“食彩のパイオニア(開拓者)”とは、或る食文化内に定着した食材の範囲内で味や調理の工夫を追究するよりは、味の幅と調理法のヴァリエーション探しを異文化の食材まで拡げ、(食彩=食のいろどり)を追い求める人を指す私の造語である。
例えば、魚介類をナマ食する習慣がない文化に生きてきた人が刺身や握り鮨を食べてみる経験。その人は食彩の辺境を拡げたことになるが、仮にその人気が高まり、同じ文化圏で食べる人口が増え、習慣として定着するならば、もはや刺し身や握り鮨は「奇食・珍食」でなくなる。他方、同じ文化圏でローストビーフは好きでも魚のナマ食に馴染めない人にとって刺身は永遠に珍食・奇食のままであり、食彩も辺境も存在しない。
さて、食のいろどりの探求が何よりもフトコロ具合と深く結びついていることは周知のとおりだ。王侯貴族だけが幅広く食の贅を尽くすことのできた各国の食文化発展史を見れば容易に肯ける。それはフランスや中国ばかりでなく、日本も同じである。
日本では上流階級が食した物を「上手(じょうて)」と呼び、それに対し庶民が慢性的食糧不足または戦争或いは飢饉等の非常時に際し、食べられるものなら何でも口にした対象も含め「下手(げて)」と称した。「ゲテモノ」とはここからきた言葉であり、「ゲテモノ食い」と嫌悪軽蔑する心理は、非常時の忌まわしい記憶と、何時の世も消えることのない階級意識が相俟つ偏見のなすものである。
人が何を食べ、何を食べないのか。その選択に潜む謎を、人類の産業発展史から宗教戒律形成への織り込みをも視野に含む、社会学的研究で取り組んだ文化人類学者マーヴィン・ハリスに「食と文化の謎」(板橋作美(訳)岩波現代文庫)がある。関心の有る方にはお薦めしたい。《著者は基督教文化圏に身を置くゆえ轟々たる異端批判を浴びたが、唯物論的視点の誇張を除けば、宗教的バイアスのない者には至極まとも且つ真面目な著述だと私には思える》。
次に、食の伝播は地理的距離ではなく、寧ろ文化の洗練度及び国力の強弱と結びつくものであるだけに、その時々で異文化間の優劣意識が食彩探求を左右する事実も否めない。階級的優越意識に加え政治的な力関係も異なる食文化に対する偏見を助け、食彩の豊かさを求める動きを妨げてきたのは万国共通である。それは皮肉にも、経済のグローバル化と科学文明の恩恵浸透がここまで進んだのに、この偏見ゆえ、決して食文化の伝統が今も地球から消滅しないことの証左でもある。 《 つづく 》
例えば、魚介類をナマ食する習慣がない文化に生きてきた人が刺身や握り鮨を食べてみる経験。その人は食彩の辺境を拡げたことになるが、仮にその人気が高まり、同じ文化圏で食べる人口が増え、習慣として定着するならば、もはや刺し身や握り鮨は「奇食・珍食」でなくなる。他方、同じ文化圏でローストビーフは好きでも魚のナマ食に馴染めない人にとって刺身は永遠に珍食・奇食のままであり、食彩も辺境も存在しない。
さて、食のいろどりの探求が何よりもフトコロ具合と深く結びついていることは周知のとおりだ。王侯貴族だけが幅広く食の贅を尽くすことのできた各国の食文化発展史を見れば容易に肯ける。それはフランスや中国ばかりでなく、日本も同じである。
日本では上流階級が食した物を「上手(じょうて)」と呼び、それに対し庶民が慢性的食糧不足または戦争或いは飢饉等の非常時に際し、食べられるものなら何でも口にした対象も含め「下手(げて)」と称した。「ゲテモノ」とはここからきた言葉であり、「ゲテモノ食い」と嫌悪軽蔑する心理は、非常時の忌まわしい記憶と、何時の世も消えることのない階級意識が相俟つ偏見のなすものである。
人が何を食べ、何を食べないのか。その選択に潜む謎を、人類の産業発展史から宗教戒律形成への織り込みをも視野に含む、社会学的研究で取り組んだ文化人類学者マーヴィン・ハリスに「食と文化の謎」(板橋作美(訳)岩波現代文庫)がある。関心の有る方にはお薦めしたい。《著者は基督教文化圏に身を置くゆえ轟々たる異端批判を浴びたが、唯物論的視点の誇張を除けば、宗教的バイアスのない者には至極まとも且つ真面目な著述だと私には思える》。
次に、食の伝播は地理的距離ではなく、寧ろ文化の洗練度及び国力の強弱と結びつくものであるだけに、その時々で異文化間の優劣意識が食彩探求を左右する事実も否めない。階級的優越意識に加え政治的な力関係も異なる食文化に対する偏見を助け、食彩の豊かさを求める動きを妨げてきたのは万国共通である。それは皮肉にも、経済のグローバル化と科学文明の恩恵浸透がここまで進んだのに、この偏見ゆえ、決して食文化の伝統が今も地球から消滅しないことの証左でもある。 《 つづく 》