(ドナルド・キーンさん)
① ""ドナルド・キーンさん “生前最後の取材”で語ったこととは""
2019年2月24日 13時30分、おくやみ
ドナルド・キーンさんは、日本を代表する2人の文豪、三島由紀夫と川端康成について特集したNHKの「クローズアップ現代+」の取材に対して先月、文章で回答を寄せ、代理人によりますと、これが生前最後の取材対応になったということです。
ではこの番組に向けて、キーンさんへのインタビューの取材依頼を行っていましたが、キーンさんは、去年秋から体調が悪化して病院に入院していました。
一時退院していた時も体力が万全ではなかったため、インタビューは実現しませんでしたが、質問事項への回答を養子のキーン誠己さんが直接聞き取る形で取材に応じ、先月7日に文章で回答を寄せていました。
質問では、1968年に日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成と、同じ時期にノーベル賞の候補となっていた三島由紀夫について尋ねました。
特に親交が深かった三島由紀夫とノーベル賞の関係については「三島さんは、本当は自分が欲しかったけれど、川端先生の受賞を純粋に喜んだと思います。三島さんにとって川端先生は、尊敬する恩師でしたから。川端先生の受賞が自決することの引き金だった、という考え方もあるようですが、そうとは思えません。個人的には三島さんに受賞して欲しかったので、必ずチャンスは巡ってきて受賞できたはずだったと思っていますからもっと生きて欲しかったと思います。夢のような話ですが、三島さんが生き返って受賞して欲しいと思うことさえあります」と語っていました。
また、川端康成については「川端先生の死について、ノーベル文学賞の受賞者としてレベルに達した作品を書けなかったからその苦しみに耐えかねて川端先生は死を選ばれた、ということも考えられます。私自身もそう考えたこともありました。しかし川端先生は、美に対してはかり知れないほど繊細で、優れた感性をお持ちでした。そんなことに死を選ばれた原因があるのでは、と思うこともありますが、みな想像にしか過ぎません。川端先生が私に示して下さった慈愛に充ちた温かさは今もって身に沁みて感じます」と振り返っていました。
② ドナルド・キーン 、wikipedia
(2002年10月、東京都の自宅にて)
※ ドナルド・キーンさんの一生は一冊の長編小説になるほど波乱万丈で数奇な運命の
方です。
謹んでお悔やみ申し上げます。
🌹 ドナルド・キーン(1922年6月18日 - 2019年2月24日[1])は、アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者。日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作がある。日本国籍取得後、本名を出生名の「Donald Lawrence Keene」から、カタカナ表記の「キーン ドナルド」へと改めた。通称(雅号)として漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)を使う[2]。
コロンビア大学名誉教授。日本文化を欧米へ紹介して数多くの業績があり数多くの大学や研究施設から様々な受賞経歴を持つ。称号は東京都北区名誉区民[3]、新潟県柏崎市名誉市民、ケンブリッジ大学、東北大学、杏林大学ほかから名誉博士。賞歴には全米文芸評論家賞受賞など。勲等は勲二等。2008年に文化勲章受章。また、日本ペンクラブの名誉会員であり、2012年11月26日の日本ペンクラブ創立記念懇談会では演説を行った[4]。
☆彡 来歴[編集]
🌹 生い立ち[編集]
ニューヨーク市ブルックリン区で貿易商の家庭に生まれる。9歳のとき父と共にヨーロッパを旅行し、このことがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになる。両親の離婚により母子家庭に育ち、経済的困難に遭遇したが、奨学金を受けつつ飛び級を繰り返し、1938年(昭和13年)、16歳でコロンビア大学文学部に入学。
同校でマーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングの薫陶を受ける。同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中国人学生と親しくなり、そのことがきっかけで中国語、特に漢字の学習に惹かれるに至る。
🌹 第二次世界大戦[編集]
1940年(昭和15年)、厚さに比して安価だったというだけの理由でタイムズスクエアで49セントで購入したアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』に感動。漢字への興味の延長線上で日本語を学び始めると共に、角田柳作のもとで日本思想史を学び、日本研究の道に入る。コロンビア大学にて、1942年(昭和17年)に学士号を取得。
コロンビア大学当時はフランス文学も研究していたが、ともに日本語を学習したポール・ブルームから、「フランスに比べて日本は研究者が少ない」という理由で日本を研究することを薦められたという[5][6]。
1941年12月の日米間の開戦に伴ってアメリカ海軍の日本語学校に入学し、長沼直兄の『標準日本語讀本』などで日本語教育の訓練を積んだのち情報士官として海軍に勤務し、太平洋戦線で日本語の通訳官を務めた。
1943年(昭和18年)4月、通訳官として訊問した最初の捕虜が、のちに作家となった豊田穣である。豊田は海軍のパイロットとしてい号作戦に参加しラバウルに移動、4月7日、ブイン基地から九九艦爆を操縦しガダルカナル島飛行場攻撃を行った際、ソロモン方面で撃墜され、アメリカ軍の捕虜になった[7]。
のち、コテージ作戦に同行し、キスカ島撤退作戦の際に日本軍の軍医がいたずらで残した『ペスト患者収容所』と書かれた立て看板を命令に応じて素直に翻訳したため、アメリカ軍は大混乱となり作戦に混乱を生じた。アメリカ軍部隊は緊急に本国に大量のペスト用ワクチンを発注した。また、これが元でキーン自身もペスト感染を疑われ、戦線後方に送られた。彼がこれがいたずらだったと知ったのはそれからかなり時間が経ってからのことであった。その後、沖縄攻略作戦に従軍。通訳時代からの友人にオーティス・ケーリ(のち同志社大学名誉教授)やアイヴァン・モリスがいる[8]。
🌹 研究者として[編集]
復員後コロンビア大学に戻り、角田柳作のもとで1947年(昭和22年)に修士号を取得。同年、ハーヴァード大学に転じ、セルゲイ・エリセーエフの講義を受ける。1948年(昭和23年)から5年間ケンブリッジ大学に学び、同時に講師を務める。同校ではバートランド・ラッセルに気に入られ、飲み友達として交際した。このころ、E・M・フォースターやアーサー・ウェイリーとも交際。この間、1949年にコロンビア大学大学院東洋研究科博士課程を修了。
1953年(昭和28年)、京都大学大学院に留学。京都市東山区今熊野の下宿にて永井道雄と知り合い、生涯の友となり、その後は永井の紹介で嶋中鵬二とも生涯の友となった。1955年(昭和30年)からコロンビア大学助教授、のちに教授を経て、1992年(平成4年)に同大学名誉教授となった(1987年(昭和62年)から1989年(平成元年)の2年間は国際日本文化研究センター教授も併任)。
1982年(昭和57年)から1992年(平成4年)まで朝日新聞社客員編集委員。1986年(昭和61年)にはコロンビア大学に自らの名を冠した「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立された。1999年(平成11年)から「ドナルド・キーン財団」理事長。2006年(平成18年)11月1日、源氏物語千年紀の呼びかけ人となる。
2008年、文化勲章受章。2014年(平成26年)に京都名誉観光大使。2017年(平成29年)から田原市博物館名誉館長[9][10]。
🌹 東日本大震災と日本国籍取得[編集]
2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災を契機に、コロンビア大学を退職後は、日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明した[11]。2011年(平成23年)9月1日には、永住のため来日し『家具などを全部処分して、やっと日本に来ることができて嬉しい。今日は曇っているが、雲の合間に日本の畑が見えて美しいと思った』と流暢な日本語で感慨を語った。また東北を訪れ仙台市の講演など被災地を訪問して被災者を激励したいとも話している[12][13]。
ドナルド・キーン氏は東京外国語大学の名誉教授でもあるが、『東京外語会会報』への寄稿では「実は東日大震災が起こる前から日本への永住を希望していた」とのことである。第二世界大戦中、軍国主義の日本と浮世絵文化の美しい日本に戸惑っていたが、捕虜の日記の中に「ふるさとに帰りたい」という文章を見つけ日本人の葛藤する心が分かったそうである。3月10日の空襲の翌朝、家を焼かれ家族を失った人々が上野駅で整然と疎開列車を待つ姿を見て「私はこの人々と生きこの人々と共に死にたい」という若い作家の文章に感銘を受けたそうである[14]。
雅号の鬼怒鳴門は鬼怒川と鳴門を組み合わせて作った当て字である[2]。2012年(平成24年)11月17日、トーストマスターズ・インターナショナル日本支部(District76)は、「このキーンさんの行動に対して、「日本国籍を取り余生を日本で過ごす」という『言葉』(コミュニケーション)と、日本に移住した『行動』(リーダーシップ)により、希望を失っていた日本人に深い感銘と勇気を与えた」という理由で、第一回コミュニケーション・リーダーシップ賞を贈った。
2013年(平成25年)9月21日、菓子メーカー・ブルボンが、新潟県柏崎市にキーンの業績を紹介する記念館「ドナルド・キーン・センター柏崎」をオープンした[15][16][17]。
2019年(平成31年)2月24日6時21分(JST)、心不全のため東京都の病院で死去[18]。96歳没。