★ 与良政談:学び直すべき人たち http://mainichi.jp/shimen/news/20150624dde012070056000c.html?fm=mnm
・ 与良氏のポイントはひとつ。 18歳投票が来年の参議院選挙から実施されるので急に「主権者教育」なるフレーズが現れ、早速、「日教組」アレルギーの
保守派ががなりたて、無責任な「非政治意識涵養」に流される懸念が出ている。
・ 主権者教育とは何か。それは民主主義とは何かを学ぶことだ。では民主主義とは何か。自分と異なる意見もきちんと聞く。議論を通じて自分の考えを深める。
そして敵か味方か選別するのではなく、極力合意点を探っていくことだと私は思う。
ここで大事なことは、徹底的に議論をしても意見の違いが解消されず妥協案も作れないままに終わるとき、「待ってました!」とばかりに議席の多い方が<セレモニー><みそぎ>を済ませたかの面持ちで投票に移り、数の力で議論の経緯と関係なく採決してしまう、こういうプロセスは「民主主義」とはいえないことだ。
即ち、議員のみならず世論が割れる重大なテーマ/価値判断においては「多数決」はしばしば有害になることもあるという事実を認めたうえで再検討する度量を政権与党が持ち合わせるか否か、である。 どうも安倍首相を筆頭に、保守派議員は「民主主義」と「多数決原理」を混同していやしないか?
★ 田中優子の江戸から見ると:慰霊の日に寄せて http://mainichi.jp/shimen/news/20150624dde012070051000c.html?fm=mnm
・ 田中優子氏のいわんとするのは、例えば広島/長崎に原爆記念日があるように、大學には「学徒出陣」させられた1943年10月21日が「慰霊の日」
である筈だ。また、6月23日は沖縄県が制定した慰霊の日であった。 なにも天皇が連合国への降伏を宣言した8月15だけが慰霊日ではないのだ。
つまり、国民/地域それぞれの戦争被害には違いがあり、其の意味合いは全て異なるから、国家が中央集権的に勝手に定めた慰霊日だけを遵守せよなどという
ことが傲慢であり、国民一人一人に寄り添った非戦への祈りになろうわけがない。其の最悪の例が沖縄戦慰霊への冷たさだ。
・ 6/18日の書評で反日活動家の書いた本を紹介した。(書評;041< 中国「反日」活動家の証言 >王 錦思 著(孫 秀萍:訳)。その中に、王氏が抗日
運動の記念となる主な出来事の発生日を全て国家が主催する行事/式典をおこなおうと呼びかける経緯が書かれている。事実、中国各地に建てられてきた
XX記念館などは王氏の長年のアピールに中央政府が耳を貸すようになり、政府行事が増えたものだ。無論、中国政府の打算とも一致するからこその成果
だろうが、それにしても幾ら政府公認活動家とはいえ、個人の主張がこういうテーマでは通る現実が中国にはある。
翻って日本ではどうか? 誰にとっても戦跡や被害の想起は辛いものだが、天皇制があるがゆえに天皇の臨席を仰ぐ中央慰霊式典しか認めない、その他へは代表も形だけという姿勢ではないのか? そんなことで、将来海外派遣され、戦死する自衛隊員/民間人は嬉しいだろうか?
・ 与良氏のポイントはひとつ。 18歳投票が来年の参議院選挙から実施されるので急に「主権者教育」なるフレーズが現れ、早速、「日教組」アレルギーの
保守派ががなりたて、無責任な「非政治意識涵養」に流される懸念が出ている。
・ 主権者教育とは何か。それは民主主義とは何かを学ぶことだ。では民主主義とは何か。自分と異なる意見もきちんと聞く。議論を通じて自分の考えを深める。
そして敵か味方か選別するのではなく、極力合意点を探っていくことだと私は思う。
ここで大事なことは、徹底的に議論をしても意見の違いが解消されず妥協案も作れないままに終わるとき、「待ってました!」とばかりに議席の多い方が<セレモニー><みそぎ>を済ませたかの面持ちで投票に移り、数の力で議論の経緯と関係なく採決してしまう、こういうプロセスは「民主主義」とはいえないことだ。
即ち、議員のみならず世論が割れる重大なテーマ/価値判断においては「多数決」はしばしば有害になることもあるという事実を認めたうえで再検討する度量を政権与党が持ち合わせるか否か、である。 どうも安倍首相を筆頭に、保守派議員は「民主主義」と「多数決原理」を混同していやしないか?
★ 田中優子の江戸から見ると:慰霊の日に寄せて http://mainichi.jp/shimen/news/20150624dde012070051000c.html?fm=mnm
・ 田中優子氏のいわんとするのは、例えば広島/長崎に原爆記念日があるように、大學には「学徒出陣」させられた1943年10月21日が「慰霊の日」
である筈だ。また、6月23日は沖縄県が制定した慰霊の日であった。 なにも天皇が連合国への降伏を宣言した8月15だけが慰霊日ではないのだ。
つまり、国民/地域それぞれの戦争被害には違いがあり、其の意味合いは全て異なるから、国家が中央集権的に勝手に定めた慰霊日だけを遵守せよなどという
ことが傲慢であり、国民一人一人に寄り添った非戦への祈りになろうわけがない。其の最悪の例が沖縄戦慰霊への冷たさだ。
・ 6/18日の書評で反日活動家の書いた本を紹介した。(書評;041< 中国「反日」活動家の証言 >王 錦思 著(孫 秀萍:訳)。その中に、王氏が抗日
運動の記念となる主な出来事の発生日を全て国家が主催する行事/式典をおこなおうと呼びかける経緯が書かれている。事実、中国各地に建てられてきた
XX記念館などは王氏の長年のアピールに中央政府が耳を貸すようになり、政府行事が増えたものだ。無論、中国政府の打算とも一致するからこその成果
だろうが、それにしても幾ら政府公認活動家とはいえ、個人の主張がこういうテーマでは通る現実が中国にはある。
翻って日本ではどうか? 誰にとっても戦跡や被害の想起は辛いものだが、天皇制があるがゆえに天皇の臨席を仰ぐ中央慰霊式典しか認めない、その他へは代表も形だけという姿勢ではないのか? そんなことで、将来海外派遣され、戦死する自衛隊員/民間人は嬉しいだろうか?