◎戦時下に再評価された津下剛の農史研究
昨日の続きである。津下剛『近代日本農史研究』(光書房、一九四三)の「跋」(寺尾宏二執筆)の後半を紹介する。
著者〔津下〕台北帝国大学に職を奉じて二年、不幸に病を得て故山に帰り、更に福岡に療養するに至つた。編者〔寺尾〕も教職にありしとはいへ、遂に病床を訪れ慰むるの機会に恵まれざるうち、逝去の報に接し、而かも葬儀にも列し得なかつた。千秋の恨事である。友情篤かりし著者に背くの罪は深く重い。せめてその業績の一半を編せんとするの一因、この私情にも出づる。
事実その没後、遺稿出版の計画も一二存したが、当時の事情之を実現せしむるに至らなかつた。蓋し〈ケダシ〉農史研究といへる特殊部門であつたからに由来しよう。しかるに時勢の変転は之を重視し、之が刊行を要望するに至つた。南方経営の点からもその論稿に示唆されるもの多きを信ずる。こゝに編者は再び刊行を念願するに至つた。
光書房は編者の生地に近かつた。この故を以て本書刊行の意図を通じ、之を諮つたところ、店主島田剛蔵氏は直ちに許され、本年初頭企画を掌れる木村武夫氏入洛されて迅速に事を進められたのである。編者の感謝措く能はざる所である。又熊本市にある著者の実兄津下伊平氏が、本書の著作権継承者として今京都の実家にあるも著者の研究上に史料の筆写・整理等に内助多かりし著者夫人を以てせられし篤き御配慮に、敬意を表すると共に、こゝに代つて深謝する所である。かく恙なく〈ツツガナク〉刊行なし得たことは著者の遺徳によるものであらうが、編纂の不手際が著者の学識を損せんことを懼れる〈オソレル〉。選輯もつて此の書名を採つたが、その重要なるを洩らしてゐるであらう。カナリ耕作法の労作を収録せんとせしも、交遊以前にして抜刷なく、書写の遑〈イトマ〉もなかつた。私墾田の一篇は書名に相応し〈フサワシ〉からざるも、書店の希望と、著者の初期論考の一〈ヒトツ〉として敢て収録した。その他重要論文の逸脱の責、すべて編者に在り、陳謝するものである。
尚本書成るに当り、京都帝国大学教授経済学博士黒正巌先生は著者並びに編者の公私多大の御高配を賜はるに甘へて序文を請ひしところ、之を与へられし御懇情に拝謝の誠を捧げるものである。地下にある著者はこの光栄と喜悦に感激・鳴謝してゐることゝ確信する。なほ京都帝国大学農学部助手三橋時雄農学士、京都帝国大学人文科学研究所助手喜多村俊夫理学士が多忙なる公務の余暇、編者に援助を与へられて校正の労をとられし事を記して、厚く感謝する。
昭和十八年三月 編者 寺尾宏二識
いかにも友情の籠った跋文である。また、文体も、独得な格調の高さがある。ただ、書き写していて、一か所、「悪文」があることに気づいた。「又熊本市にある著者の実兄津下伊平氏が、本書の著作権継承者として今京都の実家にあるも著者の研究上に史料の筆写・整理等に内助多かりし著者夫人を以てせられし篤き御配慮に、敬意を表する」という部分である。ここで寺尾は、何を言おうとしたのだろうか。著作権を継承者したのが、夫人なのか実兄なのかということも、このままでは判然としない。
寺尾宏二によれば、津下剛の農史研究は、戦時下、「南方経営の点から」再評価されることになり、この出版が実現したらしい。まことに、皮肉なことである。
さて、このあと、津下剛の論文を紹介しなければならない順序だが、一度、話題を変える。なお、昨日は、意外にアクセスが伸び、たぶん歴代一九位である。ここ何回か、津下剛について紹介してきた中では、もちろん最も多い。