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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山脇重雄、1944年に「安重根事件関係書類」を筆写

2013-12-07 04:29:17 | 日記

◎山脇重雄、1944年に「安重根事件関係書類」を筆写

 山脇重雄は、なぜ、安重根事件に関する裁判記録を公表することができたのか。
 簡単に言ってしまえば、戦中の一九四四年(昭和一九)に、旅順の関東高等法院で、「安重根事件関係書類」と題する書冊四冊を閲覧し、その一部を筆写していたからである。
 以下に、雑誌『歴史教育』第四巻二号(一九五六)所載、山脇重雄「安重根事件関係書類」の冒頭部分を引用する。

 安重根事件関係書類     山脇重雄
 右の表題の書類四冊は、伊藤博文公爵暗殺に係る安重根の裁判記録であり、旅順の関東高等法院(当時〔暗殺事件当時〕の関東都督府法院)にある。昭和十九年の夏、満鮮旅行の際、旅順高等学校教授高里良恭〈タカサト・リョウキョウ〉氏から教えられ、閲覧を乞うて幸いに許された。和罫紙に毛筆書きで、厚さ十センチ余りあり、暑い盛りに、わずか一日だけでは、全部を写し得ず、不完全な抜書きにとどまって、残余を他日に期したのは、返す返すも不覚であった。しかし今となっては、この記録を、抜粋にせよ、日本で所有しているのは、おそらく私一人ではあるまいか。もしかりに原本が喪失しているなら、世界に一人といってよい。そうしてその蓋然性は、残念ながら絶無とは言いがたい。
 満鮮旅行の文書的収穫として、右の安重根事件関係書類と、および京城帝国大学図書館所蔵の李氏朝鮮末期の外交文書、いわゆる奎章閣文書〈ケイショウカクモンジョ〉を閲覧できたのは、この上ない喜びであった。しかるに最近京城大学の旧職員から聞いたところでは、右の奎章閣文書は、米本国で楮紙〈コウゾガミ〉に毛筆の縦書きなど見たこともない人が多くて高価に売れるため、終戦後米兵を主として売却の為め、あるいは暖房用たきつけの為めに相当部分竊取されたという話である。その残余がまたその後の朝鮮の戦争で如何〈ドウ〉なったかは知る由もないが、けだし暗澹たるものがあるのではなかろうか。もし右の悲しい想像が当っているならば、奎章閣文書は未だ刊行されていないから、田保橋潔〈タボハシ・キヨシ〉氏や三国谷宏〈ミクニヤ・ヒロシ〉氏が発表されたもの以外は、私が、これも僅少の日数で書写した若干が、唯一の残存資料となるであろう。安重根事件関係書類についても、また類似の運命を想像して必ずしも無稽とはいい切れまい。しかもこの書類は、春畝公追頌会〈シュンポコウツイショウカイ〉編纂「伊藤博文伝」にすらも、引用されていない様に見受けられる。もとより本裁判の性質上、傍聴禁止の部分が多く、戦前においては公表不可能であったろう。今に及んでも、発表の法的可否については、疑いなきを得ない。しかし右の記録が、韓国保護条約〔第二次日韓協約、一九〇五〕以後の日韓関係の、少くとも一面を理解する上に、貴重な資料であることはいうまでもない。たんに暗殺事件にとどまるだけの問題ではないであろう。【以下略】

 山脇重雄は、一九五六年(昭和三一)当時、この「安重根事件関係書類」が、今でも残存しているかについて心配している。その「原本」の存否については確認できないが、その「写本」が戦後まで伝わったことはまちがいない。だからこそ今日私たちは、金正明編『伊藤博文暗殺記録』(原書房、一九七二)に載っている「安重根公判記録」を読むことができるのである。
 ところで、このときに山脇重雄が作った「安重根事件関係書類」や「奎章閣文書」の写しは、今日、まだどこかに保存されているのだろうか。
 同じような話が続いたので、とりあえず明日は話題を変える。

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