礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「一人ニ殺」を唱えたウースー山人こと禹徳淳

2013-12-13 05:51:15 | 日記

◎「一人ニ殺」を唱えたウースー山人こと禹徳淳

 今月三日のコラムで、東雲新報社編『最後の伊藤公』(東雲社、一九一一)という本を紹介した。
 この本の三二ページ以下に、安重根の同志である禹徳淳が、暗殺の二日前に、ハングルで作った歌が紹介されている。この歌を紹介した文献としては、『安重根事件公判速記録』が最も早く、この『最後の伊藤公』がそれに次ぐのではないだろうか(断定はしないが)。
 この禹徳淳の詩に関しては、『最後の伊藤公』の編者は、『速記録』に載っているオリジナル(園木末喜訳)を、そのまま引くのではなく、ある程度の「改作」をおこなっているのは興味深い。ともかく、同書の当該ページを引用してみる。

 尚〔安重根と〕同宿せる禹徳〔禹徳淳〕は金成白の一室の裡〈ウチ〉にあり狐燈に対して黙座すれば綿々たる感想は彼が胸を衝て〈ツイテ〉起り郷党を想ひ彼の現在を考ふるに及びて伊藤公に対する憎悪の念禁ずべからざるものあり柄〈ガラ〉にもなく諺文〈オンモン〉を以て伊公嘲罵の歌を作り些か〈イササカ〉悶々の情を遣る〔晴らす〕を得た彼〈カノ〉荊軻者流の刺客を学びて自ら壮なりとなす似て非なる軽薄漢の俤〈オモカゲ〉躍如たるは片腹痛き次第なり。
(原文は諺文)
 逢へり逢へり、敵の汝に逢へり、平常一度逢ふことの何ぞ遅きや、汝に一度逢はんとて水陸幾万里、千辛万苦しつゝ、輸船火車を乗代へて、露清両地を過ぐるとき、行装の度毎に〈タビゴトニ〉、天道様〈テントウサマ〉に祈りをなし、イエス氏にも敬拝すらく、心し給へ心し給へ、東半島大韓帝国に心し給へ、何卒我が志を助け給へ、彼奸悪なる老賊奴、我々民旅〔ママ〕二千万人、滅種の後に三千里の錦綾江山を、無声の裡に奪はんと、究凶究悪惨たる手段、十強国を欺きて、内臓を皆抜き取りながら、何にを不足に彼の慾を満さんとて、鼠の子の如くに彼処此処〈カシコ・ココ〉を駈け歩き、誰れを又欺き誰れの土地を奪はんと、彼れが如くに駈け歩く狡猾なる老賊に逢はんとて、如此〈カクノゴトク〉急行しつゝあり、至公は無事にあらせられ至仁至愛の我〈ワガ〉上主〔天主〕は、大韓民旅〔ママ〕二千万口を、均しく愛憐〈アイレン〉せられなば彼れ老賊奴に逢はしめ給へと如此停車場に千万度を祈念を為し、昼夜を怠れ〔ママ〕逢はんとせし、伊等に遂に逢ひにけり、汝の手段の狡猾は世界に有名なるものを、我同胞五六の後は、我等の江山は奪はれて、行楽共に為し得ざりしを、今日の日にこそ、汝の命は我手〈ワガテ〉に依つて断つた〈タッタ〉れば、汝も亦無念ならん、甲午年の独立と、乙未年の新条約後やうやう自得下行〈カコウ〉の時に今日あることを知らざりしか、犯すものは罪せられ〈ツミセラレ〉、徳を磨けば徳至る、汝斯くなるものと思へりや、汝等四千万口は是れより一人二人宛〈ずつ〉、我手に依りて殺すべし、嗚呼我等の同胞よ、一心団結みたる上、外仇を皆滅して、我国権を恢復〈カイフク〉し、富国強民を図りなば、世界の内に誰ありて、我等の自由を圧迫し、下等の冷遇なすべきや、いでいざ早く合心し、彼等の輩〈ヤカラ〉も伊藤の如く、いで速やかに誅せんのみ、我等のことをなさずして、無事平安に座せんには国権恢復は自ら成ることなかるべし、いざ勇敢の心持て、国民たる義務を蓋し見、
   ウースー山人
     禹 徳 淳

 禹徳淳の詩中、「二千万口」とあるのは、当時の朝鮮の人口で、「四千万口」とあるのは、当時の日本の人口である。そこで、「一人二人宛、我手に依りて殺すべし」という発想(一人ニ殺!)が出てくるのである。
 この本の編者は、禹徳淳の詩を引くにあたって、「彼荊軻者流の刺客を学びて自ら壮なりとなす似て非なる軽薄漢の俤躍如たるは片腹痛き次第なり」(あの荊軻のような刺客に学んで、みずから壮烈を気取っているが、似て非なる軽薄者のオモカゲがありありなのは片腹痛い)とコメントしている。
 荊軻〈ケイカ〉というのは、中国戦国末期の刺客で、秦王政を刺そうとして失敗し、殺された。実行の前に「風蕭蕭として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず」と歌ったことで知られる。
 本の編者が、禹徳淳を「似て非なる軽薄漢」と形容したのは、禹が荊軻を気取っていたことや、漢文に通じておらず、オンモン(ハングル)で詩を作ったことに対する揶揄の気持が籠められている。とはいえ、この禹徳淳の詩は、これを日本語に移した場合でも、十分に「詩」らしくなっている。特に、「我国権を恢復し、富国強民を図りなば、世界の内に誰ありて、我等の自由を圧迫し、下等の冷遇なすべきや」のあたりは、七五・七五・七五・七五・七五となっていて、えらく調子がよい。このあたりの部分は、公判において通訳を担当した園木末喜通訳生によるオリジナル訳のままであって、『最後の伊藤公』の編者も、あえて改作を加えてはいない。禹徳淳の詩心は、園木通訳生や『最後の伊藤公』の編者にも、それなりに伝わっていたというべきだろう。
 それにしても、禹徳淳の号「ウースー山人」は、どういう意味なのか。漢字を当てるとすればどういう字になるのだろうか。 

コメント
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