ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

ある葬儀への参列

2018-03-05 22:41:11 | 生き方
金曜日、訃報が届いた。
今日が葬儀の日。
少し遠いが、車を使って高速を飛ばし、葬儀の会場まで行き、参列してきた。


10年前の今頃、彼とは同じ所に勤務していた。
私より1歳年下の彼であったが、そこでの主任としては最も責任の重い大切な仕事をしてもらった。
そうやってトップにいた私や勤務先の子どもたちを支えてくれた。
どの学年をもっても、子どもたち一人一人をちゃんと見てくれ、一緒に遊んであげたり、親身に指導してくれたりしてくれた。
だから、クラスの子どもたちは、そんな彼のことが皆大好きだった。
それは、どこに勤めても同じだった。

多種多芸の人で、最も得意とするのは、海へ出かけての釣りだった。
タイ、ヒラメ、カレイ、イカ…その他様々な種類の魚を釣り上げた時の写真が、葬祭式場には次々に移されていた。
また、木工も得意としていた。
その当時の職場の片隅には、彼が作ったという長椅子が置いてあり、職員はそこに座ってよく雑談を交わしたものだった。
別れる時には、私に、その勤務先に飾ってあったが用をなさなくなった木材を使って、写真を入れる壁掛けを作ってプレゼントしてくれた。
職場の玄関には、彼が家で育てている山野草が美しく咲いていた。
職場ではどれだけ助けてもらったか知れない。

実は、彼とは一緒に勤める前から、年に1回、よく会っていた。
同じ年代の同じ仕事をしている仲間の集まりがある。
年に一度、泊まりがけで会を行っていた。
その際に、よく麻雀をしたものだ。
彼の腕は、大したもので、仲間の中では1,2を争っていた。

ある年の集まりで、彼と温泉につかりながら、病気になった親の世話について長風呂をしながら話し合ったことがある。
私は自分の母のことで、彼は自分の父のことで、互いに厳しい病になった親のことについて、いろいろと話を交わした。
彼の父が難病なので、治療できる医師を求めて横浜の病院まで行ったことなども聞いた。
親孝行な彼の一面を見て、「単なる雀士」じゃないことを知り、親密感を覚えたものだった。

そして、数年後に同じ職場で働くようになったのであった。
彼には十分に管理職としての力はあったと思うが、管理職試験を受けることを彼は断念した。
父の病や母のために家庭でしなくてはいけないことが多かったのだ。
管理職になると、勤務先が遠くなったり、勤務時間が長くなったりする。
家族のためを思って、彼は普通の先生としての道を選んだのだった。

あとひと月しないうちに、彼は定年退職を迎えるところだった。
あと少しだったのに、病魔は彼を襲った。
3,4年前に癌になってしまい、闘病の結果、1年3か月ほど前にあった会では宿泊こそしなかったが、元気になった姿を見せてくれた。
そして、昨年末の会でも、「前より元気になりましたよ。」などと言っていた彼だった。

しかし、今年に入ってから再び体調不良に陥り、2月下旬に呼吸不全を起こし入院していたのだという。
友人代表の弔辞では、2月の27日が彼からのメールの最後の日だったとのこと。
5月の連休には釣りに行く先も決めて、友人と一緒に行く約束をしていたそうだ。
奥さんには、4月からは「晴耕雨読」ならぬ「晴釣雨木」を楽しむと宣言していたのに、かなわなくなってしまった。
彼にとっても、さぞかし無念であっただろう。

定年退職手前での逝去。
私の父の場合もそうだったが、残された人たちにとって、あまりにもさびしい。
奥さんと2人の息子がいるところもよく似ている。
遺影となった優しい彼の微笑みが忘れられない。
どうか安らかに。
そして、空から家族を見守っていてほしいと思う。
冥福を祈る。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする