スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京優駿&真空と学知

2020-05-31 19:31:28 | 中央競馬
 日本ダービーの第87回東京優駿
 大外でしたがウインカーネリアンがハナへ。2番手にコルテジア。3番手にコントレイルとヴェルトライゼンデとディープボンドという順で向正面に入りましたが,後方にいたマイラプソディが一気に動き,向正面の途中で先頭に出ました。2番手にコルテジア,3番手にウインカーネリアンとディープボンド。5番手にコントレイルとヴェルトライゼンデという隊列に変化。6番手はアルジャンナ,ワーケア,ガロアクリーク,ヴァルコスの4頭。1馬身差でサリオス。1馬身差でサトノインプレッサ,ビターエンダー,ダーリントンホール。1馬身差でサトノフラッグ。1馬身差でブラックホール。1馬身差でレクセランスと17頭が凝縮。最後尾のマンオブスピリットも2馬身差で続きました。最初の1000mは61秒7のスローペース。
 マイラプソディとコルテジアは並んで直線に。ウインカーネリアンは内からでしたがその他の馬は外に出てきたので,横に大きく広がる形に。すぐに前が開いたコントレイルは徐々に外に出てきながら伸び,内で競り合う各馬をまとめて差し切ると,さらに後ろとの差を広げていって圧勝。コントレイルのさらに外から追う形になったサリオスは,引き離される形で3馬身差の2着。コントレイルが抜けてからその内に入ってきたヴェルトライゼンデが1馬身4分の3差で3着。馬群を捌きつつ最後はヴェルトライゼンデの内から伸びたサトノインプレッサがアタマ差で4着。
 優勝したコントレイル皐月賞に続き大レース3勝目。デビューからの連勝も5まで伸ばしました。適距離ではないと思うのですが,皐月賞よりも差をつけて勝つことができたのは,サリオスよりは適性が高かったというのもあるでしょう。スタミナ比べにはならないスローペースのレースになったのは有利に働いたのではないかと思います。父は第72回を制したディープインパクトで父仔制覇。Contrailは飛行機雲。
                                        
 騎乗した福永祐一騎手はかしわ記念以来の大レース36勝目。第85回以来2年ぶりの日本ダービー2勝目。管理している矢作芳人調教師は皐月賞以来の大レース16勝目。第79回以来8年ぶりの日本ダービー2勝目。

 公理論の中に非実在的なものの定義Definitioを組み込むということ,単に定義として組み込むのではなく,その非実在的なものを吟味するために役立つようなよい定義として組み込むことが可能であるということは,スピノザも認めると思います。いい換えればたとえ非実在的なものが公理論の中に組み込まれているのだとしても,それが吟味するのに役立つような形で組み込まれているのである限り,それは公理論として成立するということをスピノザは認めるでしょう。
 さらにいうとこのことは,その公理論のことをスピノザが学知scientiaとして認めるか認めないかということとは直接的には関係しません。というのは,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』では真空vacuumが定義されているがゆえに,非実在的なものが『デカルトの哲学原理』という公理論の中に組み込まれているのですが,実際にはそれは,真空なるものは存在しないということを証明するために組み込まれているからです。したがってその限りにおいてはスピノザの考え方とデカルトRené Descartesの考え方が一致しているのであって,公理論の中からこの部分だけを抽出するなら,スピノザがそれを学知ではないということはできません。スピノザは真空が存在しないということが真理veritasであると認めているのですから,真理を明らかにしていることを学知でないということはできない筈だからです。いい換えればスピノザは,たとえ非実在的なものが組み込まれている公理論でも,それを学知としてあるいは真理として認める場合があるということです。この観点から説明した方が,スピノザは非実在的なものが組み込まれている公理論であったとしても,それが要件を満たすように組み込まれている限り,それを公理論として認めるということは分かりやすいかもしれません。
 次に,バディウAlain Badiouが公理論的集合論を記述しようとするときに,スピノザが求めるような条件の下で空を定義することができるのかという点については,僕は確実なことはいえません。そもそも集合論における空という概念notio,つまり存在論を離れた数学としての空という概念がいかなるものであるのかということを僕は知らないからです。ですが,それが不可能だとは思えないです。
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印象的な将棋⑰-1&真空の定義

2020-05-30 19:05:52 | ポカと妙手etc
 AbemaTVの将棋チャンネルでは,公式戦が生中継されることがあります。その中には,解説がありのものとなしのものがあって,解説がある場合には一手一手の善し悪しが何となくでも分かる場合が多いのですが,解説がない場合にはそれが僕の力だけでは分からないため,勝ちそうだと思っていた方が急に負けになっていて驚くということが,しばしばではありませんがたまにあります。今回は昨年度の放映の中から,そういう将棋を紹介していきます。これはこういう将棋を紹介することで,僕が解説のない将棋を,どういった観点から観戦しているのかということも分かってもらえるだろうと思うからです。
 取り上げるのは昨年度のA級順位戦二回戦の将棋。後手のダイレクト向飛車でした。
                                        
 記憶が定かではないのですが,僕は観戦を始めたのが第1図あたりからだったと思います。
 この局面は終盤戦に入っています。将棋が終盤になってから観戦し始めた場合は,僕はまずどちらが勝ちそうかということから考えていきます。プロの将棋の場合は一手違いになることが多いので,僕の力ではどちらが勝ちそうなのか分からない場合が圧倒的に多いのですが,この将棋は例外で,先手が勝つのではないかと思いました。理由としては,手番は後手ですが、飛車角しかなく,すぐに先手玉を寄せるのは大変そうであること。それに対して先手は持駒が豊富で,5五の馬が攻守によく効いていることです。どちらが勝ちであるかは分からないことが多いので,僕の力でこのように判断することができる場合は,差がついているということも往々にしてあります。この将棋は,それほど大きな差であったわけではないのですが,ここは先手がよいという判断自体は誤っていませんでした。僕はこの認識をもったまま,観戦を続けていくことになります。

 バディウAlain Badiouは,空を考察の対象としなければならないから公理論が採用されなければならないと主張していました。おそらくその根拠は,公理論において空を定義する必要があったらだと僕は思います。それ以外に,非実在的なものを考察の対象とするために,公理論を採用しなければならないという理由が僕には見当たらないからです。ですからバディウはきっと,考察のために空を定義する必要があると考えていたのでしょう。そして空を定義してしまえさえすれば,空について考察することが可能になると考えていたのだと思います。
 これだけでは,スピノザが示す定義Definitioの要件を,バディウが定義しようとした空が満たすということはできません。空が,あるいはもっと広くいえば,非実在的なものが,知性intellectusがそれを概念するconcipereのに資するような形で定義され得るのかということはまだ判然としていないからです。同時に,公理論における定義の要件について,バディウがスピノザが示したようなものとして解していたかも分からないからです。ただ,スピノザが示すような条件を満たす形で空を定義することは,できないことではないだろうと僕は考えています。
 『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第二部定義五では,真空が定義されています。それによれば真空とは物体的実体substantia corporeaのない延長Extensioのことです。この定義は,真空を説明するために役立つ定義であるとはいえません。物体的実体のない延長というのは,それ自体で何らかのものの本性essentiaを説明するとはいえないからです。ですが物体的実体とか延長というのが何であるのかということは,定義するかどうかということは別としても,『デカルトの哲学原理』という公理論の中で明らかにすることができる事柄ですから,真空を吟味するためには役立つ定義です。そして真空というのは非実在的なものですから,非実在的なものを,吟味するために役立つように定義するということができるということは,この一例が明示しているといえるでしょう。いい換えれば,たとえそれが非実在的なものであったとしても,公理論を論証していくために,知性は非実在的なものを概念することができるのであり,そのための定義も立てられるのです。
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フロム&非実在的なものの定義

2020-05-29 19:08:08 | 哲学
 今回のバディウAlain Badiouを巡る考察の中で,フロムErich Seligmann Frommは自身の社会心理学を裏付けるために,スピノザとアリストテレスAristotelēsを多く援用しているという説明をしました。いかに哲学で自身の論理を裏付けようとしているとはいえ,フロムは社会心理学者であり,哲学者ではありません。ただ,ずっと以前にいったように,僕にスピノザに対する関心を惹起してくれたのがフロムですので,ここで詳しい人物像を紹介することも徒労ではないでしょう。
                                       
 フロムは1900年にフランクフルトで産まれました。一家は正統派のユダヤ教徒です。13歳の時からタルムードの研究を始めましたが,26歳で信仰は捨てました。それ以前に社会学と心理学を大学で専攻し,この頃からは精神分析学も研究するようになりました。31歳でフランクフルト大学の精神分析所で講師となったのですが,その後にナチスが台頭。信仰は捨てていたとはいえユダヤ人でしたから,一旦はジュネーブに移住。そして1934年にアメリカに移住し,コロンビア大学で職を得ました。フロムは多くの著作を出版し,ほとんど邦訳もされていますが,それらはすべてアメリカに移ってからのものです。1949年にはメキシコに移り,メキシコ国立自治大学やメキシコ心理分析研究所で教えていますが,その間も並行してアメリカでも教授を務めています。1974年にすべての教授職を辞し,スイスに戻りました。1980年にスイスの自宅で死んでいます。
 社会心理学者ではありますが,その理論を哲学的に裏付けることに熱心であったことからも分かるように,きわめて倫理的なあるいは道徳的なことも発言しています。そうした事柄が多くの著作に含まれているので,フロムの著作はいわゆる学術書というのとはかなり趣を異にしています。そして同時にそのような要素が含まれているがゆえに,学術的な知識が乏しいとしても,理解するのはさほど困難ではないような内容を有しています。多くの著作が邦訳されたのは,人気がある学者だったからではありますが,そのような読みやすい内容が,読者によって支持されたからでもあるでしょう。

 なぜ僕が,スピノザは公理論の内部に非実在的なものが含まれることを一般的には否定しないであろうと考えるのかといえば,スピノザは定義Definitioの条件として,定義されるものをその定義されるものに則して正しく示されなければならないということだけを掲げているわけではないからです。もちろんスピノザは,そのような定義が定義の要件を満たすということは認めます。しかし一般に定義のすべてがそうしたものでなければならないとはいいません。これはシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てた書簡九から明らかです。そこではスピノザは,定義には二種類あるのであって,ひとつはその本性essentiaが不確かなものを説明するために役立つ定義で,もうひとつはそれ自身が吟味されるために立てられる定義であるとしています。このうち前者は,定義されたものを正しく説明する定義に該当するのに対し,後者はそれには該当しません。むしろ定義されたもの自体を吟味する,つまり公理論の中での論証Demonstratioに役立てる定義なのですから,そうしたものの本性は,もしそれが論証の中で明らかにされるのであっても構わないことになります。ただし一方で,それは吟味されるために役立たなければならないので,その定義が与えられた場合には,それを吟味する人が,吟味する人がというのはその人の知性intellectusがというのと同じですが,それを正しく概念するconcipereことができるのでなければなりません。いい換えれば後者でスピノザが掲げている要件は,知性がそれを十全に概念することができる定義であるということになります。
 したがって,もしも空を定義するときに,その定義が空について知性が十全に概念することに資するものであるとすれば,その定義はスピノザが示している定義の条件を満たしていることになります。というよりも空というのは一例にすぎないのであって,非実在的などんなものであったとしても,それを知性が概念するのに資する定義が与えられさえすれば,スピノザはその定義は定義として正しい,いい換えればそれはよい定義であることを認めるのです。よって少なくともスピノザは,非実在的なものの定義を公理論のうちに組み込むことを,一般的には否定できない筈なのです。
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カーンの雑感②&ひとつの見解

2020-05-28 19:12:27 | NOAH
 カーンの雑感①で示しておいたことに十分な考慮を払いつつ,キラー・カーンの証言を紹介していきます。
 カーンは日本プロレスに入門してすぐ,吉村道明の付き人になりました。吉村の証言というのを僕は目にしたことがありませんから,吉村がどういう人物であったのかはほかの人の証言から類推するほかないのですが,吉村のことを悪く言うような発言を僕は目にしたことがありません。むしろプロレスラーとしては,かなり一般常識を兼ね備えた人物であったと解してよさそうに思えます。
 吉村について最も多くのことを語っているのはジョー・樋口です。樋口は大阪の全日本プロレス協会というところでプロレスラーとしてデビューしたのですが,そのときに先輩として吉村がいました。この団体は1956年の夏に解散。本拠を三島に移して山口道場として再開しました。樋口はこの夏でプロレスラーを引退するつもりでしたが,吉村に誘われて,10月に日本プロレスを含めた4団体が参加する2日間のトーナメントに参加しました。これで山口道場も持ち直したのですが,その後に大阪で開催した大会の売り上げをマネージャーが持ち逃げしたため消滅。吉村は力道山に誘われて日本プロレスに移籍し,樋口は吉村の推薦でやはり日本プロレスに入団することになりました。
 1971年12月に猪木が日本プロレスを追放された後,日本プロレスの経営陣の放漫ぶりが新聞紙上を賑わせるようになりました。樋口はそのことにショックを受けて退社を決意。それを吉村に相談したところ,吉村は樋口の覚悟を引き留めることはできないし,自分も身を引くつもりであると語ったと樋口は証言しています。
 馬場が退社したのは1972年7月で,樋口は自身の退社直後に馬場から連絡を受けています。つまりこれは1972年の出来事の筈です。吉村はそのときには身を引くことはなかったので,カーンは吉村の付き人を続けていました。吉村が引退したのは1973年3月。その時点で樋口はすでに全日本プロレスで仕事をしていました。吉村の引退の時期は,カーンのプロレスラー人生にも影響を与えたかもしれません。

 たとえばある公理論者がいるとして,その人が,定義Definitioというのは定義されるもののことを正しく説明するものでなければならないという要件を与えたとしましょう。するとこの人は,空を定義することを認めることはできません。あるいはもっと広く,非実在的なものを定義することを肯定することはできません。定義されるものを正しく説明するというのは,定義の命題のうちに,定義されるものがいかに発生するのかということを,定義される対象に則した形式で含んでいなければならないということを意味します。これを非実在的なものに該当させるのは不可能です。もしくは不可能というより不条理といった方がいいかもしれません。よってこうした公理論者は,非実在的なものを定義することを認めないということになります。
 僕はそれはそれでひとつの考え方なのであって,そういう公理論者がいて,その公理論者が何らかの公理論を叙述したとしても,それが公理論であるということを認めます。現実的なことをいえば,その公理論が学知scientiaであるためには,非実在的なものを含むことができない,他面からいえば実在的なものだけしか対象とすることができない,少なくとも実在するものだけを対象としなければ現実的に意味を有することができない学知というものも存在すると僕は考えるからです。たとえば医学とか生物学といった学問は,おおよそ実在的な対象だけを専門的に扱う学問であるといって,それほど正確性を欠くことはありません。したがって,医学とか生物学を公理論として示す場合は,そこには実在的なものだけが含まれることになるでしょう。逆にいえば,非実在的なものは不要でしょう。ですから,現実的には非実在的なものを含ませることができない公理論というのは存在するのであって,それもまた公理論であることを認める以上は,定義のうちに非実在的なものを含ませることを禁じるような公理論も,一般的に公理論として僕は認めるのです。
                                        
 スピノザの公理論つまり『エチカ』もまた,非実在的なものを含んでいない公理論です。ですが,スピノザは公理論の中に非実在的なものを含むことを一般に禁じることはないと僕は考えます。
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農林水産大臣賞典さきたま杯&定義の必要性

2020-05-27 19:08:40 | 地方競馬
 第24回さきたま杯
 ゴールドクイーンが躓いて1馬身の不利。この影響もあってノブワイルドがすんなりとハナへ。サイタスリーレッドが2番手で3番手にノボバカラとブルドッグボスとキャプテンキング。6番手にウインオスカー。2馬身差でジャスティン。2馬身差でブルベアイリーデ。9番手にコパノチャーリー。10番手にゴールドクイーン。7馬身差でペイシャゲラン。7馬身差の最後尾にキタノイットウセイと,2頭は取り残されました。最初の600mは35秒2のハイペース。
 サイタスリーレッドが早めに一杯となったため,3コーナーから直線の入口にかけてノブワイルドのリードは3馬身ほどに。内のノボバカラと外のキャプテンキングが2番手で,この2頭の後ろは内がブルドッグボスで外がジャスティン。ノブワイルドは直線では一杯になり,差し切ったノボバカラが優勝。直線で外に持ち出したブルドッグボスが1馬身差で2着。粘ったノブワイルドが1馬身差の3着。
 優勝したノボバカラは昨年5月のオープン以来の勝利。重賞は2016年のカペラステークス以来の4勝目。この馬はこのメンバーでは能力上位とはいえないのですが,先行争いが激しくなりそうな展開面と,斤量からは,優勝争いも可能ではないかと思っていました。結果的に位置取りがよく,さらに内を回ってこられたことでの優勝でしょう。3着馬まですべてが内を回った馬で占められましたので,これはかなり大きかったのではないかと思います。このくらいのメンバー構成であれば大きく崩れることはないタイプですが,勝つには何らかの恩恵が必要とされるレベルの馬だと思います。父は2007年にシンザン記念と弥生賞,2008年に京都記念を勝ったアドマイヤオーラ。その父がアグネスタキオンで母がビワハイジ
                                        
 騎乗した船橋の森泰斗騎手TCK女王盃以来の重賞5勝目。さきたま杯は初勝利。管理している森秀行調教師は第7回,10回に続く14年ぶりのさきたま杯3勝目。

 公理論における公理Axiomaが共通概念notiones communesを意味するのなら,空を公理として採用することはできません。あるいはもっと一般的に,非実在的なものを公理として採用することはできません。第二部定理三八および第二部定理三九からして,そうしたものが現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに共通概念として発生することは不可能だといえるからです。よって,非実在的なものを公理として採用する公理論があるとすれば,スピノザはそれは公理論としては成立しないというでしょう。僕もまたこの点に関しては,同じように公理論であるとは認めません。
 公理として採用できないのであれば,定義Definitioとして与えられるか,そうでなければ定理Propositioとして証明されるほかありません。ただし,何ら非実在的なものの定義が与えられていないのに,それについて論理的に証明されるということは不可能であるといわなければなりません。実在的なものの定義だけを原因causaとして,非実在的なものが発生するということはあり得ないからです。これは有esseを原因として無が発生することはあり得ないというのと同じ意味ですから,とくに説明するまでもないでしょう。したがって,非実在的なものが公理論の中に含まれるためには,何らかの非実在的なものが,論証Demonstratioより前に定義されているのでなければなりません。ですから,公理論の中に非実在的なものを組み入れることができるかどうかという問いは,非実在的なものを定義することが可能であるかどうかという問いと,事実上は同じことになると僕は考えます。
 この問いに対する解答は,きっと見解opinioが分かれるところだと僕は思います。というのは,公理論における定義がどのようなものでなければならないのか,あるいは定義はどのようなものであるべきなのかということについては,公理論者の間で必ずしも見解が一致しているわけではないと思われるからです。ですからこの問いに対する解答は,各々の公理論者の見解に沿って与えられることになるのだろうと思います。ただ僕は,その点に見解の相違があるのだとしても,それが公理論であることは認めます。つまり定義の条件に相違はあっても,そのすべてが公理論であるということは認めます。
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僕たちの将来⑥&公理

2020-05-26 19:02:05 | 歌・小説
 の直後との直後に同じように挿入されているのは,次の歌詞です。

                                        

     僕たちの将来はめくるめく閃光の中
     僕たちの将来は良くなってゆく筈だね


 閃光はひかり,と歌われます。ですから,ふたりの将来について明るい見通しをもっているのだともいえるでしょう。しかし②でいったように,実際にはふたりの目は将来よりも過去に向いているのです。ですから実は何か根拠があってふたりの将来は見通しが明るいといっているのではありません。むしろ将来に対する不安を打ち消したいがために,このようにいっているのだといえるでしょう。だから良くなってゆく,と断定することはできず,そうなる筈だといういい方になっているのです。
 歌詞カードには掲載されていませんが,これはの直後にも歌われます。そこにはある意図が込められているように思えます。なぜなら⑤の部分では,暑い国の戦争について歌われていたからです。光ではなく閃光と記してひかりと歌われていることと戦争とを連想して表象しても,おかしくはないでしょう。
 さらにやはり歌詞カードには掲載されていませんが,この楽曲は次のような歌詞で終焉を迎えます。

     僕たちの将来はめくるめく閃光の中
     僕たちの将来は良くなってゆくだろうか


 ついには良くなってゆく筈だということもできなくなっています。暑い国の戦争よりも切れないステーキに腹を立てているふたりの将来は,本当に良くなってゆくのでしょうか。

 バディウAlain Badiouが公理論を必要とした要因と,スピノザが公理論を必要とした要因には,それぞれの重要性では違いがあったかもしれませんが,類似している点があることは確かです。そして同時に,空を含むような公理論,バディウがいうところの公理論的集合論が,公理論ではないということはスピノザにはできないでしょう、公理論というのはその内部で一貫した論理性を有している必要がありますが,逆にいえばそれさえ備えていれば公理論として成立するからです。いい換えれば,たとえある公理論が事柄の真理性については何ら明らかにするものではないとしても,その公理論の内部で論理的一貫性さえ保持しているのであれば,それは公理論です。唯名論的な考え方を有しているスピノザが,公理論についてこのことを否定することはできない筈であるというのが僕の見解opinioです。
 次に,公理論の中に空のような非実在的な概念notioが組み込まれることをスピノザは許容するのかといえば,これも僕の考えでは許容します。『エチカ』という公理論の中には非実在的なものが組み込まれる余地はないのですが,だからといってどのような公理論の中にも非実在的なものが組み入れられてはならないということにはならないだろうと僕は考えるからです。正確にいえば,スピノザはそのように考えるconcipereであろうと僕は解するからです。それは概ね次のような理由によります。
 公理論というのは,初めにものの定義Definitioがあり,それから公理Axiomaがあって,様ざまな事柄を定理Propositioとして証明していく論理構成を有します。このときスピノザは,公理を共通概念notiones communesと等置します。第二部定理三八および第二部定理三八系から,共通概念すなわち公理というのは,万人にとってそれ自体で明らかな内容を有していると考えられます。実際には『エチカ』の公理のすべてがこの要件を満たしているとは僕は考えていませんが,そのことについては別に考察してありますから,ここでは脇に置いておきます。ただ,このことは『エチカ』についてのみ妥当するのではなく,どのような公理論にあっても公理というのはそういうものでなければならないとスピノザは解するであろうということを重視しておきます。
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ワンダーランドカップ&公理論の必要性

2020-05-25 18:58:12 | 競輪
 昨日の宇都宮記念の決勝。並びは渡辺雄太‐堀内の南関東,野原‐浅井の近畿中部に神山,松浦‐渡部哲男の瀬戸内,中川‐大槻の同期。
 大槻がスタートを取って中川が前受け。3番手に渡辺雄太,5番手に松浦,7番手に野原で周回。残り2周のホームを過ぎると野原が上昇開始。バックで堀内の横あたりまで来ると渡辺雄太が動き,中川を叩きました。野原はその外から上昇し,打鐘で渡辺雄太を叩いて前に。4番手に渡辺雄太,渡辺雄太に続いた松浦が6番手,引いた中川が8番手の一列棒状に。このままペースアップせずに進み,ホームを過ぎてから野原の抑え先行に。渡辺雄太がバックから動きましたが,浅井が野原との車間を開けて待ち構えていたため,それ以上は前に出られませんでした。浅井は直線に入ってから踏み込んで優勝。浅井マークの神山が1車身差の2着でこのラインのワンツー。外から追い込む形になった松浦が4分の3車身差で3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は前回出走の高知記念に続いての優勝で記念競輪28勝目。宇都宮記念は2013年以来の2勝目。このレースは浅井と松浦の脚力が上位。浅井は自力ではなく野原の番手を選択しましたが,その野原が先行してくれたので有利になりました。競輪は開催の中止が相次いで,出走機会が激減しているのですが,間隔があると疲労が取れて力を出せるということがままあります。これからしばらくの間は展開よりも脚力を重視した方がいいかもしれません。

 それが数学的な対象ではないとしても,存在しないものを存在論に組み込むことは可能であると僕は認めますから,バディウAlain Badiouが集合論を存在論の文脈で語ること,いい換えれば集合論を存在論のひとつであるとみなすこと自体は僕は否定はしません。ただしこれについて,スピノザがどのように解するかは分からないとしておきます。ただ,もしもスピノザがそのような,存在しないものが組み入れられているものは存在論ではないというのだとしても,現状の考察において求めているのは,集合論を存在論であるとスピノザは認めるのかということなのではなくて,存在しないものが組み込まれている集合論を数学として,正確にいえば学知scientiaとしての数学として認めるのか否かということなのですから,スピノザが存在しないものについての論理を存在論としてみなすかどうかということが影響を及ぼすことはないと思います。
                                        
 スピノザは分析としての数学には大きな関心を寄せず,公理論的な証明Demonstratioばかりを行っていたと上野は言っていますが,その理由のひとつとして,絶対的なものとしての量,分割することができない量という概念notioをスピノザは必要としていたということがあげられます。このような量というのは,経験に訴えることによって人間の知性intellectusが把握できるものではないため,公理論的な仕方で定義Definitioを与え,知性がそれを概念するconcipereことができるようにする必要があるからです。僕はスピノザが公理論的な証明を行っていた主要な理由がこの点にあったとは考えませんが,少なくともそうした量というのは,公理論の中でしか示すことができないということだけは確かなことだと考えます。
 バディウは,存在論は多の存在論でなければならず,多の存在論は空を必要とし,空は非実在的なものであるがゆえにそれは公理論として示されなければならないといっています。これも,非実在的なものについて,それは非実在的であるがゆえに人間の経験に訴えることはできないと解するなら,その直接的な原因causaとなっている概念には量と空という相違はあるものの,スピノザと同じような理由,あるいは一致した理由から公理論を必要としたとみることができるでしょう。
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優駿牝馬&存在しないものの存在論

2020-05-24 19:23:38 | 中央競馬
 オークスの第81回優駿牝馬
 桜花賞でも逃げて3着に粘ったスマイルカナがハナへ。1コーナー過ぎからじわっと上昇していったウインマリリンが向正面に入るところでは単独の2番手。3番手はクラヴァシュドールとアブレイズ。5番手にウインマイティーとホウオウピースフルとフィオリキアリ。8番手にミヤマザクラとウーマンズハートとマルターズディオサ。ここから3馬身差でリアアメリア。12番手にデアリングタクトとインターミッション。14番手にリリーピュアハートとデゼル。16番手にマジックキャッスルとサンクテュエールで最後尾にチェーンオブラブ。最初の1000mは59秒8のミドルペース。
 直線に入るところでスマイルカナのリードは1馬身。2番手がクラヴァシュドールで3番手がアブレイズ。この中から一旦はクラヴァシュドールが先頭に立ちましたが,すぐにその外からウインマイティーが伸びてきて先頭に。直線に入るところでは一旦は内に控えたウインマリリンもそのまま最内から伸び,まずはこの2頭の争い。それを馬群の中ほどを捌いて伸びてきたデアリングタクトがまとめて差し切って優勝。ロスなく内を回ったウインマリリンが半馬身差で2着。ウインマイティーがクビ差で3着。
 優勝したデアリングタクト桜花賞に続き大レース2勝目。デビューからの連勝を4に伸ばしました。桜花賞の回顧でもいったように,内容的にほかの馬たちの能力を明らかに上回っていると思えましたので,ここも中心。今日も2着馬と3着馬は直線の入口では4番手の内と外にいた馬で,そうした位置取りの馬に向いたレースだったのでしょうから,それを後ろから差し切ってしまうというのは,やはり能力が抜けていたからこそできた芸当であったと思います。2着馬と3着馬は桜花賞には出走しておらず,着差は桜花賞より小さかったので,おそらく距離適性は2着馬と3着馬の方が上で,デアリングタクト自身は2400mよりは1600mの方が向くということなのではないでしょうか。父はエピファネイア。祖母に2006年にクイーンステークスと府中牝馬ステークス,2007年に府中牝馬ステークスを勝ったデアリングハート
 騎乗した松山弘平騎手は桜花賞以来の大レース4勝目。オークスは初勝利。管理している杉山晴紀調教師は桜花賞以来の大レース3勝目。オークスは初勝利。

 存在論というのは,もしもそれを文字通りに解するならば,存在するものについての論理です。したがって,存在しないものについての考察は,この意味においては存在論とはいえません。いい換えるなら,存在しないものは存在論の中に組み込むことが不可能なあるものであるということになります。
 しかし,何を存在論であるというのかは別としても,存在論の中に存在しないもの,いい換えれば非実在的なものが組み込まれている場合というのは,実際にはあると僕は解しています。もしも存在するものについて探求する場合に,存在しないものについても考慮しなければならないという論理構成を構築するなら,その存在論の中には存在しないものが組み入れられなければならないからです。たとえば,Deusの本性essentiaには自由意志voluntas liberaが属すると仮定して,現実的に存在するものは神の意志によって存在するとしましょう。この場合には,神がある特定の意志を発揮したがゆえに現実的に存在するものが存在するということになるので,もしも神が現に意志をしたのとは異なった意志を発揮していたとすれば,現にあるのとは異なったものが存在するようになっていたことでしょう。他面からいえば,現に存在しないものが存在することになったでしょう。したがって,もしもこのような理論構成の下で存在論を構成するのであれば,その存在論の中には,存在するものだけが含まれれば十分であるとはいえず,むしろ存在しないものについても含まれていなければなりません。とくに神の本性に自由意志が帰せられる場合には,無限に多くのinfinita可能性のひとつとして現にあるものが存在するということになるので,存在しないもの,非実在的なものについては,存在するもの,実在的なものよりも多く含まれていなければならないということになります。ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizのモナド論を存在論的に解するならこのようなことになると僕は考えます。ですから,存在しないものが存在論の中に含まれるということは,それが数学的な対象であるかないか,あるいはそれが数学の対象になり得るかなり得ないかということと無関係に,つまり単に哲学的にも,あり得るのだといわなければなりません。
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印象的な将棋⑯-8&唯一の問題

2020-05-23 18:54:19 | ポカと妙手etc
 ⑯-7の第2図ですが,飛車を逃げられてしまった以上,先手は6五龍と銀の方を取るほかありません。
                                      
 第1図となって駒割だけなら先手の銀得です。ですが後手は5七にと金を作っているのが大きく,互角に戦えるのです。というか,ここはすでに後手が優勢です。
 後手は☖5六銀と龍取りに打ちつつ攻めに厚みを加えました。先手はとりあえず☗5二銀打と王手をして☖3一玉に☗5四龍と逃げました。後手が☖6六歩と打ったのに対して先手は☗7五角の王手。後手は☖5三歩と中合いをして☗同龍に☖6七歩成と攻め合いにいきました。
 これには☗5六龍と銀を取る手が空き王手になるのですが,そこで☖2一玉と逃げるのが決め手でした。
                                      
 同じようですが第2図で☖2二玉と上がると逆転でした。
 第2図以降は☗5四龍と龍を逃げた手に対して☖5二金と質駒の銀を取って後手が勝っています。

 綜合と分析という分類でみたときに,バディウAlain Badiouが数学は公理論的でなければならないという場合の公理論が,綜合的方法に分類できるかは僕には分かりません。実際にバディウが想定していた公理論の内容がどのようなものであったかは,『主体の論理・概念の倫理』でも『〈内在の哲学〉へ』でも説明されていないからです。ただ,数学が公理論でなければならないという点ではバディウはスピノザと一致をみているのであって,かつスピノザは明らかにそれは綜合的方法ではない,というか分析的方法であるホッブズThomas HobbesやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの数学も数学であると認めるでしょうから,バディウの数学を数学と認めないということはあり得ないように思えます。バディウの数学は,公理論の中でも公理論的集合論です。つまりスピノザは公理論的集合論を数学であると認めるでしょう。これは,スピノザは集合論を数学として認めるであろうといっているのと同じです。
 つまり,数学を存在論から分離し,単に数学として解する限り,スピノザが集合論を数学として認めないという可能性はないといっていいと僕は考えます。ですから実際に問題となってくるのは,何が数学であるかということより,何が学知scientiaであるのかということになるでしょう。いい換えれば,スピノザがその存在existentiaを認めない空を規定する数学である集合論について,スピノザはそれを学知である,あるいは真の認識cognitioであるということを認めるのかということが,もっといえばそのことだけが,問題として存在すると僕は考えます。バディウ自身は数学は存在論であるといっていて,僕はその立場には立ちませんし,スピノザもそういう立場は採用しないと思われますが,存在論的な観点が集合論が学知であるか否かということには大きく関係してくるのです。
 まず最初に,空のような非実在的なものを,存在論の中に組み込むというのが,数学的な観点としてではなく,哲学的な,あるいは形而上学的な観点からはどのようなことを具体的に意味するのかということを考えておきましょう。バディウが数学的な点から空を含む集合論が数学であるというときには,空は数学的な概念だといわなければならないからです。
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ボイルの介在&バディウとスピノザの一致

2020-05-22 19:09:39 | 哲学
 スピノザ―ナ15号の平尾の論文の中で指摘されている,スピノザとオルデンブルクとの文通には,ロバート・ボイルRobert Boyleが介在していた,化学の論争だけでなく,哲学や神学が話題になっているときにもボイルが介在していたということは,確定的なこととしていえるわけではありません。ただ,僕はその可能性は否定できないと思いますので,僕がそう思う理由を説明しておきます。
                                        
 まず第一に,ボイルは化学者であったわけですが,だからといって哲学や神学に造詣がなかったとはいえません。むしろこの時代の化学者であれば,そうした事柄に対しても関心を払っていたとみる方が普通です。たとえばフッデJohann Huddeは政治家でありまた光学者であったわけですが,スピノザの哲学に対して有益ないくつかの質問を書簡を通してしています。また,ホイヘンスChristiaan Huygensも科学者でしょうが,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読み,それを高く評価しています。逆にデカルトRené DescartesやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは哲学者といえますが,数学でも業績を残しています。つまりこの時代はスペシャリストよりはゼネラリストが多かったわけで,ロバート・ボイルもそうであった可能性が高いでしょう。ですからボイルが神学や哲学についてスピノザと議論をしても,不思議であるとはいえません。
 スピノザとオルデンブルクHeinrich Ordenburgとの文通は一時的に中断されています。再開の契機はチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの仲介でした。書簡六十三シュラーGeorg Hermann Schullerの報告によれば,そのときにチルンハウスはオルデンブルクとだけ面会したのではなく,ボイルとも面会しています。そしてふたりのスピノザに対する誤解を取り除いたとあります。それでふたりは『神学・政治論』を高く評価するようになったとされていて,高く評価したのが事実とは思えませんが,少なくともボイルがそれを読んでいたことは確かでしょう。そして文通の再開にあたって,ただオルデンブルクの誤解を解くだけでなく,ボイルの誤解も解く必要があったのも間違いありません。この事実は,スピノザとオルデンブルクとの文通にボイルが常に介在していたことを裏付ける強力な理由になり得るでしょう。

 バディウAlain Badiouが数学は公理論でなければならないということを主張するとき,その公理論を幾何学的方法と同一のものとして把握していいのどうかは分かりません。ただ少なくともバディウが公理論でなければならないといっている数学を,幾何学的方法として記述することができない数学と考えることはできないでしょう。なので,それが幾何学的方法であるか否かよりも,それが公理論でなければならないとバディウが主張していることの方を,重視していいと僕は思います。
 上野がいうには,ホッブズThomas Hobbesは論理すなわち計算であるといっていて,計算することが可能であるということが論理学であると認識していました。そのために命題計算をすることが可能な基本単位というものを探索していたわけです。ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizにも似たようなことがあるといっていて,両者の共通性として上野は分析をあげていたわけです。そしてこの方法というのは公理論的方法であるとはいえません。ですから,バディウが数学は公理論でなければならないといっていることを真に受けるなら,バディウはホッブズやライプニッツの方法に関しては数学であるとは認められないといわなければなりません。実際にはスピノザが分析的方法による数学も数学であると認めるのと同じように,バディウもそれを数学であると認めるような気は僕はします。ただバディウの主張そのものについては僕にはよく分からないので,スピノザのように認めると断定的な結論を出すことは控えておきます。
 これでみれば分かるように,単に数学,バディウがいうような数学は存在論であるというテーゼを無視した場合の数学だけを中心に据えて考えるのであれば,バディウはホッブズやライプニッツよりは,スピノザと一致するのです。それが幾何学的方法であるかどうかということを別とすれば,数学が公理論的なものであるという認識cognitioではバディウはスピノザと一致しているのであって,ライプニッツやホッブズとは見解opinioを異にしていることになるからです。そしてこのことは,当然ながらスピノザの側からみた場合にも成立します。スピノザの考え方に近いのは,ホッブズやライプニッツよりはバディウなのです。
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デイリー盃大井記念&真理と数学

2020-05-21 19:07:15 | 地方競馬
 昨晩の第65回大井記念
 グリードパルフェが先手を奪いにいきましたが,内のオールブラッシュが譲らなかったので控えました。オールブラッシュは先手を奪ってからも緩めずに飛ばしていき,向正面に入るあたりでリードは10馬身以上に。2番手がグリードパルフェで3番手にタービランス。4番手はマルカンセンサーとストライクイーグル。6番手にサブノクロヒョウ。7番手にサウンドトゥルー。8番手にバンズーム。9番手にフレアリングダイヤ。10番手にクインズサターン。11番手にジョーストリクトリでこの10頭は集団。3馬身差でブラックバゴ。3馬身差の最後尾にキャッスルクラウン。前半の1000mは61秒7の超ハイペース。
 直線に入るところでオールブラッシュのリードは4馬身に。まず追ってきたのが内を回ったマルカンセンサーとその外のタービランスの2頭。オールブラッシュは粘り腰を発揮しましたが,タービランスはオールブラッシュを差して先頭に。少し遅れて外から追ってきたのがストライクイーグルとサウンドトゥルーの2頭で,ストライクイーグルが先頭に立ったタービランスを差して優勝。タービランスが半馬身差で2着。オールブラッシュが1馬身4分の3差の3着に逃げ残り,マルカンセンサーがアタマ差で4着。伸びを欠いたサウンドトゥルーが1馬身4分の1差で5着。
 優勝したストライクイーグルブリリアントカップからの連勝で南関東重賞3勝目。ここはタービランス,ストライクイーグル,サウンドトゥルーの3頭が,近況と能力から有力。あとは展開ですが,1頭が後ろを離しての逃げになったため,最も難しい位置取りとなったのがタービランス。積極的に前を追い掛けていきましたが,結果的にそれをいい目標とすることができたストライクイーグルの方に分がありました。能力的には遜色がないでしょうから,次は逆転ということがあってもおかしくはないでしょう。父はキンシャサノキセキ
 騎乗した大井の御神本訓史騎手はブリリアントカップ以来の南関東重賞41勝目。第58回以来7年ぶりの大井記念2勝目。管理している大井の藤田輝信調教師は南関東重賞17勝目。こちらも第58回以来7年ぶりの大井記念2勝目。

 スピノザはデカルトRené Descartesの哲学については,そのすべてが真理veritasであるということを認めてはいませんでした。それでもデカルトによる分析は,哲学であるということを認めていたわけです。もちろんスピノザはデカルトの哲学の内容のすべてを否定するというわけではなく,デカルトの哲学の中にも真理はあるということには同意します。集合論との関係でいうなら,デカルトは空が存在するということを認めないのであり,この点ではデカルトとスピノザは一致します。ですが,そうであるがゆえにスピノザはデカルトによる分析を哲学であると認めていたわけではありません。いい換えれば,デカルトが分析によって導き出したことのうち,真理だけを哲学と認め,そうではない部分については哲学であると認めなかったのではありません。これは,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』のうちに,真理ではない事柄も定理Propositioとして示していることから明らかだといわなければなりません。
                                        
 数学における分析は,それが命題として立てられるのであれば,真理であるとみなして構わないわけです。よって,真理ではない哲学の分析を哲学として認めるのですから,真理だけを導出するような数学の分析については,より数学であると認めやすい筈だといわなければなりません。したがってこの観点からも,スピノザは公理論的方法に基づかない,あるいは幾何学的方法には基づかない,分析による数学,スピノザが知っていたものとしていえば,ホッブズThomas HobbesやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizによる数学を,数学と認めていたであろうと推測することができるのです。
 したがって,もしも集合論いい換えればカントールGeorg Ferdinand Ludwig Philipp Cantorの数学が,真理を導き出す数学である限り,スピノザはそれを数学であると認めるであろうと結論しなければなりません。ただしこの点は,存在論的な観点があって,スピノザが空を真理であると認めることが可能であるのかということを検討しなければなりません。このことについては後回しにします。それからもうひとつ注意しておかなければならないのは,集合論というのは,空を対象としなければならないので,公理論的なものでなければならないというのがバディウAlain Badiouの主張であったということです。
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戸口の雑感③&分析の数学

2020-05-20 18:57:18 | NOAH
 戸口の雑感②の続きです。
 でいったように,戸口は1972年の暮れに渡米したのですが,このときにはもう日本に帰るつもりはなかったそうです。渡米前には父親にそのことを言っておいたそうなので,これは本心だったのでしょう。ただ渡米が大木金太郎の協力によるものだったこともあり,大木の依頼を断ることができず,本意ではなかったものの帰国することになりました。それが1976年9月です。このときは大木のパートナーでしたから,リングネームもキム・ドクでした。ただし,これがどこまでプロレスファンの間で一般的になっていたのかは僕は分かりません。僕のプロレスキャリアが始まる以前のことなので,当時のことは雑誌の記事やテレビのVTRでしか分からないのですが,大木のことがキム・イルと紹介される場合は戸口もキム・ドクですが,大木金太郎とタイガー・戸口とされているものもあります。大木は韓国人で戸口は日本人というのがファンやメディアの間での認識であり,その分だけ中途半端になってしまっていたのではないかと,当時をリアルタイムで知らない僕は推測しています。
 全日本プロレスでの仕事はさほど違和感はなかったと戸口は語っています。これはスタイルとして,戸口がアメリカでやっていたプロレスとは大きな差がなかったからです。他面からいえば,この当時の馬場が目指していたプロレスが,馬場流のアレンジが加えられていたとはしても,アメリカで主流のプロレスであったということでしょう。
 初日はシングルマッチが組まれ,翌日が大木とのタッグでした。どうも大木と戸口がタッグを結成したのは,このときが初めてであったようです。全日本プロレスは発足の当初はマシオ・駒がマッチメークをしていたようですが,このときは駒は死んでいたので,馬場がマッチメーカーも兼ねていたのではないかと戸口は推測しています。後に佐藤昭雄がマッチメーカーになるのですが,それまでは馬場が決めていたということなのでしょう。

 化学に関しては,ロバート・ボイルRobert Boyleとの論争について検討したときに,スピノザはボイルの実験を化学であると認めるであろうといいました。それに今はスピノザにとって何が数学であると認めることができたのかを検討しているのですから,これについてはここでは割愛します。一方,ホッブズThomas HobbesやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが行っていた分析についても,スピノザがそれを数学であると認めるであろうことは,容易に想像がつくでしょう。正確にいえば,スピノザはカントールGeorg Ferdinand Ludwig Philipp Cantorは知らなかったわけですが,ホッブズやライプニッツについては知っていたわけですから,スピノザはホッブズやライプニッツの手法について,それも数学であることを認めていたであろうということは,容易に結論できるのではないかと思います。とくに,たとえばある分析を駆使することによって何らかの数学的命題が立てられたとき,その数学的命題を幾何学的方法によっても示すことができるのであれば,スピノザはそれを数学ではないということはできなかったといわなければならないでしょう。これは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』が,まさしくデカルトRené Descartesの哲学であるということを前提としているということと,同じ関係にあるといわなければならないからです。
                                        
 さらにいうと,現実的なことをいえば,何らかの分析によって数学的命題が,仮定としてではなく打ち立てられるのであれば,その命題は真の命題であると考えて差し支えありません。したがってスピノザは,ホッブズやライプニッツの方法に関して,それが公理論的なものではなく分析の集積であったとしても,単に数学であるということを認めるだけではなく,それが真理veritasを明らかにするものであるということも認めていたであろうと推測することができます。真理は万人に共通なものなのですから,どのような手法から明らかにされたところで同一だからです。ただその手法は本来的に公理論的な幾何学的方法で明らかにされるべきであるというのがスピノザの主張なのであり,異なった方法で明らかにされたから真理ではないということはできない筈だからです。
 このことはさらに,分析的手法の数学を数学と認めるであろう要素を構成します。
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マイナビ女子オープン&分析の哲学

2020-05-19 18:48:22 | 将棋
 昨日の第13期マイナビ女子オープン五番勝負第四局。
 西山朋佳女王の先手で5筋位取り中飛車。後手の加藤桃子女流三段は玉の周辺に金銀を集結させる構え。先手に動いてもらってのカウンターを狙ったのかと思いましたが,そうではなかったようです。
                                        
 先手が飛車先の歩を突き捨てにきた局面。☖同歩が普通ですが☖8六歩☗6六角☖7四飛☗同飛☖同歩の飛車交換に進めました。先手が☗8三飛と先着。
 後手は☖5六歩で角の交換も要求。一旦☗4四歩と突き☖同角☗同角☖同金の手順で交換したのは先手にとって効果的でした。と金を作られてはいけないので☗5六銀。
 先手からの☗8一飛成は受からないので後手はそれに対抗できるだけの攻めが必要です。☖5五歩☗4七銀引☖4六歩☗5八銀とふたつの拠点を作りつつ銀を退却させて☖6五角と打ちました。ただこれは☗4八歩と打たれて継続手がなかったようです。
 仕方がないので☖8七歩成としたものの☗8一飛成が実現。☖8八歩で駒損の回復にいきましたが☗6二角と打たれて☖4三飛と打つことに。
                                        
 第2図は先手が桂馬を得して龍を作っているのに対し,後手は交換した飛車を受けに使う展開で,これでは後手の苦戦は否めないでしょう。第2図までの攻め方に問題があったかもしれませんが,飛車交換が無理だったような気もします。
 西山女王が勝って2勝2敗。第五局は来月3日に指される予定です。

 『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』は,スピノザがデカルトRené Descartesの哲学を幾何学的方法で,すなわち綜合によって示した著作です。つまり,デカルトが分析によって示した事柄を,スピノザが綜合によって改めたものです。このことから端的に理解することができるのは,分析によって行われた営為について,それを綜合によって示すことができることをスピノザが認めていたということです。少なくともスピノザは,分析によって示された事柄について,それを綜合に改めることが可能な場合があると認識していたといわなければなりません。そうでなければ実際にそれを行う筈がないからです。
 スピノザの哲学とデカルトの哲学の間には相違があります。たとえば自己原因causa suiとか自由libertasとか意志voluntasといった概念notioを,スピノザはデカルトとは異なった仕方で理解します。したがってスピノザは,デカルトの哲学が真理veritasのすべてを明らかにしているという認識cognitioを有していたと考えることはできません。よって,デカルトによる分析を綜合に改めた『デカルトの哲学原理』の内容について,そのすべてをスピノザが肯定しているわけではありません。しかしそうであったとしても,スピノザはデカルトが思考していた事柄について,デカルトが綜合によってそれを示した場合があるということを考慮の外においても,哲学ではなかったとか形而上学ではなかったとはいわないでしょう。このことはこの著作の題名が『デカルトの哲学原理』となっていることから明白であるといわなければなりません。デカルトは綜合によって自身の哲学を示す場合もあったのですが,方法としては綜合よりも分析が優れているという,スピノザとは逆の認識を有していました。ですから多くの事柄については綜合ではなく,分析によって示そうとしたのです。そのデカルトが分析によって示した事柄について,スピノザはそれをデカルトの哲学であるとことを肯定した上で,『デカルトの哲学原理』という著作で,綜合的方法で示すことになったわけです。
 このことが,哲学にだけ固有であるとは僕は考えないのです。分析による数学も数学だし,分析による化学も化学であると,スピノザは認めるであろうと推測するのです。
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スヴィドリガイロフ&分析と綜合

2020-05-18 18:56:27 | 歌・小説
 『『罪と罰』を読まない』では,最終的には4人が『罪と罰』を読み,その内容について語り合っています。登場人物たちの中で,4人がわりと高めの評価を与えているのがスヴィドリガイロフです。評価は別として,スヴィドリガイロフが重要人物であるのは間違いありません。そこにはふたつの意味があります。
                                        
 ひとつは『罪と罰』において,スヴィドリガイロフには,もうひとりの主人公とでもいうべき役割が与えられている点です。主人公はラスコーリニコフで,ラスコーリニコフは殺人を犯した後で立ち直るのですが,スヴィドリガイロフは立ち直ることができなかったラスコーリニコフというような役回りで,最終的に自殺してしまいます。ラスコーリニコフが立ち直ることができたのは,ソーニャとの出会いがあったからでした。そういう意味でいえば,ソーニャと会うことができなかったラスコーリニコフがスヴィドリガイロフであるといえるでしょう。ですから,もしラスコーリニコフがソーニャと出会っていなければ,ラスコーリニコフも自殺していたかもしれません。
 もうひとつはドストエフスキーの作品全体における意味合いです。スヴィドリガイロフは,後の『悪霊』のスタヴローギンを先取りしている点があります。夏目漱石の『明暗』の小林には,小林の前身とでもいうべき人物が,それ以前の作品にも描かれていました。それと同様に,スタヴローギンの前身のひとりとして,スヴィドリガイロフをあげることができるのです。ただしこのことは,『罪と罰』だけに関係するわけではないので,ここでは詳しく説明しません。
 重要人物であることは間違いありませんが,僕はスヴィドリガイロフにはあまり好ましい印象を抱いていません、ひどく臆病であるがゆえに姑息であり,しかしまたその臆病さのゆえにときに大胆なことを実行するというのが僕のスヴィドリガイロフに対する短評です。ただし,スヴィドリガイロフはもうひとりのラスコーリニコフでもあります。すなわちこの短評は,単にスヴィドリガイロフにだけ当て嵌まるというわけではなく,ラスコーリニコフについても同じことがいえると思います。

 分析が方法であるというのは,数学に限った話ではありません。あるいは語源が仮に数学における方法のことであったとしても,ほかの学問にも適用することができる方法です。それは化学のような自然学でもそうですし,政治学のような社会科学にも適用することは可能です。そして哲学や形而上学でもいうことが可能なのです。
 この,幅広い意味での方法のひとつである分析には,それに対立あるいは対抗する方法があります。それが綜合といわれる方法です。上野がホッブズThomas HobbesやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに共通する点として分析をあげたとき,その念頭にはこの分析とそれに対する綜合があったのではないかと僕は推測します。つまりスピノザは分析はしなかったと上野はいっているわけですが,その裏の意味は,スピノザは綜合を行ったということだったと思うのです。そして上野のことばをそのまま真に受けてこのような意味での分析と綜合を規定すれば,スピノザは綜合を数学だと思っていて,分析は数学ではないと思っていたといわなければなりません。ですがそのようにいうのには僕は無理があると思います。なぜなら,分析が綜合に対立あるいは対抗する方法としていわれているのであれば,それは文字通りに方法だからです。いい換えれば数学であるか数学ではないかということではなく,数学的方法であるか数学的方法ではないかということに帰着するからです。ロバート・ボイルRobert Boyleとの論争の例で説明したように,スピノザは方法としての綜合を追求し,分析には重きを置いていませんでした。これは方法論,とりわけ事柄の真理veritasを明らかにするための方法論としてそうしているのであって,このことはその対象が数学であるかないかということとは関係ないのです。それどころか,もし分析によって明らかになった事柄を綜合によっても明らかにすることができるのであれば,それは分析によっても真理が明らかになったということをスピノザは否定することができないでしょうし,したがって分析によって明らかにされた何事か,たとえば数学の公式については,その作業が数学ではないということもできないだろうと思います。
 実際にスピノザはそれをしているのです。
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ヴィクトリアマイル&ホッブズとライプニッツ

2020-05-17 19:02:55 | 中央競馬
 第15回ヴィクトリアマイル。ディメンシオンは右の前脚の痛みで歩行のバランスを欠いたため出走取消。セラピアは右の前脚に急性の化膿症を発症したため出走取消となり16頭。大野騎手は今日の4レースの発馬の前に落馬し負傷したためトーセンブレスは柴田善臣騎手に変更。
 少しばかり押してトロワゼトワルがハナへ。この馬がハナに立ったときには2番手にメジェールスーで3番手がダノンファンタジーとコントラチェック。5番手にサウンドキアラ。6番手にシゲルピンクダイヤとアーモンドアイ。8番手にラヴズオンリーユーとノームコア。10番手にシャドウディーヴァとプリモシーンとスカーレットカラー。13番手以降はビーチサンバ,サトノガーネット,トーセンブレス,アルーシャの順。途中でトロワゼトワルのリードは3馬身くらいになり,単独の2番手にコントラチェック。また3馬身差で3番手以下が続き,3番手以下の14頭はほぼ一団というレース。前半の800mは45秒6のスローペース。
 直線に入るところでもトロワゼトワルのリードは3馬身。2番手がコントラチェックで3番手にサウンドキアラ,4番手にアーモンドアイ。サウンドキアラがコントラチェックに迫っていくとコントラチェックは一杯。さらにサウンドキアラがトロワゼトワルとの差を詰めにかかりましたが,この時点でサウンドキアラの外のアーモンドアイはほぼ持ったまま。そこからサウンドキアラと逃げるトロワゼトワルの内の2頭をまとめて差すとあとは独走となって楽々と優勝。サウンドキアラが4馬身差で2着。アーモンドアイをマークするようなレースになったノームコアは,アーモンドアイにはついていくことができずクビ差で3着。逃げ粘ったトロワゼトワルが半馬身差で4着。
 優勝したアーモンドアイ天皇賞(秋)以来の勝利で大レース7勝目。その後,暮れの香港への遠征を予定していましたが発熱で回避。出走に踏み切った有馬記念はこの馬の能力からしたら大敗。今年はドバイへ遠征したものの,レースが中止に。そのまま帰国してここが今年の初戦。ステップだけでいえば不安がなかったわけではありませんが,牝馬での戦いですから,能力を出せれば今日のような結果になって当然でしょう。2着馬も3着馬も能力上位の馬なので,現時点で今日の着差くらいの能力差があるとみてよいと思います。父はロードカナロア。母がフサイチパンドラで祖母がロッタレース
                                         
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は天皇賞(春)以来の大レース制覇。第12回以来3年ぶりのヴィクトリアマイル2勝目。管理している国枝栄調教師は天皇賞(秋)以来の大レース18勝目。第6回以来9年ぶりのヴィクトリアマイル2勝目。

 スピノザが幾何学的方法を数学であると考えていたと上野が発言するとき,上野は同時にスピノザと比較対象するために,ふたりの名前をあげています。ひとりがホッブズThomas HobbesでもうひとりがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizです。上野によれば,ホッブズの関心は命題計算を考えることにあり,ライプニッツの関心は命題の記号化や結合方法を考えることにあったのですが,スピノザにはその発想はなかったとしています。
 さらに上野はこれとは別の箇所で,やはりスピノザとホッブズおよびライプニッツを比較しています。そこでは,ホッブズの認識cognitioでは論理すなわち計算であり,したがって計算可能性が論理学であると考えていました。ライプニッツにも同様のところがありました。そしてこの両者に共通しているのは分析であり,その分析が意味するところは,命題の計算に持ち込むことができる基本的な単位を探すということです。スピノザはこれに対して公理論的な証明Demonstratioだけを行い,概念notioの分析とか論理学はまったく行っていません。それはスピノザが,公理論的な証明を数学であると考えていたからだと上野は言っています。
 この発言をそのまま真に受ければ,概念の分析や論理学,もちろんそれはここでホッブズが関心を抱いていたとされる論理学のことですが,そうしたものはスピノザにとって数学ではなかったということになるでしょう。ですが僕はそのようには考えません。むしろそれもスピノザにとって数学ではあったのだと思います。これは,ロバート・ボイルRobert Boyleの実験による実証主義は,化学的方法にとって最良の方法ではないとしても,それは化学ではあるという認識を,おそらくスピノザはもっていたであろうということと同じ理由です。ここで上野がスピノザと比較しているホッブズやライプニッツのやり方は,数学の方法として最良のものであるとはスピノザは認めないでしょうが,数学であることまで認めないとは思いません。
 では上野がなぜそのようないい方をしたのかといえば,そこにはある意図があったのではないかと僕は想定します。それは,上野がホッブズおよびライプニッツに共通する点として,分析という語をあげている点です。分析は方法なのです。
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