静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

★ 2015.06.24    < (民主主義=多数決)ではない > < 戦没者慰霊の日は8/15だけではない >

2015-06-24 20:47:06 | トーク・ネットTalk Net
 ★  与良政談:学び直すべき人たち  http://mainichi.jp/shimen/news/20150624dde012070056000c.html?fm=mnm
 ・ 与良氏のポイントはひとつ。 18歳投票が来年の参議院選挙から実施されるので急に「主権者教育」なるフレーズが現れ、早速、「日教組」アレルギーの
   保守派ががなりたて、無責任な「非政治意識涵養」に流される懸念が出ている。
 ・ 主権者教育とは何か。それは民主主義とは何かを学ぶことだ。では民主主義とは何か。自分と異なる意見もきちんと聞く。議論を通じて自分の考えを深める。
   そして敵か味方か選別するのではなく、極力合意点を探っていくことだと私は思う。

 ここで大事なことは、徹底的に議論をしても意見の違いが解消されず妥協案も作れないままに終わるとき、「待ってました!」とばかりに議席の多い方が<セレモニー><みそぎ>を済ませたかの面持ちで投票に移り、数の力で議論の経緯と関係なく採決してしまう、こういうプロセスは「民主主義」とはいえないことだ。
 即ち、議員のみならず世論が割れる重大なテーマ/価値判断においては「多数決」はしばしば有害になることもあるという事実を認めたうえで再検討する度量を政権与党が持ち合わせるか否か、である。 どうも安倍首相を筆頭に、保守派議員は「民主主義」と「多数決原理」を混同していやしないか?

 ★  田中優子の江戸から見ると:慰霊の日に寄せて http://mainichi.jp/shimen/news/20150624dde012070051000c.html?fm=mnm
 ・ 田中優子氏のいわんとするのは、例えば広島/長崎に原爆記念日があるように、大學には「学徒出陣」させられた1943年10月21日が「慰霊の日」
   である筈だ。また、6月23日は沖縄県が制定した慰霊の日であった。 なにも天皇が連合国への降伏を宣言した8月15だけが慰霊日ではないのだ。
   つまり、国民/地域それぞれの戦争被害には違いがあり、其の意味合いは全て異なるから、国家が中央集権的に勝手に定めた慰霊日だけを遵守せよなどという
   ことが傲慢であり、国民一人一人に寄り添った非戦への祈りになろうわけがない。其の最悪の例が沖縄戦慰霊への冷たさだ。
 ・ 6/18日の書評で反日活動家の書いた本を紹介した。(書評;041< 中国「反日」活動家の証言 >王 錦思 著(孫 秀萍:訳)。その中に、王氏が抗日
   運動の記念となる主な出来事の発生日を全て国家が主催する行事/式典をおこなおうと呼びかける経緯が書かれている。事実、中国各地に建てられてきた
   XX記念館などは王氏の長年のアピールに中央政府が耳を貸すようになり、政府行事が増えたものだ。無論、中国政府の打算とも一致するからこその成果
   だろうが、それにしても幾ら政府公認活動家とはいえ、個人の主張がこういうテーマでは通る現実が中国にはある。  
 翻って日本ではどうか? 誰にとっても戦跡や被害の想起は辛いものだが、天皇制があるがゆえに天皇の臨席を仰ぐ中央慰霊式典しか認めない、その他へは代表も形だけという姿勢ではないのか?  そんなことで、将来海外派遣され、戦死する自衛隊員/民間人は嬉しいだろうか?
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☆ 2015.06.24    ≪ 神戸市:加害者手記の取り扱い ≫  ≪ 日本の統治機構はこのままで良いか?≫

2015-06-24 09:06:11 | トーク・ネットTalk Net
  ☆  児童連続殺傷:加害男性手記 神戸市は市立図書館購入せず http://mainichi.jp/select/news/20150624k0000m040074000c.html?fm=mnm
・ 神戸市長は、氏の方針として<「絶歌」について、11カ所の市立図書館で購入しないと発表した。「遺族への配慮がないまま出版され、甚だしい精神的苦痛が生じている。事件が発生した自治体としては、遺族の気持ちに寄り添う対応をしたい」と説明>。<犯罪被害者等支援条例に基づき2次被害を防ぐ▽遺族から出版社へ抗議文が出ている▽購入すれば加害男性などによる商業出版を容認することになる−−などが理由。出版や表現の自由などの観点から、書店などへの販売自粛要請はしないとしている>。
 窮めてまっとうな決定だと私は賛同する。 書店などに自粛要請をしない理由として「出版や表現の自由の保護」を掲げたのは、太田出版の「自由」までも含む保護なのか、大いに議論の余地を遺した。いや、私は久元市長が意図的に含みを残したとみている。

唯、昨日だったか、NHKラジオのニュースが此の件を報じた際、<全国図書館協会?>なる団体が「図書館に設置する図書の当否は利用者が判断することだから、図書館自らは閲覧希望がある限り設置を拒むべきではないと考える」趣旨を述べたと聞いた。 これは一見間違ってはおらず、正論に聞こえる。 
  だが、各種の差別や殺人・暴力・窃盗/詐欺といった倫理上基本的な「悪」に関わる犯罪には必ず傷ついた被害者が存在する。思い軽いの差はあれ、苦しみの消えることはないだろう。 犯罪者手記の出版は少なからず関係者の現在の人生に影響を与えるものだから、加害者は被害者の事前了解を取る最低の礼儀/倫理ではないだろうか?  その最低限の礼節を守らない書物の価値とは、いったいどういうものなのだろう?

  ☆  社説:慰霊の日と首相 沖縄の声は聞こえたか  http://mainichi.jp/shimen/news/20150624ddm005070041000c.html?fm=mnm
 ・ 安倍首相は式典が終わると空港へ急ぎ、見送りにきた沖縄県知事と観光ばなしなど当り障りのない立ち話を5分。こういう態度を見せた総理大臣。
   私の記憶にはない。この子供じみた未熟さに悲しくなる。  沖縄の人々は私など想像すらできない怒りと悲しみであろう。
かえすがえす私は思うようになった。 明治このかた、敗戦後も続く強力な中央集権国家。連邦制どころか「道州制」さえ本気でやらない。地方交付税(カネと)霞ケ関幹部の地方派遣(ひと)で縛る巧妙な中央統治メカニズム。知事と議会は直接公選で牽制しあう構造なのに、首相/閣僚は議会多数党から選ぶ「議員内閣制」ゆえ、沖縄のように知事/議会ともに「ノー」と反対する声を聴かなくても東京で何でも決めてしまえる。 

この構造、制度疲労だと私はかねがね主張してきたが「維新の党」含め、抜本的な統治改革には誰も声を挙げない。 一足飛びにアメリカ型3権分立は無理としても、選挙制度/2院制度の改善で現在のようにいびつな政権運営を予防できないものか? 首相公選で国会との牽制機能は生まれないものか? 憲法裁判所の設置で、行政/立法に対する牽制が実のあるものにならないか? 人口減少は必然的に広域自治体への集約を促すのだから、地方自治体の自由度と自立を高めるチャンスだと捉えないのか?  などと考えるのだが、読者はいかがお考えだろう??
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