★ 長寿が招く認知症に肯定を http://mainichi.jp/premier/health/entry/index.html?id=20150616med00m010001000c&fm=mnm
認知症を「肯定する」・「従容として受け入れる」とは何をいいたいのか? 眼に留まり読んでみると、要は<世界に誇る現代日本の長寿は、社会と医学が獲得した大きな福音である。長寿になると社会全体がお祝いをする。ところが、長寿に伴って必ず生じてくる認知症という現象には、「困った問題だ」という目でみる。こんな奇妙なことがあるだろうか。長寿を礼賛するなら、認知症も祝福しないと理屈に合わない>という。
言い方を変えると、長寿を望むなら其の裏にくっついてくる認知症も社会全体のコストで受け入れるしかないではないか、ということ。そう、その通りであり、長寿は目出度いプラス面だけではないよ、と当たり前のことを確認している。癌など他の疾病と同じく<予防や早期発見>ができると頭から信じて認知症を扱うのは止めよう、と言っているのである。予防や早期発見なんて諦めよ、と。・・・だが、現代人は それを諦めたか?
若し、である。癌などと同様の歩みで、アルツハイマーが原因の認知症まで医学の進歩で治癒/防止できるように成ったとしよう。 その時、人間にとり「老いる」というのは何を指すのだろう? どういう状態を「老いる」というようになるのか?・・肉体の老いが<筋肉だけでなく頭脳の老い>も意味しなくなり、認知症のなくなる世界。生物個体として「死ぬ」ことが益々遠くなる時。<不老長寿>が王様の念じた合言葉でなくなり、限りなくウソに聞こえなくなる人生とは・・・・。
それは 祝うべき極楽か??
世の高齢者よ、決して間違えてはならない。幾ら長寿に伴う疾病が減る/負担が軽くなり、直ぐには死ななくなると言っても、それは若返ることではない。再び働ける体力を獲得することではなく、増えた老人を若者が積み立てる年金で支えることができなくなり、老人が細々と自分の食い扶持を稼ぐ日々が伸びることである。そういう日々の正当化(自分の心の中での)に努める毎日が増えるということなのだ。 よほど先祖伝来の資産に恵まれた人や、カネの使い道に困るほど若い時に貯めた人は例外だが、大多数の我々凡人には、気が遠くなるほど長い長い日々が増えるのだ。
長寿の探求が「尊厳ある死」と遠ざかる、或は、其の否定に近づくことにならないか? 生物として自然に生まれ自然に死ぬ、この摂理はどうなるのか?
認知症を「肯定する」・「従容として受け入れる」とは何をいいたいのか? 眼に留まり読んでみると、要は<世界に誇る現代日本の長寿は、社会と医学が獲得した大きな福音である。長寿になると社会全体がお祝いをする。ところが、長寿に伴って必ず生じてくる認知症という現象には、「困った問題だ」という目でみる。こんな奇妙なことがあるだろうか。長寿を礼賛するなら、認知症も祝福しないと理屈に合わない>という。
言い方を変えると、長寿を望むなら其の裏にくっついてくる認知症も社会全体のコストで受け入れるしかないではないか、ということ。そう、その通りであり、長寿は目出度いプラス面だけではないよ、と当たり前のことを確認している。癌など他の疾病と同じく<予防や早期発見>ができると頭から信じて認知症を扱うのは止めよう、と言っているのである。予防や早期発見なんて諦めよ、と。・・・だが、現代人は それを諦めたか?
若し、である。癌などと同様の歩みで、アルツハイマーが原因の認知症まで医学の進歩で治癒/防止できるように成ったとしよう。 その時、人間にとり「老いる」というのは何を指すのだろう? どういう状態を「老いる」というようになるのか?・・肉体の老いが<筋肉だけでなく頭脳の老い>も意味しなくなり、認知症のなくなる世界。生物個体として「死ぬ」ことが益々遠くなる時。<不老長寿>が王様の念じた合言葉でなくなり、限りなくウソに聞こえなくなる人生とは・・・・。
それは 祝うべき極楽か??
世の高齢者よ、決して間違えてはならない。幾ら長寿に伴う疾病が減る/負担が軽くなり、直ぐには死ななくなると言っても、それは若返ることではない。再び働ける体力を獲得することではなく、増えた老人を若者が積み立てる年金で支えることができなくなり、老人が細々と自分の食い扶持を稼ぐ日々が伸びることである。そういう日々の正当化(自分の心の中での)に努める毎日が増えるということなのだ。 よほど先祖伝来の資産に恵まれた人や、カネの使い道に困るほど若い時に貯めた人は例外だが、大多数の我々凡人には、気が遠くなるほど長い長い日々が増えるのだ。
長寿の探求が「尊厳ある死」と遠ざかる、或は、其の否定に近づくことにならないか? 生物として自然に生まれ自然に死ぬ、この摂理はどうなるのか?