今朝、某駅のホームで嫌な光景を目にした。70過ぎに見える男がホーム中央のベンチの前で若い男性に大声を上げているのだ。切れ切れに聞こえる内容から察するに、どうやら自分が座りたいのを気づいてくれなかったと怒っているようだ。無論、駅のベンチは優先席ではないが、何が気に入らなかったのか、しつこい。
たまりかねたのか近くにいた20代らしき女性が老男に注意すると、更にわけのわからないことをガナリ始めた。と、若い男性の横に座っていた人までが立って「どうぞ」というのにまるで聞こえていない。実に老醜の極みというか、目をそむけたくなる風景のせいで朝の気分が台無しになった。似たような経験をされた方もおありだろう。・・・余談だが、若い男性は日本語を解さないことが乗車時に私はわかった。東洋系の顔だから日本人と決めてかかる老人の無知も困ったものだ。
この優先座席というもの、調べると発生は意外に古く、1973年旧国鉄中央線・特快/快速に<シルバーシート>の名称で始まり、本格的に私鉄も導入、以後の全国的普及とある。もう40年の歴史だ。後に老人だけでなく身障者・妊婦・負傷中の人へと対象が拡大し名称も<優先席>に変化したが、問題は(譲り方/譲られ方)だ。
初めて「席をどうぞ」と云われたショックからX?年。何の衒いもなく、礼を述べつつ譲ってもらった席に座れるようになるのは簡単なことではない。それは自分の年齢がXX歳だからとか相手との年齢差の比較ではなく、歩行障害の有無でもなく、その人の持つ様々な道徳観念<長幼の序、公衆マナー、敬老と慈愛>のないまぜになったモノが執らせる態度だと思う。平たく言えば、<思いやりの大切さを押し付けるのではなく、思いやれない相手をも思いやれるか>次第だろう。さもなくば、必ず何がしかの醜さが滲み出るものだ。
さはさりながら、携帯電話そしてスマートフォンの普及は、視線を周囲に配る余裕を奪い、文字通り(傍に人無きが若き=傍若無人)振る舞いの異常さに気づかせなくした。階段から滑り落ちたり他人と衝突したりする我が身の危険には気づいても、席に座らせてあげたい人の存在は目の前に立っていても視界に入らない。それだけに、今朝の老男のような醜い姿も出てくるのだろう。でも、この男の僻み根性は「俺達が昭和の繁栄を背負ってきたのに、増税なんて!」と高齢化社会に天唾する老人の滑稽さと同類だ。
やはり私は、席を譲れと迫る醜さだけは慎みたい。どんなに座りたくても、さもしい視線で優先席の前に立つことはすまい。
たまりかねたのか近くにいた20代らしき女性が老男に注意すると、更にわけのわからないことをガナリ始めた。と、若い男性の横に座っていた人までが立って「どうぞ」というのにまるで聞こえていない。実に老醜の極みというか、目をそむけたくなる風景のせいで朝の気分が台無しになった。似たような経験をされた方もおありだろう。・・・余談だが、若い男性は日本語を解さないことが乗車時に私はわかった。東洋系の顔だから日本人と決めてかかる老人の無知も困ったものだ。
この優先座席というもの、調べると発生は意外に古く、1973年旧国鉄中央線・特快/快速に<シルバーシート>の名称で始まり、本格的に私鉄も導入、以後の全国的普及とある。もう40年の歴史だ。後に老人だけでなく身障者・妊婦・負傷中の人へと対象が拡大し名称も<優先席>に変化したが、問題は(譲り方/譲られ方)だ。
初めて「席をどうぞ」と云われたショックからX?年。何の衒いもなく、礼を述べつつ譲ってもらった席に座れるようになるのは簡単なことではない。それは自分の年齢がXX歳だからとか相手との年齢差の比較ではなく、歩行障害の有無でもなく、その人の持つ様々な道徳観念<長幼の序、公衆マナー、敬老と慈愛>のないまぜになったモノが執らせる態度だと思う。平たく言えば、<思いやりの大切さを押し付けるのではなく、思いやれない相手をも思いやれるか>次第だろう。さもなくば、必ず何がしかの醜さが滲み出るものだ。
さはさりながら、携帯電話そしてスマートフォンの普及は、視線を周囲に配る余裕を奪い、文字通り(傍に人無きが若き=傍若無人)振る舞いの異常さに気づかせなくした。階段から滑り落ちたり他人と衝突したりする我が身の危険には気づいても、席に座らせてあげたい人の存在は目の前に立っていても視界に入らない。それだけに、今朝の老男のような醜い姿も出てくるのだろう。でも、この男の僻み根性は「俺達が昭和の繁栄を背負ってきたのに、増税なんて!」と高齢化社会に天唾する老人の滑稽さと同類だ。
やはり私は、席を譲れと迫る醜さだけは慎みたい。どんなに座りたくても、さもしい視線で優先席の前に立つことはすまい。