スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京2歳優駿牝馬&有益な解釈

2019-12-31 18:32:30 | 地方競馬
 北海道から3頭が遠征してきた第43回東京2歳優駿牝馬
 テーオーブルベリーが先手を奪いました。2番手にブロンディーヴァで3番手にポピュラーソングとなりこの3頭が先行グループを形成。3馬身差でスティローザとルイドフィーネ。さらにチェリーブリーズ,レイチェルウーズ,トゥギャザーウェンでこの5頭は好位集団。2馬身差でサブノアカゾナエとリヴェールブリス。2馬身差でセンターガーネットとコーラルツッキー。2馬身差でネーロルチェンテとミステリーベルン。2馬身差でマッドシティ。2馬身差でジャギーチェーンと中団から後方はばらばらで追走。前半の800mは48秒8の超ハイペース。
 3コーナーを回って逃げるテーオーブルベリーと追うブロンディーヴァが3番手以下に5馬身ほどの差をつけました。外から追い上げてきたレイチェルウーズが差を詰めつつ3番手に上がって直線に。前2頭の争いはテーオーブルベリーがブロンディーヴァを振り切り,ブロンディーヴァは脱落。しかしテーオーブルベリーも振り切ってからは一杯になり,レイチェルウーズの差し脚までは凌げず,楽に差し切ったレイチェルウーズが優勝。テーオーブルベリーが粘って3馬身半差で2着。レイチェルウーズのさらに外から追い込んできたサブノアカゾナエが2馬身半差の3着。
 優勝したレイチェルウーズはここまで距離を伸ばしつつ3戦3勝。1600mは今日が初めてでしたが,2戦目の1200mでも3戦目の1500mでも同じように4馬身の差をつけて勝っていましたので,100mの距離延長は心配には当たらないだろうと思っていました。僕は今年の北海道の所属馬は例年ほど高いレベルにはないとみていましたので,テーオーブルベリーが2着に粘ったのは意外だったのですが,この馬がマークされながらも振り切ったブロンディーヴァはローレル賞の勝ち馬なのですから,逃げることができればかなり高い能力がある馬だったということになると思います。したがって,今日もここ2戦とあまり変わらない差をつけたレイチェルウーズは,少なくとも例年並み,おそらくはそれ以上の能力があるとみてよいのではないでしょうか。ただしさらなる距離延長に対する不安は少しあるかもしれません。馬名はゲームのキャラクター。
 騎乗した船橋の本田正重騎手は昨日の東京シンデレラマイルに続いて南関東重賞8勝目。東京2歳優駿牝馬は初勝利。管理している船橋の林正人調教師も東京2歳優駿牝馬は初勝利。

 文字通りに解するというのは,第二部定理七備考のいい方であれば延長Extensioの様態modiとその観念idea,この考察のここまでのいい方でなら事物の形相的有esse formaleと客観的有esse objectivumは,同一のものであると解釈するということです。別のいい方をすれば,Xという事物の本性essentiaはその形相的本性essentia formalisと客観的本性から成立しているのであり,もしその形相的本性という側面からXをみるならそれはXの形相的有,延長の属性Extensionis attributumでいえばXという物体corpusとして把握されるのに対し,もしその客観的本性という側面からXがみられるなら,それはXの客観的有すなわちXの観念,Xが延長の属性の形相的有であるならばXという物体の観念として把握されるという解釈です。つまり僕の解釈,僕がスピノザの哲学の正当な解釈であると考えている解釈が,形相的有には形相的本性があり,客観的有には客観的本性があるのであり,それが同一個体として合一unioを果たしているとしても,それらは別のものとして区別されなければならないというものであるのに対していえば,この解釈は,どのようなものも同一個体としてのみ存在するのであり,あるいは合一した同一個体としてしか存在できないのであり,その同一個体に形相的本性と客観的本性というふたつの本性が付随するという解釈になります。
                                   
 僕はこの解釈は採用しないわけですが,それがきわめて有力で,またきわめて有益な解釈であるということは認めます。スピノザの哲学ではどんなものでも観念の対象ideatumにはなり得ます。これは第二部定理七系から明白です。ですから同一個体を有さないようなものは存在することができません。とりわけ,この系Corollariumで,神Deiの働く力agendi potentiaといわれている力から発生するものは,それが観念の対象となる以上,必然的にnecessario合一して存在する,合一しないで存在することはできないことになるからです。したがってこの解釈は,スピノザが働く力と思惟する力cogitandi potentiaについていわんとするところを何ら損ねるものではありません。かつ同時に,どのような事物も同一個体として存在するというのなら,その事物は必ず客観的本性だけでなく形相的本性も有することになるので,ものが形相的有として存在し得るのかという疑問自体が不毛な疑問となるからです。
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東京シンデレラマイル&同一個体と合一

2019-12-30 18:36:35 | 地方競馬
 第13回東京シンデレラマイル。御神本騎手が病気のためサラーブは町田騎手に変更。
 エースウィズは発馬後の加速が鈍く1馬身の不利。ジェッシージェニーは躓いて同じく1馬身の不利。先手を奪ったのはポッドギルで2馬身くらいのリード。2番手にミッシングリンク,ストロングハート,エイシンセラードの3頭で5番手のステップオブダンスまで含めた4頭は一団。ここから3馬身差でアークヴィグラスとレガロデルソル。1馬身差でエターナルモールとオルキスリアン。1馬身の間隔でサラーブ,ナンヨーオボロヅキ,ローレライと続いてこの7頭は一団。2馬身差でサンルイビル,ペタルーダ,ジェッシージェニー,エースウィズの順で4頭が続く形。前半の800mは49秒3のハイペース。
 3コーナー過ぎからミッシングリンクがポッドギルに並んでいき,コーナーの中間で先頭に。その外からレガロデルソルとサラーブの追い上げで,さらに外からローレライとサンルイビルが並んでの追い込み。最後は大外の2頭と,サラーブとローレライの間から伸びてきたオルキスリアンの3頭が抜け出し,さらにサラーブの内からペタルーダも伸びてくる形に。最初に先頭に立っていたローレライが最後まで踏ん張って優勝。オルキスリアンがクビ差の2着でサンルイビルがクビ差で3着。ペタルーダがハナ差の4着。
 優勝したローレライは6月のB級1組戦以来の7勝目。南関東重賞は初勝利。このレースは近況が不振の実績馬と,最近の成績のよい格下の馬が入り混じっての混戦で,優勝候補をあげるだけでも困難なレースでした。ローレライは格下の部類に入りますが,スパーキングレディーカップは大きく離されたとはいえ3着で,前々走のレディースプレリュードはそこまで差のない6着と,重賞でもそれなりに走っていたので,ここで勝つ力は十分にあったということでしょう。ただ,騎手のコース取りからも窺えるように,現状の大井は内目は走りにくいようです。このために先行した馬には厳しく,差しが決まりやすくなっているという面があるかもしれません。コースの現在の特徴が反映されているとも考えられますので,そのあたりは今後の馬券検討の際には気を付けておきたいところです。父はゴールドアリュール。母の父はクロフネ。母系祖先はチップトップで3代母がロジータ。2着馬は叔母にあたります。
 騎乗した船橋の本田正重騎手はロジータ記念以来の南関東重賞7勝目。東京シンデレラマイルは初勝利。管理している大井の堀千亜樹調教師は南関東重賞3勝目。東京シンデレラマイルは初勝利。

 合一unioと同一個体は異なった概念として解しておくのがスピノザの哲学の理解のためにはよいと思います。つまり,一般にXとXの観念ideaは同一個体であるといわれるのに対し,Xが形相的有esse formaleである場合のみ,XとXの観念は合一しているといわれると解するのがよいでしょう。そしてこのときに気を付けておきたいのは,Xはそれが形相的有であるならどんなものであっても成立することです。第二部定理一三備考は,人間の身体と人間の精神が合一しているMentem humanam unitam esse Corporiといっていますが,別に人間の身体だけがその身体の観念であるその人間の精神と合一しているといわれるわけでなく,Xは形相的有であれば何であれ,といっても人間が認識するcognoscereことができる形相的有というのは第二部公理五により物体corpusだけなので,僕たちにとっては事実上はこれは物体であれば何であれという意味ですから,物体であれば何であれ成立するということです。スピノザの哲学では,この合一という観点からみられた場合の客観的有esse objectivumすなわち観念が精神といわれるということに留意すれば,同じ第二部定理一三備考の中で,すべての個体が精神animataを有しているといわれていることからそれは明らかです。
                                   
 第二部定理七備考でいわれている同一物については,僕がそれを同一個体と解するということはすでに明言した通りです。そしてこの部分は,延長Extensioの様態modiとその観念が同一物だといっています。延長の様態というのは,当然ながら形相的有です。したがって,ここでいわれている同一物は,合一しているということも僕は是認することになります。そしてその前にいったように,この合一している延長の様態とその観念は,実在的に区別されなければならず,区別distinguereが可能である以上は別のものであると僕は解しますし,それがスピノザの哲学に則した解釈であると僕は考えます。
 しかしこの解釈をすることによって,形相的有,この備考Scholiumでいわれているところでは延長の様態について,それが実在するのか否かという疑問がスピノザの哲学には呈示されてしまうようになるという一面があるのも事実です。そこでそれを回避するための手段が,この部分の同一物を,文字通りに解釈してしまうという方法なのです。
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農林水産大臣賞典東京大賞典&第二部定理一三備考

2019-12-29 18:43:37 | 地方競馬
 第65回東京大賞典。石崎駿騎手が病気のためサンドプラチナは森泰斗騎手に変更。
 確たる逃げ馬が不在でしたので何が逃げるのかは予測が難しかったのですが,最内枠から普通の発馬となったアポロテネシーが先手を奪う形になりました。2番手でマークがケイティブレイブ。3番手にロンドンタウンとゴールドドリームで5番手のロードゴラッソまでは一団。3馬身差でノンコノユメとオメガパフューム。3馬身差でモジアナフレイバー。2馬身差でバルダッサーレとサノサマー。3馬身差でウマノジョーとゴーディー。4馬身差の最後尾にサンドプラチナと縦長の隊列。前半の1000mは61秒6のハイペース。
 3コーナーを回るところでアポロテネシー,ケイティブレイブ,ゴールドドリームが雁行。コーナーの途中では外からオメガパフュームが4番手となり,それを追い掛けて外から進出してきたのがモジアナフレイバー。直線に入ると前3頭の争いからゴールドドリームが前に出て一旦先頭。外からオメガパフューム,大外からモジアナフレイバー,さらにゴールドドリームの内からはノンコノユメが伸びてきて,最後は消耗戦に。ゴールドドリームを最初に差して先頭に立ったオメガパフュームが,フィニッシュまで粘り切って優勝。内のノンコノユメが1馬身差で2着。大外のモジアナフレイバーが2馬身差の3着。ゴールドドリームは半馬身差で4着。
                                   
 優勝したオメガパフューム帝王賞以来の勝利で大レース3勝目。東京大賞典は第64回に続く連覇。ここはケイティブレイブ,オメガパフューム,ゴールドドリームの3頭の力が上で,一角を崩せばモジアナフレイバーかノンコノユメとみていました。実力上位とみた3頭のうち2頭が崩れてしまったのは想定外でしたが,食い込んできたのは一角崩しありとみた2頭だったので,それなりには順当な決着だったとみていいでしょう。こういう結果になったのは先行勢がやり合いすぎたためで,それより後ろに位置していた3頭に展開が向いたというところでしょう。能力そのものよりは,展開の方がより結果に大きく反映されたといえると思います。母の父は第48回の覇者のゴールドアリュール。従姉に昨年の愛知杯を勝ったエテルナミノル
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手はオークス以来の大レース制覇。東京大賞典は連覇で2勝目。管理している安田翔伍調教師は帝王賞以来の大レース3勝目。東京大賞典は連覇で2勝目。

 スピノザの哲学では,同一個体は合一しているといわれることがあります。この合一unioも今回は重要になりますので,改めて説明しておきます。
 第二部定理一三備考は次のように始まります。
 「これによって我々は,人間精神が身体と合一していることを(Mentem humanam unitam esse Corpori)知るのみならず,精神と身体の合一をいかに解すべきかをも知る。しかし何びともあらかじめ我々の身体の本性を妥当に認識するのでなくてはこの合一を妥当にあるいは判然と理解することができないであろう」。
 第二部定理一三から,人間の身体とその人間の精神が同一個体であることが分かります。他面からいえば,人間の精神とはその人間の身体の観念であることが分かります。そしてその身体と精神が合一しているといわれています。この備考Scholiumのこれによってというのは,第二部定理一三によって,あるいは第二部定理一三と第二部定理一三系によってと解さなければならないのは,これが備考の冒頭部分であることから明白ですから,スピノザが何をもって合一といっているかは詳しく説明するまでもないでしょう。
 一方でスピノザは,合一を十全に認識するcognoscereには身体の本性naturaを十全に認識しなければならないといっています。このために備考の直後に自然学Physical Digressionが置かれることになるのです。ここで着目すべきなのは,精神の本性を十全に認識しなければ,とはいわれず,身体の本性を十全に認識しなければ,といわれている点です。スピノザの哲学では,XとXの観念ideaが同一個体でした。この場合はXに該当するのが身体ですから,Xの観念ではなく,Xの本性を十全に知る必要があるといわれていることになります。他面からいえば,観念の本性ではなく,観念対象ideatumの本性を十全に認識されることが求められているのです。XとXの観念が同一個体であるということのうちには,Xは形相的有esse formaleでも客観的有esse objectivumでも妥当するということが含まれていました。ですが合一の場合は,形相的有である身体の本性の十全な認識cognitioが求められているのですから,合一するのは形相的有と客観的有であることになります。よって同一個体は合一していると解するより,ある形相的有とその観念が合一していると解するのがよいでしょう。
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ホープフルステークス&同一個体

2019-12-28 19:11:56 | 中央競馬
 第36回ホープフルステークス
 すぐにパンサラッサがハナに立ち,1コーナーから2コーナーにかけて2馬身ほどのリード奪う形。2番手にはブルーミングスカイとラインベック。3馬身差でコントレイル。その後ろにブラックホール。ヴェルトライゼンデとガロアクリーク。ディアセオリーとワーケアとオーソリティでこの7頭は集団。4馬身差でナリノモンターニュ,ラグビーボーイ,クリノブレーヴと続きました。前半の1000mは60秒9のミドルペース。
 3コーナーを回ってからラインベックが逃げるパンサラッサとの差を詰めにかかりましたが,思うようにいかず,この間にその外から上がってきたコントレイルの方が単独の2番手になって直線へ。坂下でコントレイルが先頭に立つとマークするように追ってきたヴェルトライゼンデが2番手に。しかしこの時点での差が最後まで詰まらず,コントレイルが快勝。1馬身半差の2着にヴェルトライゼンデ。外から追い込んできたワーケアが2馬身差で3着。
 優勝したコントレイルは9月に新馬を勝った後,前走の東京スポーツ杯2歳ステークスをレコードタイムで圧勝。デビューから3連勝,重賞連勝での大レース制覇。前走の内容から能力は随一と思っていましたが,気になったのは前走後に,距離の延長はプラスにはならないのではないかというコメントが出ていた点。しかし折り合うことができれば2000mは問題ないということがはっきりしましたので,皐月賞までは距離の心配はしないですみそうです。その点で大きな収穫があった一戦だったといえるでしょう。父はディープインパクト。8代母がマジックゴディスの祖母の半妹にあたる同一牝系。Contrailは飛行機雲。
                                        
 騎乗した福永祐一騎手は安田記念以来の大レース33勝目。第29回以来7年ぶりのホープフルステークス2勝目。管理している矢作芳人調教師は日曜の有馬記念に続く大レース13勝目。ホープフルステークスは初勝利。

 第二部定理七備考でいわれている同一物を,僕は同一個体と解します。今回はこれが重要なので,改めて詳しく解説します。
 スピノザの哲学ではXとXの観念ideaは同一個体といわれます。注意しなければならないのは,Xは形相的有esse formale,すなわち知性intellectusの外に実在するものとは限らないことです。なぜなら,スピノザの哲学では客観的有esse objectivumすなわち観念も認識cognitioの対象となり得るものであり,観念を対象ideatumとした観念は観念の観念idea ideaeといわれるからです。そしてこの関係は無限に連鎖します。すなわち観念の観念もまた認識の対象となり得るものであり,それを対象とした観念は観念の観念の観念ということになります。そしてそれもまた認識の対象となるものであり,という関係が無限に続いていくことになります。これについては第二部定理二一備考も参考にしてください。この意味で,僕は一般的にXとXの観念は同一個体であるといいます。
 次に,第二部定理七から分かるように,同一個体は秩序および連結Ordo, et connexioが一致します。この定理Propositioでいわれている物rerumというのは,物体corpusのことを意味するわけではなく,観念されたものideatumを意味するからです。しかし同時に注意しなければならないのは,秩序および連結が一致するもののことを同一個体であるというのではないという点です。
 一般にXとYの秩序と連結が一致し,YとZの秩序と連結が一致するなら,XとZの秩序と連結も一致します。よって同一個体の間では秩序と連結が一致するので,XとXの観念の間では連結と秩序が一致し,Xの観念とXの観念の観念の間でも連結と秩序は一致します。したがって,XとXの観念の観念との間でも連結と秩序は一致することになります。しかしXとXの観念の観念は同一個体ではありません。同一個体というのは,XとXの観念の間だけに特有にいわれることだからです。
 よって,XとXの観念が同一個体であるということの意味は,次のようになります。
 Xが形相的有である場合,XはXの観念というひとつの同一個体だけを有します。また,Xが客観的有すなわち観念である場合は,Xの観念対象となっているものと,X自身が観念対象となるものというふたつの同一個体を有します。
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農林水産大臣賞典兵庫ゴールドトロフィー&別のもの

2019-12-27 18:42:45 | 地方競馬
 第19回兵庫ゴールドトロフィー
 発走後の正面ではナチュラリーが先頭でデュープロセスが2番手。3番手にランスオブプラーナとハヤブサマカオー。5番手にラブバレットとテーオーエナジー。7番手にノボバカラとサクラレグナムで8頭は集団。3馬身差でイルティモーネ。3馬身差でブラゾンドゥリスで最後尾にキヨマサ。1コーナーに入る前にデュープロセスが先頭に出て,2馬身差でナチュラリー,ランスオブプラーナ,ハヤブサマカオーの3頭となり,直後にテーオーエナジーという隊列に変化。超ハイペースだったと思われます。
 向正面でテーオーエナジーがまず追い上げていき,単独の2番手に。これを追ってきたサクラレグナムが3番手となり,コーナーではノボバカラが4番手に。テーオーエナジーは早めに追い上げたつけが出て直線で一杯に。サクラレグナムが2番手に上がったところ,後方から大外を追い込んできたイルティモーネが一気に2番手に。そのまま逃げるデュープロセスにも迫りましたがこちらには届かず,一杯に逃げ切ったデュープロセスが優勝。イルティモーネが4分の3馬身差で2着。サクラレグナムがクビ差で3着。サクラレグナムとイルティモーネの間から伸びたノボバカラは半馬身差の4着。
 優勝したデュープロセスは重賞初勝利。このレースは確たる軸になりそうな馬が存在しない上に,斤量の差が大きいため,波乱の決着もあるとみていました。この馬は春にユニコーンステークスを2着。秋の古馬相手でのレースもそこそこ健闘していました。前走の武蔵野ステークスで7着だった時との比較でいえば,相手関係が楽になっていたということもあるでしょうが,距離の短縮がよかったように思います。どちらかといえばスプリンターなのではないでしょうか。イギリス産馬ですが父はダイワメジャー。祖母がホワイトウォーターアフェアの半妹にあたる同一牝系。Due Processは正当な法手続き。
 騎乗した北村友一騎手と管理している安田隆行調教師は兵庫ゴールドトロフィー初勝利。

 スピノザの哲学では,区別distinguereが基本的に二種類に分類されます。ひとつが実在的区別でもうひとつが様態的区別です。これも基本的にですが,異なった属性attributumに属するものの間での区別が実在的区別で,同一の属性の様態modusの間での区別が様態的区別です。これはもっと深く探求することができるのですが,今はそれは必要ありません。
 Aの形相的有esse formaleすなわち知性intellectusの外に存在するAと,Aの客観的有esse objectivumすなわち知性のうちにあるAの観念ideaの区別は,上述の規準に照らせば実在的区別になります。Aの形相的有がどの属性に属するかは明確にできませんが,それは知性の外に存在するのですから,少なくとも思惟の属性Cogitationis attributumに属することはありません。いい換えればそれは思惟の様態cogitandi modiではありません。これに対してAの客観的有すなわちAの観念は思惟の様態です。つまりAの形相的有とAの客観的有は属性の相違によって区別されることになります。よってAの形相的有とAの観念の区別は実在的区別です。他面からいえば,Aの形相的有とAの観念は実在的に区別されるのでなければなりません。
 一般論として,もしもXとYが何らかの仕方で区別することができるということは,XとYは別のものでなければなりません。同一のものが区別されるというのは語義矛盾であるからです。したがって,Aの形相的有とAの観念が実在的に区別されなければならない以上,Aの形相的有とAの観念は別のものでなければならないということが帰結します。
 これが,僕がAの形相的有とAの客観的有は別のものであると解する根拠です。そして,これは確かな根拠なので,スピノザの哲学で成立しなければならないと考えます。しかし,これを別のものと解さなければならないがゆえに,スピノザの哲学では形相的有が存在するといえるのかという類の疑問が生じてしまうのです。そこで,このような疑問を感じてしまう人に対しては,これとは別の有力な解釈を僕は推奨しました。その解釈は,スピノザの哲学の正しい解釈ではないのですが,スピノザの哲学の真意を汲み取るためにはとても有益な解釈だと思うのです。
                                  
 この解釈の中心が,第二部定理七備考でスピノザがいっていることです。
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漱石と朝日新聞&形相的本性と客観的本性

2019-12-26 19:12:37 | 歌・小説
 夏目漱石の評伝としては十川信介の『夏目漱石』を紹介しましたが,漱石の伝記的要素をもつ書籍には,ある時期に特化したものがいくつか含まれています。そのうちのひとつが,山口謠司の『漱石と朝日新聞』です。
                                        
 漱石は1907年に,勤務していた大学の職を辞し,朝日新聞に入社。教授職の地位が高かった時代としては異例の判断であったため,大学教授と新聞屋は同じように商売なのであって,それは国家が経営するか個人が経営するかの相違にすぎないという見解を紙上に表明しました。この本は,その頃のことを中心に書かれた評伝です。
 もっとも,この本は単に夏目漱石の評伝というわけではありません。というのは,夏目漱石にとって朝日新聞に入社することは,自身にとってプラスであった,とくに経済的な面においてプラスが大きかったのですが,本のタイトルからも類推できるように,この本はそればかり,つまり漱石の意図だけが中心となっているわけではありません。朝日新聞は朝日新聞で漱石に入社してもらうことによるプラスが大きかったのであり,実際にそうした新聞社側の事情に関しても多くのページが割かれています。漱石は朝日新聞から入社の依頼を受ける前に,読売新聞からも入社の誘いを受けていて,当時の新聞社にとっては,有名作家を社員にするということは,会社に大きな利益を齎すものと思われていたのです。なぜそうであったのかということまで含めて,この本は構成されていますので,純粋な漱石の評伝とか伝記というわけではありません。
 またこの本にはそれ自体では漱石とは無関係といえる,朝日新聞の成り立ちについても詳しく書かれています。これはその成立事情が,漱石を入社させることの利益と関連するからです。漱石の入社は漱石自身と朝日新聞社の思惑が複雑に絡み合った末の出来事でした。入社後の漱石についても書かれているのですが,その部分は評伝の域を超えるものではないように感じました。

 『スピノザ 力の存在論と生の哲学』の第二章では,前回の『主体の論理・概念の倫理』の考察の中で,スピノザの哲学には事物が形相的にformaliter存在するのかという疑問を抱いた人に対して助言した解釈が,ほぼそのまま採用されている部分があります。僕はこれが有力な解釈であるということ,スピノザの哲学を理解する上で有益な解釈であるということは認めますが,必ずしも正しい解釈であるとは考えていませんので,このことについてここで改めて説明しておきます。ただ,秋保は僕とは別の語句を用いていますので,今回はそれに合わせた説明になります。
 第二部定義二から分かるように,スピノザの哲学では,どんな事物にもそれ固有の本性essentiaがあります。したがってあるものが形相的有esse formaleとして存在するなら,いい換えれば知性intellectusの外に存在するなら,そのものにはそのものに固有の本性があるのでなければなりません。ここではこうした本性のことを,その事物の形相的本性essentia formalisということにします。僕は形相的本性というのは,認識cognitioの対象となるような事物の本性と解しますが,今はこのことは考慮しなくて構いません。
 一方,スピノザは観念ideaのことを事物の客観的有esse objectivumといいます。当然ながらこれは存在するなら知性のうちに存在することになります。そしてある客観的有が存在するなら,それにもそれに固有の本性があるのでなければなりません。第二部定義二は存在するものについて一般的に妥当することであり,形相的有にのみ妥当するというわけではないからです。そこでこうした客観的有の本性については,客観的本性ということにします。これは形相的有の本性である形相的本性に対応して,客観的本性というということです。
 僕は,事物の形相的本性と客観的本性を別のものと考えます。もう少し詳しくいうと,Aの形相的本性とAの客観的本性を別のものと考えます。事物の本性は特定の事物に固有の本性なのですから,これはAの形相的有とAの客観的有,いい換えれば知性の外に存在するAと,知性のうちに存在するAの観念を別のものと考えるという意味です。そして僕がこのように考えるのには,スピノザの哲学に依拠した明確な理由があるのです。
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ゴールドカップ&決定的な亀裂

2019-12-25 19:05:04 | 地方競馬
 第57回ゴールドカップ
 ノブワイルドとタイセイラナキラの逃げ争いになりましたが,枠順の有利さでノブワイルドの逃げとなり,タイセイラナキラは2番手に控えました。3馬身差でトロヴァオ,ブルドッグボス,アルファベット,バンドオンザランの4頭が集団。その後ろにミキノトランペットとアドマイヤゴッド。2馬身差でタガノヴィッター,ツーエムマイスター,キスミープリンスの3頭で最後尾にブレーヴマン。最初の600mは35秒9のミドルペース。
 向正面で外からアドマイヤゴッドが上昇。ノブワイルド,タイセイラナキラ,アドマイヤゴッドの3頭が雁行で3コーナーへ。コーナーの途中でタイセイラナキラは後退しアドマイヤゴッドが2番手に。アルファベットとブルドッグボスがタイセイラナキラの後ろまで追い上げてきました。直線に入って一旦はノブワイルドがアドマイヤゴッドに差をつけましたが,大外から捲ってきたブルドッグボスが迫ってくるとまたアドマイヤゴッドも中から伸びて差を詰めていく形。ノブワイルドにブルドッグボスが並び掛けたところでフィニッシュ。写真判定となり,優勝はブルドッグボス。ノブワイルドがハナ差で2着。アドマイヤゴッドが半馬身差で3着。
                                   
 優勝したブルドッグボスJBCスプリントから連勝。重賞は2勝していますが南関東重賞はこれが初勝利。ここはノブワイルドとブルドッグボスの力が上で,ほかの馬との斤量にほとんど差がありませんから実力通りの結果となることが濃厚でした。最初に競られはしたもののペースはさほど上がったわけではないので,ノブワイルドの方がやや有利ではあったのですが,かなり外を回ってぎりぎりとはいえ差し切ったのは,ブルドッグボスの底力といえるかもしれません。父はダイワメジャー。3代母がバーブスボールド。母の5つ下の半弟に2009年に阪神ジャンプステークスを勝ったマヤノスターダム
 騎乗した大井の御神本訓史騎手はローレル賞以来の南関東重賞38勝目。その後に浦和記念を勝っています。ゴールドカップは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞39勝目。第51回52回に続き5年ぶりのゴールドカップ3勝目。

 もしも実際にはスピノザが神Deusと人間の本性natura humanaの創造者を,別の存在者としてではなく,同一の存在者として把握しているのであるとすれば,この部分のスピノザの記述は,スピノザ自身が解したデカルトRené Descartesの哲学と決定的な亀裂が現れていることになります。
 スピノザは,人間の本性の存在者が人間を欺くかどうかを知らなくても,人間は三角形について確実であることができるといっていました。もしも人間の本性の創造者と神が同一の存在者であるのなら,これは神が人間を欺くかどうかを知らなくても,人間は三角形について確実であることができるという意味になります。ところで,もしも人間が神を真に認識しているのであれば,神が最も誠実な者であるということ,いい換えれば人間を欺くことはないということを,人間は疑い得ないのでした。したがって,神が人間を欺くかどうかを知らない人間というのは,まさにスピノザがここで反駁者として想定している,神の真の観念idea veraを有していない人間であるということになります。最後にこれらのことを総合するなら,神について真の認識cognitioを有していない人間でも,三角形について確実であることができるとスピノザはいっていることになります。
 実際に僕はスピノザがそのようにいっているのだと解します。そしてスピノザの哲学における確実性certitudoは,真の観念と等置できる,つまり三角形の確実性は三角形の真の観念とのみ等置されるのですから,確かに人間は神が人間を欺くかどうかを知らないとしても,他面からいえば神を真に認識していなくても,三角形について確実であることができるのです。しかしスピノザが解したデカルトの哲学では,神について確実であることができないうちは何についても確実であることができないのですから,このことが成立しません。そしてこの成立していないことが,この部分でいわれている,つまりスピノザはデカルトの哲学の解釈よりも自分の哲学の考え方をこの部分では前面に押し出してしまっていると僕は思うのです。
 これで『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』における矛盾と,そこから派生した関連事項に関する考察は終了とします。続いて,別の部分を題材にして新しい考察に移行します。
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椿賞争奪戦&期待

2019-12-24 19:03:38 | 競輪
 伊東温泉記念の決勝。並びは渡辺雄太‐中村の南関東,伊藤‐吉村の中部,三谷‐村上‐渡辺十夢の近畿,原田‐池田の四国。
 伊藤がスタートを取って前受け。3番手に三谷,6番手に原田,8番手に渡辺雄太で周回。残り3周のホームの出口から渡辺雄太が上昇開始。中村の後ろに原田が続き,バックの出口でこの2つのラインの4人が伊藤を叩きました。伊藤の外まで上昇していたのが三谷で,残り2周のホームに入るとさらに上昇していき,コーナーに入るところでこのラインが渡辺雄太を叩きました。引いた伊藤はバックからかましていき,三谷を叩いて打鐘から先行。車間の開いた3番手に三谷,6番手に渡辺雄太,8番手に原田で縦長の一列棒状に。三谷は後ろからの捲りを待たずにバックの入口から発進。このラインで捲り切りました。渡辺雄太はこの後ろから捲り上げていきましたが,村上が少し車間を開けていたために届かず,捲った三谷が優勝。村上が1車輪差の2着に続いて近畿のワンツー。渡辺雄太が4分の3車身差で3着。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は10月の松戸での千葉記念以来の優勝で記念競輪5勝目。伊東温泉記念は初優勝。ここは力が上位なので優勝の最有力候補とみていました。積極的に渡辺雄太を叩きにいき,若い伊藤の先行を誘って3番手を取った競走もうまかったので,これではほかの選手たちが太刀打ちできなかったのも仕方がないところでしょう。今年はグランプリには出場することができませんでしたが,来年以降にも大いに期待できる選手だと思います。

 なぜ齟齬が生じているのかは,スピノザが想定している反駁者がどのような者であったのかということから明白です。スピノザが想定している反駁者の精神mensのうちには神Deusの真の観念idea veraはありません。このことは僕の推測なのではなくて,スピノザによる解答の論理構成からそうでなければならないことです。そしてそういう反駁者,神の真の観念を有していない,したがって神について確実であることは絶対にできない反駁者に対して,スピノザは三角形について確実であることを期待して説明しているのです。この期待が成立するためには,神の真の認識cognitioあるいは確実性certitudoがなくても三角形について確実であることができるのでなければなりません。確かに緒論全体の文脈の中ではスピノザは,三角形の確実性の前提として神についての確実性を措定しているのですが,スピノザが何を期待しているのかということまで予想すれば,神について確実でなくても三角形について確実であることができるのでなければならないのです。したがってスピノザはこのような期待を仄めかしている時点で,実際には確実性を真の観念と等置しているのであって,三角形の確実性は三角形の真の観念にのみ依拠するのであり,神の真の観念あるいは神の確実性には依拠しないと考えていたのだと僕は思います。反駁者の三段論法についていえば,記述上は第一段目を認めて第二段目と第三段目を否定するとなっていて,全体はそのように読解できますが,このような期待は,明らかに第一段目をも否定してしまう期待であるといえるでしょう。
                                       
 同じようなことは,この部分を別の角度から読み込むことによっても推測可能です。たとえば,ここでは神と人間の本性natura humanaの創造者が別の存在者として描かれていますが,少なくともスピノザの哲学では,人間の本性の創造者すなわち起成原因causa efficiensは神でした。また,スピノザがここで自身の哲学では用いない創造者という語を用いたのは,神を創造主,自由な意志voluntas liberaによる創造主として規定する人びとにも通用するようにであったのだという僕の見解opinioが正しいとするなら,その場合にも人間の本性の創造者と神を別に規定することは困難になってしまうように思えます。
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第三部定理一八の帰結&容易さ

2019-12-23 19:49:35 | 哲学
 第三部定理一八から,疑惑dubitatioの除去後と除去前で,感情affectusのあり方,とりわけこの場合では喜びlaetitiaと悲しみtristitiaの感じ方に変化がないということが分かりました。ここから分かるのは,第三部諸感情の定義一四の安堵securitasおよび第三部諸感情の定義一五の絶望desperatioは,希望spesおよび不安metusの派生感情でなければならないということです。
                                   
 まず,希望と不安は表裏一体の感情なので,僕はある感情が希望の派生感情であるならば,不安の派生感情でもあるとみなしますし,逆にある感情が不安の派生感情であるならば希望の派生感情でもあるとみなします。
 次に,希望は第三部諸感情の定義一二から分かるように,ある疑惑がある状態での表象像imagoから生じる喜びです。安堵というのはこの疑いが除去された状態での喜びとされています。しかし疑惑が除去される前でも除去された後でも,同一の表象像からは同一の感情が生じるのですから,ある希望とある安堵が,同一の表象像から生じるということがあり得ます。異なるのは疑惑の有無だけだからです。そして,疑惑がある状態は時系列的に前にあり,疑惑がない状態は時系列的に後にあります。このことは,疑惑が除去されるということは,前もって疑惑が存在しなければ生じ得ないということから明白です。ですからある表象像に対する希望と同じ表象像に対する安堵は,必ず希望が先行し,安堵が後続することになります。よって,人間が何事かによって安堵を感じるなら,その人間は事前にそれについて希望を感じていたといわなければなりません。よって安堵は希望の派生感情であり,希望の派生感情であるからには,不安の派生感情でもあるということになります。
 絶望と不安の関係は,各々の定義Definitioに注意すれば,喜びが悲しみになるというだけで,安堵と希望の関係と同様に証明できることになります。したがって絶望は不安の派生感情でなければなりません。そして不安の派生感情であるなら希望の派生感情でもあるのです。
 第三部諸感情の定義一六の歓喜gaudiumおよび第三部諸感情の定義一七の落胆conscientiae morsusだけでなく,安堵と絶望も希望と不安からの派生感情なのです。

 平面上に作図された三角形の内角の和は二直角になります。よって三角形を真に認識しさえすれば,平面上の三角形の内角の和が二直角であるということは確実に認識できるのでなければなりません。何度もいうように,第一部公理六でいわれていることは,どのような哲学であるかを問わずに成立しなければならないからです。よって人間は,人間の本性natura humanaの創造者が人間を欺くかどうかを知らないとしても,三角形について確実であることはできるでしょう。第一部公理六でいわれていることは,人間の本性の創造者が人間を欺くことがあろうとなかろうと成立しなければならない筈だからです。
 そして,ここが重要なのですが,三角形を真に認識するcognoscereことは,神Deusを真に認識することよりも,一般的にいって人間にとって容易であるということができます。これは単純にいって,平面上に作図された三角形というのは物体corpus,すなわち延長の属性Extensionis attributumの個物res singularisとして存在しますが,神は,スピノザの哲学の場合でいえば絶対に無限な実体substantiaとして存在しますし,デカルトRené Descartesの哲学でいえば,最高に完全な実体というべきものとして存在するからです。いい換えれば一方は様態modiとして存在するのに対し,一方は実体として存在するからです。このためにスピノザは,想定した反駁者にもより容易に理解できるように,人間の本性の創造者が人間を欺くかどうかを知らないとしても,人間は神について確実であることができるとはいわずに,人間は三角形について確実であることができるといったのではないかと僕は思うのです。想定した反駁者の精神のうちに三角形の真の観念idea veraがあったなら,反駁者はこの解答に対してさらに反駁することはできませんし,仮にそれがなかったとしても,三角形を真に認識することは,反駁者にとってさほど困難なことではないと思われるからです。
 後続の部分から明らかなように,この三角形の確実性certitudoは,神に関する確実性があって初めて成立するというようになっていますから,その点では,スピノザが汲んだデカルトの哲学の確実性の条件を逸脱するものではありません。ですが,僕の推測が正しいとしたら,その間には明確な齟齬が生じているのではないでしょうか。
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有馬記念&推測

2019-12-22 18:58:54 | 中央競馬
 グランプリの第64回有馬記念
 レイデオロとキセキは発馬のタイミングが合わず1馬身の不利。前にいく構えをみせたのはスティッフェリオ,クロコスミア,アエロリットの3頭。この中からアエロリットが先頭に立つと,1周目の正面から2周目の向正面ヘと飛ばしていき,7馬身ほどのリードを奪いました。2番手にスティッフェリオ,3番手にクロコスミアとなり,4番手にアルアインとエタリオウ。6番手がスワーヴリチャードで7番手にスカーレットカラーとアーモンドアイ。9番手にヴェロックス。10番手にリスグラシューとフィエールマンで12番手にキセキ。13番手はサートゥルナーリアで14番手にシュヴァルグランとレイデオロ。ワールドプレミアが最後尾という隊列に。超ハイペースでした。
 3コーナーを回ってアエロリットのリードは5馬身。スティッフェリオが追い,3馬身差の3番手にアルアイン。アーモンドアイが4番手に上がりました。直線に入ってスティッフェリオが先頭に。すぐにアーモンドアイが先頭に立ちましたが坂下で一杯。外からサートゥルナーリアが先頭に立つもさらに外からリスグラシューが伸び,そのまま突き抜けて圧勝。サートゥルナーリアが5馬身差で2着。最後尾から追い込んだワールドプレミアがクビ差の3着。
 優勝したリスグラシューコックスプレートを勝っての帰国初戦。これで大レース3連勝,通算4勝目で有終の美を飾りました。有馬記念というレースは内枠が有利なのですが,今日はアエロリットが飛ばしていったことで隊列が長くなったため,さほど枠順は結果に影響しないレースに。むしろこの距離にしてはペースが速くなったことが結果に及ぼす影響が大きかったと思われます。とはいえこのメンバーを相手にこれだけ突き抜けるというのは至難の業で,これで引退とのことですが,さらに強くなっていたということだろうと思います。父は第50回を制したハーツクライで父仔制覇。Lys Gracieuxはフランス語で優雅なユリ。
                                        
 騎乗したオーストラリアのダミアン・レーン騎手はコックスプレート以来の日本馬に騎乗しての大レース6勝目。日本国内では帝王賞以来の4勝目。有馬記念は初勝利。管理している矢作芳人調教師はコックスプレート以来の大レース12勝目。有馬記念は初勝利。

 スピノザが三段論法の中でターゲットにすべきなのは,人間の本性natura humanaの創造者が人間を欺くかどうか知らないうちは,人間は神Deusについて確実であることはできないという点でした。しかし神を真に認識している人間は,神が最も誠実であり,人間を欺くことはないということを確実に認識するcognoscereことができるのです。そしてこのことはその人間が,人間の本性の創造者が人間を欺くか欺かないかを知っているか知っていないかとは関係ありません。いい換えればその人間は,人間の本性の創造者が人間を欺くか欺かないかを知っていなくても,神が最も誠実であるということについては確実なのです。したがって,人間の本性の創造者が人間を欺くか欺かないかを知らないうちは神について確実であることはできないという,スピノザが想定している反駁者は,神の真の観念idea veraを有していないことになります。有しているなら神が人間を欺かないということについては確実なのですから,このような命題を立てる筈がないからです。
 よって,スピノザの解答は,神の真の観念を有していない者に対する解答であることになります。ですから,このことをそれ自体で否定する,つまり人間の本性の創造者が人間を欺くかどうかを知らないとしても,人間は神について確実であることができると解答したとしても,神の真の観念を有していない反駁者は,それを現実味があるものとして受け取ることができません。このことは神の真の観念を有している者だけがリアルに受け取れる事柄だからです。
 そこで,このような反駁者もリアルに受け取れるような解答をすることを目指すとすれば,そうした反駁者の精神mensのうちにもあるような真の観念に訴えるか,そうでなければ神の真の観念を有するよりは簡単に有することができるであろう真の観念に訴えればよいということになります。このためにスピノザは解答では神について確実であることができるというのではなく,三角形について確実であることができるといったのではないかと推測することができます。もちろんこれは僕の推測なのであって,実際にスピノザはそのように考えていたのだということを強硬に主張するものではありません。
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農林水産省賞典中山大障害&現実味

2019-12-21 19:04:49 | 中央競馬
 第142回中山大障害
 スリーコーズラインは立ち上がるような発馬。ディライトフルが先頭に立ち,途中は最大で6馬身ほどのリードを奪う逃げ。発馬で不利があったスリーコーズラインは馬群から離れましたが,残る13頭はほとんど一団という隊列になりました。
 レースが動いたのは最終周回の向正面に入る前あたり。それまでずっと2番手を追走していたシンキングダンサーにかわってブライトクォーツが2番手に。控えたシンキングダンサーはメドウラークと並んでの3番手。この後ろにいたシングンマイケルまでの5頭が一団に。シングンマイケルが向正面から動いていき,ブライトクォーツに並んでいくと,ブライトクォーツも呼応して動き,逃げたディライトフルは苦しくなりました。ブライトクォーツとシングンマイケルが雁行で最終コーナーを回り,シンキングダンサーとメドウラークが並んで前を追いました。直線に入るところでシングンマイケルが先頭に。直線に入るとまたブライトクォーツが差を詰めていきましたが,振り切ったシングンマイケルが優勝。ブライトクォーツが2馬身差で2着。大外から追い上げたシンキングダンサーを6番手から中を伸びてきたメイショウダッサイが差して2馬身半差で3着。シンキングダンサーがハナ差で4着。
 優勝したシングンマイケルは6月の東京ジャンプステークス,10月の東京ハイジャンプに続き障害重賞3連勝で大レース初制覇。ここは大レースの勝ち馬が不在でしたので,混戦が予想されましたが,近況の実績でほかより優ったこの馬の優勝に。ただ,仕掛けるタイミングがぴったりで,それが勝利に大きく貢献したと思える内容でしたから,馬の能力が上位であったというよりは,騎手の手腕の高さによる勝利だったという側面の方がやや高いような気もしました。母の父はJRA賞で1991年の年度代表馬,1993年の特別賞のトウカイテイオー。三代母がチアズグレイスの祖母にあたる同一牝系です。
 騎乗した金子光希騎手はデビューから19年9ヶ月で大レース初勝利。管理している高市圭二調教師は2000年の東京大賞典以来の大レース3勝目。

 もうひとつの理由は,人間の本性natura humanaの創造者が人間を欺くかどうかを知らないとしても,人間は神Deusについて確実であることができるという解答が,スピノザ自身が想定している反駁者をリアルに納得させられ得るのかという点については,疑問の余地があるかもしれないということです。本来はこのように解答するべきであるのに,それがかえって現実味を欠いてしまうというのは分かりにくいかと思いますので,もう少し詳しく説明していきます。
                                        
 神について確実であることができるとき,人間は神について真に認識しているのでなければなりません。あるいは同じことですが神の真の観念idea veraを有しているのでなければなりません。デカルトRené Descartesの哲学ではスピノザの哲学とは異なり,確実性certitudoがそのまま真の観念と等置できるわけではありませんが,スピノザは神について確実であることができればすべてについて確実であることができるというようにデカルトの哲学を解し,これを基にして反駁者の三段論法を想定しています。デカルトはスピノザの読解自体については認めないのではないかと僕は想定していますが,神についての確実性を有するためには,その人間が神について真に認識していなければならないということは,否定はしないだろうと思います。
 スピノザによれば,神を真に認識しさえすれば,神が最も誠実であるということ,すなわち神が人間を欺かないということは確実に知り得ます。よってそのことについては人間は確実であることができるのです。そしてこの確実性は,人間の本性の創造者というのを神の外部に規定して,その創造者が人間を欺こうと欺くまいと同様です。いい換えれば,人間は人間の本性の創造者が人間を欺くか否かを知らないとしても,神について確実であることができるのです。少なくとも部分的には確実であることができるのです。
 しかし,人間は神の真の観念を有していないのなら神について確実であるということはできないのですから,もしも神の真の観念を有していない人間に対してこれをいったとしても,その人間はこのことを理屈としては理解するかもしれませんが,リアルな事象として体感することはできないでしょう。
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農林水産大臣賞典名古屋グランプリ&理由の推測

2019-12-20 18:59:41 | 地方競馬
 昨日の第19回名古屋グランプリ
 1周目の正面ではメイショウワザシとアポロテネシーが並んで逃げる形。3番手にアナザートゥルースで4番手がデルマルーヴルとアングライフェン。4馬身差でカノウムスビ。2馬身差でオールージュ。3馬身差でステージインパクト。2馬身差でコウエイワンマンとミッレミリア。直後にサザンオールスターとデジタルフラッシュが最後尾。2周目の正面ではメイショウワザシが単独の逃げに。2番手にアポロテネシーとアングライフェン、4番手にアナザートゥルースで3馬身差の5番手にデルマルーヴル。向正面ではアングライフェンが単独の2番手となり,アポロテネシーとアナザートゥルースが並んで3番手。デルマルーヴルも直後の5番手というように隊列は変化していきました。
 3コーナーを回ると逃げるメイショウワザシにアングライフェンが並び掛けていきました。アポロテネシーは後退し始め,3番手のアナザートゥルースの外にデルマルーヴル。直線でアングライフェンがメイショウワザシを差し,一旦は抜け出したものの,大外から伸びてきたデルマルーヴルがフィニッシュ直前でアングライフェンを差して優勝。アングライフェンがクビ差で2着。アナザートゥルースが1馬身半差の3着に上がり,一杯になったメイショウワザシが1馬身半差で4着。
 優勝したデルマルーヴルは昨年の兵庫ジュニアグランプリ以来の勝利で重賞2勝目。このレースはJRAから出走の5頭はどれも勝っておかしくなさそうというメンバー構成。3勝クラスを勝ったばかりのアポロテネシーは大きく離されたので,上位の4頭はさほど実力の差がなかったということでしょう。入れ替わりの激しい前を見ながら最後に脚を使わせた騎乗がデルマルーヴルの優勝に大きく結びついたといえそうです。
 騎乗した愛知の岡部誠騎手は2014年の名古屋グランプリ以来の重賞3勝目。第12回も制していて5年ぶりの名古屋グランプリ3勝目。管理している戸田博文調教師は第13回以来6年ぶりの名古屋グランプリ2勝目。

 後続の部分から明らかなように,この部分の主旨としては,人間の精神mens humanaのうちに神Deusの真の観念idea veraがある,他面からいえば人間が神について確実であるということを前提とした上で,三角形の真の観念について疑い得ない,いい換えれば確実であるといっていることになります。これでみれば,三角形について確実であるための必要条件である,神について確実でなければならないということが遵守されているといえるでしょう。しかし,後続の部分を考慮に入れず,たとえ人間の本性natura humanaの創造者が人間を欺くかどうかを人間が知らないとしても,三角形の真の観念について人間は確実であるといわれている部分だけを抽出すれば,事情が異なることは明白です。むしろこのように説明されれば,スピノザが想定した反論のうち,第一のものを認めるにしても,第二の部分はパスして,第三の部分を否定するというように解せるのではないでしょうか。
                                        
 すでに示したように,本当はスピノザは,たとえ人間の本性の創造者が人間を欺くかどうかを人間が知らないとしても,人間は神について確実であることができると解答するべきだったのです。それでこそスピノザが目指したこと,すなわち三段論法の第一部分は肯定し,第二部分と第三部分は否定するということが達成されるからです。しかしスピノザはそうではなく,人間の本性の創造者が人間を欺くかを人間は知らなくても,人間は三角形について確実であることができるという解答をしました。ただ,これにはこれで理由があったと僕は推測しますので,まず僕の推測を先に示しておくことにしましょう。
 人間の本性の創造者を神とは別に措定し,それが人間を欺くかどうかを人間が知らないという場合を仮定して,それでも人間は神について確実であることができるということを示そうとする場合,その手続きはきわめて煩雑なものになります。このことは,僕がこの考察の中で,人間が最も誠実なもの,いい換えれば人間を絶対に欺くことがないものを認識したとしたら,それが神であるというような暫定的な定義Definitioを立て,この定義を軸として論述したことからも明らかだと思います。ですからこのことについては繰り返しません。
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目指せケンタッキー農林水産大臣賞典全日本2歳優駿&スピノザの解答

2019-12-19 19:04:39 | 地方競馬
 昨晩の第70回全日本2歳優駿
                                        
 先行争いがありそうなメンバー構成でしたが,アイオライトが難なく先頭に立ちました。ただインペリシャブルがプレッシャーをかけていったことで,向正面に入るところで2頭が3番手以下に3馬身ほどの差をつける形に。3番手はテイエムサウスダン,メイショウテンスイ,ゴールドビルダーの3頭で一団。4馬身差でキメラヴェリテ,モリノブレイク,ヴァケーションの3頭が一団。残りの5頭はティーズダンク,イロゴトシ,ブリッグオドーン,トゥーナブロッサムとヴァンブルースという順でばらばらの追走と,かなり縦長になりました。前半の800mは48秒9の超ハイペース。
 2番手のインペリシャブルは3コーナーを回って一杯。逃げたアイオライトが2番手に上がってきたゴールドビルダーに3馬身ほどの差をつけ,この差が徐々に詰まっていって直線。追い掛けてきたゴールドビルダー,テイエムサウスダン,メイショウテンスイといったあたりは伸びあぐね,内から2頭目を回ってきたヴァケーションがゴールドビルダーとテイエムサウスダンの間に進路を取り単独の2番手に。そこからアイオライトを追い詰めていくとフィニッシュ寸前で差し切って優勝。逃げ粘ったアイオライトがアタマ差で2着。大外から猛然と追い込んできたティーズダンクが半馬身差で3着。
 優勝したヴァケーション平和賞からの連勝で大レース制覇。このレースはJRAの1勝クラスを勝って重賞で1着2着となったテイエムサウスダンとメイショウテンスイが実績的には上位。ただ未対戦の1勝クラスを勝った馬より力が上かどうかは分かりませデしたので,それなら南関東重賞をよい内容で勝ったヴァケーションとゴールドビルダーにもチャンスはあるのではないかとみていました。早めに追い掛けた馬には厳しい展開であったのが幸いした面がありますので,このメンバーでは力量上位であったとみていいかは不明です。ただ,南関東勢の中ではおそらくトップでしょうから,来年のクラシックの最有力候補だと思います。父はエスポワールシチー。母の父はサッカーボーイ
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手クイーン賞に続く重賞6勝目。大レースは南部杯以来の2勝目。管理している川崎の高月賢一調教師は開業から18年1ヶ月で重賞初勝利。

 僕が示した3つのレベルのうち,スピノザが第二のレベルで解答する理由としては,最初のものが消去法による消極的な理由であるとすれば,次のものはこのレベルで解答することが最も有効であるという意味において,より積極的な理由であるといえるでしょう。だからスピノザは,人間の本性natura humanaの創造者が人間を欺くかどうか知らないうちは人間は神Deusについて確実であることはできないという反駁に対して再反論したのです。そしてこれでみれば明らかなように,人間はたとえ人間の本性の創造者が人間を欺くかどうかを知らないとしても,神について確実であることができると解答すれば事足りたことになります。
 ところが,緒論におけるスピノザの解答は,第二のレベルで解答を与えようという意図は汲み取れるものの,これとは違ったものになっています。実際にスピノザが記述しているのは,たとえ人間の本性の創造者が人間を欺くかどうか知らなくても,人間は三角形について明瞭判然たる観念ideaをもっているということなのです。
 ここで三角形の明瞭判然たる観念をもっているということを,僕は三角形について確実であるという意味に解します。これはまず,スピノザの哲学では,明瞭判然は真verumとか十全adaequatumとは異なった意味で用いられますが,この文脈の明瞭判然たる観念は真の観念idea veraあるいは十全な観念idea adaequataと等置できるからであり,再びスピノザの哲学では,この真の観念を確実性certitudoと等置することができるからです。もっともこれはスピノザの哲学における事情であって,デカルトRené Descartesの哲学について語っている部分であるということを考慮すれば根拠としては薄弱でしょう。ですがスピノザはこのことをいった直後に,神についてそうした観念さえもてば,人間は神の存在existentiaについても数学上の真理veritasに関しても疑い得ないといっていて,三角形の明瞭判然たる観念は,数学上の真理に該当するでしょうから,これは三角形について疑い得ないといっていることになると解せるからです。もちろん第二部定理四九備考にあるように,疑惑dubitatioの欠乏privatioは確実性とは異なりますが,ここで疑い得ないといわれていることの意味は,第二部定理四三でいわれている場合と同じ意味に解するべきです。
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棋王戦&有効な解答

2019-12-18 19:27:19 | 将棋
 16日に指された第45期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第一局。公式戦の対戦成績は勝者組の本田奎四段が1勝,敗者組の佐々木大地五段が1勝。これは奨励会三段時代に指した新人王戦の対局を含みます。
 振駒で本田四段の先手。相掛かりから佐々木五段の横歩取りのような展開に。先手は形を決めてから横歩を取ったので,通常より少し損だったかもしれません。僕にはどこがどうというのは分からなかったのですが,先手が戦機を逸したために指しにくくしてしまったようです。
                                        
 先手が☗7七桂と跳ねたので,後手が封じ込められないように8六の飛車を引き揚げた局面。
 先手にとって勝負に持ち込む最後のチャンスがここだったようで,☗8四歩と打ち☖同飛なら☗9五角と打ち,この角を取らせている間に飛車を成り込むのがよかったようです。ただこの手順は非常手段に思えますので,このような手でなければいけないのでは,すでに先手が指しにくかったとみていいでしょう。
 実戦は☗8三歩と打ち☖同飛に☗7五歩と突きました。これは放置すれば☗7四歩☖同銀☗4一角の狙い。後手はそれを防ぐために☖5二王と寄りました。
 一番の狙いを消された先手は☗5六角と打ちました。これは放置すると☗7四歩があるので後手は☖6五歩。先手は☗3六銀と眠っていた駒を使いにいきましたが☖4六歩が銀取りになる急所の一着。☗4五銀は仕方ありませんが☖同銀☗同角のときに☖3六銀と手厚く打つのが好手で大勢が決しました。
                                        
 第2図は☗5四角の一手。後手はすぐに取り返さず,☖4七歩成以下,決めるだけ決めてから角を取りその手で先手の投了となっています。
 敗者組の佐々木五段の勝利。第二局が27日に指されることとなりました。

 もう一度,スピノザが予想した反駁を確認しておきましょう。
 第一に,人間は神Deusについて確実でなければ何事についても確実であることはできません。第二に,人間は人間の本性natura humanaの創造者が人間を欺くか欺かないかを知らない限り,神について確実であることはできません。第三に,人間は人間の本性の創造者が人間を欺くかどうかを知らないうちは,何事についても確実であることはできません。
 このうち第一の点は,デカルトRené Descartesがそれを是認するかどうかは別として,スピノザがデカルトの哲学から読み取った事柄です。ですからスピノザはこの点については反論する余地がなく,それを認めるほかありません。次に,この第一の点が成立するということを認めなければならないのであれば,第二の点が成立する限り第三の点も成立するといわなければなりません。ですから,スピノザの反駁に対するターゲットは,第二の点に集中しなければなりません。つまり第二の点に対する有効な解答というのが,スピノザが目指すべきところになります。
 では第二の点に対する有効な解答としてどのようなものが考えられるのかといえば,ひとつは,人間の本性の創造者が人間を欺くことはないということを証明するか,そうでなければ人間の本性の創造者が人間を欺くかどうかを人間が知らないとしても,人間は神について確実であることができるということを証明するかのどちらかです。もちろん,たとえば人間の本性の創造者なるものは存在しないというような解答も,それ自体では有効であるといえますが,そもそも反論としてあえて人間の本性の創造者を神と異なるものとして規定しているのですから,このような解答はあり得ないでしょう。
 一方,人間の本性の創造者というのは,スピノザの哲学においては神です。ですから神が人間を欺くことはないと解答することは可能ですが,反駁の中であえて神と人間の本性の創造者を分けている点に注目すれば,このような解答もまたあり得ないでしょう。ですから,最も有効な解答方法は,人間は人間の本性の創造者が人間を欺くかを知らなくても,神について確実であることができるということを証明することなのです。
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JWP&理由

2019-12-17 19:04:03 | NOAH
 デビル・雅美ジャガー・横田のライバルとして全日本女子プロレスで活躍しました。僕の女子プロレスキャリアの中では,それはライブで観戦していた時代より前,テレビでなら視ることがあった時代が含まれています。実際に僕が観戦するようになったときにはJWPという別の団体で仕事をしていました。制度であったかどうかは分かりませんが,全日本女子プロレスには事実上の定年があり,一定の年齢を迎えたレスラーは退団しました。団体が全日本女子プロレスしかなかった頃はその退団は引退を意味しました。ですが僕が女子プロレスをライブで観戦していた頃は,全日本女子プロレスのほかにJWPとLLPWという団体があり,さらに大仁田厚のFMWにも女子プロレスラーが所属していました。それらの中には全日本女子プロレスを退団した選手というのも何人かいて,デビルはそのひとりだったわけです。全日本女子プロレスの定年というのは形骸化したのですが,それはこのような団体の乱立が影響したからでしょう。
                                        
 僕はJWPの試合も何度かライブ観戦しています。もちろんそれも友人と一緒でした。ただ,JWPに関してだけいえば,僕の方が楽しんだという面はあったかもしれません。この頃の僕が最も好きなプロレス団体,僕はプロレスか女子プロレスかという枠の中では女子プロレスもプロレスに含めますので,これは女子プロレス団体も含むすべてのプロレス団体の中で最も好きだったのはという意味ですが,それはいうまでもなく全日本プロレスです。そしてその全日本プロレスがもっている雰囲気に最もよく似たものを感じる団体がどこであったかと問われれば,僕はJWPと答えます。純粋にプロレスを楽しむという点でいえば,僕は当時の女子プロレスの中ではJWPが最も楽しめたのです。
 プロレス団体にはキャッチフレーズがあり,当時の全日本プロレスは「明るく楽しく激しく」でした。それは全日本のプロレスをうまく表現していたと思います。JWPは「Pure Heart, Pure Wrestling」で,これもJWPのプロレスをうまく表現していたと僕は思います。

 スピノザが第二のレベルで予想された反駁に解答するのには,ふたつの理由があると僕には思えます。
 まず,もし第一のレベルで解答しようとするなら,人間を欺く人間の本性natura humanaの創造者というのがいかなるものであるのかを説明しなければなりません。このレベルは人間がそういった人間の本性の創造者については知っているということが前提とされていて,第一部公理六はこの場合にも妥当しなければなりませんから,実際にそういう創造者のことを規定しなければなりません。しかしすでにみたように,スピノザ自身の哲学においては人間の本性の創造者すなわちその起成原因causa efficiensというのは,人間の本性というのをどのように解そうとも神Deusです。ですからスピノザは神ではない人間の本性の創造者を規定することはできません。つまりスピノザはこのレベルでの解答を与えることはできなかったといえるでしょう。
 そして,第三のレベルで解答しようとすると,神ではない人間の本性の創造者は存在しないといわなければなりません。これ自体はスピノザ自身の哲学とは合致しますが,ここで予想されている反駁に対する解答とはなり得ません。すなわちこの解答は,人間を欺く人間の本性の創造者は存在しないということを前提としなければなりませんが,反駁はそうしたことは知られ得ないということが前提になっていて,そのためにここでは神と人間の本性の創造者が異なった存在であると規定されているのだからです。したがって,この解答が予想される反駁者を満足させることは絶対にないでしょう。
 これが最初の理由です。これはいわば,第一のレベルと第三のレベルでは解答することができなかったので第二のレベルで解答することになったという意味で,消極的な理由であるといえるでしょう。しかしもうひとつ,スピノザには第二のレベルで解答すべきより積極的な理由があったのだと僕は関係します。そしてそれは,消極的な理由のうち,第三のレベルでの解答をスピノザが選択することはできなかったということと関連します。第二のレベルで解答を与えることによって,反駁に対して正当な,つまり反駁者を満足させ得る解答を与えることができるのです。
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