▼ 本の処分=近藤勝重<毎日/客員編集委員> http://mainichi.jp/articles/20170316/dde/012/070/003000c?fm=mnm
・ <荷造りを手伝ってくれていた友人が「よかったら譲ってくれないか」と言う。えっという顔をすると、友人は下宿代の1年分より高額の数字を口にして
「古本屋に持っていくよりは……」とぼくを見た>>。
・ <彼は家が裕福らしく、マイカーで通学していた。比してこちらは貧乏学生である。アルバイトで得たお金をためて買い求めた全集など、多くの本に思いが
こもっているが、引っ越しには何かとお金がいる。迷った末に応じたものの、後年、手元にあれば時の波間で惑った青春期の内面がうかがえ、多々思うことも
あっただろうに、と後年そのことをひどく悔いた>。
⇒ 倉重氏のエピソードにおける当時の金額がいかほどか知る由はないが、私にも類似の体験が有る。 有るだけに、此のエッセイは胸を熱く疼かせた。
無論、今でも苦学生は居る。読書の歓びを知り、向学心豊かな学生が絶えたわけではない。ないが、書籍の形で知的好奇心、青春の悩み、哲学的逍遥に暮れる時間を過ごした世代が抱く<書物への畏敬>が、果たして現在の学生や若者に存在するのか?
誤解を避けたいが、私は<印刷物としての書物への畏敬>イコール<智への畏敬>だというのではない。 唯、人間の頭脳は肉体の上に乗っかった存在である。 人間が五感で世界を知覚/認識すること、我々が同じ肉体を所有する限り、これに代わる世界認識は無いのではないか?
ならば、将来もヴァーチャルな機構の中で知的遍歴は残り得るのだろうか? 目の前に時間記憶を伴なう物理的存在がなく、倉重氏が語る感情は
老いた頭の中で伝承されるだろうか? 誰もが老いる。
「いやいや、そんな感傷そのものが無用の長物だ」というのか? じゃ、其の先、ヴァーチャル世代の老いた心には どういう精神風景があるのだろう?
・ <荷造りを手伝ってくれていた友人が「よかったら譲ってくれないか」と言う。えっという顔をすると、友人は下宿代の1年分より高額の数字を口にして
「古本屋に持っていくよりは……」とぼくを見た>>。
・ <彼は家が裕福らしく、マイカーで通学していた。比してこちらは貧乏学生である。アルバイトで得たお金をためて買い求めた全集など、多くの本に思いが
こもっているが、引っ越しには何かとお金がいる。迷った末に応じたものの、後年、手元にあれば時の波間で惑った青春期の内面がうかがえ、多々思うことも
あっただろうに、と後年そのことをひどく悔いた>。
⇒ 倉重氏のエピソードにおける当時の金額がいかほどか知る由はないが、私にも類似の体験が有る。 有るだけに、此のエッセイは胸を熱く疼かせた。
無論、今でも苦学生は居る。読書の歓びを知り、向学心豊かな学生が絶えたわけではない。ないが、書籍の形で知的好奇心、青春の悩み、哲学的逍遥に暮れる時間を過ごした世代が抱く<書物への畏敬>が、果たして現在の学生や若者に存在するのか?
誤解を避けたいが、私は<印刷物としての書物への畏敬>イコール<智への畏敬>だというのではない。 唯、人間の頭脳は肉体の上に乗っかった存在である。 人間が五感で世界を知覚/認識すること、我々が同じ肉体を所有する限り、これに代わる世界認識は無いのではないか?
ならば、将来もヴァーチャルな機構の中で知的遍歴は残り得るのだろうか? 目の前に時間記憶を伴なう物理的存在がなく、倉重氏が語る感情は
老いた頭の中で伝承されるだろうか? 誰もが老いる。
「いやいや、そんな感傷そのものが無用の長物だ」というのか? じゃ、其の先、ヴァーチャル世代の老いた心には どういう精神風景があるのだろう?