静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

ヤマト宅配にみる≪ 過剰サービス&過剰品質 当然視の悩ましさ ≫ 国際競争力の源泉の一つ  捨てずにどう両立させるか?

2017-03-03 09:12:04 | トーク・ネットTalk Net
☆ 宅配の問題 過剰な便利さの再考を  http://mainichi.jp/articles/20170303/ddm/005/070/100000c?fm=mnm
・ 最近取り上げられ始めた大和運輸の宅配サービスを巡る「不在時の再配達」に係る問題は、皆さんも耳にされていることだろう。
・ ネット通販の普及、労働力不足の深化、これが配送運転手の過剰労働を招いている。 因果関係をいうとそうなるらしい。然し、何よりも配達先の
  「不在」による再配達が労働時間増大の主因になってきた、というのが事実なら実に皮肉だ。

 ⇒ 再配達を有料にしたら? という案も浮上しているそうだが、それで過剰労働の緩和に直結するか? という疑問は消えない。 何よりも、再配達そのものを「過剰サービス」と認識するならば、日本の製造業のみならず様々なサービス業界が国際競争力の源泉としている「高度なサービス&高品質」の根っこにある
  <過剰さ>をどうするのか?  という大きな問いにぶつかる。

★ 自動車に限らないが、日本製品の特徴は「見えない部分まで丁寧に仕上げるキメ細かやかさ」である。 此の細かさが品質維持の秘密だ。 Do you agree ?
  だが、それは不要な手間とコストでしかない、という国が世界の殆ど。 無駄にしか映らない。 市場ごとに品質を下げることをわざわざ行う企業も増えて
  きたのだが、”高級品質を大事に思うマインドセット、及び最高品質を産み出す技術と作業スキル ”の維持が片方では深刻な問題になりかねない。  
    此の<葛藤/ディレンマ/二律背反>にどう対処するか?    「再考を」というが、モノ造りに生きる人は 悩ましいのである。
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≪ 日本の対米自立と武装中立 ≫    ≪ ”民主政治”とはどういうことか: 『事実』と報道の恣意性 ≫  

2017-03-03 08:44:49 | トーク・ネットTalk Net
◆ 日本の「武装中立」=西川恵 http://mainichi.jp/articles/20170303/ddm/003/070/090000c?fm=mnm
・ 日本はユーラシア大陸の東に位置するがゆえ、日本の国際関係/国際政治は、太古の昔から現在の中華人民共和国と朝鮮半島に興亡する政治勢力/王朝との関係に
  終始してきた。  それは現在も未来も同じだ。 互いに引っ越しできないのだから、付き合うしかない。
・ 西川氏の論点は<米朝和平協定の締結、北と韓国の通常兵力削減、米軍の韓国からの撤退など中長期の取り組みで信頼醸成を図り、国際機関が北の核放棄を
  確認し、日本は憲法を改正して非核政策を明確にする>。  なぜ日本も、なのか。
・ <「日本の悪夢は核武装した統一朝鮮の出現。朝鮮半島の非核化が実現するならそれ相当のコストは払うべきだ。また非核を憲法で明示しても、
   反核の国民感情からして失うものは少ない」  これは国際社会での日本の立場を強化すると英氏は言う。核廃絶へのインパクト。日本の核保有を疑ってきた
  中国が、未来志向に向かう契機になるかもしれない>。
  ⇒ そう。 西川氏の論点で最も重要なのは『中国が北朝鮮を囲い込む理由=統一朝鮮への米国進出阻止』を無くす為の施策を提案している点にある。 
   換言すると、<半島の非核化と中立を国際的枠組みで保障する>ことが実現すれば、地続きに米国の核と軍隊が存在する恐怖から中国は逃れることができ、
   北朝鮮を支える経済的負担からも解放されるからだ。  無論、中国の東アジア制覇という野心を疑う人もいようが、傾聴に値する。記事をお読み下さい。

◆ 民主政治のよりどころ 「事実」は切り取り方次第 佐伯啓思 http://digital.asahi.com/articles/DA3S12822670.html?rm=150
・ 「歴史は勝者によって創られる」ものならば「事実も報道する人の主観/見解で切り取られるもの」に過ぎない。其の「報道される事実」を信頼したうえに
  「民主政治」はギリシャの昔から成立してきた。 此の平明な事実に照らせば、佐伯氏の次の投げかけがぐっと心に響く。
・ <われわれが「世界」について知るのはほとんどメディアを通してである。例えばトランプ氏がどのような人物であるかもメディアを通して知りうるだけで
  ある。 メディアが提供する情報をわれわれは「事実」だと思っている。ではメディアは本当に「事実」を報道しているのだろうか>。
・ <そうは簡単には言えない、と述べたのは、『世論』を書いた米国のジャーナリストであるリップマンであった。1922年だから100年近くも前のことだ。
   この古典的な書物において、彼は、メディアがいう「事実」なるものは、その取材者の世界観や先入見によって「世界」を恣意(しい)的に切り取ったもの
  だ、という。それは、ジャーナリストの悪意というより、人間の認識そのものの構造なのだ。「世界全体」などわれわれは見ることも知ることもできない。
  せいぜいその一部を切り取るのだが、その切り取り方にすでに先入見が持ち込まれている。 こういうのである>。
 ★☆ リップマン『世論』・・・・学生だった頃、読んだかもしれないが、ああ、忘却の彼方に霞んでいる・・・・

  <たとえば、東京都の豊洲市場予定地についての確たる「事実」はどこにあるのだろうか。南スーダンで何が起きているのだろうか。すべては「見方」
  の問題ではないか、というほかない。そして、民主主義というものは、客観的で確かな事実や真実などわからない、という前提にたっている。それより、
  人々がそれをどう判断し、どう解釈するかという個人の見解の自由に基礎をおいているのだ。
   だから、古代ギリシャのポリスの民主政治においては、「事実」はどうあれ「説得」する技術を教えるソフィストが大活躍したのである。トランプ氏が
  もしも「事実」などより「説得」によって政治は動く、と考えているとすれば、彼こそはもっとも民主主義的な大統領ということになるであろう>。

   <われわれが頼りにすべきものは、「事実」そのものというより、それについて発言する人物(あるいはメディア)をどこまで信用できるか、という
  「信頼性」だけなのである。その信頼性を判断するのは結局われわれ一人一人なのである。われわれにその判断力や想像力があるかどうかが政治の分かれ目に
  なるのであろう>。   ←  佐伯氏の言葉を 何度も噛み締めたい。
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