静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

 「ほどほど」の難しさ・・・自意識 vs  燃え尽きたい?    「老い」には自然体で  

2016-02-15 14:11:59 | 時評
 * 適度な若々しさの追求=高村薫   http://mainichi.jp/articles/20160214/ddm/013/070/026000c
 此のコラムで似たような主張に触れた記憶があるが、高村氏の淡々とした筆致は、ともすれば哀し気になりがちな「老い」との付き合い方をサラッと交わしている心地よさがある。 だが、心地よさがありつつも、云っていることは現代文化の批評であり、作家らしい人間観察の一端でもある。
 <あれこれ努力はしても、手に入るのはあくまで見かけの若々しさに過ぎず、物理的老化は避けようもなくやってくる。そのことに日々気づかされ、個々に老いを認めてそっとため息をつくのも中高年の自然な姿である。そこでもう一歩奮起すると、同世代から「若づくり」と揶揄(やゆ)されたり、若い世代から「イタい」と言われたりし、反対に努力を諦めると、歳相応どころか一気に年寄り臭さが加速する。若々しさの追求は、適度というのがほんとうに難しい>。

 <① 適度が難しい理由の一つは、若さを礼賛する日本社会特有の空気だろう。40歳を超えたら男も女も恋愛対象として見られなくなるような社会で、何もしない自然体でいる
    のは至難の業である。
  ②適度が難しいもう一つの理由は、人間の自意識である。もともと客観が苦手な自意識に、抽象的な数字でしかない年齢のようなものを自覚しろと言うほうが無理なのだ。
    足腰が弱っても、精神が若々しい限り、自意識は老いを理解できない。ふとした拍子に鏡に映った自分の容姿に愕然(がくぜん)としても、である。>
 ・・・長くなったが、上に引用した二つの段落を貴方はどう読まれただろう? 苦々しく「どうしようもないな・・」と力なく頷き、忠告に耳を傾けるしかない、というものではないか。 

何らかの障害を負った人が「頑張れ、という言葉はどうか使わないで欲しい」と漏らすことがある。「ポックリ死」の確率は65歳以上で5%という統計ありと聞く。
<燃え尽き症候群>と半ば揶揄される終焉美学の完遂も、やはり5%の人にしか許されないのでは?

 私も貴方も、5%の僅かな幸運に恵まれない大多数のひとりだとすれば、老いて不自由を増してゆくヒトに「頑張れ!」とけしかけたり「マダマダ頑張れる筈だ!」と
自らを鼓舞する昨今の風潮も、不自然を知りつつ無理を強いる酷さにおいて 障害者への心ない掛け声に似てはいまいか?? 
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