉徴税は年収穫の半分よりは少し多くして、農夫が之を御蔵〈オクラ〉又米廩〈ベイリン〉と云ふ馬籠の傍〈カタワラ〉なる幕府の御米蔵に運搬し、そこにて打落し、純穀として上納するなり。誓を立てたる徴税の検見使は、此目的のため収穫の前に田野を臨検し、上納米を見積り、豊年には一坪即ち一間〈イッケン〉平方の籾場に置かるゝ丈の穀物を打落し、それによりて収穫の全額を算定するなり。喬木潅木のある土地の所有者は坪の数、土地の肥瘠〈ヒセキ〉によりて些少〈サショウ〉の地子銀〈ジシギン〉を上納す。』【以下は、次回】

 

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