静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

★ 2015.06.17    < 際限なき長寿の功罪を考えたことがあるか? >

2015-06-17 22:41:44 | トーク・ネットTalk Net
  ★  長寿が招く認知症に肯定を http://mainichi.jp/premier/health/entry/index.html?id=20150616med00m010001000c&fm=mnm
 認知症を「肯定する」・「従容として受け入れる」とは何をいいたいのか?  眼に留まり読んでみると、要は<世界に誇る現代日本の長寿は、社会と医学が獲得した大きな福音である。長寿になると社会全体がお祝いをする。ところが、長寿に伴って必ず生じてくる認知症という現象には、「困った問題だ」という目でみる。こんな奇妙なことがあるだろうか。長寿を礼賛するなら、認知症も祝福しないと理屈に合わない>という。
  言い方を変えると、長寿を望むなら其の裏にくっついてくる認知症も社会全体のコストで受け入れるしかないではないか、ということ。そう、その通りであり、長寿は目出度いプラス面だけではないよ、と当たり前のことを確認している。癌など他の疾病と同じく<予防や早期発見>ができると頭から信じて認知症を扱うのは止めよう、と言っているのである。予防や早期発見なんて諦めよ、と。・・・だが、現代人は それを諦めたか?

 若し、である。癌などと同様の歩みで、アルツハイマーが原因の認知症まで医学の進歩で治癒/防止できるように成ったとしよう。 その時、人間にとり「老いる」というのは何を指すのだろう? どういう状態を「老いる」というようになるのか?・・肉体の老いが<筋肉だけでなく頭脳の老い>も意味しなくなり、認知症のなくなる世界。生物個体として「死ぬ」ことが益々遠くなる時。<不老長寿>が王様の念じた合言葉でなくなり、限りなくウソに聞こえなくなる人生とは・・・・。
 それは 祝うべき極楽か??
  
 世の高齢者よ、決して間違えてはならない。幾ら長寿に伴う疾病が減る/負担が軽くなり、直ぐには死ななくなると言っても、それは若返ることではない。再び働ける体力を獲得することではなく、増えた老人を若者が積み立てる年金で支えることができなくなり、老人が細々と自分の食い扶持を稼ぐ日々が伸びることである。そういう日々の正当化(自分の心の中での)に努める毎日が増えるということなのだ。 よほど先祖伝来の資産に恵まれた人や、カネの使い道に困るほど若い時に貯めた人は例外だが、大多数の我々凡人には、気が遠くなるほど長い長い日々が増えるのだ。 
  長寿の探求が「尊厳ある死」と遠ざかる、或は、其の否定に近づくことにならないか? 生物として自然に生まれ自然に死ぬ、この摂理はどうなるのか?
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☆ 2015.06.17    ≪ 18歳選挙権による政治参加 成功への壁はネット広場? ≫  

2015-06-17 09:06:30 | トーク・ネットTalk Net
  ☆  社説:18歳選挙権 若者こそ政治に参加を  http://mainichi.jp/shimen/news/20150617ddm005070027000c.html?fm=mnm
 ・ 詳細は記事をご覧いただくとして、本件を巡る主な論点は高校での「主権者教育の拡充」と「成人年齢引き下げへの地ならし」であろう。
 ・ 高校進学率が上がったとはいえ、高2、高3の在学率(いや定時出席率というべきか)如何では「主権者教育」を受ける生徒がどれほどなのか?
 ・ 「成人年齢引き下げ」への慎重論/反対論の根幹は何なのか? そこの分析はどこまでできているのか? 単に国際比較だけの「遅れてはいけない」では
   直ぐに有名無実化するだろう。 「国際比較論」の土俵に上がる限り、「日本の特殊性/文化論」が必ず潰しにかかるからだ。
 言うまでも無く、既に若者たちはドップリとインタネット上での「繋がり」と称する口コミ広場に親しみを感じており、新聞やテレビを視聴しようとはしない。facebook, twitter などの無責任でお気楽なチャットこそが「本当の言論」とさえ思っている。そういう場から離れることは友を得られない・友を失うことであり、
 書物に向かう時間を取るのは容易じゃあるまい。<文字より画像、読書軽侮、ニュース/新聞読まず>を格好いいと感じる風潮と、教室での「主権者教育」の心的距離を想像して御覧なさい。 ヴァーチャル広場に心奪われる者にとり、ナマ身の人間世界である政治が相いれないものであることは、他言を要すまい。
 
”ネットでの繋がり”が虚像・幻視だと気づく子供は少ないだろう。ゼロではないが、付和雷同しない強い人間はいつの世も限られている。「主権者教育」がそういった虚像・幻想に打ち勝つためには、教師によほどの魅力/指導力が備わっていないと困難であろう。受験には何の益も無いから、適当に誤魔化されるかもしれない。 
 問われているのは、公立/私立を悶着せず、幾つかある先進的な高校を文科省がどこまで本気でモデルケース化し、実際的な手立てを立てられるか、ではないか?
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