日本男道記

ある日本男子の生き様

吉原(左富士)

2010年01月31日 | 広重東海道五十三次
15・吉原(左富士)
原から十二.六粁で吉原宿であるが、原から吉原にかけ、富士の姿が最もよく眺められる。吉原宿から駿河湾田子の浦は程近い。平坦な街道には松並木がつづき、道は曲がりくねって今まで右手に見えていた富士山が左手に見える。これを「左り富士」という。画題も「左り富士」で、左へ曲り、さらに右につづく。曲折する松並木の街道を描き、富士の姿を左手に見せている。馬士が子供三人を乗せていく姿を後ろから描いているのも面白く、先きをいく駄馬と旅人の姿が遠く松並木に見えがくれする構図もなにか道の遠さを思わせている。
右手に見える遠山は愛鷹山であろう。三島・沼津では目前にあったこの山も、ここまでくると、もう右手に去って富士が正面に見えるようになる。松並木は宝暦十二年(1762)幕府が街道を整備して作ったものといえわれる。街道の松並木は、旅情をなぐさめ、日光の直射をさえぎって憩いを与えたことであろう。
なお、この絵には松並木の違った異版がある。絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
松並木が特徴 (地理佐渡..)
2010-01-31 18:13:36
こんばんは。

両脇は田でしょうかね。
その中を一筋の道。
そしてその両脇に松並木。

良い風景です。愛鷹山と
富士もよくわかります。
歩きでもこのような道を
たどる旅をしてみたいも
のです。
返信する
Re:松並木が特徴 (日本男道記)
2010-01-31 18:20:32
こんばんは!

良い風景ですね。
こういう道をのんびりと歩いてみたいですね。

私は近い将来四国を歩き遍路しようと目論んでいます。

返信する
それはよいです。 (地理佐渡..)
2010-01-31 21:06:20
こんばんは。

すべてに開放されているという時が
来ましたら、是非挑戦を..。
過去たくさんの人たちがまわっては
いても、それぞれの旅があろう事と
思います。

さて、例の本です。

とにもかくにも、ちゃっかり男道記
さんの紹介と記事掲載させていただ
きました。
返信する
Re:それはよいです。 (日本男道記)
2010-01-31 23:49:36
こんばんは!

あと2,3年の内にはと思っていますが、あまり体力が落ちてからは大変ですし。

テレビで映画の「母べえ」をみてこんなに遅くなりました。始めてみましたが良い映画でした。

明日は県関係の臨時採用の面接試験です。
さてどうなることやら!
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