静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

書評: # 011-3/4  望郷の歌&誰のために  <石光 真清>

2014-06-14 21:21:23 | 書評
 第3作は、日露戦役に戦闘部隊ではなく参謀司令付き伝令として仕えた石光氏の動き、そして、戦い終ったあとも諜報活動時代に育てたシガラミに取り込まれたともいうべき度重なる事業の失敗で帰国後の喪失感に満ちた生活を描いている。時は第1次世界大戦勃発までホンの束の間の平穏に恵まれ、題名も「望郷の歌」なのだが、この頃から石光氏の生き方への悩みと困惑が匂い始めるようだ。

 満州各地での事業継続は、石光にとり、個人資産蓄積と同時に新情勢に備える情報網の維持策の方便でもあった。それが時には仇となり、危ない目に何度も会うのだが、どうも私のみるところ、氏は義侠心というのか、底抜けの奉仕精神に恵まれすぎた人物なので、日本に帰り今度こそ家族を大切にしようと涙を流す端から軍部の誘いを断りきれず、何度も新しい任務をいそいそと受けるのだ。それが家庭を顧みぬ所業だと反省する暇はない。悪く言えば、とても重宝する便利屋だと陸軍に使われた。
 
 後悔を繰り返し、ようやく世田谷村三宿にお膳立てされた郵便局の経営で家族の生計は何とか確保したものの、第1次大戦とロシア革命・内戦でまたもや軍への義理といいつつ満州へ乗り込む。第4作は、この時期のドタバタを描く大変貴重な資料だ。個人の歩みとして掻い摘んで言うなら、東シベリアにおけるボルシェヴィキの基盤確立を阻止し、共産主義ではない民主共和国ロシアを秘かに支持する石光の働きかけは日本軍部中央に理解されず、タイミングを失したシベリア出兵が東部の非共産化千載一遇のチャンスを逃してしまう。

 かくして、石光個人の晩年は公私ともども自嘲と悔恨に苛まれ、「誰のために」自分は生きたのかを問う虚しさで終わる。実に酷い歩みだ。 お国のため、と疑うこと無く幼年学校から走ってきた人生。石光だけでなく、殆どの市民がそう信じて営まれていた国。ここには、個人の人生と幸せをないがしろにされた、悔いても悔やみきれない男の嘆きが聞こえる。
 
 <波乱万丈の男のドラマ>などと劇画扱タッチでもてはやす風潮は昔から今も続く。表面だけ追えば確かに石光真清の生涯は絵になる。事実、NHKでTVドラマにもちゃっかり作られているので、ご覧になった方もあるだろう。石光本人の痛恨の想いとはかけ離れたところで、劇場型アジテーションに使われやすい手記だ。

 戦争や謀略うごめくなかを立ち回った石光氏の状況に、世界中を飛び回る現代企業戦士の苦労と涙を比定するのはナンセンスかもしれない。だが、妻子に夫/父としてなすべきことが充分できないまま這いずり廻る男の苦しさ・虚しさ・愚かさは読むにつれ痛いほどわかるのだ。 

  私は涙の溢れるまま天井を仰ぎ、「誰のために」と呟いた。
コメント
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