静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

 中国籍の専門家が発するからこそ 耳を傾けたい言葉だ    西欧デモクラシーで世界は動かないぞ?  そこに中国は挑戦しているのだ

2021-07-08 21:55:53 | 時評
▼★ 米リベラル知識人の幻想と傲慢さ 呉軍華氏(日本総合研究所上席理事) ・・記事全文は短いので転載する
・ 中国共産党の百寿を祝う式典で、習近平総書記(国家主席)はいかなる外部勢力も、中国をいじめ、奴隷化しようとすれば「14億人余りの中国人民の血と肉で築かれた鋼鉄の
  長城の前に打ちのめされるだろう」と宣言した。名指しこそしなかったが、米国を念頭に置いたものであろう。

・ 過激な表現に聞こえるが、国内での愛国教育では決して珍しくない。しかし、世界が見守る式典での発言であることを考えれば、やはり注目に値する。
  興味深いのは米国の反応だ。国務省のプライス報道官は「ノーコメント」とし、レモンド商務長官は「中身のない威圧的なレトリックであり、米企業に必要なのは自らの
  ビジネスに専念することだ」と一蹴したという。


* 果たして習総書記は威勢を張ろうとしただけなのか。結論を出すのは無論、時期尚早だ。
  しかし、過去を振り返れば、米国は中国共産党に対する判断をことごとく誤ってきた。そうした誤りとそれに基づく米国の政策が、中国共産党を勢いづける一因になった
  といっても過言ではない。例えば国共内戦時、国民党軍の行動にブレーキをかけた
  戦前の「マーシャル調停」を含めた米国の対中政策は、内戦の結果に大きく影響した。また、中国が世界のメジャーパワーに台頭する契機となった世界貿易機関(WTO)
  加盟も、米国の後押しがなければ難しかったかもしれない。  イデオロギー的に対立するはずの中国共産党に、米国がこれだけ寛容的なのはなぜか。
   主たる原因のひとつは、米国の知識人が西洋本位の発想で中国共産党を理解しようとしていることであろう。

* 2020年6月、オブライエン大統領補佐官(国家安全保障問題担当、当時)はある演説で「中国共産党に対する判断ミスは、1930年代以来の米国の対外政策で最大の失敗だ」
  と主張した。エドガー・スノーが「中国の赤い星」で、国際社会に中国共産党を好意的に紹介したのは1937年だ。
   ← 私の高校生時代からの素朴な疑問:(なぜソ連の脅威が高まった当時の米国でスノーは受け入れられたのか?)

  スノーら当時の中国と関わった米国のリベラル知識人の目には、毛沢東らは教え導くべき国々のリーダーとして映ったのだろう。
  その結果、中国共産党はイデオロギーと関係なく、改革を目指す政党だとの幻想が生まれた。その幻想は近年までの米国の対中関与政策を支えた大きな土台であった

* 西洋本位の発想はある種の傲慢さも生み出した。旧ソ連崩壊につながったベルリンの壁崩壊後、「民主主義と自由経済の勝利で歴史が終わった」との論調が広がった。
  しかし、中国では直前の「天安門事件」で、共産党一党支配体制が揺るがないことが実証されたばかりだった。中国経済の成長を支援すれば、中国が民主化するという
  見立ても傲慢さの表れだ。この見立ては、グローバルに利益を追求する多国籍資本の行動を合理化する口実ともなった。

★ 中国の台頭は、西洋本位の発想で世界は動いていないことを改めて示した。米国のリベラル知識人が自らの発想の限界を認識し、対中戦略の再構築を通して新たな米中関係を
  作り出せるのか。注意深く見守りたい。   (呉軍華氏)
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 ≪ ナショナリズム:国家主義/愛国&憂国 ≫  この気持ちよくも 扱いが厄介な感情   何事も同調&強制圧力に弱い日本人は 気をつけよう

2021-07-08 13:23:44 | 時評
【毎日】激動の世界を読む ◆ 中国のナショナリズム 異論許さぬ強制的同質化=北海道大公共政策大学院教授・遠藤乾・・・最終段落のみ
* 遠藤乾(えんどう・けん)氏
  1966年生まれ。北海道大卒。英オックスフォード大博士号(政治学)。欧州委員会「未来工房」専門調査員、パリ政治学院客員教授、台湾政治大客員教授を経て現職。専門はヨーロッパ政治、
  安全保障。業績にシリーズ「日本の安全保障」(全8巻)など。


 共産党生誕100周年の演説で習主席は「我々は、どの国の人民もいじめ、抑圧し、隷属させたことはなく、今後もそうすることはない」と高らかに宣言したが、それを自国の民族的・宗教的少数者にしているのだから、鼻白むというものだ。
 同様に、香港でごく初歩的な政治的権利を求める人びとを「国の統一を脅かす」として弾圧するのも許しがたい。政権批判するジャーナリズムをつぶし、前途ある若者を見せしめに捕らえて言論や集会の自由を奪い、あげくのはてに、「愛国」を持ちだして被選挙権を取りあげる。こうした行為は、本当のところ、一党独裁の維持のためなのだが、国への忠誠という別物と同一視され、異論の抑圧にいたる。ナショナリズムのもつ強制的同質化の作用*が、ここに典型的にみられる。

★ 日本も自己点検を
日本もまた、こうしたナショナリズムと無縁ではない。試しに、在日、沖縄、アイヌについて、「ネトウヨ」のみならず政治家や自称有識者たちが何を書きしるしているのか、検索してみるとよい。
そこには、他者を差異化し、そのイメージを固化し、しまいには排斥の対象とするヘイトがあふれている。おそらく問題はそこにとどまらない。そんなおぞましい行為に手を染めなくとも、国を愛する
気持ちはじゅうぶん画一的、排外的になりうるからである。

 最近、オンラインの国際会議に出ると、「日本人登壇者は中国の話ばかりする」といぶかしがる反応が返ってくる。あるヨーロッパの知識人に、「中国は日本のオブセッション(強迫観念)になりつつ
あるのではないか」と問われたこともある。確かに、ふと気がつくと、みな中国の話ばかりしている。
 もう故人となったビン・シンというベトナム生まれの近代史家と話していたとき、
<日本の中国への憧憬(しょうけい)と拒絶は、ベトナムと比べて日本が中国から精神的に切断されている分、独特だと気づかされたことがある。>
<ほぼ間違いなく、中国との差異化は日本のナショナル・アイデンティティーの根幹をなしている。であるならなおさら、日本は、現代中国が抱える問題を正面から見据えつつ、距離の取り方に
 気をつけねばなるまい。>


★ かつて作家の小田実は、ナショナリズムのもつ同調圧力についてこう言った。
「ナショナリズムに酔うこと自体が悪いというのではない。酔うことによって、たとえば、酔わない人、酔えない人を『なんだこいつは』と白い目で見始めることが恐ろしい……。
 酔わない人もまた、酔ったポーズをとらなければならない。そして、そのポーズをとっているうちに、その人もまた、本当に酔い始める」 ⇒ ナショナリズムのもつ強制的同質化の作用*
 
中国の問題をウオッチし、それを批判するのをやめてはならない。しかし、それにとらわれるあまり、反中への同調圧力に屈するのならば、日本は中国の合わせ鏡となってしまう。
  ナショナリズムは、決して枯れぬ井戸のようなもの。隣国における党100周年の興ざめするお祝い事は、翻って日本に自己点検を迫っている。
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【書評136-1】 周  恩 来 『 十九歳の東京日記 1981.1.1 ~1981.12.23 』(原題:旅日日記)   矢吹 晋(編)鈴木 博(訳)   小学館文庫   1999年10月 刊

2021-07-08 10:30:43 | 書評
本書は【書評135】”周恩来・キシンジャー 機密会談録”の最終回で触れた。周恩来に就いては様々な評伝があるが、その殆どは、単独に取り上げた伝記風のもの・毛沢東との対照に重きを置いたもの、
そのどちらかに分かれる。(本書の監修兼編集の任にあたった矢吹氏も、講談社現代新書で『毛沢東と周恩来』を出版されている。)
 本書は第三者の描いた伝記・評伝ではなく、周恩来が書いた日記であるから、彼の人間形成において、そして成人後の革命家人生を通して日本留学が果たした事,遺したものを考えるには最も適切では
ないか? そう私は期待したのである。嬉しいことに、其の期待は裏切られなかった。
 読み終わると、青年・周恩来の魅力に留まらず、実に多くの角度から疑問も湧くし、共産中国誕生に至る流れ、日本の動向が及ぼした影響などなど、汲んでも尽きない知的興奮を私は愉しんだ。
私は矢吹氏の著作も含め、伝記・評伝を一切読んでいない。敢えて読まないまま、日記の叙述から私の中で浮かび上がった事を、気楽な読み物風に語りたい。
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 周恩来は1898(明治30)年、江蘇省淮安県で長男として生まれた。実父の稼ぎが良い方ではなかったらしく、親戚へ養子に出された。10歳前後で実母・養母ともに他界したので父方の伯父に
引き取られ、奉天(現在名:瀋陽)で小学校へ。其の伯父が天津に転勤したので天津の南開学校(=旧制中学レベル)へ1913年8月入学。1917年6月国文(=中国語)最優秀の成績で卒業した。
当時の天津に大学は無かったので同学校理事長の資金援助を得て、直ちに日本留学を決心し、1917年9月には天津から横浜港へ。10月には神田猿楽町に在った「東亜高等予備校」で大学入試科目の
補習を受け始めた。

 日記を書き始めたのは翌18年1月から。到着後の約3ヶ月間、何をしていたのかというと、先に来ていた南開学校時代の旧知の世話で下宿先を探したり、専ら新天地での生活設営に費やしたようだ。
本書のプロローグには其の空白を補うべく、17年12月22日、故郷の友に当てた手紙が紹介されている。
 面白いのは、中国人が開いた中国式旅館はうるさく喧嘩が多いので嫌い、日本式旅館(下宿?)が静かで勉学には向いていると早くも感じ、同胞の群れる暮らしを遠ざけている。また、畳の上での
起居は慣れたし魚中心の食事も苦ではない、味付けが味噌/油中心ではなく、焼き物が多いが天津の魚料理に似ている、と苦にしていない。
 同時に私が注目したのは、日本に来て1年以上経てば日本語理解力が付くだろうから、科目の勉強さえ怠らねば日中政府間取り決めの国費留学指定校に受かるだろうが、自分は僅か半年後の
18年3月に控える東京高等師範学校(=後の東京教育大学)を受験するので日文能力が不安だ、と正直に告げていたのだ。 読みにくいが、本書が抜粋したという試験問題コピーを転写する。
                            
 矢吹氏の解説(?)によれば、此の試験問題は大正元(1912)年施行、同2年刊行の『東京遊学案内』に収録されたものから構成したが、当時の留学生が日本人と同一内容の試験を受けていたかは
不明だと。確かに不明だろうが、逆に留学生用に別の問題を課すだろうか? 留学生入学枠は有ったかもしれないが、問題&評価基準作成の手間を考えるなら同じ問題で受験したとも考えられる。

 さて、現在の日本の国立大学入試問題と比べるなら、皆さんは上の問題例をどう思うだろう? 問われる科目ごとの知識・見識もさりながら、此の問題文を日本語学習ゼロのまま外国へきて、
僅か半年しか経たない青年が理解できるか?自分をその立場に置いてみたら、皆さんはどう感じるか? 周が南開学校で習得した外国語は英語であり、日本語ではない。
(実際、英語の会話能力&作文・読解力とも、相当あったと推定できる。丸善で英書を買って読んでいるし、日記を英文で書いたり、下関に向かう汽車の中で日本人と英語で会話しているほどだ)。

 日清戦争後、中国から日本に留学した若者は多い。周恩来が来日した頃の推計では8千人とも2万人とも言われている。其の中には金銭&時間的余裕に恵まれ日本語を事前に学んだ者も居ただろうが、
基本は外国語習得能力に加え、いわゆる「向き・不向き」も否定できまい。周はどうやら日本語対応の言語能力を持ち合わせなかった。周知のように中国語は日本語のような膠着語ではなく、
構造的にインドアーリア語族に近い、つまり英語習得には向いている。それが、なぜ中国人は日本人よりも英語習得が速いのか?への答えである。それは私の海外在住体験からも確信する。

 この日本語力の弱さが、周自身が早くから自覚したとおり(高師+一高)2校の入試失敗に直結した。事実、日文以外の科目で日本単語を英語に置き換えるのに苦労しないが、文章読解、日本語作文、
会話のすべてに自分は苦しんでいる、と受験前から日記に記している。母校の理事長はじめ親戚や友人から金を借りまくった東京生活の苦しさを思うと、日本語能力アップの為にと通った個人教授への
支払いだけで精一杯だったろう。ましてや再受験する余裕は無かった。 
 
 この受験失敗が、矢吹氏が何度も本書の解説で述べる≪ If Story ≫の分かれ目だ。<若し、周恩来が合格して日本に留まったら、5・4運動以後の革命運動指導者あるいは共産主義者になっていたか?>
逆に<帰国後の軍閥打倒運動で留学組が穏健派 vs 過激武闘派に割れたなか、冷静な周は違う人生を辿ったか? 愛国/憂国の情に駆られ、やはり武闘革命家になったか?>という≪ If Story ≫も招く。
 際限が無いので止めるが、次回からは周青年個人の姿を日記に即して見つめ、私なりの人物像を紡いでみる。                       < つづく >
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