【火論】安倍政権という縮図=大治朋子 https://mainichi.jp/articles/20200901/ddm/002/070/057000c?cx_fm=mailasa&cx_ml=column&cx_mdate=20200901&pid=14509
★ <安倍政権の営みを見るたびに思い起こしたのは古代ギリシャの哲学者プラトンの作品に登場するカリクレスという政治家だ。「力こそ正義」と豪語して法も大衆も軽視。人間はより多くを所有し、長く生き、
権力を握って国家を支配してこそ幸福だと考える。安倍政権も「力こそ正義」とばかりに振る舞い、独善的で「史上最長」「レガシー」にこだわり、欲望の赴くままにカネと権力、人事と公文書を操ったように見える。>
▼ <対照的なのが、プラトンが別の作品で描いた彼の師、ソクラテスの人生観だ。投獄され死刑を待つ彼のもとに友人が現れ脱獄を勧める。ソクラテスは違法だと拒む。そしてあの有名な言葉を口にする。
「大切にしなければならないのはただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだ」違法なことをやって生き延びるぐらいなら、短くても満足のいく生き方をしたい。ソクラテスのこの人生観は現代社会に
「クオリティー・オブ・ライフ」(人生の質=QOL)という言葉でひきつがれた。地位や名声など目に見える富をどれほど所有したかではなく、どう善く生きたかという満足度に人生最大の価値を置く。>
◆ <コロナ禍においても安倍政権は経済重視で市民や医療従事者のQOLを軽んじ、検事総長人事をごり押しするような脱法行為さえ繰り返した。だがそれは長期政権がもたらす経済安定を優先し、
法を軽んじる政治を黙認してきた日本の多数派の縮図でもある。>
⇒ 『日本の多数派』とは? 我々有権者の多数派のことだ。 高度成長が終わり≪バブル崩壊≫と呼ばれてから30年。この30年の日本人の生き方を安倍政権は正直に体現したに過ぎない。
”物資的豊かさ達成の夢よ、もう一度!”と時代環境の変化を無視し、『寿命や1人当たりの国内総生産(GDP)といった目に見える「客観的幸福度」』ばかり追い続け、
「人生で何をするかの選択的自由はあるか」「困ったときに助けてくれる友達・親族はいるか」といった、いわばQOLをはかる「主観的幸福度」には目もくれない生き方。
これは理想/価値観などを考え論じる事を(青臭い!)と冷笑し、明日の飯/豊かさしか追い求めない大多数の生き方だ。私が幾度か使ったフレーズで言うなら”銭ゲバ人生”そのものである。
⇒ <東京五輪><関西万博><公営カジノ建設>推進などは、”銭ゲバ人生”の象徴である。 この姿を国民の多数が肯定し続けるのか、QOL追及に社会の方向を変えようと考えるか?
『10年ひと昔』と言うが、高度成長終焉から『30年=1世代(One Generation)』である。今の日本は、新しい国家に生まれ変わってから75歳。国家も生き物のように成長段階は
変化するものであり、以前と同じ姿のままでは居られない。 成熟国家としてQOL追及にかじを切るタイミングだ、と国民が思わねば滅びの道が待っているだけではないか??
★ <安倍政権の営みを見るたびに思い起こしたのは古代ギリシャの哲学者プラトンの作品に登場するカリクレスという政治家だ。「力こそ正義」と豪語して法も大衆も軽視。人間はより多くを所有し、長く生き、
権力を握って国家を支配してこそ幸福だと考える。安倍政権も「力こそ正義」とばかりに振る舞い、独善的で「史上最長」「レガシー」にこだわり、欲望の赴くままにカネと権力、人事と公文書を操ったように見える。>
▼ <対照的なのが、プラトンが別の作品で描いた彼の師、ソクラテスの人生観だ。投獄され死刑を待つ彼のもとに友人が現れ脱獄を勧める。ソクラテスは違法だと拒む。そしてあの有名な言葉を口にする。
「大切にしなければならないのはただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだ」違法なことをやって生き延びるぐらいなら、短くても満足のいく生き方をしたい。ソクラテスのこの人生観は現代社会に
「クオリティー・オブ・ライフ」(人生の質=QOL)という言葉でひきつがれた。地位や名声など目に見える富をどれほど所有したかではなく、どう善く生きたかという満足度に人生最大の価値を置く。>
◆ <コロナ禍においても安倍政権は経済重視で市民や医療従事者のQOLを軽んじ、検事総長人事をごり押しするような脱法行為さえ繰り返した。だがそれは長期政権がもたらす経済安定を優先し、
法を軽んじる政治を黙認してきた日本の多数派の縮図でもある。>
⇒ 『日本の多数派』とは? 我々有権者の多数派のことだ。 高度成長が終わり≪バブル崩壊≫と呼ばれてから30年。この30年の日本人の生き方を安倍政権は正直に体現したに過ぎない。
”物資的豊かさ達成の夢よ、もう一度!”と時代環境の変化を無視し、『寿命や1人当たりの国内総生産(GDP)といった目に見える「客観的幸福度」』ばかり追い続け、
「人生で何をするかの選択的自由はあるか」「困ったときに助けてくれる友達・親族はいるか」といった、いわばQOLをはかる「主観的幸福度」には目もくれない生き方。
これは理想/価値観などを考え論じる事を(青臭い!)と冷笑し、明日の飯/豊かさしか追い求めない大多数の生き方だ。私が幾度か使ったフレーズで言うなら”銭ゲバ人生”そのものである。
⇒ <東京五輪><関西万博><公営カジノ建設>推進などは、”銭ゲバ人生”の象徴である。 この姿を国民の多数が肯定し続けるのか、QOL追及に社会の方向を変えようと考えるか?
『10年ひと昔』と言うが、高度成長終焉から『30年=1世代(One Generation)』である。今の日本は、新しい国家に生まれ変わってから75歳。国家も生き物のように成長段階は
変化するものであり、以前と同じ姿のままでは居られない。 成熟国家としてQOL追及にかじを切るタイミングだ、と国民が思わねば滅びの道が待っているだけではないか??