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森羅万象・考える葦  インターネットは一つの小宇宙。想像、時には妄想まで翼を広げていきたい。

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【nhk news web】 2月24日10:17分、""村上春樹さん「理想は少しむちゃでも抱き続けたほうがいい」""

2019-02-24 14:13:32 | 読書&趣味の語学 ; 文学・詩集、英語・ドイツ語、ちょびっと中国語… 

(村上春樹氏フランスで講演)




① ""村上春樹さん「理想は少しむちゃでも抱き続けたほうがいい」""

2019年2月24日 10時17分、エンタメ

 世界的な人気作家の村上春樹さんがフランスで講演し、「理想は少しむちゃなものでも抱き続けたほうがいい」と述べ、若い人たちにエールを送りました。

村上春樹さんは、フランスで日本文化を紹介する「ジャポニスム2018」にあわせた舞台「海辺のカフカ」の公演の最終日を前に、23日、パリで講演しました。

村上さんは小説を書き始めて40年がたったことをユーモアを交えて振り返るとともに、日本を含め世界各地で学生運動が盛んだった1960年代のみずからの青年時代について語りました。

そして、今の若い世代は希望を持ちにくくなっていると指摘したうえで「理想は少しむちゃなものでも抱き続けたほうがいいと思う。でも、つぶされたときにどういうふうに自分が行動していくかが大事な要素だ」と述べ、若い人たちにエールを送りました。

村上さんが公の場で語ることは珍しく、会場には、およそ560人が集まり、講演に聞き入っていました。

講演を聴いた村上さんの大ファンだというパリの男性は、「村上さんが若い人たちにどんな思いを抱いているか聴けて、興味深かったです」と話していました。

【nhk news web】 2月24日13:30分、""ドナルド・キーンさん “生前最後の取材”で語ったこととは""

2019-02-24 14:03:33 | 読書&趣味の語学 ; 文学・詩集、英語・ドイツ語、ちょびっと中国語… 

(ドナルド・キーンさん)




① ""ドナルド・キーンさん “生前最後の取材”で語ったこととは""

2019年2月24日 13時30分、おくやみ

ドナルド・キーンさんは、日本を代表する2人の文豪、三島由紀夫と川端康成について特集したNHKの「クローズアップ現代+」の取材に対して先月、文章で回答を寄せ、代理人によりますと、これが生前最後の取材対応になったということです。

ではこの番組に向けて、キーンさんへのインタビューの取材依頼を行っていましたが、キーンさんは、去年秋から体調が悪化して病院に入院していました。

一時退院していた時も体力が万全ではなかったため、インタビューは実現しませんでしたが、質問事項への回答を養子のキーン誠己さんが直接聞き取る形で取材に応じ、先月7日に文章で回答を寄せていました。

質問では、1968年に日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成と、同じ時期にノーベル賞の候補となっていた三島由紀夫について尋ねました。

特に親交が深かった三島由紀夫とノーベル賞の関係については「三島さんは、本当は自分が欲しかったけれど、川端先生の受賞を純粋に喜んだと思います。三島さんにとって川端先生は、尊敬する恩師でしたから。川端先生の受賞が自決することの引き金だった、という考え方もあるようですが、そうとは思えません。個人的には三島さんに受賞して欲しかったので、必ずチャンスは巡ってきて受賞できたはずだったと思っていますからもっと生きて欲しかったと思います。夢のような話ですが、三島さんが生き返って受賞して欲しいと思うことさえあります」と語っていました。

また、川端康成については「川端先生の死について、ノーベル文学賞の受賞者としてレベルに達した作品を書けなかったからその苦しみに耐えかねて川端先生は死を選ばれた、ということも考えられます。私自身もそう考えたこともありました。しかし川端先生は、美に対してはかり知れないほど繊細で、優れた感性をお持ちでした。そんなことに死を選ばれた原因があるのでは、と思うこともありますが、みな想像にしか過ぎません。川端先生が私に示して下さった慈愛に充ちた温かさは今もって身に沁みて感じます」と振り返っていました。


② ドナルド・キーン 、wikipedia

 (2002年10月、東京都の自宅にて)




 ※ ドナルド・キーンさんの一生は一冊の長編小説になるほど波乱万丈で数奇な運命の
  方です。
   謹んでお悔やみ申し上げます。

🌹 ドナルド・キーン(1922年6月18日 - 2019年2月24日[1])は、アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者。日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作がある。日本国籍取得後、本名を出生名の「Donald Lawrence Keene」から、カタカナ表記の「キーン ドナルド」へと改めた。通称(雅号)として漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)を使う[2]。

コロンビア大学名誉教授。日本文化を欧米へ紹介して数多くの業績があり数多くの大学や研究施設から様々な受賞経歴を持つ。称号は東京都北区名誉区民[3]、新潟県柏崎市名誉市民、ケンブリッジ大学、東北大学、杏林大学ほかから名誉博士。賞歴には全米文芸評論家賞受賞など。勲等は勲二等。2008年に文化勲章受章。また、日本ペンクラブの名誉会員であり、2012年11月26日の日本ペンクラブ創立記念懇談会では演説を行った[4]。

 ☆彡 来歴[編集]

 🌹 生い立ち[編集]

ニューヨーク市ブルックリン区で貿易商の家庭に生まれる。9歳のとき父と共にヨーロッパを旅行し、このことがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになる。両親の離婚により母子家庭に育ち、経済的困難に遭遇したが、奨学金を受けつつ飛び級を繰り返し、1938年(昭和13年)、16歳でコロンビア大学文学部に入学。

同校でマーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングの薫陶を受ける。同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中国人学生と親しくなり、そのことがきっかけで中国語、特に漢字の学習に惹かれるに至る。

🌹 第二次世界大戦[編集]

1940年(昭和15年)、厚さに比して安価だったというだけの理由でタイムズスクエアで49セントで購入したアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』に感動。漢字への興味の延長線上で日本語を学び始めると共に、角田柳作のもとで日本思想史を学び、日本研究の道に入る。コロンビア大学にて、1942年(昭和17年)に学士号を取得。

コロンビア大学当時はフランス文学も研究していたが、ともに日本語を学習したポール・ブルームから、「フランスに比べて日本は研究者が少ない」という理由で日本を研究することを薦められたという[5][6]。

1941年12月の日米間の開戦に伴ってアメリカ海軍の日本語学校に入学し、長沼直兄の『標準日本語讀本』などで日本語教育の訓練を積んだのち情報士官として海軍に勤務し、太平洋戦線で日本語の通訳官を務めた。

1943年(昭和18年)4月、通訳官として訊問した最初の捕虜が、のちに作家となった豊田穣である。豊田は海軍のパイロットとしてい号作戦に参加しラバウルに移動、4月7日、ブイン基地から九九艦爆を操縦しガダルカナル島飛行場攻撃を行った際、ソロモン方面で撃墜され、アメリカ軍の捕虜になった[7]。

のち、コテージ作戦に同行し、キスカ島撤退作戦の際に日本軍の軍医がいたずらで残した『ペスト患者収容所』と書かれた立て看板を命令に応じて素直に翻訳したため、アメリカ軍は大混乱となり作戦に混乱を生じた。アメリカ軍部隊は緊急に本国に大量のペスト用ワクチンを発注した。また、これが元でキーン自身もペスト感染を疑われ、戦線後方に送られた。彼がこれがいたずらだったと知ったのはそれからかなり時間が経ってからのことであった。その後、沖縄攻略作戦に従軍。通訳時代からの友人にオーティス・ケーリ(のち同志社大学名誉教授)やアイヴァン・モリスがいる[8]。

🌹 研究者として[編集]

復員後コロンビア大学に戻り、角田柳作のもとで1947年(昭和22年)に修士号を取得。同年、ハーヴァード大学に転じ、セルゲイ・エリセーエフの講義を受ける。1948年(昭和23年)から5年間ケンブリッジ大学に学び、同時に講師を務める。同校ではバートランド・ラッセルに気に入られ、飲み友達として交際した。このころ、E・M・フォースターやアーサー・ウェイリーとも交際。この間、1949年にコロンビア大学大学院東洋研究科博士課程を修了。

1953年(昭和28年)、京都大学大学院に留学。京都市東山区今熊野の下宿にて永井道雄と知り合い、生涯の友となり、その後は永井の紹介で嶋中鵬二とも生涯の友となった。1955年(昭和30年)からコロンビア大学助教授、のちに教授を経て、1992年(平成4年)に同大学名誉教授となった(1987年(昭和62年)から1989年(平成元年)の2年間は国際日本文化研究センター教授も併任)。

1982年(昭和57年)から1992年(平成4年)まで朝日新聞社客員編集委員。1986年(昭和61年)にはコロンビア大学に自らの名を冠した「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立された。1999年(平成11年)から「ドナルド・キーン財団」理事長。2006年(平成18年)11月1日、源氏物語千年紀の呼びかけ人となる。

2008年、文化勲章受章。2014年(平成26年)に京都名誉観光大使。2017年(平成29年)から田原市博物館名誉館長[9][10]。

🌹 東日本大震災と日本国籍取得[編集]

2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災を契機に、コロンビア大学を退職後は、日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明した[11]。2011年(平成23年)9月1日には、永住のため来日し『家具などを全部処分して、やっと日本に来ることができて嬉しい。今日は曇っているが、雲の合間に日本の畑が見えて美しいと思った』と流暢な日本語で感慨を語った。また東北を訪れ仙台市の講演など被災地を訪問して被災者を激励したいとも話している[12][13]。

ドナルド・キーン氏は東京外国語大学の名誉教授でもあるが、『東京外語会会報』への寄稿では「実は東日大震災が起こる前から日本への永住を希望していた」とのことである。第二世界大戦中、軍国主義の日本と浮世絵文化の美しい日本に戸惑っていたが、捕虜の日記の中に「ふるさとに帰りたい」という文章を見つけ日本人の葛藤する心が分かったそうである。3月10日の空襲の翌朝、家を焼かれ家族を失った人々が上野駅で整然と疎開列車を待つ姿を見て「私はこの人々と生きこの人々と共に死にたい」という若い作家の文章に感銘を受けたそうである[14]。

雅号の鬼怒鳴門は鬼怒川と鳴門を組み合わせて作った当て字である[2]。2012年(平成24年)11月17日、トーストマスターズ・インターナショナル日本支部(District76)は、「このキーンさんの行動に対して、「日本国籍を取り余生を日本で過ごす」という『言葉』(コミュニケーション)と、日本に移住した『行動』(リーダーシップ)により、希望を失っていた日本人に深い感銘と勇気を与えた」という理由で、第一回コミュニケーション・リーダーシップ賞を贈った。

2013年(平成25年)9月21日、菓子メーカー・ブルボンが、新潟県柏崎市にキーンの業績を紹介する記念館「ドナルド・キーン・センター柏崎」をオープンした[15][16][17]。

2019年(平成31年)2月24日6時21分(JST)、心不全のため東京都の病院で死去[18]。96歳没。


【nhk news web】 2月10日12:41分、""作家の堺屋太一さん死去 小説「団塊の世代」""

2019-02-10 15:55:37 | 読書&趣味の語学 ; 文学・詩集、英語・ドイツ語、ちょびっと中国語… 

(画像引用:asahi.com)




① ""作家の堺屋太一さん死去 小説「団塊の世代」""

2019年2月10日 12時41分 、おくやみ

 「団塊の世代」などの小説で知られ、平成10年から2年間、経済企画庁長官も務めるなど、政治や経済、文芸など、幅広い分野で活躍した堺屋太一さんが、8日多臓器不全のため亡くなりました。83歳でした。

堺屋さんは大阪市の出身で、東京大学経済学部を卒業後、昭和35年に当時の通産省に入り、昭和45年の大阪万博やその後の沖縄海洋博の開催に携わりました。

在職中の昭和50年に、石油危機を描いた小説、「油断!」で作家としてデビューし、よくとしには1940年代後半に生まれた第1次ベビーブーム世代が将来の日本にもたらす影響を予測した小説、「団塊の世代」がベストセラーになりました。

また、歴史小説も数多く手がけ、忠臣蔵を題材にした「峠の群像」や、豊臣秀吉の生涯を描いた「秀吉夢を超えた男」は、NHK大河ドラマの原作にもなりました。

そして、平成10年から2年間、民間人の閣僚として経済企画庁長官を務めたほか、平成25年には安倍内閣の内閣官房参与に任命されるなど、政治や経済、それに文芸など幅広い分野で活躍してきました。

さらに、歴史を、経済から捉える新たな視点を提示したことなどで平成16年にNHK放送文化賞を受賞したほか、平成24年には旭日大綬章を受章しました。堺屋さんは先月、体調を崩して入院し、治療を受けていましたが、おととい8日、多臓器不全のため東京都内の病院で亡くなったいうことです。83歳でした。

 ☆ 経済企画庁長官としても手腕を発揮

堺屋太一さんは、小渕内閣や森内閣で、2年余りにわたって経済企画庁長官を務め、金融危機で景気が低迷する中、経済対策の取りまとめなどに手腕を発揮しました。

在任中の平成11年度の経済白書では、みずから執筆した序文の中で、右肩上がりの日本経済を支えてきた前提条件が崩れていることを鋭く指摘したうえで、企業が抱える雇用と設備、それに債務の「三つの過剰」を処理する必要性を強調しました。

また、平成12年の年末から開かれたインターネット上の博覧会、「インパク」の開催準備にあたったほか、景気の実態をより的確に把握するため、スーパーの店員やタクシーの運転手といった現場で働く人たちに実感を聞く「景気ウォッチャー調査」も考案しました。


 ☆ 「大阪・関西万博」の誘致にも尽力

また、堺屋さんは、2025年に開催が決まった「大阪・関西万博」の誘致にも力を尽くしてきました。

堺屋さんは、昭和35年に当時の通産省に入省し、昭和45年の大阪万博では万国博覧会準備室などの担当として、企画や開催に携わりました。2025年の「大阪・関西万博」でも、万博誘致に向けて大阪府にアドバイスをしていたほか、去年は、東京 新宿区にある自身の自宅を改築した美術館で万博の歴史をテーマにした展示会を開くなど、国内での機運の盛り上げにも努めていました。


 ☆ 自民 岸田政務調査会長「本当にさみしい」

自民党の岸田政務調査会長は、記者団に対し、「私の父が、旧通産省出身ということもあり、公私にわたって大変親しくさせてもらい、私自身、いろいろなところで、ご指導をいただいた。本当にさみしいものを感じている。ご冥福をお祈りするとともに、さまざまなご指導に改めて心から感謝を申し上げたい」と述べました。


 ☆ 田原総一朗さん「経済を見る目とても信頼してた」

堺屋太一さんが亡くなったことを受けて、ジャーナリストの田原総一朗さんはツイッターを通じて、「堺屋太一さんに初めて会ったのは、まだ彼が通産官僚の時代だった。彼は大阪万博を企画し、実現した人物で、『油断』という小説は極めて迫力があった。日本の経済を見る目は確かで、僕はとても信頼していた」とコメントしました。


 ☆ 立民枝野代表「昭和は遠くなりにけりを実感」

立憲民主党の枝野代表は、長崎県大村市で記者団に対し、「直接には深い接点があったわけではないが、ニュースを聞いて文字どおり、『昭和は遠くなりにけり』ということを実感した。謹んで哀悼の意を表したい」と述べました。


 ☆ 三田誠広さん「アイデアと行動力特 異な才能の人」

堺屋さんへの数年間にわたる取材をもとに、大阪万博への関わりなどその半生をまとめた「堺屋太一の青春と70年万博」の著者で、芥川賞作家の三田誠広さんは、「“万博”ということばを誰も知らない時期から、ふるさと大阪の経済的な地盤沈下を食い止めるため、役人としてプランを立て実現にまで至ったことには驚かされます。また、『団塊の世代』など、問題意識をすぐに作品化するという、アイデアと行動力が結び付いた特異な才能をお持ちの方でした。新たな大阪万博に向けてこれからもお忙しくなるだろうと思っていたので、突然の訃報に驚いています」とコメントしています。


 ☆ 堺屋太一さんを惜しむ声 東京新橋

堺屋太一さんが亡くなったことについて、東京の新橋駅前では、惜しむ声が聞かれました。

東京の51歳の男性は、「時代を的確にとらえた鋭い批評は参考になっていたので、非常に惜しいです。これからも混迷を深める時代のなかで、堺屋さんにご助言をいただきたかったです」と話していました。

鎌倉市の66歳の男性は、「何冊か本を読んでいてファンだったんですが、残念です。いろいろな分野に詳しくて、論点がはっきりしていて分かりやすかった印象があります。一つの時代が終わった感じがします」と話していました。

また、東京の76歳の男性は、「大阪の万博や、役人で活躍したのが印象に残っていますが、残念です。あと10年くらいは生きてもらいたかったです」と話していました。

金沢市の女性は、「惜しい方を亡くしたと思います。団塊の世代ということばは、時代をうまく言い当てたことばだったと思います」と話していました。

【nhk news web】 1月26日04:13分、""「魔女の宅急便」など 角野栄子さんの児童文学館建設へ""

2019-01-26 17:21:23 | 読書&趣味の語学 ; 文学・詩集、英語・ドイツ語、ちょびっと中国語… 

(角野栄子さん)




① ""「魔女の宅急便」など 角野栄子さんの児童文学館建設へ""

2019年1月26日 4時31分

「魔女の宅急便」などの作品を手がけた児童文学作家の角野栄子さんの世界観を伝える児童文学館が2022年度のオープンを目指して、地元の東京 江戸川区に建設される見通しになりました。

児童文学作家の角野栄子さん(84)は、「魔女の宅急便」や「小さなおばけ」シリーズなど、250以上の作品を手がけ、去年、児童文学の分野で世界的に最も権威のある「国際アンデルセン賞」の作家賞に選ばれ、日本人としては3人目の受賞となりました。

こうした功績や世界観を伝えようと、地元の江戸川区は「角野栄子児童文学館」を新たに建設する方針を固めました。

児童文学館にはこれまで手がけた作品のほか、角野さんが選んだ子どもから大人まで楽しめる本を置くことなどを検討していて、区が角野さんと相談しながら具体的な構想を練ることにしています。

児童文学館は区内の「なぎさ公園」を候補地に建設が進められ、2022年度のオープンを目指す計画です。

角野栄子さんは「このような施設ができることは、とてもうれしいです。子どもたちが本に囲まれて自由に楽しく過ごせる、夢の膨らむ遊び場にできればいいなと思います」と話しています。

【nhk news web】 1月23日09:09分、""エドガー賞 候補に北大教授の研究書と広島原爆の作品""

2019-01-23 23:29:33 | 読書&趣味の語学 ; 文学・詩集、英語・ドイツ語、ちょびっと中国語… 

(エドガー賞 候補)




① ""エドガー賞 候補に北大教授の研究書と広島原爆の作品""

2019年1月23日 9時09分

ミステリー小説の分野で世界的権威があるエドガー賞の候補作品が発表され、評論・評伝部門に北海道大学の竹内康浩教授によるアメリカの児童文学の名作「ハックルベリー・フィンの冒険」の研究書が、そして、ペーパーバック・オリジナル部門に日系アメリカ人作家、ナオミ・ヒラハラさんの広島の原爆をモチーフにした作品が選ばれました。

エドガー賞は、ミステリー小説を生んだとされる19世紀の作家、エドガー・アラン・ポーにちなんで創設されたアメリカの文学賞で、22日、ことしの候補作品が発表されました。

このうち、評論・評伝部門には、「ハックルベリー・フィンの冒険」に独自の新たな解釈を加えた北海道大学の竹内康浩教授の「マークX」がノミネートされました。

本の中で、竹内教授は、主人公、ハックルベリー・フィンの父親を殺害した犯人について、さまざまな手がかりをもとに考察を加え、作品の隠された意味を読み解こうとしています。

また、ペーパーバック・オリジナル部門の候補には、日系アメリカ人作家、ナオミ・ヒラハラさんの「ヒロシマ・ボーイ」が選ばれました。

主人公は子どもの頃に広島で被爆し、その後アメリカで暮らすことになった庭師で、故郷の広島に戻ったときに遭遇した少年の殺人事件の謎を解く中で、過去にも向き合うという筋書きです。

受賞作品は4月25日に発表されます。