静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

優先座席: 譲りかた 譲られ方

2014-06-28 15:57:06 | トーク・ネットTalk Net
 今朝、某駅のホームで嫌な光景を目にした。70過ぎに見える男がホーム中央のベンチの前で若い男性に大声を上げているのだ。切れ切れに聞こえる内容から察するに、どうやら自分が座りたいのを気づいてくれなかったと怒っているようだ。無論、駅のベンチは優先席ではないが、何が気に入らなかったのか、しつこい。
  たまりかねたのか近くにいた20代らしき女性が老男に注意すると、更にわけのわからないことをガナリ始めた。と、若い男性の横に座っていた人までが立って「どうぞ」というのにまるで聞こえていない。実に老醜の極みというか、目をそむけたくなる風景のせいで朝の気分が台無しになった。似たような経験をされた方もおありだろう。・・・余談だが、若い男性は日本語を解さないことが乗車時に私はわかった。東洋系の顔だから日本人と決めてかかる老人の無知も困ったものだ。

 この優先座席というもの、調べると発生は意外に古く、1973年旧国鉄中央線・特快/快速に<シルバーシート>の名称で始まり、本格的に私鉄も導入、以後の全国的普及とある。もう40年の歴史だ。後に老人だけでなく身障者・妊婦・負傷中の人へと対象が拡大し名称も<優先席>に変化したが、問題は(譲り方/譲られ方)だ。

 初めて「席をどうぞ」と云われたショックからX?年。何の衒いもなく、礼を述べつつ譲ってもらった席に座れるようになるのは簡単なことではない。それは自分の年齢がXX歳だからとか相手との年齢差の比較ではなく、歩行障害の有無でもなく、その人の持つ様々な道徳観念<長幼の序、公衆マナー、敬老と慈愛>のないまぜになったモノが執らせる態度だと思う。平たく言えば、<思いやりの大切さを押し付けるのではなく、思いやれない相手をも思いやれるか>次第だろう。さもなくば、必ず何がしかの醜さが滲み出るものだ。

 さはさりながら、携帯電話そしてスマートフォンの普及は、視線を周囲に配る余裕を奪い、文字通り(傍に人無きが若き=傍若無人)振る舞いの異常さに気づかせなくした。階段から滑り落ちたり他人と衝突したりする我が身の危険には気づいても、席に座らせてあげたい人の存在は目の前に立っていても視界に入らない。それだけに、今朝の老男のような醜い姿も出てくるのだろう。でも、この男の僻み根性は「俺達が昭和の繁栄を背負ってきたのに、増税なんて!」と高齢化社会に天唾する老人の滑稽さと同類だ。

 やはり私は、席を譲れと迫る醜さだけは慎みたい。どんなに座りたくても、さもしい視線で優先席の前に立つことはすまい。
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食彩のパイオニア # 02

2014-06-28 08:46:42 | 旅行
 承前。 
 「ここまでは能く判った!然し、文化的差別や階級観的偏見は無いつもりだが、どうしても拭えない個人の生理的な選好が食の辺境探究の障害になる場合もある筈だ」、との御説もあろう。
 では、若しあなたが還暦以上なら、自分の親の世代では殆どの人がみたことも食べたこともないモノを自分が初めて口にした云十年前を想い出そう。例えばコカコーラ、サンキストレモン、スパゲティ、ピザ、丸パンに挟むハンバーガー、餃子、焼肉やホルモン焼き、中国・韓国・印度・マレー・トルコ・アフリカ含むエスニック料理などなど。 

 これらのどれも一度も試したことがない人は極めて少ないと思うが、このうちの幾つを、今も日常的に我が家の食卓で食べているだろうか。中高年の間でこれらが若い世代ほど定着していない現実を考えると、食の辺境開拓が、新しく登場した食材や調理法に晒される年齢に影響されることは指摘できそうだ。言い換えれば、舶来か否かを問わず何かを初めて食べるとき、貴方が既に成人ならば青少年の受容度合とは異なるし、食の記憶の長さに従い生理的選好も影響され得るのである。
   
 加えて、生理的選好意識は時の流行や文化的(または民族的)優越感にも左右されていることを忘れてはならない。流行・文化的/民族的優越感に食生活の嗜好を支配されている人は、自分が属す優越的文化では使わない食材や調理法というだけで、実際に食べてみて健康被害や純生理的な拒否が生じるかを試さない。そのような人の「生理的選好」とか「気味悪い!」との一見生理的な拒否反応は、後付けの言い訳に過ぎないのだ。・・・速い話、「あゝ美味しかったわ♪~」と綺麗に平らげた後で食材名を聞くやいなや慌てて顔をしかめ、吐き出そうとするバツの悪い仕草が何よりの証拠である。

 「何もそこまで硬いこと言わなくても!たかが食の好みの話じゃないか。好き嫌いに理由は要らないよ。大袈裟に文化だの何だの持ちださなくても・・」などと片付けるなかれ。
 酒席の座興で飛ばす与太への反応ならそれで好いが、このタイプの人が<食彩の開拓者>をゲテモノ食いなどと心中秘かな侮蔑に及ぶとしたら、それは食に留まらず、あらゆる文化的偏見の芽生えを自他ともに助長する危険を(無意識であれ)冒している。プラス、食べる自由/食べない自由の尊重も。それに私は気付いて欲しいのである。           
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いま靖国から # 20  < 2001年の暗合 >

2014-06-28 08:34:07 | トーク・ネットTalk Net
 ここ何回かの連載で伊藤記者は<朝鮮人特攻兵にこだわった。「祖国と愛する人のため命をささげた英霊の純粋さ」という特攻賛美(及び靖国参拝)の論理は、前提となる国が違っても成り立つのか、吟味したかった>からだという。

 今日のキーワードは2001年。<特攻に心酔し靖国参拝を始めた小泉純一郎の首相就任><高倉健主演映画「ホタル」興業成功による知覧特攻平和会館入場者の回復><「特攻の母」鳥浜トメさん食堂のホタル館復元><9.11.ニューヨーク同時多発テロでのカミカゼ報道>。全てが01年という暗合である。<特攻は21世紀に、それまでとは別格の戦争記憶として再発見された感がある。遺書の世界記憶遺産登録申請(今年は落選)も、この流れ抜きにはなかった>。

 <「純潔な特攻という今の解釈では、海外からは理解されない。負の遺産である特攻がなぜ起きたのか、歴史的背景説明がなさ過ぎる」 静岡大情報学部のシェフタル教授(51)は、南九州市が申請の遺品選びを依頼した有識者の一人。唯一の外国人で、特攻の著書もある。厳しく助言してきたが、担当者は「あれは雑談。委任期間は終わった。戦争責任や特攻の是非には踏み込めない」と聞き流す姿勢だ>。 この聞き流す姿勢が何よりも雄弁に地元や遺族会の構えを示している。いや、保守層全体の姿勢でもある。
 
 <「元々は慰霊の観音堂の付属展示が資料館に発展した。遺族への配慮から、むごい事実をさらすには限界がある。他所の負の遺品も合わせた新たな施設を作って世界遺産に登録されるべきなのだが……」。シェフタル氏が歴史家として思い描く特攻記念館の将来像だ>。然し、すれ違いは埋まらない。<小泉政権で福田康夫官房長官が有識者にまとめさせた、靖国神社に代わる国立無宗教の新たな追悼施設案を連想させるではないか>まさに図星だ。

・・特攻を記憶する場が世界で認められるには「一国顕彰史観」からの脱却が避けられない。慰霊を尊びつつ、他国の視線に耐えうる歴史の検証をいかに構成するか。靖国神社と軍事博物館「遊就館」が抱える問題は「世界の知覧」の課題でもある・・。

 伊藤記者のこの指摘こそ、知覧の特攻だけではなく、日本が自国の戦争の歴史と慰霊を独善的ではない普遍性溢れるものに転換できるか否かの屈折点である。ここを乗り越えなければ、日本はいつまでも「反省しない加害者」の位置づけから抜け出られないだろう。
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