礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

津下剛『近代日本農史研究』は寺尾宏二の編集

2014-03-19 08:43:52 | 日記

◎津下剛『近代日本農史研究』は寺尾宏二の編集

 あいかわらず、津下剛〈ツゲ・タケシ〉の話である。『近代日本農史研究』(光書房、一九四三)は、津下の死後に、編集・発行された本である。当然、その編集にあたった人物がいる。その人物について、まだ紹介してこなかった。同書の編集にあたったのは、日本経済史研究所の寺尾宏二である。
 同書の「跋」は、この寺尾の執筆にかかるもので、ここで寺尾は、自分と津下との関わり、同書の編集方針などについて語っている。本日は、これを紹介してみよう。

  
 本書刊行の事情経過を略記して跋とする。
 著者故津下剛氏と遺稿を編纂せる寺尾との交遊の期間は僅かに六ケ年に過ぎず、まことに短いものであつた。事実、出身大学を東西両京と相隔てるばかりでなく、農学部・文学部と専攻学科を異にして居り、いはゞ畠ちがひどころか種子ちがひであつたから、相識るの機会は望まれなかつたであらう。偶々昭和八年京都北白川に本庄〔栄治郎〕・黒正〔巌〕・中村〔直勝〕・菅野〔和太郎〕四教授によつて日本経済史研究所が創設されるや、その門下の人々が所員として研究に従ふことゝなり、当時京都帝大農学部農史研究室に在つて黒正博士に師事せる著者〔津下〕と、国史研究室にて中村先生の下にありし編者〔寺尾〕と相接し、相識るに至つたのである。十三年春、著者が京都を去るまで、研究所はもとより、史料採訪旅行をともにし、又彼我往来して公私多大の懇誼を得たのである。而して十四年夏、すでに幽明境を異にして再び相会する〈アイカイスル〉能はず、僅かにその遺稿によつてのみその悌〈オモカゲ〉を偲ぶことゝなつた。
 著者と相語るの機会を有すれば、たとへそれが短時間であったにせよ、如何に学問を熱愛せるかを知つたであらう。その烈々たる熱意のために、三十五年の短き生涯とその身を消尽し去つたとも云へるのではないか。著者を単に才気渙発といへば、その学問を浅薄なものと感ぜしめ、気鋭と評すれば、外面的にとゞまる。徹底的なる史料の捜査と、深透せる考究とは、本書に徴する事が出来るであらう。之に加ふるに九州男子の正義感強くして、理のあるとこ苟合〈コウゴウ〉〔迎合〕を許さず、その論調にその主張に、つねに相迫るものがあり、編者は学問研究に交誼に多くの感銘を得たのである。されば他にその人多きを思つたが、不遜にも敢て編纂刊行に当らんことを希つた。【以下は次回】

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