人外花境

暇人の何でも自然観察日記

主に野歩き山歩き.たまに旅歩きの写真ブログ

竹富島・・・の補足

2007年06月01日 | 島旅:八重山諸島

 写真帳(デジカメ写真のファイル)を捲っていたら、アッ こんな写真も有ったのか、と新しい写真を見つけた ので補足説明。

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 民宿の門柱の上で睨みを効かせていたボス猫と思われるヤツのUPです。ふてぶてしい顔でカメラ目線。

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 キツネ顔の猫とは、こんな顔です。

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 安里屋のクヤマは美味しい物を食っていたと書いたが、ではその当時の一般庶民は何を食っていたかと言 えばこの通り。人頭税を払うため、朝から晩まで牛馬のごとく働いてこの食事、長生き出来る訳がありません。

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 安里屋クヤマの屋敷跡のヒンプンに書かれてあった「安里屋ユンタ」のでだしの歌詞「安里屋ぬ(の)クヤマ によう、目差主ぬ(の)くゆたらよう」本来の安里屋ユンタの歌詞です。 琉球王朝の地方行政制度は、今の県ま たは複数の市町村をくくった行政単位に相当する「間切」と市町村に相当する自然集落単位の「シマ」から構成さ れていました。各シマには琉球王府から、大屋子(おおやこ)・与人(よひとorユンチュ)・掟(おきて)・目差(めざ し)と呼ばれる役人が派遣されていた。与人は村長相当、目差は助役相当だったらしい。すなわち安里屋のクヤ マは、助役をふって村長の妾(現地妻or賄い女)を選んだと言う訳でした。尚、この「シマ」と言う概念は、沖縄本 島から八重山諸島に至るまで、現在でも生きています。(参考文献「琉球王国」高良 倉吉著)


竹富島の安里屋クヤマ

2007年06月01日 | 島旅:八重山諸島

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 竹富島に住んでいた実在の美女「安里屋クヤマ(1722年~1799年)」生誕の地とされる屋敷跡。「サー、君は 野中のイバラの花よ、サーユイユイ」と歌われる「新安里屋ユンタ(節)」は、昭和九年コロンビアレコードが作っ たもので、本来の八重山民謡とは全くの別物。

 「安里屋ユンタ」には、本場竹富島で歌われていたものと、石垣島で歌われていた物の二通りが有る。前者 の歌詞の内容は、助役クラスの役人から現地妻にとの申し込みが有ったのに対して、先に村長クラスの役人 から話が有ったのでヒジ鉄をくわした、という話。

 後者は、琉球王府から派遣された村長も助役も断り、島のただの男の元へ嫁いだという話で、島の女の心 意気を歌った物で此方の方が有名。でもこれは話の中身が当時の社会の現状と会わないため、明治初期廃藩 置県の後に作られたものであろう言われている。

 本当のところ、美女クヤマは琉球王府から派遣された村長の妾となって末永く幸せに暮らしたとさ、まあ現 実とはこんなもんでしょう。だって、十八世紀の八重山で77才まで生きたんだから、よっぽど美味い物を食ってい たんだろうね。(参考文献「新南島風土記」新川 明著)