スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

僕たちの将来④&同窓会

2020-02-29 18:59:26 | 歌・小説
 で互いに相手に対する不平と不満をぶつけあった彼女と彼は,その不満に対してそれぞれ同じように答えます。

                                   

     あたしも都合が おいらも都合が

 確かにふたりがぶつけ合った不満は,それぞれにとって解消し難いものでした。だからこのような答えになるのは分からなくもありません。しかし同時にそれは,そういった状況を改善することを最初から放棄している,いい換えるなら諦めていることの証明でもあるのです。
 しかしそれでふたりの仲が険悪になるというわけではありません。なぜならふたりには険悪さを取り戻す手段があるからです。その手段はでも歌われていたのであり,ここでもふたりは同じことをします。

     危ないことばをビールで飲み込んだら
     君がとび込んで来てくれた夜の 話をむし返そうか


 ビールで乾杯をすること,そして内容に相違はあれ,過去の幸せな出来事について話し合うことが,その手段です。
 彼と彼女は,現在の不安を,過去の幸福で紛らわせようとしています。この楽曲は「僕たちの将来」ですが,ふたりが縋っているのは将来ではなく過去なのです。それは実は,現状の改善を放棄しまた諦めているのと同様に,将来についても諦めているということなのかもしれません。

 10月18日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
 10月20日,日曜日。がかつて勤務していた中学校の特殊学級,現在の特別支援学級の同窓会がありました。参加の可否を問うはがきが前に来ていましたので,参加するという返信を出してあり,妹とふたりで参加しました。
 前年の同窓会は伊勢佐木町でボーリングをしたのですが,この年は会場が上大岡に変更になっていました。集合は午前11時。バスの時間の関係で少し早めに到着しました。その時点ですでにSさんを含め何人かは集まっていました。会場に行く前に,近くのスーパーに買い出しに行きました。食料,というのは参加者の昼食ですがそれと飲料,またお土産として提供される菓子類,紙コップや皿といった備品の購入のためです。それらを持参した上で,予約してあった店舗の部屋に移動しました。レンタルルームといったら分かりやすいかもしれません。ここでまず全員で昼食を摂りました。その後,この部屋にはカラオケ機材がありましたので,カラオケを楽しみました。もちろん歌うのは同窓生であり,僕のような保護者や,担任の先生方が歌うことはありません。妹は同窓生ではありませんが,歌わせてもらいました。何を歌うかということは参加の可否を問うはがきの中の設問に含まれていましたので,それについては事前にリクエストをしておきました。歌うことを申し出たすべての参加者が歌い終えた後,やや時間の余裕がありましたので,簡単な○×ゲームをして,午後3時に解散となりました。
 僕たちはそのまま帰らず,妹をグループホームに送りました。上大岡からグループホームまではバスで1本。これはここから帰るのと,また通所施設へ行くのとも同じです。ですから上大岡まで来た場合は,帰宅してまた翌朝に通所施設へ行くより,そのままグループホームに行き翌朝はグループホームから通所施設まで自動車で行く方が妹にとっては楽です。僕はこの日だけ考えれば上大岡とグループホーム間を往復する手間が掛かりますが,翌朝は通所施設までの往復が省けるので楽です。なのでこの日のうちにグループホームに送るということを,事前に伝えておきました。
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キリーロフの自殺&貧血の治療

2020-02-28 19:03:33 | 哲学
 キリーロフの自殺については僕はその理由は凡庸なものだと考えています。なぜ僕がそのように考えているのかを説明していきます。
                                          
 キリーロフの自殺は自身の人神思想に由来しています。具体的には,死に対する恐怖を克服した人間が神になれるという思想です。では死に対する恐怖を克服したということを示すにはどうすればいいのかということになると,自殺してしまえばよいということになります。キリーロフはその論理に則って自殺をしました。ですからキリーロフを評価するかどうかは,この人神思想にどの程度のシンパシーを感じるかということ,そしてそれを実行したことをどうみるかということと関連します。僕が凡庸と思うのは,思想そのものともそれに殉じた自殺という行動そのものとも関連します。
 僕は恐怖という感情affectusを不安metusと訳します。なのでキリーロフのいっていることは,死への不安を克服すると解します。
 第三部諸感情の定義一三説明によれば,希望と不安は表裏一体の感情です。ですから死への不安を克服した人間というのは,同時に何らかの希望spesを克服した人間であるといえます。ではそれはどのような希望でしょうか。その答えは簡単です。克服されるべき不安が死に対する不安なのですから,克服されるべき希望は死の反対,すなわち生に対する希望であることになるでしょう。
 ですから,死に対する不安を克服したがゆえに自殺するという人間は,生に対する希望を克服したがゆえに自殺するというのと同じだと僕は考えます。生に対する希望を克服するとは,生きる希望を失うということにほかなりません。つまり僕には,キリーロフは生きる希望を失ったので自殺したとみえるのです。なのでキリーロフの自殺の理由は凡庸なものと僕は考えるのです.。

 解決しなければならない問題がいくつかあったわけですが,父の父の埋葬あるいは納骨の記録がどこかで発見できれば,それが最良です。なので僕はこれ以降,それを究明することを目指しました。ただ石材店の店主には,実際に墓を開けて確認をしたわけではありませんが,日野公園墓地内の墓には2体ではなく3体の遺骨が納骨されているということを前提として,僕はこの後の行動をとるということは伝えておきました。店主もそのことについては了解してくれました。
 10月11日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。僕はこの日の前後は体調が芳しくなく,血糖値も高めで推移していました。ただ食事は摂れていましたし,妹の世話をすることが難しいというような状況ではありませんでした。
 10月15日,火曜日。14日は体育の日の祝日でしたので,この日に妹を通所施設に送りました。
 10月17日,木曜日。午後4時20分に地域担当支援主任のSさんから電話がありました。妹はこの日にSさんに伴われて港南中央医院を通院したのですが,貧血の治療が開始されたので,その旨の連絡でした。
 妹の通院先が港南中央医院であるのは,港南中央医院が妹の通所施設の担当医院だからです。したがって施設の利用者の健康診断などはこの医院で,というのは医院の医師が通所施設に来て,という意味ですが,行われています。その結果,妹は貧血症状があるということは確認されていました。本牧脳神経外科でも採血検査は行っていて,確かに妹には貧血症状があるということは確認されています。本牧脳神経外科の主治医は心配するほどではないと話していたのですが,港南中央医院の方ではそうではなく,要治療という判断が出ていたようです。ただ妹の体調などの面から,これまでは治療を見合わせていたのだけれども,健康面の態勢が整ったので,いよいよ治療を始めるというのが,具体的な内容でした。
 妹はまだこども医療センターに通っていた頃,やはり同様に貧血の治療をしたことがあります。治療といっても鉄剤を服用するだけです。そのときは改善されたので,服用は中止に至りました。今回も治療としては同じ内容です。
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叡王戦&埋葬証明書

2020-02-27 18:52:36 | 将棋
 24日に指された第5期叡王戦挑戦者決定戦三番勝負第三局。
 振駒で豊島将之竜王・名人の先手。後手の渡辺明三冠の雁木に対し,先手が左美濃から棒銀という戦型に。後手が2筋を放棄する代償に桂得するという展開。たとえ桂損でも棒銀がまともに炸裂しているので先手の方がよいのではないかと思っていたのですが,実際はそうでもなくいい勝負だったようです。
                                        
 後手が両取りの銀を打った局面。先手は☗3四角と王手をして☖4三銀に☗同角成☖同玉。さらに☗3五桂の王手も決め☖5三王に☗8六龍☖同金☗同銀と進めました。
 先手が金と銀と桂馬,後手が飛車と角を取り合うという大きな振り替り。手番は後手ですが,先手からは☗4三金と打つ手が厳しいので,後手はそれを上回って攻めるか,受けに回るかしなければなりません。
 とりあえず☖2九飛成と桂馬を取って王手。先手は☗5九桂と受けました。
                                        
 後手からはこれ以上の攻めはないので受けに回ります。☖7一銀と引いて下に逃げ道を作ったのですがこれが敗着になりました。
 先手は☗4三金ではなく☗3一角の王手。☖6二玉と逃げましたが☗4三桂成と追撃。☖7二玉の早逃げに☗8四銀と上部を押さえ,☖8二銀にも☗7五角成で先手は盤石の態勢に。
                                        
 第3図となっては後手は収拾がつきません。戻って第2図では☖3一桂と打って直接4三の地点を受けるべきだったようです。
 2勝1敗で豊島竜王・名人が挑戦者に。叡王戦の番勝負には初出場。七番勝負の日程は未発表です。

 帰宅後,午後8時35分にピアノの先生より電話がありました。日曜のピアノのレッスンの開始時刻に関してです。
 10月6日,日曜日。妹のピアノのレッスンでした。午後2時からでした。
 10月7日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
 10月8日,火曜日。石材店に連絡して,1日のお寺の奥さんからあった電話の内容を伝えました。このときの石材店の店主との話で,具体的に何が問題になるのかということをようやく理解することができました。
 遺骨をある墓から別の墓へ移そうとする場合,自治体,僕の場合でいえば横浜市に無断で行うことはできません。必要な書類を提出して,許可を得る必要があります。それが整えば,改葬許可証という書類が発行されて,遺骨を移すことが可能になります。必要な書類のうちのひとつは,申請書で,これは僕なりあるいは日野公園墓地内の墓の名義人である父のきょうだいの長男なりが作成すればよいので,問題はありません。それとは別に,まず受入証明書というのが必要で,これは名称からも分かるように移した後の墓の管理者,僕の場合でいえばお寺から出してもらう必要があります。お寺の奥さんと電話したときには,この証明書のことについては何も話題に出ませんでしたが,そのときの話の内容を総合的に判断すれば,この証明書は出してもらえるだろうという確信を,この時点での僕は持っていました。さらにもうひとつ,埋葬証明書あるいは埋蔵証明書というのが必要で,これは移す前のお墓の管理者,つまりこの場合でいえばこの日に僕が電話で話した石材店から出してもらわなければなりません。店主の話では,この証明書は,記録上は父と祖母のものだけが納骨されたことになっているので,そのふたりの分は出せるけれど,祖父の分は出すことができないということでした。つまり,滞りなく改葬を終えるためには,3通の埋葬証明書が必要なのですが,2通しか入手することができないという状況になっていたのです。
 2通しかなくても3体の遺骨を受け入れてくれるのかということも問題ですが,2通の埋葬証明書で3体の遺骨を移すことが,法的に問題となるように僕には思えました。
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TOKYO MX賞フジノウェーブ記念&2019年9月の通院

2020-02-26 19:39:22 | 地方競馬
 第11回フジノウェーブ記念
 マッチレスヒーローとブラックバゴは発馬のタイミングが合わず1馬身の不利。最内からクルセイズスピリツが出ていき周回コースに入ったところでは単独の先頭。2番手にリコーワルサー。3番手にトロヴァオ。4番手はキャンドルグラスとラブミークン。6番手にロイヤルサーティンとグレンツェント。8番手にマッチレスヒーローとヒガシウィルウィンとサブノジュニアで10頭は一団。2馬身差でゴーディー。直後にドリームドルチェ。また2馬身差でタイセイエクレール。直後にマイネルバサラとエポック。2馬身差の最後尾にブラックバゴという隊列。最初の600mは35秒9のミドルペース。
 3コーナーを回るとクルセイズスピリツとリコーワルサーは併走になり,3番手もトロヴァオとラブミークンで併走。5番手にマッチレスヒーロー,キャンドルグラス,グレンツェントの雁行という隊形に。直線に入るとすぐにリコーワルサーが先頭に。内を回ってそのすぐ外に出てきたのがトロヴァオで,リコーワルサーを差して先頭に立つと,そのまま抜け出して優勝。リコーワルサーを追ってきたのは内からドリームドルチェとマッチレスヒーロー,外からはグレンツェントとサブノジュニアの4頭。激戦になりましたが内が伸び勝ち,2馬身差の2着はマッチレスヒーロー。ドリームドルチェがクビ差で3着。サブノジュニアがアタマ差の4着で最後にマッチレスヒーローとリコーワルサーの間から鋭く伸びたマイネルバサラがアタマ差で5着。リコーワルサーは4分の3馬身差の6着でグレンツェントはクビ差の7着。
 優勝したトロヴァオは2017年10月のオープン以来15戦ぶりの勝利。南関東重賞は2015年のハイセイコー記念以来の2勝目。このレースは実績で上位の馬が,この距離では長いかもしれないスプリンターと,短そうな中距離馬ばかり。この馬はこの距離が最も得意そうで,長らく勝ててはいなかったものの,南関東重賞や大レースでも入着していましたから,チャンスがあるとみていました。ただ,結果的に内を通った馬が上位を独占しているように,馬場状態が結果に大きく反映したとも思えますので,内枠を引けたことが勝利の大きな要因になったのではないでしょうか。騎手がそのアドヴァンテージをうまく生かしたと思います。父はカネヒキリ。Trovaoはポルトガル語で雷鳴。
 騎乗した大井の藤田凌騎手はデビューから2年10ヶ月で南関東重賞初勝利。管理している大井の荒山勝徳調教師は南関東重賞23勝目。フジノウェーブ記念は初勝利。

 すでにいったように,この日の診察の開始時刻は午後3時25分でした。
 HbA1cは6.4%でした。8月よりは高くなっていましたが,Ⅰ型糖尿病の僕としては低めの数値です。ですから持続効果型のインスリンであるトレシーバの注射量を,また0.01㎎減らし,0.08㎎に変更することになりました。この日も8月と同様に,それ以外に何も異常が出ていませんでした。
                                   
 帰途に薬局に寄りました。インスリンも注射針も在庫がありました。
 10月1日,火曜日。お寺の奥さんに電話を入れました。これは26日に石材店に赴き,そこの店主と話した内容についての報告です。もちろん,祖父の遺骨が納骨されたという記録が石材店には残っていないということも伝えました。こうした記録がない遺骨を,会堂の中の納骨堂に受け入れることが可能かどうかも尋ねましたが,この時点では明確な答えが得られませんでした。なお,導師が実家に帰ったということは,このときの電話で奥さんから確認したことでした。
 午後9時に,奥さんの方から電話がありました。納骨をする際に必要な書類は,役所で取得することができるかもしれないので,そのことについては石材店側と相談してほしいということでした。
 お寺の奥さんというのは,住職の奥さんという意味であり,住職の仕事やお寺の出納などについては詳しいのですが,納骨に関する専門家ではありません。これはおそらく住職本人にとっても同様で,とくに僕の場合のような,単なる納骨ではなく,別の墓から遺骨を移すというようなことについての事務的な手続きについてはそれほど詳しくはないのかもしれません。このときに奥さんの言ったことは,結論からすれば祖父の遺骨を受け入れられるのか受け入れられないのかという,僕にとっての最大の関心事についてはまったく要領を得ないものであったのですが,こういった事情まで考慮すれば,それはそれで仕方がなかったのだろうと思います。
 10月4日,金曜日。妹を通所施設へ迎えに行きました。妹の蕁麻疹はこの時点でかなり改善していました。なお妹は通院時にアレルゲンの検査をしたのですが,スギに反応があっただけでした。
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大阪王将杯王将戦&消費税

2020-02-25 18:53:07 | 将棋
 20日と21日に大涌谷で指された第69期王将戦七番勝負第四局。
 広瀬章人八段の先手。後手の渡辺明王将が誘導する形で先手の矢倉,後手の雁木に。中盤で後手が判断を誤ってしまったようです。
                                        
 先手が角交換を挑んだところ。後手はこのまま3三の地点を空けては不利になるとみて,☖2七歩☗同飛☖2六歩☗同飛と飛車を吊り上げることにより,☖4四角と飛車取りで交換を避けました。
 先手は☗5六飛と横に逃げ☖4六と突かれたところで☗3七桂。後手は☖3六歩と打ったものの☗5五歩☖4三銀に☗4五桂と跳ね出されました。
                                        
 第2図となり後手はさらに歩損を重ねた上に桂馬を捌かせる形となり,局面の悪化を招くことになりました。後手としては第1図の,先手の駒がまださほど前に出ていない時点で角交換に応じ,攻め合いを目指すのが優ったようです。
 広瀬八段が勝って2勝2敗。第五局は来月5日と6日です。

 9月27日,金曜日。通所施設に妹を迎えに行きました。妹の蕁麻疹に関しては,僕はこのときに初めて確認したことになります。もっとも身体全体のことに関してはこの場では確認することができません。首の後ろだけではなく両腕や両脚にも発疹があるということは,この時期だけにある程度は理解することができましたが,たとえば背中や腹部がどうなのかということは,帰宅してから分かったことになります。また,妹がそれに痒みを感じているわけではないようだということは,この週末に妹とふたりで生活しているうちに気が付いたことでした。
 9月30日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
 午後から内分泌科の通院でした。
 病院に着いたのは午後2時20分です。中央検査室は待機している患者がいませんでした。なので採血をしてから採尿をしました。使用済みの注射針は持参していませんでした。
 通常はこの検査を終えた後,院内のコンビニエンスストアで週刊競馬ブックを購入し,それを読みながら診察の開始まで待つというのが,僕の通院の日のルーティンと化しています。ですが,10月1日をもって消費税が8%から10%にアップすることが決定していました。このために生じる混乱を避けるため,この週の週刊競馬ブックに限り,発売日が翌日である10月1日になっていたため,この日はそれを購入することができませんでした。この日は診察の開始が午後3時25分だったのですが,いつもより暇を持て余すこととなってしまいました。
 これは内分泌科に限ったことではありませんが,みなと赤十字病院の診療科はすべて,予約時間の10分前に該当する診療科の受付を済ませる決まりになっています。もっともこれは決まりになっているだけで,実際にはそれより早く行っても受け付けはしてくれます。ただ僕はその決まりはほぼ守ります。そしてこの受付をするときに,採血の後に巻いてもらったアームバンドを返し,血糖値測定器を受付担当者に渡します。ですがこの日はこの測定器を持参するのを忘れてしまいました。サマリーは測定器の記録から出てきますので,この日はサマリーをもらうことができませんでした。
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たちあおい賞争奪戦&遺骨の管理

2020-02-24 19:00:34 | 競輪
 静岡記念の決勝。並びは小松崎‐佐藤の福島,渡辺‐郡司‐岡村‐松坂の南関東,浅井‐志智の中部で鈴木は単騎。
 佐藤と浅井がスタートを取りに行き,内の佐藤が取って小松崎の前受け。3番手に浅井,5番手に鈴木,6番手に渡辺で周回。残り3周の最終コーナーから渡辺が上昇を開始。ホームで小松崎を叩くとこのラインが出きり,渡辺があまりペースを緩めなかったために,5番手に小松崎,7番手に浅井,最後尾に鈴木の一列棒状で打鐘。打鐘後のコーナーから小松崎が発進,1コーナーから2コーナーにかけて郡司が牽制し,小松崎は失速。佐藤が岡村をどかして郡司の後ろに。バックから浅井が発進。郡司が対応しきれずにやや踏み遅れ,最終コーナーは浅井が僅かに前に出ながらふたりで併走する形に。直線では外の浅井が踏み勝って優勝。マークの志智が半車身差で2着に続き中部のワンツー。郡司は8分の1車輪差で3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は一昨年12月の四日市記念以来の優勝で記念競輪26勝目。静岡記念は初優勝。そのときは3場所連続優勝だったのですが,昨年は怪我などの影響もあってか優勝はできませんでした。昨年末からまた負傷で欠場し,今年はここが3回目の出走。前回出走の全日本選抜は二次予選で敗退したものの,3日目と4日目は連勝と復調の兆し。今回も初日から3連勝していましたので,どうやら力を出せる状態に戻ったとみてよさそうです。このレースは南関東が静岡と神奈川の混成ラインのような並びになったため,渡辺が早くから駆けて,郡司が番手から発進。郡司と岡村で優勝争いとみていたのですが,むしろ郡司は渡辺を大切にするような競走に。最終周回のバックの入口あたりからは発進してしまった方が,ラインにとってもよかったのではないかと思います。

 遺骨というのは多くの場合は四十九日法要のときに墓地に埋葬するものだと思われます。祖父が死んだのが1966年の1月11日ですから,3月初めには四十九日を迎えています。日野公園墓地の使用の権利が発効したのが9月で,発効してすぐに納骨したかどうかは分かりませんが,通常の納骨と比べると半年以上の期間はあったことになります。僕が最も知りたいのは,その半年強の間,祖父の遺骨をどのように管理していたのかということなのです。四十九日までは自宅で管理しておくのが普通でしょう。これは僕のの遺骨に関してもそうでしたし,の遺骨に関しても同様でした。父の遺骨は四十九日法要の日に日野公園墓地内の墓に納骨しましたし,母の遺骨はやはり四十九日法要のときにお寺にある共同の納骨堂に納骨したのです。そしてこの納骨までは,自宅に誂えた仮の祭壇に置いてありました。
 祖父の場合も,たぶん仮の祭壇というのはあったと思われ,そこで保管してあった,正確にいえば少なくともそのように保管していた時期があったことは間違いないと僕はみています。ただその祭壇を,実際に日野公園墓地内の墓に納骨するまで自宅に置き続けていたということにはあまり確信がもてません。むしろ半年以上の期間ということになると,そうしておくにはいささか長すぎるように僕には思えるのです。よって,日野公園墓地内の墓に納骨するということを前提として,どこかに仮の状態で納骨しておいたという可能性があることになります。この可能性を僕は排除することができません。そしてもしそうであるなら,そこに納骨の記録というのが残っているのかもしれませんが,実際にそうしたのかどうかが分からない上に,もしそういう処置をしていたのだとしても,それがどこなのかはまるで分らないため,これは調べることがきわめて困難なのです。
 ただ伯父の話としては,祖父の遺骨を日野公園墓地内の墓に納骨したということだけは確実ということでしたから,僕としては,記録上は父と祖母の納骨の記録しか残っていないのだとしても,3体が納骨されているという前提で行動するということは,石材店の店主には後に電話で伝えました。
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フェブラリーステークス&使用権利書

2020-02-23 18:40:43 | 中央競馬
 船橋から1頭,大井から2頭が遠征してきた第37回フェブラリーステークス
 アルクトスとワイドファラオが並んで逃げるようなレース。その後ろにブルドッグボス,タイムフライヤー,インティ,ミッキーワイルド,ヴェンジェンスの5頭が集団を形成。モズアスコットとデルマルーヴルも並んで続き,その後ろのケイティブレイブまでは一団。3馬身差でワンダーリーデル,サンライズノヴァ,ノンコノユメの3頭。2馬身差でキングズガードとなり,モジアナフレイバーとミューチャリーは後方から。前半の800mは46秒4のハイペース。
 前の2頭は並んだまま直線に。タイムフライヤーが単独の3番手となり,その外からインティ。しかし馬場の内目の馬群を捌いてからタイムフライヤーの外に出てきたモズアスコットが楽に抜け出し,前の馬たちを置き去りにして圧勝。ケイティブレイブ,ワンダーリーデルの2頭は外から伸び,この争いからは抜け出たケイティブレイブが2馬身半差で2着。1馬身4分の1差の3着は大外強襲のサンライズノヴァ。ワンダーリーデルはハナ差で4着。
 優勝したモズアスコットは前哨戦の根岸ステークスから連勝。一昨年の安田記念以来の大レース2勝目。このレースは海外遠征との兼ね合いで出走をパスした力量馬が多く,混戦模様。この馬は前走が初めてのダート戦で,中距離路線で戦っていた馬と互角に戦えるというだけの裏付けはなかったのですが,未知の可能性はあるので,候補の1頭。2着馬は全盛時の力量はないと思うのですが,実績馬であることは間違いなく,それに差をつけて勝ちましたので,それだけの力があったとみてよいでしょう。距離の延長はプラスとならないかもしれませんが,ダートのトップ戦線で争っていかれそうです。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は天皇賞(秋)以来の大レース制覇。フェブラリーステークスは初勝利。管理している矢作芳人調教師ホープフルステークス以来の大レース14勝目。フェブラリーステークスは初勝利。

 導師が体調不良のため,実家に帰り,お寺には別の僧侶が来ました。このことも現時点で日野公園墓地内の3体の遺骨をお寺の会堂の中の個別の納骨堂に移すことが実現していない理由のひとつです。導師は回向のため,月に1度は僕の家に来ていましたから,個別の案件について相談することができたのです。ですが現在の僧侶と僕は顔を合わせていませんから,何であれ何かを相談するということができません。なのでそうしたことはすべてお寺の奥さんを通して行っています。ですが奥さんは東京にいるので,顔を合わせて詳しいことを相談するという機会はなかなか訪れないのです。
 しかし最大の理由は,石材店に祖父の遺骨を納骨したという記録が残っていないことでした。このために,そうした記録がどこかに残っていないのかを調査したり,仮に3体のうち2体の納骨の記録しか残っていないとしても,3体の遺骨をお寺の納骨堂の方に受け入れてもらえるのか,あるいは受け入れてもらえないのであれば,どのような手続きを踏めば受け入れることができるのかといったことなどをすべて確認しなければならなくなったのです。これらの作業に想定していたよりずっと多くの時間を要することになり,現時点でも遺骨を移すことが完了していないどころか,それをいつするのかということさえ決定することができていないのです。
 帰宅後に,父のきょうだいの次男に電話を入れました。これは僕が産まれる前に祖父が死んだときの状況を確認しておくためです。伯父によれば,祖父が死んだときには日野公園墓地内の墓は購入していなかったそうです。その後に購入し,間違いなく祖父の遺骨はその墓に納骨したということでした。納骨の記録に関連させると,僕はその間は祖父の遺骨をどのように処置していたのかということに最大の関心があったのですが,それについては覚えていないとのことでした。
 墓地の使用権利書は僕の家にあり,それによれば1966年9月19日付で権利が発効しています。権利書の発行者は僕がこの日に行った石材店でした。一方,仏壇の位牌によれば,祖父が死んだのは同年の1月11日。つまり約8ヶ月の期間があるのです。
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ピーターヤングステークス&納骨の記録

2020-02-22 18:54:50 | 海外競馬
 オーストラリアのコーフィールド競馬場で行われたピーターヤングステークスGⅡ芝1800m。
 隊列がはっきり決まるまで時間を要するレース。9頭のうち,5頭が先行集団を形成し,スズカデヴィアスはその一角を占める形の序盤。隊列が決まったところでは5番手になりました。後ろの集団との差も詰まってきて,前からそれほど離されない位置で直線へ。レースは典型的な直線勝負になったのですが,ほかの馬に比べると伸び脚で見劣り,前の6頭からは少し離されての7着でした。
 昨秋にオーストラリアへ遠征し,GⅠの2戦で負けたのは仕方がないにしても,3戦目のリステッドレースでも10着に敗れていました。現状は重賞に出走して上位を争うというのは,展開面での恩恵を受けない限りは難しいのではないかと思われます。

 日野公園墓地内の墓の維持費についての処理が終った後,この墓地内の遺骨を,お寺の会堂の中の個別の納骨堂に移すつもりであることを石材店の店主に伝えました。ところがここで思わぬ問題が発生したのです。
 何度かいっているように,この公園墓地の墓の中には,僕のと,僕の父の両親の遺骨,合わせて3体の遺骨が納骨されています。僕の父の父は僕が産まれる前に死んでいますから,当然ながら僕はその遺骨を納骨したことは知りません。しかし父の母と父の遺骨に関しては,納骨のときに僕も立ち会っていますから,確実にここに納骨したということを僕も知っています。石材店がいうには,記録上は納骨されているのはそのふたり,つまり僕の父と僕の父の母のふたり分の遺骨だけであって,父の父の遺骨が納骨された記録がないということでした。したがって,記録の上ではふたり分の遺骨を移すという書類しか作成することができないので,これだとお寺の方で受け入れることができるかどうか分からないので,それは確認しなければならないということだったのです。
 それについてはこの場で確認ができませんでしたので,もし受け入れられるとして,何が必要かも確かめておきました。
 まず,記録上はふたり分の遺骨しか納骨されていないので,3人の遺骨があるかどうかということについては,実際に移す前の段階で,墓を開けて確認したいとのことでした。僕も記録不明の父の父の遺骨については,納骨したと断定できる材料がありませんから,これは受け入れました。というか僕自身もそれは確認しておきたいところでした。ただこれもこの日にすぐできることではありませんでした。
 次に,遺骨をお寺に移す時点で,日野公園墓地内の墓については同時に墓終いをしなければならないということでした。つまり,たとえば記録が残る父と父の母の遺骨だけを先に会堂に移すということは不可能だったわけです。そして,この墓に関しては名義人が父のきょうだいの長男になっていましたから,名義人である伯父の意向を,石材店側としても確認しなければならないとのことでした。書類上の手続きは伯父が実行しなければならなかったのです。
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UAEオークス&蕁麻疹

2020-02-21 19:11:02 | 海外競馬
 日本時間の今日の未明にドバイのメイダン競馬場で行われたUAEオークスGⅢダート1900m。
 セランは立ち上がるような発馬でしたが不利には至らず。前の3頭が飛ばしていき,向正面に入るあたりで7馬身差くらいの4番手という位置。おそらくペースが緩んだためと思われますが,その差がどんどん詰まっていき,3番手まで進出。最終コーナーは3頭が雁行の一番外で回ってきたものの,直線の入口では一杯。このレースは逃げた馬が2着以下を大きく引き離しての圧勝劇を演じたため,最後は取り残されるような形にはなったものの,直線入口での位置は守り,3着でした。
 この馬はここまで4戦して2勝。前走で1勝クラスを僅差で勝った馬なので,日本のオープン馬の中では標準クラスかと思います。レース中に鼻血を出していたらしく,それがどの程度まで影響したのかは分かりませんが,少なくとも勝ち負けというところまでいけた可能性はかなり薄かったでしょう。

 導師の体調不良により,この月の回向は中止になっていました。そしてこの彼岸会のときにも導師は不在でした。結果的に導師の体調は回復せず,このお寺から実家の方に帰ることになりました。なので現在はお寺には,この導師とは別の僧侶が来て居住しています。いずれはこの僧侶が回向に来るということだったのですが,現在まで,その機会は訪れていません。ですから僕の家で回向が営まれたのは,昨年の8月15日が最後になっています。また,これだけが理由ではないのですが,この影響で,日野公園墓地の僕の父と祖父母の遺骨を会堂の中の納骨堂へ移すことも,現時点で実現していません。というかこれは,いつ行うのかということも現時点では決定していません。
 9月26日,木曜日。午前8時50分に地域担当支援主任のSさんから電話がありました。妹の首の後ろの部分に虫に刺されたような発疹が多数あるので,これから通院するという内容でした。結論からいいますがこれは何らかのアレルギーによる蕁麻疹であったと思われるのですが,明確な原因については特定することはできませんでした。抗アレルギーの飲み薬と,痒み止めの塗り薬を処方されています。ただ僕が妹の様子を見た感じだと,発疹はかなりひどいもので,言われた首の後ろだけではなく背中や腕,脚にも出ていたのですが,痒みはあまり感じていないようでした。
 僕はこの日の午後に日野公園墓地に墓参りに行きました。22日の彼岸会では塔婆が出ていて,母の分はお寺に立ててきましたが,父の分と先祖代々の分は持ち帰っていたので,お墓に行って立てなければならなかったからです。
 この墓参りの後,墓を管理している石材店に寄りました。墓の維持費は昨年までは母の銀行口座から引き落とされていました。ですがこの口座はなくなりましたので,それを支払う必要があったからです。これは10月1日から1年間分で,8100円になります。僕の口座から引き落とすには時間が短すぎましたので,本年度分,これはつまり2019年10月から今年の9月までになりますが,その分についてはこの場で現金で支払いました。そして僕の口座番号も伝えておきました。
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トランセンド&日帰り旅行

2020-02-20 19:29:31 | 名馬
 雲取賞を勝ったゴールドホイヤーの父はトランセンドです。Transcendは超越する。
 3歳2月に芝のレースでデビューして2着。2戦目にダートで初勝利をあげると3戦目のダート戦は圧勝。京都新聞杯に挑戦するも大敗。ダートに戻ってすぐに3勝目をあげるとレパードステークスで重賞初制覇を達成しました。古馬相手となったエルムステークスと武蔵野ステークスは連敗。
 4歳初戦に選んだオープンを勝利。アンタレスステークスは大敗しましたが東海ステークスで2着。秋初戦の日本テレビ盃フリオーソの2着になるとみやこステークスで重賞2勝目。さらにジャパンカップダートも勝って大レース制覇を達成しました。
 5歳初戦のフェブラリーステークスでフリオーソを2着に降して大レース2勝目。ドバイワールドカップに遠征してヴィクトワールピサの2着。帰国初戦の南部杯で大レース3勝目。JBCクラシックスマートファルコンの2着でしたがジャパンカップダートは連覇を達成して大レース4勝目。この年のJRA賞の最優秀ダートホースに選出されました。
 6歳初戦のフェブラリーステークスは7着。再びドバイワールドカップに出走しましたが13着。復帰戦となったJBCクラシックは3着になったもののジャパンカップダートは殿負け。東京大賞典も7着に敗れて競走生活を終えました。
 4歳秋から5歳までは最強クラスに近い成績を残しましたが,6歳で結果をまったく出せずに引退となったため,種牡馬としての印象はやや薄くなってしまいました。重賞の勝ち馬が出るかどうかといったところではないかと思います。

 9月13日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
 9月14日,土曜日。妹の誕生日でした。不二家でケーキを買って一緒に食べました。
 9月17日,火曜日。16日は敬老の日の祝日でしたから,この日に妹を通所施設に送りました。
 9月20日,金曜日。妹の日帰り旅行でした。
 妹はグループホームに入所してから,2018年3月,2018年8月,2019年3月と3度の日帰り旅行に行っています。これらはグループホームの入居者での日帰り旅行でした。それが今年の4月から,妹の通所施設の運営母体が変わりました。この運営母体にも日帰り旅行があり,この旅行はそちらの日帰り旅行です。というか,2019年度からは,グループホームの日帰り旅行というのはなくなり,通所施設の日帰り旅行に,グループホームの入居者も参加するという形になっています。グループホームの日帰り旅行の場合,グループホームの職員が同行することになります。僕の推測では,グループホームの入居者の通所施設の運営母体が変更になったのは,グループホームの職員の負担を軽減することを目的としていました。ですから,グループホームの職員が同行しなくてよい通所施設の日帰り旅行に,グループホームの利用者が参加するようになったというのは,僕の推測が正しいとするなら,ごく自然な流れであったと思います。ただ,通所施設の利用者は多いので,1日ですべての利用者が日帰り旅行に行くことはできません。旅行先は同じですが,前週とこの週の2週に分かれていて妹はこの週になったということです。
 このときの旅行先は藤子・F・不二雄ミュージアムでした。午前中に2時間ほど見学し,新横浜のホテルに移動。そこで昼食という日程でした。旅行帰りに通所施設から家まで帰ると,妹には負担が大きくなります。なので僕はこの日は迎えには行かず,妹は週末をグループホームで過ごしました。
 9月22日,日曜日。お寺で彼岸会がありました。妹が不在でしたので僕も参加できました。この月の回向は導師の体調不良によって中止になっていたのですが,導師の姿はありませんでした。住職が東京から来て読経していました。
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ユングフラウ賞&お寺の奥さん

2020-02-19 19:19:44 | 地方競馬
 桜花賞トライアルの第12回ユングフラウ賞。吉原騎手が昨日の6レースの発馬のときに左膝を打撲したためスティローザは酒井忍騎手に変更。
 スティローザを制する形でボンボンショコラの逃げ。2番手にエンジェルパイロ。3番手にテーオーブルベリー。4番手にスティローザとレイチェルウーズとレイズアストーム。7番手にハセノワールドとポピュラーソング。9番手にアンジュエトワール。10番手にアクアリーブル。最後尾をコーラルツッキーとチェリーブリーズで1周目の正面を通過。向正面では3番手がレイチェルウーズとテーオーブルベリーとチェリーブリーズの3頭になり,前から5頭は集団。2馬身差でハセノワールドという隊列に。最初の600mは36秒0のハイペース。
 3コーナーを回るとテーオーブルベリーが単独の3番手に。しかし逃げるボンボンショコラを追っていたエンジェルパイロとテーオーブルベリーはコーナーの途中で一杯。その2頭の内から進出したレイチェルウーズが単独の2番手となり,直線の入口ではボンボンショコラの外に出て2頭が並ぶ形に。追ってきたレイチェルウーズがすぐに単独の先頭に立つとあとは後ろを引き離していき快勝。後方から馬場の中ほどを追い込んだアクアリーブルが1馬身半差で2着。大外から末脚を伸ばしたポピュラーソングが1馬身半差の3着。一杯になったボンボンショコラが4分の3馬身差で4着。
 優勝したレイチェルウーズ東京2歳優駿牝馬以来の実戦で南関東重賞2勝目。デビューからの連勝を5に伸ばしました。ここはメンバー構成からハイペースが必至。それでも無難に対応し,力を見せつける形での勝利。2着と3着に,前半は控えていた伏兵が食い込んできたというのも,逆にこの馬の強さの証明といえると思います。桜花賞も最有力候補ではありますが,枠順に左右されるコース形態ですから,外枠を引いてしまった場合は馬券の面ではほかの馬を狙うという手もあるでしょう。馬名はゲームのキャラクター。
 騎乗した船橋の本田正重騎手は東京2歳優駿牝馬以来の南関東重賞9勝目。ユングフラウ賞は初勝利。管理している船橋の林正人調教師もユングフラウ賞は初勝利。

 8月30日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
 8月31日,土曜日。午後8時35分にピアノの先生から電話がありました。翌日のレッスンの開始時刻に関してでした。
 9月1日,日曜日。妹のピアノのレッスンがありました。午後3時半からでした。
 9月2日,月曜日。妹を通所施設へ送りました。
 9月7日,土曜日。妹の土曜レクリエーションでした。この日はゼリーを作って食べたようです。この週は妹は週末をグループホームで過ごしました。
 9月10日,火曜日。午前11時半にお寺の奥さんから電話がありました。翌日が回向だったのですが,導師の体調が悪いので中止という内容でした。
 僕がお寺の奥さんといっているのは,このお寺の住職の奥さんのことであり,導師の奥さんではありません。そして住職というのは,先代の住職の息子でそれ以前のことは僕は知りませんが,僕にとっては二代目です。僕の家がこのお寺の檀家になったのは先代の住職の時代で,この奥さんとはその頃から付き合いがありました。この頃は先代の住職と現在の住職がふたりともこのお寺にいたからです。その後に先代の住職は亡くなり,現在の住職が住職になりました。お寺に関する事務的な手続きや連絡は,祖母,父の母が生きていた頃はその祖母が,祖母の死後は父のきょうだいの長女,長女の死後は五女であるK伯母が担当し,K伯母の死後は頻繁にお寺に通う親族が不在になったため,奥さんを通して行うようになっていたのです。
 その頃は住職も奥さんもこのお寺にいました。ですが導師が来るようになってからは,基本的にお寺に居住するのは導師の方になり,住職は東京都内の別のお寺に居住するようになったため,奥さんもそちらに移動しています。これはおそらくそちらの寺に住職が必要になったからでしょう。ふたつの寺を兼務する住職というのは,現在はわりと多く存在するのではないかと思います。ですから,奥さんは,母の死後も何度か僕の家に来ていますが,これは南区内のお寺から来ているのではなく,東京の寺から来ているのです。なので最近になって檀家になった人は,奥さんとこのような付き合いはありません。
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棋王戦&2019年8月の通院

2020-02-18 19:06:51 | 将棋
 16日に宇都宮で指された第45期棋王戦五番勝負第二局。
 本田奎五段の先手で相掛かり。先手の浮飛車,後手の渡辺明棋王の引き飛車という序盤。渡辺棋王の感想にあるように,中盤の折衝で問題があり,そこで大差になっていたようです。終盤はきわどくなったのかと思いましたが,実際はそうではありませんでした。
                                        
 後手が4一の飛車で歩を取った局面。ここから☗6五歩☖同桂☗6六銀☖4五飛☗6五銀☖同銀☗9一角成☖4八飛成と,先手は一直線の攻め合いに進めました。
                                        
 第2図となって先手も危なくなったのではないかと感じました。ただ☗6五飛はこの一手。☖6四歩と受けられたときにどうするのかなのですが,☗6八飛と龍にぶつけました。後手から交換するのは明らかに損で,王手で逃げるのも後続の手段はないので☖5八金と打ったのは仕方がないところでしょう。ですが☗5四桂と打つ手がありました。
 これは☖同金は詰み。☖同歩は王手龍取りが掛かってしまうので☖5一王と逃げる一手。そこで☗5八飛☖同龍と金を入手して☗7三馬とするのが決め手でした。
                                        
 実戦は第3図から☖6二銀☗6一金と進んだとき,☖同王なら詰みはなかったのですが,☗2五角という王手龍取りがあるのでやはり先手が勝てます。華麗に決めたという印象が残る一局でした。
 本田五段が勝って1勝1敗。第三局は来月1日です。

 8月23日,金曜日。眼科検診に行ってきました。変化はありませんでした。
 8月24日,土曜日。妹の土曜レクリエーションでした。タピオカミルクティーを作って飲んだそうです。この週は妹は週末をグループホームで過ごしました。
 8月26日,月曜日。内分泌科の通院でした。
 この日は午後2時10分に病院に着きました。中央検査室には待機している患者がいませんでしたので,すぐに採血を済ませ,その後に採尿をしました。この日は使用済みの注射針は持参していませんでした。
 診察は午後3時5分に始まりました。HbA1cは6.3%と,7月よりさらに下がっていました。ただしこの日はインスリンの注射量の変更はしませんでした。これにはふたつの理由がありました。
 ひとつは,僕の血糖値は気温が高いときほど低くなるので,HbA1cの低下はそれと関連していると予想されました。しかしすでに8月の下旬で,暑さは峠を越したと思われます。ですから気温が高いがゆえの血糖値の低下は,今後は減少してくと予測されたからです。
 もうひとつは,7月のときにトレシーバの注射量を減少させたことです。僕は計測した血糖値に合わせて超即効型の注射量を調整するようにしています。もちろんこれは勝手にしていることではなく,医師の指示に従ってのものです。他面からいえば,この調整に関しては僕に任されているのです。ところがトレシーバの量を減らしましたので,調整の仕方も変更しなければなりません。しかし最良の調整というのはある程度の経験が必要になります。経験が増えてくるほど,調整ミスによって血糖値が高騰したり低下しすぎたりするのを防止できるようになるのです。この調整に対する慣れが見込めるということが,もうひとつの理由でした。
 この日はほかには何も異常がありませんでした。これはこの年の1月以来です。
 帰途に薬局に寄りました。インスリンも注射針も在庫が足りていました。帰宅したのは午後4時半でした。
 8月27日,火曜日。妹の福祉特別乗車券を郵便局で購入しました。これは横浜市内の路線バスに乗るための乗車券で,有効期間は1年間。1200円です。
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叡王戦&一周忌

2020-02-17 19:14:30 | 将棋
 13日に指された第5期叡王戦挑戦者決定戦三番勝負第二局。
 渡辺明三冠の先手で角換り相腰掛銀。先手が9筋の位を取り,引き飛車から☗1八香と上がったところで後手の豊島将之竜王・名人から仕掛ける将棋に。
                                      
 先手の玉が寄ったところ。8八の金も自ら寄ってのもので,これはお世辞にもいい形とはいえません。このように組まざるを得なかった時点で先手の作戦負けだったように思えます。
 後手は☖7二角と打ちました。あまり見ない手ですが,間接的に1八の香車を睨んだ手。先手が香車を上がったのを咎めにいったといえるでしょう。
 先手は☗4五歩☖同歩と角の利きをひとつ遮断して☗2六飛と浮きました。この受けはこの後の展開からするとよくなく,もう玉砕も覚悟で☗1九飛と寄った方がまだましだったかもしれませんし,攻めに出ることはできなくても香車にヒモをつけておくだけの価値はあったかもしれません。
 後手は☖4四銀直と上がり先手は☗7七桂と跳ねました。この手もある意味では玉砕覚悟のような一手といえるのかもしれません。後手は☖3五歩☗同歩☖同銀と飛車取りに進出し,☗5六飛に☖3四歩と備えました。
                                      
 先手は手番は得ましたがあまり指したい手はありません。そこで前の手を生かして☗6五桂と取り☖同歩☗同銀としました。ただこれは☖4六歩☗同銀☖同銀☗同飛に☖5五銀と打たれ,☗2六飛に☖1八角成が実現することに。
                                      
 第2図となっては大差です。どうも先手は序盤の段階で問題があったようです。
 豊島竜王・名人が勝って1勝1敗。第三局は24日です。

 処置室から出てきた妹の両手の甲に,3か所の注射の跡がありました。腕から採血することは難しいので,手の甲から採血するということは,妹の採血の場合には普通のことです。ですがこれだけ何度もやり直したことは僕の記憶にはありません。それだけこの日は採血に苦労したということです。帰りに薬局に寄りました。妹の薬は足りないケースも多いですが,この日は処方された分のすべての在庫がありました。
 8月17日,土曜日。午後7時20分に父のきょうだいの三女の長男から電話がありました。翌日が母の一周忌だったのですが,自家用車で迎えに行ってもいいとのことでしたので,お願いしました。
 8月18日,日曜日。母の一周忌の法要でした。
 法要は13時から。少し早めに到着しておく必要がありましたので,前日に伝えた通り,12時15分に従兄に迎えに来てもらいました。これはこの日に住職から話があるためでした。話を聞いたのは僕と父のきょうだいの長男のふたりで,要件はこの後,日野公園墓地に埋葬されている僕の父と父の両親,つまり僕からみれば祖父母,一緒に話を聞いた伯父からすれば両親の遺骨を,会堂の中の個別の納骨堂に移すための手順についてでした。日野公園墓地の墓の名義人は伯父で,会堂の中の納骨堂の名義人は僕になっていましたので,ふたりで話を聞く必要があったのです。
 一周忌の法要は午後1時から。住職と導師のふたりが読経しました。こういう場合はふたり分の布施が必要になります。事前にお寺の奥さんが僕の家に来て打ち合わせをしたときに,このことは聞いていましたから,とくに慌てることはありませんでした。
 法要の後で,2階にある会堂に移動し,先に共同の納骨堂から出しておいた母の遺骨を納骨しました。ここでも読経がありましたが,この納骨は概ね20分弱で終了しました。この会堂の真下の位置に台所と食堂があり,そこで一休みしてから解散になりました。帰りも従兄に送ってもらいました。帰宅したのは午後2時40分でした。
 8月19日,月曜日。妹は夏休みが終わりましたので,この日に通所施設まで送りました。妹にしては予定の多い休みだったことになります。
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小倉濱田翁カップ&郵送の依頼

2020-02-16 19:06:22 | 競輪
 第2回小倉濱田翁カップの決勝。並びは松坂‐海老根‐渡辺‐近藤の南関東,取鳥‐大川の中国,佐々木‐浜田の愛媛で金子は単騎。
 金子がスタートを取って前受け。一旦は金子の横まで上がりましたが,金子が譲らなかったため2番手となったのが松坂。6番手に佐々木,8番手に取鳥で周回。残り2周のホームに入って取鳥が上昇。バックの入口で金子を叩いて前に。取鳥ラインに続いていた佐々木がすぐに発進。取鳥を叩いて打鐘から先行。佐々木ラインを追っていた松坂が打鐘後のコーナーでうまくインに斬り込み3番手を確保。7番手に金子,8番手に取鳥の一列棒状に。バックから金子が動きましたがこれは前まで届かず。直線の手前から踏み込んだ松坂が,番手から出た浜田の外から差し込んで優勝。マークの海老根は佐々木と浜田の間に進路を選択し4分の3車輪差の2着となり,南関東のワンツー。佐々木マークの浜田が1車身差で3着。
 優勝した神奈川の松坂洋平選手は新春の前橋のFⅠ以来の優勝。グレードレースは2011年の平塚記念以来の優勝でGⅢは3勝目。当時は期待していたのですが,捲りに構えるケースが多くなり,それ以降は上位では戦えなくなっていました。ここはGⅢとはいえ強力な選手は不在で,ラインも長くなりましたから,有利に戦える状況。打鐘後にうまく立ち回って好位置を確保できたことが勝因でしょう。佐々木や取鳥とは一回り以上年長になりますが,それでも4人のラインであれば逃げてほしかったという気もします。

 8月11日,日曜日。前日に電話があった通り,午後1時過ぎにお寺の奥さんが来訪しました。これは翌週に母の一周忌の法要が予定されていたので,その打ち合わせでした。法要だけでなく,母の遺骨を会堂の中の専用の納骨堂に移すことも同時に行うことになっていたので,その手順の説明もありました。概ね45分くらいの打ち合わせでした。
 8月13日,火曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。前日の12日は振り替え休日のために休み。そして翌14日から妹は夏休みに入ることになっていましたので,もし前週の金曜日に迎えに行けば,この日に送ってまた迎えに行かなければなりませんでした。これでは僕も妹も大変です。なのでこの前の週の週末はグループホームで過ごすようにして,この日に迎えに行ったのでした。
 この夏休みの期間中,妹は本牧脳神経外科への通院が予定されていました。本牧脳神経外科への通院の場合,妹の薬が処方されますので,グループホームに預けてあるものとしては,健康保険証とおくすり手帳が必要になります。ところがこの日は,健康保険証の方は持たせてくれたのですが,おくすり手帳の方はありませんでした。なので帰宅後にグループホームに電話を入れると,おくすり手帳はグループホームにあるとのことでした。取りに行ってもよかったのですが,通院は16日でしたから,すぐに郵送してもらえればそれには間に合うように思えましたので,それが可能であるかどうかを尋ねました。着払いで構わないなら送ることができるとのことでしたので,そのように依頼しました。
                                       
 8月15日,木曜日。郵送を依頼しておいたおくすり手帳はこの日の午前9時半に配達されました。
 10日に予定されていた回向は,この日に延期されていました。午後1時からです。妹も帰っていましたので,一緒に参列しました。
 8月16日,金曜日。妹の本牧脳神経外科への通院でした。この日は診察だけでなく,採血も行われました。採血は診察室の隣の処置室で行われます。これまでは僕も同席していたのですが,この日は処置室の前で待たされることになりました。妹は血管が細く,この日も採血には苦労したようです。
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岡田美術館杯女流名人戦&消毒

2020-02-15 18:55:37 | 将棋
 11日に湯原温泉で指された第46期女流名人戦三番勝負第三局。
 谷口由紀女流三段の先手で中飛車。里見香奈女流名人が向飛車にして相振飛車。先手が居玉のまま銀を進出して交換に持ち込むという積極策に出ましたが,手数を掛けたわりに戦果が上がってなく,その時点でつまらない将棋にしてしまったという印象が僕には残りました。とはいえそれは勝負を決定づけるような差ではなかったのですが,中盤で先手が大きなミスを犯してしまいました。
                                        
 後手が2五にいた飛車を引いた局面。ここで☗5七金と引いたのが致命的なミス。すかさず☖2六歩☗同歩☖2五歩の継ぎ歩攻めが来ました。
 玉頭の歩を取り込まれて拠点を作られてはいけませんからこうなった以上は☗同歩は仕方がありません。ですが☖6五銀☗同銀☖2五飛の十字飛車が決まり,☗2七歩に☖6五飛と取られ,先手の桂損になりました。
                                        
 ☗5七金は☗4七金とセットで有効手になります。ですがすでに先手にその余裕がなく,第2図で後手は駒得以上の優勢となっています。
 3連勝で里見名人が防衛第36期,37期,38期,39期,40期,41期,42期,43期,44期,45期に続く十一連覇。十一連覇は女流棋戦では新記録になります。

 帰宅後,午後8時55分に,ピアノの先生からの電話がありました。4日のピアノのレッスンの開始時刻の件でした。
 8月3日,土曜日。妹はまだ消毒が必要でしたので,港南中央医院に通院しました。この日は消毒だけ。午後2時半に家を出て,帰宅したのは午後4時50分でした。翌日は日曜で休みのため,また月曜日に消毒に来院するように言われました。
 8月4日,日曜日。妹のピアノのレッスンでした。午後2時の開始でした。
 8月5日,月曜日。妹の通院は,妹が帰宅していない間は地域担当支援主任のSさんに付き添ってもらっていました。ただ,港南中央医院は僕の家から通所施設に行く中途にあります。なのでこの日は,先に僕が港南中央医院に妹を連れて行き,消毒が終ったらそのまま施設に送る方がよいだろうと思いました。この場合は事前の予定よりも通所施設に到着する時間が遅くなるのが必然です。なので朝のうちに通所施設に電話を入れ,今日は到着時間が遅くなるという旨だけを伝えておきました。消毒にはさほどの手間はかかりませんが,待ち時間がどれほどになるのかは想定できませんでしたので,何時ごろに到着できるのかということは伝達できません。大事なのは昼食に間に合うかどうかですが,さすがにそんなに遅くなることは考えられませんでしたので,給食のキャンセルはしませんでした。実際にはさほど時間は掛からず,いつもより30分くらい遅れるだけで通所施設に到着できましたし,僕も帰宅することができました。消毒はこの日で終わりではなく,まだ通院する必要があるとのことでしたので,そのことについては施設の職員に伝えておきました。翌日にSさんが付き添ってくれたのですが,その日で消毒の必要はないということになりました。ですので僕が港南中央医院へ行ったのは,5日が最後でした。
 8月10日,土曜日。午後2時半に導師から電話がありました。11日に回向が予定されていたのですが,無理になってしまったので延期したいとのことでした。なので変更の日程をこの日に決定しました。また,午後5時5分にお寺の奥さんからも電話がありました。翌日に来訪したいということでした。
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