スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典桜花賞&則することと反すること

2021-03-31 19:11:00 | 地方競馬
 名古屋から1頭が遠征してきた第67回桜花賞。ウワサノシブコは感冒のため出走取消で10頭。
 すぐにケラススヴィアがハナに立ち,2番手にスマイルミュ。3番手はグロリオーソとレディブラウン。5番手にプレストレジーナ。6番手にティーズアレディーとサブルドール。8番手にスセリヒメ。9番手にニジイロで最後尾にアイカプチーノという隊列で1周目の正面を通過。10頭が一団でした。前半の800mは51秒5の超スローペース。
 なかなかペースが上がりませんでしたが,2周目の3コーナーからスマイルミュがケラススヴィアに並び掛けていってペースアップ。ここでレディブラウンが一時的に離され,内からグロリオーソが3番手に。直線の入口ではケラススヴィアの手応えが楽で,並び掛けていったスマイルミュは押してついていく形。直線に入るとすぐにケラススヴィアが振り切り,そのまま楽に逃げ切って優勝。スマイルミュを内から差したグロリオーソが3馬身差で2着。ペースアップしたときには対応できなかったものの,最後までじわじわと伸びてきたレディブラウンがフィニッシュ直前で一杯になったスマイルミュを差して3馬身差の3着。スマイルミュがクビ差で4着。
 優勝したケラススヴィア東京2歳優駿牝馬以来の勝利で南関東重賞3勝目。前走は負けましたが,相手より斤量が1キロ重かった上での僅差。成長もあったでしょうが体重も13キロ増えていてのものでした。今日は前走の勝ち馬が出走取消になった上,体重も7キロ絞れていて,有利な枠も引けましたから,負けられないところ。順当な勝利といえるでしょう。ただこれだけ楽なペースで競馬をすることができてのものなので,どの程度まで高く評価することができるのかは不明な面も残りました。父はサウスヴィグラス。母の父はネオユニヴァース。祖母の3つ下の半弟に2006年に武蔵野ステークスを勝ったシーキングザベスト。Cerasus Viaはラテン語で桜の道。
 騎乗した船橋の森泰斗騎手ニューイヤーカップ以来の南関東重賞43勝目。桜花賞は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞47勝目。第63回,65回に続く2年ぶりの桜花賞3勝目。

 神Deusの本性の必然性に則するとか,逆に神の本性naturaの必然性necessitasに反するといったことが,具体的にどのような意味をもっているのかということを考えておきます。
                                   
 スピノザがいう神の本性の必然性は,僕たちが一般的に使用することばでいえば,自然法則というのが最も近いと僕は思います。ただここでは注意が必要です。第三部序言でいわれているように,スピノザの哲学では自然Naturaの働く力agendi potentiaは常に同一です。したがって自然法則いい換えれば神の本性の必然性は,常に同一でなければなりません。僕たちは自然法則というとどうしても物理的な事象をイメージすると思うのですが,スピノザがいう神の本性の必然性つまり自然法則は,単に物理法則だけを意味するのではなく,思惟作用にも適用されるということには注意しておかなければなりません。しかし今は自然法則に則することや反することを具体的に示すことが目的なので,分かりやすく物理現象で示すことにしましょう。
 何が自然法則に反するのかということは,それほど難しく考える必要はありません。たとえば錬金術が成功することはないし,死んだ人間が生き返ることはないといったようなことです。つまり,いくら神の本性の必然性から無限に多くのinfinitaことが生じるのだとしても,金以外の何らかの金属を錬ることによって金が発生するということは生じませんし,現実的に存在するある人間,たとえばイエスが死んで埋葬された後に甦るというようなことも生じないのです。このことから分かるように,神の本性の必然性から無限に多くのことが生じるということと,神はどんな事柄でも生じさせることができるということは,同じ意味ではありません。現実的に存在している人間が死ぬということは必然ですが,死んだ人間が生き返るということは不可能なのです。
 もうひとつ,第一部定理二五にあるように,事物の本性essentiaの起成原因causa efficiensは神,つまり神の本性の必然性なのですから,事物の本性それ自体も神の本性の必然性に則しているのでなければなりません。他面からいえば,もしある事物の本性が神の本性の必然性に反しているとしたら,そうした事物自体は存在することが不可能であるということになります。
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ウィナーズカップ&第一部定理一六の意味

2021-03-30 19:02:38 | 競輪
 28日に松阪競輪場で争われた第5回ウィナーズカップの決勝。並びは高橋-守沢の北日本,深谷-郡司の南関東,古性-稲川の大阪,松浦-清水の中国で山田は単騎。
 郡司がスタートを取って深谷の前受け。3番手に松浦,5番手に山田,6番手に高橋,8番手に古性で周回。残り3周のバックから古性が上昇開始。稲川の後ろに高橋がスイッチ。深谷と古性が並び,内に5人,外に4人の併走に。ホームに入り誘導が退避するタイミングで深谷が引いたので古性が前に。すぐに高橋が動き,バックには高橋が先頭で入りました。打鐘の直前から松浦が発進。高橋が突っ張ると,松浦はうまく守沢をどかして高橋の後ろに。引いた深谷は発進したものの,バックから松浦が発進したために不発。松浦の後ろのまま直線に向いた清水が松浦を差し切って優勝。清水に続いた山田を弾いて直線では松浦と清水の間に進路を取った古性がよく伸びて1車身差の2着。松浦が半車輪差で3着。
 優勝した山口の清水裕友選手は昨年11月の防府記念以来の優勝。ビッグは昨年7月のサマーナイトフェスティバル以来の3勝目。ウィナーズカップは初優勝。このレースは南関東勢と中国勢の争い。深谷はこの開催はいい動きをしていましたが,ここはおそらく天候の影響もあって不発。松浦は流れの中で番手に入ったのであり,当初からの作戦ではなかったと思いますが,うまく立ち回りました。この時点で中国勢が優位になりました。深谷は前受けして引いて捲るというのがほとんどの作戦となっていて,その点では多様性のある中国勢の方が有利に運べるという面もあるのではないかと思います。

 柏葉の論文ではまったく触れられていないのですが,神Deusの属性attributumの中に含まれているとされるもののすべてが,現実的に存在するようになるかどうかを考える際には,注意しておかなければならない観点がほかにもあると僕は考えています。そのことをここで説明しておきます。
                                   
 第一部定理一六では,神の本性の必然性necessitate divinae naturaeから無限に多くのinfinitaものが無限に多くの仕方で生じるといわれ,それらのものは無限知性intellectus infinitusによって把握されるすべてのものと等置されています。ただしここでは無限に多くの仕方ということは考慮の外において構いません。つまり,神の本性の必然性からは無限に多くのものが生じ,かつ生じた無限の多くのものは無限知性によって把握されるという点だけに注目します。
 このことは,どのようなものであっても生じるし,どのようなものも無限知性のうちに客観的有esse objectivumすなわち観念ideaとしてあるということを意味するわけではありません。なぜなら,これら無限に多くのものは,神の本性の必然性から生じるのですから,神の本性の必然性に則しているのであれば生じかつ観念としてもあるということになりますが,神の本性の必然性から外れているのであれば,生じることもないし観念として存在することもない,つまりあることも考えるconcipereこともできないといわなければならないからです。
 このような意味において,スピノザの哲学では必然と不可能が反対概念を構成することになります。つまり,神の本性の必然性に則しているならそのことは必然的にnecessario生じますが,神の本性の必然性から外れているなら,そうしたことが生じるということは不可能です。そしてこのことは,当然ながらあるものが現実的に存在しまた作用するという場合に成立するというわけではなく,ものが神の属性に包容されている限りで存在するといわれる場合にも成立しなければなりません。ですから,たとえば現実的に存在することが不可能であるといわれ得るもの,他面からいえば僕たちの精神mensによってそれが現実的に存在することが不可能であると十全に認識できるような事物については,それが神の属性に包容される限りで存在するということもないと確定することができるのです。
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高松宮記念&形相的本性と現実的本性

2021-03-29 19:23:52 | 中央競馬
 昨日の第51回高松宮記念
 抜群の加速でモズスーパーフレアが瞬く間にハナへ。2番手はレッドアンシェル,ダノンファンタジー,ラウダシオン,セイウンコウセイの4頭。この後ろもライトオンキュー,カツジ,レシステンシアの集団。サウンドキアラが単独で続き,インディチャンプとダノンスマッシュ。トゥラヴェスーラを挟んでミッキーブリランテとマルターズディオサ。以下はダイメイフジ,エイティーンガール,アストラエンブレム,アウィルアウェイと続きました。前半の600mは34秒1のミドルペース。
 直線に入ったところでモズスーパーフレアのリードは2馬身くらい。ダノンファンタジーとセイウンコウセイが続きましたが,この2頭はモズスーパーフレアには追いつけず。大外からレシステンシアが追ってきて,セイウンコウセイとレシステンシアの間からダノンスマッシュ。モズスーパーフレアから離れたところで2頭の競り合いとなり,内から制したダノンスマッシュの優勝。レシステンシアがクビ差で2着。馬群を捌いてモズスーパーフレアの外,優勝争いをした2頭とは離れたところから追い込んできたインディチャンプがクビ差で3着。
 優勝したダノンスマッシュ香港スプリントからの連勝で大レース2勝目。このレースは能力の高い馬が揃っていましたが,1200mならこの馬に一日の長があるのではないかと思っていました。昨年のこのレースを重馬場で大敗していたので,コースに対する適性と馬場状態には不安が残りましたが,ここは能力を出し切ることに成功。2着と3着に大レースの勝ち馬が入っていますから,やはり距離の適性の差でそれらに優ったとみるのが妥当なところではないかと思います。父は第43回の覇者であるロードカナロアで父仔制覇。
                                       
 騎乗した川田将雅騎手はホープフルステークス以来の大レース25勝目。第48回以来3年ぶりとなる高松宮記念2勝目。管理している安田隆行調教師もホープフルステークス以来の大レース制覇で大レース18勝目。第42回,43回に続く8年ぶりの高松宮記念3勝目。

 第二部定理八は,現実的に存在しない個物res singularisの形相的本性essentia formalisが,神Deusの属性attributumの中に含まれていることを前提としています。そこでそのXが現実的に存在するようになると仮定します。すると現実的に存在するXの本性は,神の属性の中に含まれているXの形相的本性とは異なります。少なくともその形相的本性だけで説明することはできません。
 僕はこのことは第二部定理八備考から読解することができると考えています。ただしそのことについては以前に別の考察においてこの備考Scholiumを検討したときに詳しく説明したことですので,ここでは簡潔に次のことだけをいっておきます。
 第二部定理八系は,個物が神の属性の中に包容されているだけであれば,その個物の観念ideaは神の無限な観念が存在する限りにおいて存在し,もしその個物が現実的に存在するようになると,その個物の観念も現実的に存在するといわれる存在existentiaを含むといっています。したがって,現実的に存在する個物,上述の例でいえば現実的に存在するXの観念は,Xが現実的に存在するということを含んでいる観念でなければなりません。いい換えればXの現実的本性actualis essentiaを含むような観念でなければなりません。したがってそれは神の属性の中に含まれているXの形相的本性ではないか,あるいは少なくともそれだけで説明することができるわけではないのです。いい換えればXの現実的本性と,神の属性の中に含まれているXの形相的本性を同一視することはできないのです。
 このことを考慮に入れるのであれば,神の属性の中に含まれている形相的本性,無限に多くのinfinitaものの形相的本性のすべてが現実的に存在するかしないかということとは関係なく,標準的解釈,いい換えれば神の無限な観念を無限知性intellectus infinitusと同一視することはできる,それが正しい解釈であるか否かということはまた別の話ですが,論理的に成立させ得ると僕は考えます。いい換えれば,形相的本性と現実的本性は異なるということを注視すれば,現実的に存在しないとされているもののすべてが現実的に存在することが可能か不可能かということは,考慮の外においても構わないと僕は考えるのです。なので僕はこの点はこれ以上は深掘りしません。
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ドバイワールドカップデー&比喩の解釈

2021-03-28 19:08:45 | 海外競馬
 日本時間では昨日の夜から今日の未明にかけて,ドバイのメイダン競馬場で2年ぶりに開催されたドバイワールドカップデー。そのうち6つのレースに合計で12頭の日本馬が参戦しました。
 ゴドルフィンマイルGⅡダート1600m。デュードヴァンは発馬で立ち上がった関係から最後尾の外を追走。3コーナーから手が動き始め,直線の入口ではついていくのが精一杯。レースに参加したとはいえない内容で勝ち馬から22馬身弱の差で13着でした。
 UAEダービーGⅡダート1900m。ピンクカメハメハは3番手の外を追走。直線の手前から騎手の手が動き始め,直線に入ると後退。勝ち馬から20馬身弱の差で10着。タケルペガサスは先行集団の最後尾,概ね8番手くらいを追走。最終コーナーまで内を回り,直線で外に出されるとじわっと伸び,勝ち馬から7馬身半弱の差で4着。フランシスコデイナは発馬が悪く,後方2番手を追走。この馬も最終コーナーは内を回り,そのまま直線も内を突き,勝ち馬から約10馬身半差の6着まで差し込みました。
 ドバイゴールデンシャヒーンGⅠダート1200m。ジャスティンとマテラスカイは先行することを目指した競馬。2頭ともスピード負けするという形で一杯になり,ジャスティンが勝ち馬から約16馬身の11着でマテラスカイはそこから2馬身差の12着。コパノキッキングとレッドルゼルは対照的に最後尾を並んで追走。外を回っていたレッドルゼルは出走馬の中でも際立った末脚を発揮して勝ち馬から3馬身4分の1差で2着。内にいたコパノキッキングは直線で外へ。ばてた先行馬は差してレッドルゼルから約5馬身4分の1差で5着。
 ドバイターフGⅠ芝1800m。ヴァンドギャルドは6番手の内を追走。押さえたまま直線を向くと前にいた2頭の間を突き,抜け出そうかというところ,外から圧倒的な差し脚をみせた勝ち馬には置き去りにされ,3馬身差の2着。
 ドバイシーマクラシックGⅠ芝2410m。クロノジェネシスが4番手,ラヴズオンリーユーが6番手から。クロノジェネシスは外から楽な手応えで直線に向き,その直後にいたラヴズオンリーユーは一旦は馬群に突っ込み,クロノジェネシスの内に進路を選択し,一旦先頭。クロノジェネシスの外から伸びてきた勝ち馬と3頭が馬場の中央での競り合い。勝ち馬には屈したクロノジェネシスでしたが,ラヴズオンリーユーは差し返してクビ差で2着。ラヴズオンリーユーはさらにクビ差の3着。
 ドバイワールドカップGⅠダート2000m。チュウワウィザードは押して4番手の内。最終コーナーから騎手の手が動き出し,一旦は前との差が開きましたが.直線で前に馬がいなくなるとまた伸び始め,勝ち馬には追いつくことができませんでしたが3馬身4分の3差で2着でした。

 備考Scholiumの冒頭でスピノザがいっていっているのは,第二部定理八系でいっていることが特殊な事柄であるがゆえに,十分に説明するいかなる例も挙げることはできないということでした。したがって,円はその中で互いに交差するすべての直線からなる長方形が相互に等しいという本性naturaを有しているので,円の中には相互に等しい無限に多くのinfinita長方形が含まれているというとき,そこで含意されているのは,無限に多くのXがAの中に含まれるということをひとつの例として示すことであり,無限に多くのXが現実的に存在するか否かということは,スピノザの念頭に置かれていなかった可能性が否定できません。どちらかといえば僕はそのような見解opinioを採用しますので,柏葉のこの部分の主張については全面的に同意することはできません。とはいっても,このことについては僕の見解と柏葉の見解のどちらが正しいのかということを確定させることはできません。ですから,柏葉がいっていることが正しい場合に,どのようなことが帰結するのかということも考えておきましょう。
                                   
 この場合,円は神Deusの属性attributumの比喩であり,長方形は個物res singularisの比喩です。したがって,無限に多くの長方形のすべてが現実的に存在することは不可能であるということは,神の属性の中に包容されている限りで存在する個物のすべてが現実的に存在することは不可能であるという意味になります。実際に柏葉はそのように主張していますし,むしろこの主張を裏付けるために,備考をこのように読解しているとみることもできます。そして柏葉の主意は,このような主張が標準的解釈に対する反論となるという点にあります。いい換えれば柏葉は,標準的解釈は,神の属性の中に包容されている限りで存在する個物のすべてが,現実的に存在するようになるあるいは現実的に存在したということを前提としているとみているのです。
 柏葉は論文の中で標準的解釈の実例というのをいくつか挙げていて,それは確かにそのようになっています。ただ,僕はこの点についてもいくらかの疑問を抱きます。ただしこれは,単に柏葉に対する疑問というより,標準的解釈を採用している識者への疑問という面もあります。
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印象的な将棋⑰-6&無限に多くの長方形

2021-03-27 18:50:30 | ポカと妙手etc
 ⑰-4から先手は⑰-5で示した手順に進めるべきだったのですが,考えた末にそれを逃しました。実際に指された手は☗9四桂です。
                                        
 僕はAbemaの中継を視聴していましたから,先手の考慮中にどう指すのかを考えていました。しかしこの手は僕にはまったく思いついていない手でした。
 実際にはこの手は悪手で,第1図を境にして後手が優勢になっています。現在のようにAIの評価値が出るのであれば僕にもそのことが即座に分かったでしょう。ですが当時はそれがありませんでしたから,この時点ではそのことが分かりませんでした。というよりこの手を見たときには,先手の勝ちになったのだろうと勘違いしたのです。それは次のような事情からです。
 先手がそれなりに時間を使った末に,僕には思いついていない手が指されました。プロがそれだけ考えて僕には思い浮かばないような手を指したときには,勝ちを見つけたということだろうと想定するのです。とくに実際に指された手というのは,桂馬をただで捨ててしまう手だったので,なおのことこのときはそう思ったのです。
 たぶんこの後だったと思いますが,先手が席を外したとき,考慮中の後手から「えー」という小さな声が上がりました。僕はその声の意味を,当時は後手も読んでいなかった手を指されたためだと思ったのですが,今から考えれば,これは自分が急に勝ちになったための驚きだったのかもしれません。

 柏葉が指摘していること,すなわち,円の中には無限に多くのinfinita長方形があるけれど,それらすべての長方形が現実的に存在することは不可能であるということは,論理的には正当化することができます。
 円の中には無限に多くの長方形があるのですが,このとき,たとえばAとBという長方形が現実的に存在すると仮定してみます。このとき,長方形Aと長方形Bの区別distinguereは様態的区別です。したがってこれらの長方形は数によって区別することが可能です。いい換えれば,この場合は円の中にふたつの長方形だけが現実的に存在しているということができます。ところでこのことは,円の中にある長方形が現実的に存在する場合には必ず妥当しなければなりません。つまりAとBのほかにCという長方形が現実的に存在するのであれば,CもまたAおよびBとは様態的に区別されるのですから,みっつの長方形があることになるのです。このようにして数をどんどん加えていって,最終的にすべての長方形が現実的に存在すると仮定するなら,それらの長方形は数によって示すことができるということになるでしょう。しかし,もしあるものの数を示すことができるのであるとすれば,そうしたものは有限finitumといわれなければなりません。したがってこの場合は有限個の長方形が円の中にあるといわなければならず,円の中に無限に多くの長方形があるという仮定に反します。いい換えれば,円の中に無限に多くの長方形があるということは,たとえばどんなに無際限に円の中の長方形が現実的に存在したとしても,他面からいえば,円の中にいくら無際限に多くの長方形を描いていったとしても,すべての長方形が現実的に存在するようになること,あるいはそれを描き切るということは不可能なのであって,さらにほかの長方形が現実的に存在し得るし,またほかの長方形を描くことができるという意味でなけれならないのです。
 よって,柏葉の指摘が論理的に正しいということを僕は認めます。ただし,第二部定理八備考を読解するときに,この論理が有益であるかどうかということについては,僕は確信をもって同意することはできません。この比喩の意図は不明であるからです。
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腕白時代の夏目君&長方形の起成原因

2021-03-26 19:07:35 | 歌・小説
 漱石の小学生の頃のことを考えるときに,明治維新は漱石が産まれた後の出来事だった,つまり漱石が産まれたのは末期であったとはいえ江戸時代であったということと,江戸時代の身分でいえば漱石は最上級であった武士の家庭に出自をもっていたということは,見逃してはいけないと思います。そして幼少期の漱石自身は,当然のように自身が武士の出自ということに,一種のアイデンティティーを抱いていました。そのことを資料として明らかにしているもののうち,『漱石追想』の中で僕の興味を惹起させるエピソードを含んでいたのは,篠本二郎による「腕白時代の夏目君」というものです。
                                        
 すでに紹介したように,漱石は養父母の離婚によって転校していますが,牛込薬王寺前町の小学校で同級だったと篠本は書いていますので,これは市ヶ谷の小学校です。漱石は養父母の離婚で生家に戻っていますが,戸籍上は養子に入った塩原のままでした。夏目家から通っていて,小学校で塩原を名乗っていたのか夏目を名乗っていたのかは分かりません。
 著者である篠本二郎は,生年も没年も不詳となっていますが,小学校で同級生だったのですから,生年は漱石と同じか違っても1年くらいでしょう。この人も出自は武士でした。後に鉱物学の専門家となって,教授を歴任した後に,鉱山の調査に従事したとのことです。このうち,篠本が教授を務めた五高というのは熊本の学校で,漱石もイギリスに留学したときに勤務していたところです。漱石がここの教授になった時点では,篠本は鹿児島の七高に転任していたか,あるいはすでに鉱山の調査員になっていたようですが,顔を合わせることにはなったそうです。
 篠本による「腕白時代の夏目君」の初出は,昭和10年版の漱石全集の月報第二号となっています。どういう意味か僕には分かりませんが,昭和10年12月にこの月報というのが発行されて,その中に掲載されたということでしょう。篠本は文章の末尾に2月19日という日付を付していて,これはおそらく昭和10年の2月19日を意味すると思われます。月報ですから月刊で,第一号が11月に出ている筈ですが,何らかの理由でそこには掲載することができなかったのでしょう。

 第一部定理二五備考では,神Deusは自己原因causa suiであるのと同じ意味において,すべてのものの起成原因causa efficiensであるといわれなければならないといわれています。備考Scholiumでは単に原因といわれていますが,スピノザがいう原因というのは一律に起成原因を意味するので,このように解して間違いありません。したがって,第二部定理八でいわれている個物res singularisないし様態modiの形相的本性essentia formalisに対して,神は自己原因であるというのと同じ意味において起成原因であることになります。これに対して,円と長方形との間にはこのような関係はありません。円は自己原因であるわけではありませんし,長方形の起成原因でもありません。では円あるいは長方形の起成原因というのが何かといえば,第一部定理二五備考から,神でなければなりません。つまり,長方形は,円が有している本性naturaのゆえに存在しまた概念するconcipereことができるものではあるのですが,だからといって起成原因が円であるということではなく,起成原因は神でなければなりません。この点を見失うと,やはりこの備考を適切に理解することはできないだろうと僕は考えます。スピノザは備考の冒頭で,これを十分に説明する例を挙げることはできないといっていますが,そこにはこのような事情が含まれていると考えることができます。
 備考の内容を,定理Propositioおよび系Corollariumと合わせるのであれば,円は自己原因であって,かつ円が自己原因であるというのと同じ意味で長方形の起成原因であると解する必要があります。しかし,ここまでに詳述した事情から実際にはこのように概念することはできませんから,むしろこの備考は表象imaginatioの上で判断する方が,僕たちには判断しやすいといえるのです。ですからなおのことこの備考の例示に関しては,正しく解する上では十分な注意が必要とされることになるのです。
 円の中には無限に多くのinfinita長方形があるということに関しては,柏葉の論文の対象になっています。柏葉がいうには,円の中には無限に多くの長方形があるのだけれども,その無限に多くの長方形のすべてが存在するということは不可能です。いい換えれば,それらの長方形のすべてが現実的に存在することはあり得ないと指摘しているのです。
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豊田真奈美&起成原因の関係

2021-03-25 19:07:10 | NOAH
 井上京子が,自分にとってトップクラスの選手ではあったけれども分かり合える相手ではなかったといっている豊田真奈美は,僕の女子プロレスキャリアの中で,女子プロレスをライブで観戦する契機となったレスラーなので,僕にとってはほかの選手たちとは異なった思い入れがあります。この点を考慮して読んでください。
                                        
 豊田は1987年8月にデビュー。同期は7人いましたが,長く続いたのは豊田のほかに山田敏代,下田美馬,三田英津子の3人。井上京子はこの4人は全員が経営陣である松永一族には可愛がられたと言っていて,その理由はこの4人のルックスにあったと発言しています。ただし同期の仲がよかったかというとそうでもなったようで,豊田と山田は僕がライブで女子プロレスを見るようになった頃はタッグパートナーでしたが,しょっちゅう殴る蹴るの喧嘩をしていたそうです。またその後,豊田がシングルプレーヤーとして人気が出てきた1993年頃からは,2年ほど3人に無視され続けていたと語っています。山田,下田,三田の3人は『1993年の女子プロレス』のインタビューの対象とはなっていませんので,そちらからの証言はありませんが,後輩からは確かにそのような事実があったらしい発言が出ています。
 セメントに関する話はまったく出ていませんが,山田には練習でも試合でもいつも先にいかれていたとのことで,たぶん山田の方が強かったのだろうと推測されます。その後,山田が首を負傷したために長期欠場した時期があり,その間に豊田は上に上がっていくことができたと言っています。
 プロレスか女子プロレスかの二者択一では典型的な女子プロレス派で,流れとしてはジャガー・横田ライオネス・飛鳥の下にいるわけですが,好きだったのは付き人をやっていた山崎五紀だったと言っています。横田や飛鳥と豊田のプロレスは同じ流れの中にあるとは僕には思えませんが,それにはこの点が影響しているのでしょう。他面からいえば,ミミ・萩原とか山崎のような選手は上まではいかれても本当のトップというところまではいかれなかったわけで,WWWAのシングル王者にもなった豊田は,この路線の中では図抜けた存在といっていいのだろうと思います。

 神Deusあるいは属性attributumは自己原因causa suiであるのに対し,円は自己原因ではなく,それが存在するために外部に原因を要するという点は,第二部定理八備考の比喩を正しく理解するために重要であるという点は,柏葉の論文でも指摘されています。そしてこの点が最も重要なのですが,それ以外にも重要な点があると僕は思っていますので,それについて指摘しておきましょう。
 第一部定理二五により,神は事物の本性essentiaの起成原因causa efficiensです。したがって,第二部定理八で,個物res singularisないし様態modiの形相的本性essentia formalisといわれているときの形相的本性の起成原因は神であると解さなければなりません。形相的本性というのは,僕の見解opinioでは認識されることを前提とした事物の本性のことをいうのであり,この定理Propositioの場合でいえば,それが現実的に存在しない個物ないしは様態の観念ideaとして,神の無限な観念の中に含まれているということになるのです。よってこの形相的本性というのはその様態ないしは個物の本性のことであり,第一部定理二五により,その起成原因は神であるということになるのです。
 これに対して,円と長方形との間にはこうした関係が成立しません。第二部定理八備考でいわれている相互に等しい無限に多くのinfinita矩形すなわち長方形は,円の中にあるがゆえに,円が存在する限りにおいて存在します。そして同時に,これら無限に多くの長方形は,円の中で互いに交わるすべての直線からなる長方形が相互に等しいという本性を円が有しているがゆえに,円の中にあるといわれます。このとき,円の本性の起成原因は,前述の通りに円それ自体ではなく神です。そして同時に,この円の本性は長方形の起成原因でもありません。確かにこの長方形は円がある限りにおいて存在する,いい換えれば円がなければあることができませんし,この長方形の観念は円の観念がある限りにおいて考えるconcipereことができる,いい換えれば円の観念なしには概念するconcipereことができないのですが,この関係は第一部公理四に依存しているのではありません。神が様態ないしは個物の形相的本性の起成原因であるように,円が長方形の起成原因であるというわけではないのです。この点をよく注意しておかなければなりません。
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京急電鉄賞京浜盃&円と長方形

2021-03-24 19:30:14 | 地方競馬
 第44回京浜盃
 好発はワールドリング。このあおりでアランバローズは加速がつきませんでした。逃げたのはジョーロノ。2番手にピースフラッグとイグナイターでこの3頭が先行集団。3馬身差でワールドリングとランリョウオーの2頭が好位。2馬身差でチサットとマカベウスの2頭が中団。6馬身差でアランバローズ。後方2番手がトランセンデンスで最後尾にセイカメテオポリスという隊列。ハイペースでした。
 3コーナーで外からイグナイターが先頭に。ジョーロノは一杯になり,ランリョウオー,マカベウス,ピースフラッグ,チサットの順になりましたが,ピースフラッグは一杯になり,直線では内からイグナイター,ランリョウオー,マカベウス,チサットの4頭がほぼ横並びに。この4頭の競り合いからランリョウオーとマカベウスの2頭が脱落し,優勝争いはイグナイターとチサットの2頭。最後は外から差し切ってチサットが優勝。3コーナー先頭のイグナイターが1馬身4分の1差の2着。ランリョウオーは退けたマカベウスが1馬身半差で3着。大外から脚を伸ばしたトランセンデンスがクビ差の4着でランリョウオーがクビ差で5着。
 優勝したチサットは南関東重賞初挑戦での制覇。デビューは北海道。今年に入ってから南関東で走り始め連勝。初戦が5馬身差で2戦目が7馬身差の圧勝という新興勢力。注目は5戦全勝で2歳戦を終えたアランバローズの走りでしたが,逃げることができずに惨敗。ということは逃げないと力を発揮することが現時点ではできないということでしょう。2着馬はここがJRAからの転入初戦で,3着から5着までの3頭が南関東重賞の勝ち馬。つまり新興勢力の2頭が既存勢力に対して勝ったという結果ですから,そのことがもつ意味は大きいのではないかと思います。父はスマートファルコン。母は2008年に東京2歳優駿牝馬,2009年に桜花賞東京プリンセス賞を勝ったネフェルメモリー
 騎乗した大井の笹川翼騎手は報知オールスターカップ以来の南関東重賞11勝目。京浜盃は初勝利。管理している大井の佐宗応和調教師は南関東重賞5勝目。京浜盃は初勝利。

 スピノザが続けていっているのは,相互に等しい無限に多くのinfinita長方形は,どれも円が存在する限りにおいてでなくては存在するといわれ得ないということです。相互に等しい無限に多くの長方形は,円の中に含まれているという仮定ですから,このことは当然といっていいでしょう。そして同時に,これらの長方形の観念ideaは,円の観念の中に包容されている限りでなくては存在するということができないといっています。もし無限に多くの長方形が,円が存在する限りにおいてでなくては存在し得ないのであれば,第二部定理七により,この無限に多くの長方形を観念対象ideatumとした観念は,円の観念があるのでなければ考えるconcipereことができないものです。よって,無限に多くの長方形の観念は,円の観念の中に包容されている限りでなくては存在し得ないことになります。
                                   
 まずこの部分から,円と長方形が何の比喩であるのかが分かります。ここで円といわれているのは,第二部定理八および第二部定理八系のいい方では神Deusの属性attributumに該当します。また長方形,岩波文庫版の訳語では矩形というのは,第二部定理八のいい方では,個物res singularisないしは様態modiの形相的本性essentia formalisに該当します。一方,第二部定理八系のいい方では,円の観念が神の無限な観念に該当し,長方形あるいは矩形の観念は,個物の客観的有esse objectivumすなわち個物の観念に該当します。
 柏葉も論文の中で指摘していますが,これは比喩なので,解釈する上では比喩されているものと比喩しているものの相違点を理解しておかなければなりません。そしてその最大の相違点は,円が神の属性に喩えられている点に存します。第一部定理一〇から分かるように,属性というのはそれ自身で考えられるものです。いい換えればそれを認識するcognoscereためにほかのものを認識する必要がありません。そして第一部公理四により,結果effectusの認識は原因causaの認識に依存するのですから,もしもあるものを認識するためにそのもの自身の認識以外の認識が必要とされないのであれば,そのものは自己原因causa suiであることになります。要するに属性というのは自己原因なのです。これに対して円というのは自己原因ではなく,それが存在するためには外部に原因を必要とします。
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悲しみ&矩形

2021-03-23 19:26:14 | 哲学
 スピノザの哲学における基本感情affectus primariiは,欲望cupiditasと喜びlaetitia,そして悲しみtristitiaです。そして悲しみは喜びの反対感情になります。
                                   
 悲しみは第三部諸感情の定義三にあるように,より大なる完全性perfectioからより小なる完全性への移行transitioを意味します。悲しみを理解する上で最も注意が必要なのは,より小なる完全性というのはそれ自体では完全性であるという点です。いい換えれば悲しみは完全性の欠如とか欠乏privatioを意味するものではありません。このことは第二部定義六にあるように,スピノザが完全性と実在性realitasを等置していることから明らかです。僕たちは実在しているがゆえに悲しみを感じるのであり,もし完全性が欠如している,いい換えれば実在性を有さないならば悲しみをはじめとして一切の感情を抱き得ないからです。よってこの限りにおいて,悲しみがより大なる完全性からより小なる完全性への移行,いい換えれば僕たちの働く力agendi potentiaが減少あるいは阻害されることだとしても,ある積極的な状態だと解さなければならないのです。
 第三部定理五にあるように,相反する本性は同一の主体subjectumの中には存在しません。よってある主体の中にその主体の働く力を減少させ阻害するものはありません。したがって僕たちは僕たち自身を十全な原因causa adaequataとして悲しみを感じることはありません。つまり第三部定理五九にあるように,能動的な悲しみというのはありません。いい換えれば僕たちは働きを受けるpati限りにおいて悲しみを感じるのです。
 第四部定理八にあるように,悲しみの意識は悪malumの認識cognitioです。つまり僕たちは僕たちに悲しみを齎すもののことを悪と認識します。人間の現実的本性actualis essentiaは悲しみを忌避しますので,第三部定理九備考のように,僕たちは僕たちが忌避するもののことを悪と認識します。それが悪であるがゆえに忌避するのではありません。これは第四部定理一九と齟齬を来すように思われるかもしれませんが,スピノザの哲学における悲しみあるいは悪の基礎は,第四部定理八および第三部定理九備考の方にあると僕は考えます。

 それでは柏葉の論文の内容に関する考察に入りますが,この部分は第二部定理八備考でスピノザがいっていることを,どのように解釈するべきなのかということと,ほとんど一義的に関係しています。ですから備考Scholiumの内容を丹念に示していき,柏葉がそれに対してどのような解釈を示しているのかということを平行に示していく形で,僕の論考を進めていくことにします。
 スピノザは備考の最初の部分で,第二部定理八系でいっていることは特殊な事柄であって,それを十分に説明するどのような例も挙げることはできないといいきっています。そしてその直後に,このことをひとつの例だけで解説するように努力するといっています。これはきわめて矛盾したことをいっているようですが,そのように解する必要はありません。スピノザが実際に解説している例は,第二部定理八系でいっている事柄を,十分には説明していないけれど,ある程度の解説にはなっていると理解しておけばいいでしょう。ただスピノザ自身が,それを十分に説明するような例ではないと考えていることは明白で,そのゆえにそれをどのように解釈するのかということは,とても重要であるといえます。
 解説の最初にスピノザがいっているのは,円という図形は,その中で互いに交わるすべての直線の線分から成る矩形が相互に等しいという本性naturaを有しているということです。柏葉の論文では矩形の部分が長方形となっています。厳密にいうと矩形というのはすべての角が直角の四角形をいう場合があって,その場合は正方形も矩形の一種になりますが,正方形というのはすべての線分の長さが等しい長方形だと考えることができますから,この相違は問題にする必要がありません。一般的には矩形という語よりも長方形という語の方が僕たちは使い慣れていると思いますので,僕もここでは長方形といいます。この長方形の一種として,正方形もあると解してください。
 このことから,円の中には,相互に等しい無限に多くのinfinita長方形が含まれているということが帰結します。円の中で互いに交わるすべての直線の線分は無限に多くあるので,それによって形成される長方形も無限に多くなるからです。
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NHK杯テレビ将棋トーナメント&標準的解釈

2021-03-22 19:01:22 | 将棋
 昨日放映された第70回NHK杯テレビ将棋トーナメント。対戦成績は稲葉陽八段が2勝,斎藤慎太郎八段が3勝。
 振駒で稲葉八段の先手となり角換り。先手が9筋の位を取って銀の態度を保留している間に後手の斎藤八段が腰掛銀から先攻する将棋に。終盤まで熱戦が繰り広げられました。
                                        
 後手が飛車取りに角を打った局面。ここは本当は☖5八角と打っておいた方が得だったかもしれません。
 第1図で解説されてされていたのは☗3三銀と打つ手で,仮に☖同桂☗同歩成☖同金☗2三歩☖同金☗3五桂のように進むのなら厳しそうです。また,☗4三銀と打ち込み☖同歩☗同桂成と進めるのも有力だったと思われます。
 実戦の指し手は☗2四飛と王手で飛車を逃げる手。ただこの手は敗着になり得る手だったかもしれません。
 後手は☖2三歩の一手で先手も☗2六飛と逃げるほかありません。
                                        
 ここで☖3五銀と打ったのが敗着。☗3三銀☖同桂☗同歩成☖同金☗同金☖同玉とすべて清算した後,☗4三金☖同歩☗同桂成☖同玉に☗2三飛成が厳しく,先手の勝ちになりました。第1図では☖2五銀と打っておけば,むしろ後手が有望だったかもしれません。
 稲葉八段が優勝。2013年度の銀河戦以来となる2度目の棋戦優勝を果たしました。

 神の観念idea Deiに関する考察はこれで終了とします。柏葉の論文の内容に目を向け直します。
 柏葉は論文の中で,第二部定理八系でいわれている神の無限な観念を,どう解釈すればよいかということ,とくにそれを無限知性intellectus infinitusと同一視してよいのかということを念入りに探求しています。柏葉によれば,この部分の神の無限な観念を無限知性と同一視することは,『エチカ』を読解する場合の主流な解釈です。柏葉はこの解釈を標準的解釈と命名し,この標準的解釈に疑義を呈しています。というか,論文の中では標準的解釈は失敗しているといわれていますので,標準的解釈とは別の解釈の必要性を訴えていることになります。
 論文の内容に立ち入る前に,僕から次の点をいっておきます。
 論考の対象となっているのは第二部定理八系であり,これは第二部定理八の系Corollariumですから,当然ながら第二部定理八からの帰結事項であるといえます。第二部定理八でも神の無限な観念といういい方がされていて,同じいい方が系でもされているのですから,第二部定理八の神の無限な観念と第二部定理八系の神の無限な観念は,同じものであると解するべきであるでしょう。
 第二部定理八の冒頭は,存在しない個物res singularisないしは様態modiの観念,となっています。これは柏葉の論文の表題である「存在しないものの存在論」に合致したいい方です。ですが第二部定理八系では,存在しないものの観念といういい方は一切ありません。むしろそうした観念の対象ideatumとなっているものは,神の属性attributumの中に包容されている限りにおいてのみ存在する,といわれていて,限定的ないい方であるといえるでしょうが,存在するものとして規定されています。定理Propositioと系との関係から,これらふたつは同じもののことをいっていると解する必要があります。ですから第二部定理八の冒頭でいわれている存在しないものというのは,現実的に存在しないものという意味であって,神の属性の中に包容されている限りでは存在するといわれなければならないもののことです。こうしたものが,現実的に存在するようになる,あるいはかつては現実的に存在した,というように解するべきか否かは,柏葉の論文の内容と関係します。
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国際自転車トラック競技支援競輪&誤りの原因

2021-03-21 19:06:14 | 競輪
 宇都宮競輪場で開催された第12回国際自転車トラック競技支援競輪の決勝。並びは佐々木‐杉森の北関東,宿口‐神山の関東,竹内に渡部,小川‐柏野の西国で新田は単騎。
 宿口,柏野,竹内,杉森の4人が前を取りにいきました。誘導の後ろを確保したのは杉森で,佐々木の前受け。3番手に竹内,5番手に宿口,7番手に新田,8番手に小川という周回に。打鐘前のバックから小川がゆっくりと上昇を開始。打鐘で佐々木に近付くと佐々木は突っ張りました。ただ小川も突っ張られることは想定していたようで,杉森の横で張り付くような隊形に。ホームから佐々木の本格的な突っ張り先行になりました。バックから竹内が発進。渡部まで連れて佐々木を捲り切りました。渡部は直線の入口では竹内との車間を少し開け,そこから踏み込むと突き抜けて優勝。竹内と渡部の間を伸びた杉森が半車身差で2着。捲った竹内が4分の3車身差の3着。
 優勝した福島の渡辺幸訓選手は昨年6月の立川のFⅠ以来の優勝。グレードレースは初優勝。この開催は若い選手が中心となりました。決勝に残った選手の中では竹内の力量が最も上だとみていて,実際に先行した佐々木をあっさりと捲り切ることに成功。ただ宇都宮は直線が長い上に,マークの渡部がブロックも受けないでついてきましたので,粘りを欠く形に。竹内の後ろを回る選手がいなかったため,渡部がマークを主張することができましたので,渡部にとってはそのあたりが幸運だったということになるでしょう。

 延長の属性Extensionis attributumによって説明される限りでの神Deusと思惟の属性Cogitationis attributumによって説明される限りでの神をふたつの神と思ってしまうのは,それらが同じ神という語で表現されているからにすぎません。つまり神といういう記号によって神を表象してしまうがゆえに,これらの神は数によって区別することが可能であると思い,ふたつの神であるという誤った結論を出してしますのです。もし神を十全に認識している,いい換えれば延長の属性と思惟の属性を十全に認識しているのであれば,こうした結論を出せないことは理解できる筈です。そして同様に,延長の属性と思惟の属性は,同じ属性という記号によって表現されている神の本性essentiaを構成するものですが,それはふたつの属性という仕方で数によって区別することができるものではなく,実在的に区別される,各々が唯一の属性であることも理解できる筈です。こうした過ちはことばと観念が同じものであると判断するがゆえに生じるのであり,ことばと観念が異なるものであるということを理解しさえすれば,説明としても明瞭判然なものとして帰結するのです。
                                   
 このようにして,神の観念idea Deiということを多様に解釈するとしても,それが第二部定理四とは必ずしも反することはないということも理解できる筈です。というのは,神の観念といわれるときの観念対象ideatumである神がどのように解されるとしても,あるいは神の観念が思惟の属性においてどのような立場であったとしても,観念の対象となっている神が唯一であると認識されているのであれば,第二部定理四でいわれていることは確保されているからです。実際にスピノザは第二部定理四を論証するときに,第一部定理一四系一を援用しています。つまり神が唯一であるということに訴求し,そのために神の観念も唯一でなければならないとしているのです。ですから神の観念が思惟の属性の能産的自然Natura Naturansであろうと直接無限様態であろうと間接無限様態であろうと個物res singularisであろうと,神の観念といわれるときの神が唯一でありさえすれば,いずれの神の観念も唯一なのです。そしてさらにいえば,このような多様な解釈を許容する観念も,神の観念が唯一であるといういい方も可能でしょう。
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愛することと殺すこと&ふたつの神

2021-03-20 19:05:53 | 歌・小説
 『『罪と罰』を読まない』で,ドゥーニャスヴィドリガイロフのソーニャになれなかった理由として結論づけられているのは,単にソーニャがラスコーリニコフを愛したようにはドゥーニャがスヴィドリガイロフを愛さなかったということだけにあるのではなく,ドゥーニャがスヴィドリガイロフを愛さなかっただけでなく,憎むこともしなかった,つまりドゥーニャがスヴィドリガイロフに対して愛さず殺さずという態度をとったからだとされています。確かにスヴィドリガイロフはドゥーニャが自身のことを愛してくれないのなら,徹底的に憎んでほしいと思っていたかもしれず,そういう結論も有力だと思います。
                                        
 これにつけ加えるなら,ソーニャは確かにラスコーリニコフを愛したのですが,ある意味ではラスコーリニコフを殺したという側面もあります。ラスコーリニコフが殺人という罪を犯したのは,ナポレオン思想という自身の思想に起因していました。しかしナポレオン思想を有したラスコーリニコフは,ソーニャに愛されることによって死んでしまった,いい換えればラスコーリニコフはナポレオン思想の誤りを知った人間として生まれ変わったとみることができます。つまりこの意味では,ソーニャは単にラスコーリニコフを愛しただけではなく,殺したとみることも可能なわけで,愛することもしなかったけれど殺しもしなかったドゥーニャと対照的にみることができます。
 ただこのような観点から,ドゥーニャがスヴィドリガイロフを殺すことができたかは疑問です。スヴィドリガイロフに何らかの思想があったとして,ドゥーニャがスヴィドリガイロフを愛すれば,そのスヴィドリガイロフを殺し,スヴィドリガイロフが新しい人間として生まれ変わるということが可能だったとは僕にはあまり思えないからです。したがってもしもドゥーニャがスヴィドリガイロフを殺すとすれば,ピストルで撃ち殺すというように,物理的に殺すことしかできなかったと思えます。しかしそれをドゥーニャに望むのは酷な気がします。
 ラスコーリニコフが死んだようにスヴィドリガイロフが死ぬためには,スヴィドリガイロフ自身が手を下すしかなかったのかもしれません。スヴィドリガイロフの自殺は,必然的な結果だったという見方もできそうです。

 神の観念idea Deiが唯一であることがどのような意味でならないのかを示すために僕が用いた例というのは,極端なものです。ただ,たとえば人間の精神mens humanaのうちに,ふたつの神の観念があるということは,僕たちが数を表象imaginatioの上で区別するということを条件とすれば,成立しないというものでもありません。
 第二部定理四七の意味は,僕たちが延長の属性Extensionis attributumと,延長の属性を観念対象ideatumとする思惟の属性Cogitationis attributumについては,それらを十全に認識するcognoscereということでした。第一部定義四から,僕たちが何らかの属性を認識するということと,何らかの実体substantiaの本性essentiamを認識するということは同一です。第一部定義六から神は実体substantiamです。そして第二部定理一と第二部定理二により思惟は神の属性であり,延長もまた神の属性です。したがって僕たちは,思惟の属性によって本性を構成される神と,延長の属性によって本性を構成されている神という,ふたつの神を十全に認識しているということは,まったく成立しないというわけではありません。延長の属性と思惟の属性との間には共通点はなく,第一部公理五により,一方の認識cognitioが他方の認識に依存するということがありません。そのゆえに第一部定理一〇により,延長の属性は延長の属性によってのみ概念されるのですし,思惟の属性は思惟の属性によって概念されるのです。つまり延長の属性はそれ自身によって考えられる唯一の属性として僕たちは認識するのであり,同様に思惟の属性もそれ自身によって考えられる唯一の属性として僕たちは認識します。そしてこの両属性が神という単一の実体の本性を構成するので,僕たちは延長の属性によって説明される限りでの神と,思惟の属性によって説明される限りでの神という,ふたつの神の観念を認識しているということになるでしょう。
 実際のところは,これはふたつの神の観念が人間の精神のうちにあるということを意味しているわけではありません。というのは,もしもAとBとが数によって区別されるのであれば,この区別distinguereは様態的区別でなければならないのですが,延長の属性と思惟の属性との区別は実在的区別だからです。すなわち,延長の属性と思惟の属性をふたつの属性とはいえません。
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棋王戦&観念の唯一性

2021-03-19 19:04:00 | 将棋
 17日に東郷神社で指された第46期棋王戦五番勝負第四局。
 糸谷哲郎八段の先手で角換り。先手が1筋の位を取って腰掛銀にすると後手の渡辺明棋王棒銀に。
                                        
 後手が玉を固めた局面。この局面で最も普通の手は☗6八玉ではないかと思います。ただこれは後手が攻めてきている地点に近付くので,避けたい感じもあります。後手がこの手を指さなかったのは,おそらくそうした理由からだったと推測します。
 実戦は☗4五銀と指しました。腰掛銀がここに出るのは,相腰掛銀でない場合は珍しい手で,この手の正否は一局の行方を大きく分かつものだったと思います。
 後手は☖7二飛と寄りました。これは銀取り。先手は☗7七歩と打って受けました。後手の継続手は棒銀を捌きにいく☖7五銀で,先手は☗8三角と打ちました。
 これには☖7三飛もあるところですが☖8二飛と戻りました。先手は☗7四角成。
                                        
 先手は駒損なく馬を作ることに成功したのですが,実戦はこの馬が攻撃目標になってしまいました。7四に成るのではなく6一に成っておいた方が,☗4五銀を生かすことができたようですし,7四に成ったのなら後手の飛車を押さえ込む展開に持ち込む必要があったようです。
                                         
 渡辺棋王が勝って3勝1敗で防衛第38期,39期,40期,41期,42期,43期,44期,45期に続く九連覇で通算9期目の棋王位獲得です。

 第二部定理四を証明する際に,第一部定理三〇に訴求するとき,有限なfinitum知性intellectusは無視して無限知性intellectus infinitusだけを考えればよいのなら,神の観念idea Deiには多様な解釈が要求されているということと,この定理Propositioとの間には齟齬はないということになります。ただし,第二部定理一一系は,人間の知性が神の無限知性,おそらくは第一部定理三〇で現実に無限な知性といわれているときに想定されていると思われる無限知性の一部なのですから,このような意味で有限な知性,いい換えれば無限知性の一部が有するような神の観念についても,第二部定理四が妥当するとするなら,神の観念に多様な解釈が許されるあるいは多様な解釈が要求されていると結論することと,第二部定理四との間には齟齬が生じると思われるかもしれません。ですがこの場合でも必ずしもそのように解さなくてもよいと僕は思いますので,その理由を説明していきます。
 第二部定理四が主張したいのは,神の観念の形相formaが,どのような知性にあっても同一であるということではありません。このことはこの定理がどのように論証されているのかということから明らかです。いい換えればこの定理は主体の排除との関連で考える必要はないのであって,神の観念が唯一であるという観点から考えるべきなのです。
 スピノザの哲学でいう唯一というのは,1という数のことをいうのではありません。ですから,仮にある知性のうちにある神の観念と,それとは別の知性のうちにある神の観念が,異なった観念であったとしても,神の観念が唯一であるということは論理上は可能です。この場合はふたつの神の観念があることになりますが,ふたつの神の観念の各々が唯一であることは可能だからです。一方,すべての知性のうちにある神の観念が同一である場合は,ひとつの神の観念だけがあるということになりますが,だからといってそのことから神の観念は唯一であると結論することはできません。このことのうちには,神の観念が唯一であるということは含まれていないからです。いい換えれば,このことをもってして神が唯一無二の存在であるということがその神の観念に含まれていると断定することができないからです。
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農林水産大臣賞典ダイオライト記念&第二部定理四

2021-03-18 19:04:06 | 地方競馬
 昨晩の第66回ダイオライト記念
 好発はエルディクラージュでしたが,内から上がってきたアナザートゥルースを先に行かせ2番手に。3番手のダノンファラオ,4番手のリンゾウチャネル,5番手のマスターフェンサーまでが一団の競馬。10馬身くらい開いてトーセンブル。5馬身差でナムラアラシ。1馬身差でコウエイワンマン。1馬身差でドリームリヴァール。4馬身差でスパークルメノウという隊列。最初の1000mは64秒0のミドルペース。
 2周目の向正面でエルディクラージュがアナザートゥルースに並び掛けていったところでペースアップ。3番手はリンゾウチャネルとダノンファラオの併走で,マスターフェンサーは押しながら何とか5番手を追走。一旦は巻き返して再び単独の先頭に立ったアナザートゥルースでしたが,最終コーナーでエルディクラージュがまた並び掛け,少し前に出ました。直線に入ったところで3番手との差は4馬身くらいに。直線に入ってエルディクラージュがアナザートゥルースを完全に振り切りましたが,一旦は離されたダノンファラオが外からまた脚を伸ばし,エルディクラージュを差し切って優勝。一旦先頭のエルディクラージュが1馬身半差で2着。逃げたアナザートゥルースが1馬身半差で3着。
                                   
 優勝したダノンファラオ浦和記念以来の勝利で重賞3勝目。このレースはマスターフェンサーのの力が上位で,負けられないくらいの相手関係と思っていたのですが,2周目の向正面でペースアップしたときに追走に汲々となり,直線に入ったところでは早々に一杯。敗因が何であったのかは不明ですが,能力を出し切ることができませんでした。上位に入った3頭は能力的には2番手グループで差はそんなになく,その中で最後に脚を使うことになったダノンファラオが展開的に有利になったといったところでしょう。現状ではトップクラスとは差があると思いますが,まだ成長の余地を残しているようなレースぶりであったようには見受けられました。
 騎乗した川田将雅騎手は第64回以来2年ぶりのダイオライト記念2勝目。管理している矢作芳人調教師はダイオライト記念初勝利。

 神の観念idea Deiには多様な解釈が可能ですし,またそれを求められているのだとしかいいようがないとないと結論しておきます。
 神の観念の解釈には,第二部定義三のほかに,さらに求められる条件があります。それが第二部定理四です。
 「無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じてくる神の観念はただ唯一でしかありえない」。
 この定理Propositioは,神の観念について多様な解釈が要求されているという結論に反するように思われます。実際にその通りかもしれません。ただ一方で,必ずしも反しないという見方も可能だと思われますので,その場合についての説明だけしておきます。
 この定理は,第一部定理三〇第一部定理一四系一を援用して証明されています。つまり,知性intellectusが認識するcognoscereのは神の属性attributumとその変状affectioだけであって,神は唯一であるから,無限に多くのinfinitaものが無限に多くの仕方で生じる神の観念は唯一であるといっているのです。なお,第一部定理三〇は,知性が無限infinitumである場合でも有限finitumである場合でも成立する定理ですが,スピノザはこちらの定理の論証Demonstratioの冒頭では無限知性intellectus infinitusだけを主語に置いています。これは,無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じるということは,無限知性だけが認識できるのであり,有限の知性たとえば人間の精神mens humanaにはそれを認識することが不可能であるとスピノザが前提しているからかもしれません。するとこの場合は,人間の精神のうちにある神の観念については言及されていないということになりますから,多様な解釈についてはほとんど影響を与えていないといえます。そもそも畠中の区分が有効であるというのは,人間の精神のうちにある神の観念と,神のうちにある神の観念が異なっている,あるいは人間の精神のうちにある神の観念は神のうちにある神の観念の一部であるからなのであって,神の観念のうちにある神の観念についてだけがこの定理の中で言及されているのだとしたら,それはただ人間の精神が有限であることの限界のゆえに,神の観念は多様な解釈が可能であるという結論が出てくるといえばよいのであり,いい換えればこの結論が,人間の精神が有限であることの限界の地点を表していることになるでしょう。
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マイナビ女子オープン&神の観念

2021-03-17 19:01:35 | 将棋
 15日に指された第14期マイナビ女子オープン挑戦者決定戦。対戦成績は伊藤沙恵女流三段が1勝,塚田恵梨花女流初段が0勝。
 振駒で塚田初段の先手。伊藤三段のウソ矢倉に先手が左美濃で対抗。先手がうまく指し回していました。
                                        
 ここから☗6一角☖9二飛☗4五歩と指しましたが,この手順は一貫性を欠き,著しく形勢を損ねてしまったようです。
 もしも局面ごとに最善手を探索する場合,☖9二飛の局面の最善手が☗4五歩となることはあり得るでしょう。ですが人間の将棋の場合はこれではいけません。その後に齟齬が生じないような指し手を事前に選択しておかなければならず,☗6一角は激しく攻めていく手であるのに対し,☗4五歩を局面を落ち着かせに行く手で,明らかに矛盾しているからです。ですから☗4五歩と指すのであれば第1図で指さなければなりませんし,☗6一角☖9二飛と攻めたのなら☗4五桂ないしは☗4三角成でなければいけません。そしてもしも☗6一角と打つ手でその後の見通しが立たないのなら,それは自重するべきなのです。よって先手の敗因は,何らかの悪い手を指したということではなく,第1図で考慮を欠いたという点に求められることになるでしょう。
 こういったことは持ち時間とも関係します。たとえば持ち時間が5時間ならゆっくりと考えられるので,見通しを立てられるけれど,3時間ではそんなに時間を使えない場合はあり得ます。また早指しであれば時間がないがゆえに思い切って攻める方が相手も早指しで対応しなければならないので功を奏するということが往々にしてあります。つまり持ち時間によっても,人間の将棋は指し手の選択が変化するのです。このあたりはAIの将棋にはない,人間の将棋に特有の本質だといえそうです。
 勝った伊藤三段が挑戦者に。マイナビ女子オープンへの挑戦は初めて。第一局は来月6日に指される予定です。

 神の観念idea Deiに関する考察はここまでにします。どう考えることができるかをまとめておきましょう。
 第二部定理七系で神の観念といわれているとき,それは思惟の属性Cogitationis attributumの能産的自然Natura Naturansと解せます。
 第二部定義三は,観念ideamは観念対象ideatumが何であれ,思惟の様態cogitandi modiすなわち思惟の属性の所産的自然Natura Naturataであることを示していると解せます。
 第一部定理二一の論証Demonstratioでスピノザが一例として神の観念を示すとき,この神の観念は思惟の属性の直接無限様態すなわち書簡六十四によって無限知性intellectus infinitusを意味していると解せます。
 絶対に無限な実体substantiaとしての神のうちに神自身の観念があるという仕方で神の観念を神と関連付けることは,不可能であると断定することはできず,したがってそのように神と関連付けられる神の観念が存在するということを否定することはできません。この場合,神の観念は無限知性の一部を構成すると考えなければならないために無限知性そのものであることはできません。しかし同時にこの観念は無限であるかはともかく永遠aeterunusであるとは考えられなければならないので,持続するdurareものと考えることはできません。いい換えれば思惟の属性の有限様態すなわち個物res singularisと考えることもできません。よってこの場合の神の観念は,思惟の属性の間接無限様態であると解せます。そしてこの神の観念を人間の精神mens humanaが十全に認識するcognoscereことはできません。『スピノザ哲学論攷』で河合徳治が示唆している神の観念は,このように解せられる神の観念である,少なくともそれに酷似しています。
 人間の精神のうちに神の観念があるといわれる場合,第二部定理一一により人間の精神自体が個物なので,神の観念も個物であると解さなければなりません。いい換えれば第二部定義七により,この神の観念はほかの個物の観念と協同して人間の精神というひとつの個物を構成する個物です。そしてこの神の観念は,第二部定理四七の論証のあり方から,延長の属性Extensionis attributumによって説明される限りでの神であり,延長の属性を観念対象とした思惟の属性によって説明される限りでの神です。
 これらの解釈のすべてを,『エチカ』はあるいはスピノザは,僕たちに要求しているのだといっておきます。
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