スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大山名人杯倉敷藤花戦&真理の獲得

2023-09-30 19:11:02 | 将棋
 27日に指された第31期倉敷藤花戦挑戦者決定戦。西山朋佳女流三冠と加藤結李愛女流初段は公式戦初対局。
 振駒で加藤女流初段の先手。西山女流三冠の角交換中飛車に先手の玉頭位取りという戦型になりました。
                                        
 ここで後手が打った☖3五銀という手はかなり重苦しく感じる手で,先手は角を逃げておいても十分だったように思います。しかし☗同角と取りました。☖同飛で一時的に駒損ですが☗2六銀と飛車角の両取りに打つのが返し技。ただこれは後手の読み筋だったようで,☖4五飛とただのところに寄りました。
                                        
 ここで☗同銀と取ると☖4七角成で,後手は銀損の代償に馬を作るという展開になります。ただ先手の2六の銀は使いにくいので得した銀をそこに使ってしまっているとみれば,先手は銀得ほどの利はないかもしれません。駒の損得と駒の働きのどちらを重視するかという局面で,先手は働きの方を重視してここから☗4六歩☖同飛☗2五銀☖4九飛成☗3六銀と,駒得は諦め龍も作らせますが銀と飛車を働かせにいきました。ただこの場合は龍を作らせるという代償が大きすぎて,苦しくなってしまいました。駒の働きの方を軽視して駒得の順に進める方がよかったようです。
 西山女流三冠が勝って挑戦者に前期に続いての挑戦。第一局は11月7日に指される予定です。

 第二部定理三七でいわれているように,共通概念notiones communesは個物res singularisの本性essentiaを構成するわけではありません。しかしそれを思惟の様態cogitandi modi,あるいは客観的有esse objectivumとしてみるなら真verumです。共通概念は真であるがゆえに,理性ratioによる推論の基礎となる概念なのです。そしてこうした共通概念は,現実的に存在するすべての人間の知性intellectusの一部を構成しています。そしてそのことが,僕たちが観念ideaを神Deusに帰していることを知ること,神に帰している観念と神に帰していない観念の相違を知ること,その相違を知るがゆえに僕たちがいかなる方法で観念を神に帰するのかということを知ることの,必要十分条件を構成します。したがって,実は僕たちは,そのことを意識しているか否かは別にするとしても,これらすべてのことを知っているのです。
 私見ですが,僕たちはこのことを知っているがゆえに,むしろ自由な意志voluntas liberaによって観念を神に帰したり帰さなかったりすることができる,あるいは実際にそのようにしていると錯覚してしまうのです。僕たちは現にいくつかの共通概念を有していて,それがその共通概念を神に帰しているということだということは知っているのですが,その共通概念が僕たちの知性のうちに発生する原因causaというのは分からないので,それを自分の意志によるものだと思い込んでしまうのです。このために,当初の疑問,すなわちそれではいかにして僕たちはある観念を神に帰することができるのかという疑問が生じてくることになるのです。
 ここまでの考察から理解できるかもしれませんが,実はこのことは,スピノザの哲学において真理獲得の方法とはいかなるものであるのかという疑問と関連しているのです。このことについてはすでに探求しましたからここでは結論だけを述べておきますが,スピノザの哲学では,知性が真理veritasを獲得するということなしには真理を獲得する方法を知ることはできないということになっています。つまり,真なるものを認識するcognoscere以前に,真理を獲得する方法を単独で知るということはできないのです。しかしひとたび真理を獲得するならば,真理を獲得する方法もそれと同時に知ることができます。そしてこれが必要十分条件となっているのです。
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王座戦&必要十分条件

2023-09-29 19:28:57 | 将棋
 27日に名古屋で指された第71期王座戦五番勝負第三局。
 藤井聡太竜王・名人の先手で後手の永瀬拓矢王座が雁木から袖飛車にするという相居飛車戦になりました。
                                      
 先手が王手を掛けた局面で,後手の直感では☖3一歩でした。もしもそう指したらどうなっていたかをみていきます。
 先手は☗4三銀☖同金と捨てて☗3二銀と打ちます。ここで☗3二角と打つのは強く☖4二王と上がって後手の勝ちですし,☗3一飛成も☖4一飛で後手の勝ちです。
                                      
 第2図から後手は☖3九飛と王手をするのが絶対の一手。この王手には先手は合駒をします。二種類ありますが,それによって後手の指し手が変わります。つまり後手はふたつの応手にそれぞれ対応しなければならなかったわけで,この複雑さが勝敗を分けた大きな要因となったのだと僕は思います。
 まず☗5九香の場合。これには☖4二金と引いて☗3一飛成に☖4一歩と打ちます。
                                      
 第3図で☗3四角と打てなくなっているのが☖3九飛と王手を掛けておく効果です。3四に角を打てなければ先手からさらなる攻めはありませんからこれは後手の勝ちです。
 ☖3九飛に☗5九角の場合は,☖5二王と上がり,☗3一飛成のときに☖5一金と寄ります。先手から指すなら☗4三銀成ですが☖同王で継続手がなく,これも後手の勝ちです。
                                      
 後手は第1図で残り時間が4分で,すべて投資したのですが,読み切れなくて☖4一飛と打ちました。ただこれは☗同飛成としてくるだろうとみたミスで☗6五角と打たれるのをうっかりしたものだったと思います。☖2一飛は☗3二角成が詰めろ飛車取りなので☖5四歩としましたが,☗5六角と金を取られて先手玉が寄らなくなり,先手の勝ちになりました。
 難しい手順で後手は読み切れなかったのですから,第1図から逆転負けをしたという感じでもないでしょう。ただ先手の方は負けを読み切っていたようなので,大逆転勝ちといってもいいかと思います。
 藤井竜王・名人が勝って2勝1敗。第四局は来月11日に指される予定です。

 注意しておかなければならないのは,これは僕たちの精神mensがある観念ideaを神Deusに帰しているのであれば,それを神に帰しているということを知ることができるという意味であって,神に帰していない場合には,それ自体では神に帰していないということを知ることができるわけではないということです。第二部定理四三備考にあるように,スピノザの哲学における真理の規範というのは真理veritas自身なのであって,虚偽falsitasではないからです。つまり,ある観念を真理と虚偽とに分かつことができるのは真理なのであって,虚偽にはそれができません。これと同じように,ある観念を神に帰しているのか帰していないのかということを分かつのは,神に帰しているということなのであって,神に帰していない場合にはその役には立ちません。したがって,もしも僕たちがある観念を神に帰しているのであれば,僕たちはその観念を神に帰しているということを知るだけでなく,ある観念を神に帰しているのか帰していないのかもまた知ることができます。しかし,もしも僕たちが一切の観念を神に帰していない場合には,僕たちは観念を神に帰しているのか帰していないのかということは分かりません。よってこの限りでは,いかにして観念を神に帰するのかということを知ることができる筈もないのです。
 よって,もしも僕たちが観念を神に帰しているのか帰していないのかということを知り,またいかにして神に帰するのかということを知るためには,現に僕たちの精神のうちに神に帰している何らかの観念があるという必要があります。そしてこのことは,単にその必要条件を構成するだけではなく,十分条件も構成しています。つまり,もしも僕たちの精神のうちに,神に帰している何らかの観念がありさえすれば,僕たちはその観念を神に帰しているということを知り,神に帰している観念と神に帰していない観念の相違を知り,いかにして観念を神に帰しているのかということも知るのです。
 この必要十分条件は,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちで充足しています。第二部定理三八系にあるように,現実的に存在する人間の精神の一部は,共通概念notiones communesによって組織されているからです。
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日本テレビ盃&倫理的要求

2023-09-28 19:35:42 | 地方競馬
 昨晩の第70回日本テレビ盃
 セキフウは発馬で右に大きくよれてしまいました。逃げたのはミトノオーで,これは予想通りでしたが,スワーヴアラミスが2番手でマークするというのは意外な展開でした。3番手にウシュバテソーロとマイネルヘリテージで5番手にシルトプレとエイシンデジタル。7番手のテンカハルとブレイヴコールとセキフウまでは差がなく追走。3馬身差でビヨンドボーダーズ。3馬身差の最後尾にサイファリスという隊列。前半の800mは49秒6のスローペース。
 3コーナーからミトノオーとスワーヴアラミスは併走。マイネルヘリテージは3コーナー手前から後退し始め,2馬身差でウシュバテソーロが単独の3番手。直線の入口では一気に差を詰めてきたウシュバテソーロが前の2頭の外に並び掛け,そのまま一気に抜け出して快勝。ミトノオーを競り落として単独の2番手になったスワーヴアラミスを追ってきたのは大外のセキフウと,スワーヴアラミスとセキフウの間に進路を取ったテンカハル。テンカハルが真中から抜け出て2馬身半差の2着。スワーヴアラミスが1馬身半差の3着に残りセキフウはクビ差で4着。
 優勝したウシュバテソーロはこれがドバイワールドカップ以来のレース。6連勝で重賞4勝目。この馬は大レースを3連勝中でしたから能力はこのメンバーでは断然。久々のレースになったことが課題でしたが,力通りの内容になりました。ダートでは現時点で日本馬のトップといっていいと思います。父はオルフェーヴル。母の父はキングカメハメハ。母の7つ上の半兄に2003年の東京新聞杯を勝ったボールドブライアン。Ushbaはジョージアにある山の名前。
                                         
 騎乗した川田将雅騎手第66回以来となる4年ぶりの日本テレビ盃2勝目。管理している高木登調教師は第62回以来となる8年ぶりの日本テレビ盃2勝目。

 僕たちが僕たちの意志作用volitioによって観念ideaを神Deusに帰したり帰さなかったりすることができないのであれば,僕たちはいかにして観念を神に帰すことができるのかということを知り得ないし,それ以前に,僕たちの精神mensのうちに何らかの観念があるとき,その観念を神に帰しているのか帰していないのかということを知ることすらできないように思えます。他面からいえば,僕たちはいかにして能動的であることができるのかということを知り得ないし,そもそも自身が能動的な状態にあるのか受動的な状態にあるのかということを知ることができないように思えます。そしてもしもそうであるとすれば,第二部定理三二は,僕たちにとっては形骸化したような定理Propositioであるということになるでしょう。しかも,スピノザが推奨している倫理というのは,能動的であることを目指し,受動的であることを可能な限りで避けるというものです。ですがもしも僕たちがいかにして能動的であり得るのかということを知り得ないとすれば,この倫理は無効化するでしょう。あるいは現実的に存在する人間にとって,不可能なことを要求していることになるでしょう。スピノザは,理性ratioによって欲望cupiditasを統御するというデカルトRené Descartesが示した倫理を,人間にとって不可能なことを要求として斥けたわけですが,これでは結局のところ,スピノザもまた形を変えてデカルトと同じことをしているということになってしまいます。よって,この種の疑問は解決しておかなければなりません。
 まず,僕たちの精神のうちにある観念があるとき,もしもそれが神に帰せられているのであれば,その観念が神に帰せられていること,あるいは同じことですがその観念を僕たちが神に帰しているということを,僕たちは知ることができます。これは,僕たちがXの観念を神に帰しているということは,Xの真の観念idea veraを有しているという意味である点に注意しさえすれば,第二部定理四三から明白であるといえます。僕たちが真の観念を有しているときにそれを知ることができてかつそのことを疑い得ないというのは,その観念を神に帰していることを知り,同時にそのことを疑い得ないといっているのと同じことだからです。
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蒲生氏郷杯王座競輪&意志作用の発生

2023-09-27 19:13:59 | 競輪
 昨日の松阪記念の決勝。並びは菅田‐新田の北日本,郡司に岩津‐坂本の岡山,浅井‐皿屋の三重,山田‐中村の九州。
 スタートを取りにいったのは浅井,新田,山田の3人。一番内だった浅井が誘導の後ろに入って前受け。3番手に菅田,5番手に山田,7番手に郡司で周回。残り3周のバックの出口から郡司が上昇を開始。山田はこのラインに続きました。ホームに入って浅井は自ら引いたので,郡司が誘導の後ろに入ることに。続いていた山田が上昇して誘導が退避するタイミングで郡司を叩き先頭に。後方になっていた菅田が巻き返し,打鐘で山田を叩いて先行。菅田が全力で駆けていったので,新田と山田の車間が開きました。浅井は上昇しようとして岩津の隣まで上がっていたのですが結局は引いて8番手に。バックに入ってから郡司が発進。新田が番手捲りで対応しようとしましたが,すでに菅田が失速していたため,加速がついていた郡司のスピードに抵抗することができず,飛びつくこともできませんでした。郡司ラインの3人で捲り切って直線へ。そのまま郡司が先頭を守り切って優勝。迫ったマークの岩津が半車身差の2着。坂本も4分の3車身差の3着に続いて郡司ラインの上位独占。坂本マークのレースになってしまった浅井が8分の1車輪差で4着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は8月の富山記念以来の優勝で記念競輪18勝目。松阪記念は初優勝ですが,2019年の共同通信社杯を当地で勝っています。このレースは菅田が先行するということを郡司が読んでいたような立ち回り。3番手が最高でしたでしょうが,5番手ならば捲ることができるとみていたのでしょう。新田は郡司を待って発進しようとしたのですが,菅田がすでに失速してしまっていたため,結果的に無抵抗のような内容に。菅田が失速しかけたところで郡司を待たずに発進するか,もっと菅田との車間を開けておくかするべきだったのではないでしょうか。浅井は前を回ることを選択したので,場合によっては番手への飛びつきも考えているのではないかと予想していたのですが,こちらは思い描いていたのと異なった展開になってしまったのではないかと思われます。

 Yを肯定するaffirmare意志作用volitioがXの真の観念idea veraの起成原因causa efficiensであるということはできるのです。しかしそれは,Yを肯定する人間の,あるいは同じことですがXを真に認識するcognoscere人間の,任意の意志作用ではありません。より正確にいえば,その人間の自由な意志voluntas liberaに依存するものではありません。このことはYを肯定する意志作用がいかにしてこの人間の精神mens humanaのうちに発生するのかをみてみれば,より容易に理解することができるでしょう。
                                   
 このYを肯定する意志作用をひとつの意志作用としてみれば,これも第二部定理四八の様式でこの人間の精神のうちに生じるのです。つまりそれはたとえばZを肯定する意志作用を起成原因とするのです。しかしこのZを肯定する意志作用もまたこの定理Propositioの様式に沿って説明されなければなりません。この関係が無限に続いていくことになります。よって,どこまでいってもこの人間の精神の自由意志に辿り着くことはできません。もしもこれを否定するのであれば,この意志作用の起成原因を辿っていけばどこかで第一原因causa primaに到着することができるといわなければなりませんが,これは僕が河井の主張を観念について否定したのと同じ論理によって否定されます。観念と意志作用は同じものなのですから,観念についていわれ得ることは意志作用についても妥当しなければならないからです。
 この説明から理解できるように,現実的に存在する人間の意志作用,とくにその人間の自由な意志作用が,真の観念の起成原因であるということはできません。つまり現実的に存在する人間は,ある観念を抽出して,それを任意に真に認識することができるというわけではありません。そしてこの真の観念を有するということが,その人間がその観念を神Deusに帰しているということに該当するのですから,現実的に存在する人間は任意にある観念を神に帰することができるわけではありません。もちろんこれは帰さないということもできないということを意味します。つまり,ある観念を神に帰したり帰さなかったりするということは,現実的に存在する人間の思うままになるというわけではないのです。
 一方でこのことは,別の疑問を生じさせることになります。
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農林水産大臣賞典白山大賞典&補足

2023-09-26 18:54:20 | 地方競馬
 第43回白山大賞典
 逃げを巡る争いが思いのほか激しくなりました。先手を奪ったのはメイショウフンジン。2番手にケイアイパープル。3番手にペイシャエス。4番手にライトウォーリアという並びに落ち着きました。控えたウィルソンテソーロが2馬身差の5番手。2馬身差でゴライコウとセイカメテオポリスが併走。2馬身差でキープクライミング。5馬身差でミストラルウインドとマーニ。2馬身差の最後尾をサンデーグラスとサンレイファイトが併走という隊列。超スローペースでした。
 2周目の向正面ではメイショウフンジンとケイアイパープルの差が半馬身くらいに。3馬身差でペイシャエスとライトウォーリアが併走し,その直後のウィルソンテソーロまでが圏内。3コーナーからはメイショウフンジンとケイアイパープルが併走となり,ウィルソンテソーロが外から追い上げ,内からペイシャエス。直線の入口ではメイショウフンジン,ケイアイパープル,ウィルソンテソーロが雁行。ケイアイパープルが脱落し,2頭の争い。外を回ったウィルソンテソーロが差し切って優勝。逃げ粘ったメイショウフンジンが半馬身差で2着。メイショウフンジンよりも内を回ったペイシャエスが1馬身半差で3着。
 優勝したウィルソンテソーロマーキュリーカップ以来のレースで重賞3連勝となりました。今回は前走よりもさらに距離が延び,コーナーが多い小回りの長距離戦となったことが課題。その課題は克服したといえますが,やはりこの着差ですから,トップクラスとの差はまだありそうです。ただこのくらいのレベルのレースに出走し続ければ,連戦連勝まで望めるのではないでしょうか。父はキタサンブラック
                                        
 騎乗した川田将雅騎手第40回,41回に続き2年ぶりの白山大賞典3勝目。管理している小手川準調教師は白山大賞典初勝利。

 これは分かりきったことなので説明するまでもないかもしれませんが,誤解を招かないように補足しておきます。
 現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちに真の観念idea vera,たとえばXの真の観念があるというとき,このXの観念の起成原因causa efficiensは,Xとは別の個物res singularis,たとえばYの観念です。これは第二部定理九でいわれていることです。このとき,Xの観念が真の観念とされていますので,Yの観念も真の観念でなければなりません。第二部定理四〇により,結果effectusである観念が真の観念であるなら,原因であるYの観念も真の観念でなければならないからです。
 観念と意志作用volitioは同一のものですから,これと同じことが意志作用にも妥当するのです。つまり,Xを肯定するaffirmare意志作用の起成原因は,Yを肯定する意志作用であるということになります。これがいわれているのが第二部定理四八です。
 これらのことを綜合すると,Yを肯定する意志作用が,Xの真の観念の起成原因であるといえることになります。僕は一般的に個別の意志作用は観念の起成原因であることはできないといいましたが,この場合のような仕方で意志作用が観念の起成原因であり得るということを否定するものではありません。それでも,意志作用は観念の起成原因ではないと僕はいいます、これは以下の理由によります。
 僕が任意の意志作用として示した,一端が固定されもう一端が運動する直線によって形成される図形ということを肯定する意志作用は,円の真の観念がなければあることも考えるconcipereこともできないということはすでに示しました。つまりこのような意味では意志作用が観念の原因ではあり得ないのです。しかるに,もしも一般的に意志作用が観念の起成原因であるといわれるのであれば,これは意志作用が観念を超越するということを意味するのであって,その観念を肯定するのと別の意志作用が観念の起成原因であるということを意味するのではありません。ですから,Yを肯定するような意志作用がXの観念の起成原因であり得るとしても,任意の意志作用が観念の起成原因であるということを意味するのではありませんし,意志作用が観念の起成原因であるというわけではないのです。
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第四部定理六二&観念と意志作用

2023-09-25 19:31:12 | 哲学
 僕は第四部定理六六証明の中で,第二部定理四四系二により,ものを永遠の相の下に知覚することが理性の本性に属するDe natura Rationis est res sub quadam aeternitatis specie percipereので,理性に従うことによって生じる感情affectusは,それが現在と関係していようと未来と関係していようと同一であるがゆえに,より小なる現在の善bonumよりもより大なる未来の善を欲求するし,より大なる未来の悪malumよりはより小なる現在の悪を欲求するようになるといいました。このことを感情に訴えることによって証明することができるのは,第四部定理六六でいわれている欲求するというのが,欲望cupiditasという感情にほかならないからです。つまりこの証明Demonstratioはこのような訴求の仕方で瑕疵はないことになります。
                                   
 このことから理解することができるのは,このことは必ずしも感情だけに限定されるわけではないということです。永遠の相の下に事物を認識するcognoscereことが理性の本性に属するのであれば,理性に従って事物が認識される限り,それは現在と関係していようと未来と関係していようと,あるいは過去と関係しているとしても,それはそうした時間tempusによっては説明され得ないのですから,すべて同じように認識されることになるでしょう。つまり理性に従っている限りで同一であるといわれるのは,感情に限ったことではなく,観念ideaそのものについても同様なのです。
 『エチカ』にはそれを示した定理Propositioがあるのであって,スピノザは第四部定理六六を証明するときにはその定理を援用しています。それが第四部定理六二です。
 「精神は,理性の指図に従って物を考える限り,観念が未来あるいは過去の物に関しようとも現在の物に関しようとも同様の刺激を受ける」。
 もうすでに証明されているので,それ以上のことは不必要でしょう。僕たちが理性に従って認識する事柄は,時間によって説明されるような観念であったり感情であったりはしません。よってそうした時制と無関係に,僕たちを同様に刺激するafficereことになるのです。

 一端が固定されもう一端が運動することによって形成される図形の観念ideaは,円の観念と結びつくからそれを概念するconcipere知性intellectusのうちで真verumであるといわれるのであって,単に直線の観念としてみれば誤った観念idea falsaといわれなければなりません。これはつまり,直線についてこの運動motusを肯定するaffirmareことは,円の真の観念idea veraを有する限りで真であるといわれなければならないというのと同じです。そしてこの肯定affirmatioが,スピノザの哲学では意志作用volitioといわれるのです。
 これでみれば分かるように,一端が固定されもう一端が運動するということを直線について肯定する意志作用というのは,円の真の観念がなければあることも考えることもできない意志作用であることになります。この肯定は円の観念については肯定することができますが,円以外の何らかの事物の観念を肯定するということはできないからです。一方,円の真の観念は,こうした直線の運動を肯定する意志作用がなければあることも考えることもできません。これ以外の様式で知性が円を概念するということ,あるいは同じことですが,知性が十全な原因causa adaequataとなって円を概念するということはできないからです。よって,円の真の観念と,直線について一端が固定されもう一端が運動するということを肯定する意志作用は,一方がなければ他方が,他方がなければもう一方が,あることも考えることもできない関係にあることが理解できます。これはちょうど第二部定義二により,事物と事物の本性essentiaの関係と同じです。この場合でいえば,一端が固定されもう一端が運動することによって形成されるということは,それが知性によって認識される限りは円の形相的本性essentia formalisであるのですから,なおのことこの関係と同一であるということが理解しやすいだろうと思います。つまり,円の真の観念と円を肯定する意志作用は同一のものです。ですから,円を肯定する意志作用が円の観念を超越して,円の真の観念の起成原因causa efficiensとなることはできないのです。そしてこの関係が,あらゆる個別の観念とそれらの観念を肯定したり否定したりする個別の意志作用との間に成立します。だから一般に任意の意志作用がある観念の原因であることはないのです。
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カーンの雑感⑮&観念の原因

2023-09-24 18:54:02 | NOAH
 カーンの雑感⑭でいったように,カーンは吉村道明の生きざまを継いで,まだ現役を続けられる状況で引退し,そのまま復帰しませんでした。ですからカーンは,引退した後に復帰するということについては批判的で,残念だと語っています。これはカーンの率直な心情だといっていいでしょう。
 カーンはこの観点から馬場についても語っています。馬場は現役のまま死んでしまいましたから,プロレスラーとしてのいわゆる引退というのはありませんでした。晩年の馬場は義兄弟タッグとして悪役商会と試合をするというのがほとんどで,前半の試合に出場することも多かったです。カーンはこのことについて,馬場がそういう位置で試合をするようになるということは考えられなかったけれども,自分の力が落ちているということを認めてメーンで試合を続けるということはしないで現役を続けたということは素晴らしいと語っています。カーンはまだ馬場が日本プロレスのエースであった時代から馬場に対して好感をもっていたわけですから,その馬場が前座といっていい位置で試合をするようになったことを考えられなかったというのは事実でしょう。また,引退して復帰するというようなレスラーや,力量が衰えてもメーンで試合をすることに固執するようなレスラーよりも馬場の方を評価するというのも,まだトップでやれる力量を持ちながら現役を退き,復帰をしなかったカーンからしてみれば当然のことといえそうです。
                                        
 カーンは引退した後は,馬場と会う機会は一度もなかったそうです。馬場の死後にカーンが経営する店に来た,『全日本プロレス超人伝説』などの著者である門馬忠雄から,馬場は死ぬまでカーンのことを心配していたとカーンは伝えられたそうです。カーンは猪木よりも馬場を尊敬していると公言していますし,門馬も著書では馬場派であるといっています。馬場がカーンや門馬をどう思っていたかは知る由もありませんが,これが門馬のリップサービスであるとはいえないように感じます。
 カーンの雑感はこれで終わりです。

 第二部定理四九でいわれているように,意志作用volitioは観念ideaを超越するものではなく,観念そのものが含んでいる肯定affirmatioないし否定negatioにほかなりません。いい換えれば個々の観念と個々の意志作用は同一です。したがって,ある意志作用がその観念の原因causaであることはできないのです。つまり,知性intellectusは,たとえばXの真の観念idea veraを有することを意志するがゆえにXの真の観念をもつようになるのではなく,Xの真の観念をもつということと,Xの真の観念をXについて肯定するaffirmare意志作用は,知性のうちに同時に,他面からいえば同じ思惟作用のふたつの側面として知性のうちに現れるといわなければなりません。そして知性のうちにXの観念があるということが,その知性がXの観念を神に帰しているということなのですから,これはつまり,知性はXの観念を神に帰することを意志することで実際にXの観念を神に帰するのではなく,Xの観念を神に帰するのと同時に,Xの観念を神に帰するような意志作用を有するようになるのです。
 これをひとつの実例で説明しておきましょう。
 僕は今回の考察の過程で,円の形相的本性essentia formalisは,一端が固定されもう一端が運動する直線によって形成される図形であるといい,知性が円の真の観念を有するとは,このことを知性が概念するconcipereことであるといいました。そしてこのとき,直線のこのような運動motusは知性による任意の思惟作用であるから,これを円の定義Definitioとしてみた場合には,確かにこの言明には円の発生が含まれているけれども,ある虚構もまた含まれていると指摘しました。これでみれば,知性が任意の思惟作用によって円の真の観念を有するようになるといっているようであり,それを円の真の観念を有する意志作用であるとみる限り,知性は円を真に認識するcognoscere意志作用を有することによって,つまりその意志作用が原因となって,知性は円の真の観念を有するようになるというようにみえるかもしれません。しかし実際にはここでいわれているのはそういうことではないのです。
 その考察の過程でこれもいっておいたように,知性がこの直線の運動を概念するということは,円の真の観念と結びつくことによって真verumであるといわれるのです。
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ナポレオン主義&能動と意志

2023-09-23 19:23:45 | 歌・小説
 『ドストエフスキー 黒い言葉』の第一章で,ナポレオン主義について説明されています。
                                        
 ドストエフスキーの作品の登場人物で,僕が最もナポレオン主義と関連が深いと思っているのは『罪と罰』のラスコーリニコフです。ラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺害したのは,選民思想によるものでした。簡単にいえばラスコーリニコフのような特別な人間は,老婆のような凡人の生命を奪っても許されるとラスコーリニコフは考えていたわけです。つまり僕はこの種の選民思想をナポレオン主義と解しているのであって,それでもみれば『悪霊』のピョートルなども僕にはナポレオン主義者にみえます。
 ところがドストエフスキーの処女作である『貧しき人々』と同時期に書いていた『プロハルチン氏』では,主人公のプロハルチンにナポレオン主義のレッテルが貼られていると亀山は指摘しています。プロハルチンはかなり禁欲的で貧しい生活を送って死ぬのですが,死後に莫大な金貨や銀貨が発見されます。つまりプロハルチンは財を蓄えることに夢中になった吝嗇家で,この人物がナポレオン主義といわれているのです。ここから亀山は,ドストエフスキーにとってナポレオン主義とは,拝金主義のことだったのではないかといっています。
 プロハルチンはラスコーリニコフのような選民思想とは縁のない人物で,それをナポレオン主義とドストエフスキーが名指ししている以上,少なくともそのときのドストエフスキーにとってのナポレオン主義は,拝金主義を意味していたと解するのが妥当でしょう。なぜ拝金主義とナポレオン主義が結びついたのかは分かりませんが,事実そうだったといわなければなりません。
 ラスコーリニコフの殺人は,思想を別にみれば生活に困窮して強盗を働いたとみることができるようになっています。そのあたりは,拝金主義とナポレオン主義がドストエフスキーの中で結びついていたことが影響しているのかもしれません。

 現実的に存在するAの精神mensのうちにXの真の観念idea veraがあるということは,Aの能動actioで,AがXを神Deusに帰しているという意味です。ですがそれはAの任意の思惟作用によるものではありません。いい換えればAはXを,任意に神に帰したり帰さなかったりすることを選択することができるわけではありません。つまり,Aの精神の能動actio MentisはAの任意の思惟作用に依存するわけではありません。
 したがって,もしもこのことが理解しにくいのであれば,AがXを神に帰しているということ,つまりAの精神の能動というのは,Xの観念がAの精神のうちで神に帰せられている,あるいは同じことですが,Xの観念がAの精神の本性essentiaのみによって説明されるという意味であり,AがXを神に帰していないということ,つまりAがXの誤った観念idea falsaを有していて,Aの受動passioとなっているということは,Xの観念がAの本性のみによっては説明されないという意味であるというように解しておいた方が安全です。僕は,Aの精神の能動がAを何らかの観念を神に帰していることであるということが誤っているとはいいませんが,神に帰しているというAの思惟作用は,Aの任意によるものではないという点には注意が必要です。なので,ある観念を神に帰しているか帰していないかということについては,その観念に対してその観念を形成する知性intellectusが十全な原因causa adaequataであるか部分的原因causa partialisであるかという意味で理解しておく方がよいと思います。
 おそらくこのことは,第二部定理四八にあるように,スピノザが自由な意志voluntas liberaを認めていないということから理解する方が容易であるかもしれません。現実的に存在する人間がある観念を神に帰したり帰さなかったりすることがその人間の自由な意志に依拠しないということはこのことから明白であるからです。つまり,自由意志と能動との間には実な何の関係もないのです。いい換えれば,僕たちは僕たちの意志によって能動的であることができるというわけではありません。あるいは同じことですが,僕たちは僕たちの意志によって事物の真の観念を有することができるというわけではないのです。この点にはよく留意しておかなければなりません。
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東京モノレール賞ゴールドジュニア&任意の思惟作用

2023-09-22 19:23:27 | 地方競馬
 昨晩の第4回ゴールドジュニア。ルージュノデンゴンが出走取消となって11頭。
 ピコニとキッショウテンは加速が鈍く3馬身の不利。デーレーラプター,マローネアバンティ,モンゲースパイの3頭が先行。イソエヴィクラントが4番手で5番手をトーセンヴィオラとクルマトラサンが併走。7番手はミモレフレイバーとスピニングガール。5馬身差でムサシジェリーナ。2馬身差でピコニ。2馬身差の最後尾にキッショウテン。前半の600mは34秒7のハイペース。
 3コーナーを回っても前の3頭は雁行。真中のマローネアバンティが脱落し,デーレーラプターとモンゲースパイが併走で直線に。この外にクルマトラサンが追い上げてきました。直線に入るとデーレーラプターも一杯になってモンゲースパイが先頭に。追い上げてきたクルマトラサンがモンゲースパイを差し切って優勝。一旦先頭のモンゲースパイが2馬身差で3着。クルマトラサンのさらに外から追い込んできたスピニングガールがクビ差で3着。
 優勝したクルマトラサンは先月の新馬を勝ったばかり。デビューからの連勝で南関東重賞初制覇。ここは4頭の2勝馬が出走していましたので,それらをキャリア1戦でまとめて負かしましたから,素質が抜けていたとみてよいでしょう。新馬は逃げ切っていましたので,好位からの差しを決めたのも高く評価できます。距離の延長にどこまで対応することができるのかということがこれからの課題になるでしょう。父は2013年にユニコーンステークス,2014年にプロキオンステークスと南部杯,2015年にプロキオンステークスと南部杯を勝ったベストウォーリア。祖母の父がアグネスタキオン
 騎乗した船橋の張田昂騎手はしらさぎ賞以来の南関東重賞6勝目。ゴールドジュニアは初勝利。管理している船橋の張田京調教師は南関東重賞12勝目。ゴールドジュニアは初勝利。

 これも考察の過程で示したように,僕たちの精神mensのうちにある真の観念idea veraがあるというとき,僕たちの能動actioを示します。これに対して,僕たちの精神のうちに誤った観念idea falsaがある場合は,僕たちの受動passioを示すのです。第二部定理三二は,真の観念についての記述ですから,それが受動的に解されるのはあまり適切ではなく,この点も畠中の訳業があまり適切ではないというのが河井の主張であって,僕もそれには同意しました。
                                   
 真の観念は,その観念自体でみればDeusに帰せられている観念であって,誤った観念というのはそれ自体でみれば神に帰せられていない観念,他面からいえば,たとえばそれが現実的に存在するAという人間の精神mens humanaのうちにあるとするなら,Aの精神に帰せられている観念です。そこでAが,A自身の精神に帰せられているこの観念を,神に帰するのであれば,その観念は真の観念になるでしょう。しかし僕はそのことは認めません。これも考察の過程でいったように,誤った観念が真の観念になるということは認めないのであって,一方でこのことは,Aの精神に帰せられている誤った観念が神に帰せられることによって真の観念になるといっているとしか解せないからです。
 このことから理解することができると思うのですが,僕はAが真の観念を有するということはAの能動であるといいますが,だからといってAが任意にAの真の観念を有することができるというようには考えません。他面からいえば,ある観念を抽出したときに,その観念をAが任意に神に帰することができるというようには考えません。それはできる観念もあるけれどもできない観念もあると考えるのです。よって,すべての観念は神に帰せられれば真verumではあるのですが,だから現実的に存在する人間がすべての観念について神に帰することができるというようには僕は考えていないのです。つまり,すべての思惟作用について現実的に存在する人間は能動的であるというようには僕は考えませんし,能動的であることができるというようにも考えません。なので,僕が精神の能動actio Mentisというとき,それは任意の思惟作用によって可能になることであるとは考えているわけではないのです。
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ファイアフラワー&訳

2023-09-21 19:10:06 | 血統
 先週の若武者賞を勝ったグラッシーズマンの輸入基礎繁殖牝馬は5代母にあたるファイアフラワーです。1972年にイギリスで産まれました。
                                        
 繁殖生活は1975年から日本で送りました。直仔で重賞を勝ったのは1984年に産んだダイナカーペンター。1988年の阪神大賞典と1989年の京都記念を勝ちました。
 ダイナカーペンターの7つ上の半姉,1977年に産んだ牝馬は繁殖入り。この馬の産駒がフラワーパークです。フラワーパークは繁殖牝馬となり,2015年の東京新聞杯を勝ったヴァンセンヌの母になっています。
 フラワーパークのひとつ下の半姉も繁殖牝馬に。この馬の産駒には2007年にシルクロードステークスを勝ったエムオーウイナーがいます。
 ダイナカーペンターのふたつ下の半妹も繁殖牝馬になっています。その馬の曾孫にあたるのが2013年のNARグランプリで2歳最優秀牝馬に選出されたブルーセレブ。グラッシーズマンはこのブルーセレブの産駒になります。
 牝系自体の活力はすでに衰えているとみていいかもしれません。ただ,枝葉は広がっていますので,ある程度の活躍馬が出てくる可能性は十分にあるでしょう。

 第二部定理三二の意味に関しては僕が示したことに同意するとしても,もしもその意味を示すのに,すべての観念ideaは神Deusに帰せられれば真verumであるというよりも,すべての観念は神に還元されれば真であるといった方が、その意味が分かりやすい訳になっていると考えるのであれば,そちらの訳を用いる方がいいでしょう。重要なのはこの定理Propositioでスピノザが示そうとしたことについて,どのような訳を選択すればその意味が理解しやすくなるのかということなのであって,もしも畠中の訳が最も分かりやすいと思うのであれば,とくにその訳を変更しなければならない理由というのはありません。僕は帰するという語を用いるのが最もよいと思いますので,これを使用するということであって,このように訳さなければならないということを主張するものではありません。
 ここからは僕独自の考察になります。僕はこの定理を,観念は神に帰せられるなら真であるというようにいいますが,この定理の意味を確定させる過程で探求した事柄は,当たり前のことですが,帰するといおうが関係するといおうが同じです。したがって,第一部定理一五にあるように,あるものはすべて神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのであって,観念というのも神のうちにあるわけですから,神に関係させることができない観念は存在しないのと同様に,神に帰することができない観念というのは存在しません。なので,この定理は,すべての観念は真であるというようにも読解できるのですが,実際にはそうではなく,神に帰せられていない観念,いい換えればたとえば僕たちの精神mensに帰せられている観念というのがあって,その限りでは誤った観念idea falsaがあるということが前提となっているのです。
 このことから分かるように,観念は神に帰せられれば真であるのですから,もしも僕たちの精神のうちにある観念があるとき,この観念が神に帰せられているのであれば,それは僕たちの精神のうちで真の観念idea veraであるということになります。ですが,これも考察の中で示したように,僕たちの精神のうちに表象像imaginesがあるときには,僕たちはそれを神に帰することができません。よってそれは僕たちの精神のうちでは誤った観念です。
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テレ玉杯オーバルスプリント&還元する

2023-09-20 19:05:33 | 地方競馬
 第34回テレ玉杯オーバルスプリント
 逃げようとしたのはラプタスとスマイルウィとドライスタウト。枠なりにラプタスの逃げとなり,2番手にスマイルウィ,3番手にドライスタウト。4番手にはクラティアラで5番手にオーロラテソーロ。6番手はサダムスキャットとリコーシーウルフでここまでは差がなく続きました。2馬身差でテイエムサウスダン。2馬身差でアポロビビ。3馬身差の最後尾にエコロファルコン。前半の600mは35秒2のハイペース。
 3コーナーを回ると前の3頭は雁行に。直線を前にラプタスは一杯になり,直線の入口ではスマイルウィが先頭に立ち外にドライスタウト。ここからは2頭の優勝争いになり,差し切ったドライスタウトが優勝。直線先頭のスマイルウィが4分の3馬身差で2着。外目から伸びてきたオーロラテソーロが3馬身差で3着。
 優勝したドライスタウトは昨年11月のオープン以来の勝利。重賞は一昨年の全日本2歳優駿以来の2勝目。この馬は3歳のときは順調に使えず,2戦しただけ。それでもオープンを勝ちました。今年に入っての3戦は未勝利ですが,強い相手に大きくは負けていませんでしたからここは有力候補の1頭。逃げたラプタスが早めにばててしまったことは,3番手追走になったこの馬には有利な材料ではありましたが,そうした展開面の恩恵だけでなく,能力もスマイルウィを上回っていたとみていいのではないかと思います。距離は延びない方がよいでしょう。祖母の父がフジキセキ。Dry Stoutは黒ビールの種類。
 騎乗した戸崎圭太騎手は第25回,26回,27回,28回に続き6年ぶりのテレ玉杯オーバルスプリント5勝目。管理している牧浦充徳調教師はテレ玉杯オーバルスプリント初勝利。

 僕は河井がいうように,スピノザがreferreというとき,それをすべて帰すると訳した方がいいとは,現時点ではいいません。ただ,第二部定理三二に関しては,関係する限りというより,帰せられる限りという訳の方が優れていると考えます。よって,この語の考察でこの定理Propositioに訴求するときは,すべての観念ideaは神Deusに帰せられる限りでは真verumであるということにします。
                                        
 この点についてひとつだけ弁明しておきます。僕が『スピノザーナ11号』を読了したのは3月15日でした。ただこれはそのすべてを読了したという意味です。ここで考察している巻頭言は,『スピノザーナ11号』の冒頭に置かれているものですから,これを読み終えたのはそれよりさらに前のことになります。そしてこれを読み終えた時点で,僕はこの部分は神に帰せられる限りでは真であるという訳の方が優れていると判断していましたので,それ以降はこの定理については帰せられるという訳で訴求しています。つまり,すべての観念は神に帰せられる限りでは真であるといういい方は,すでにこのブログの中で僕はしています。今回は,この部分をこう訳した方がよいということを示すために,神に関係する限りで真であるといういい方を用いた上で,これを神に帰せられる限りでという訳に直すというように説明しましたが,帰せられるといういい方自体を,すでに用いられているのです。
 また,河井は帰するのほかに,還元するという訳も示しています。第二部定理三二でいえば,すべての観念は神に還元される限り真である,という訳になります。僕はこの訳については,関係する限りで真であるという訳より優れていると思いますが,帰するという訳には劣ると思います。なぜなら,あるものが何かに帰するというなら,その帰するという作用は思惟作用であると限定することができると思うのですが,あるものが何かに還元されるというのは,必ずしもそれを表さないように思うからです。なので僕は還元するではなく帰するの方を用います。ただ,これは僕がそのように思うということなのであって,還元するの方が帰するより優れているという考え方を否定するものではありません。
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第四部定理六六系&帰する

2023-09-19 19:13:38 | 哲学
 第四部定理六六には系Corollariumが付せられています。そちらも紹介しておきましょう。
                                   
 「理性の導きに従って我々は,より大なる未来の善の原因たるより小なる現在の悪を欲求し,またより大なる未来の悪の原因たる小なる現在の善を断念するであろう』。
 定理Propositioでは小なる善bonumと大なる善malum,大なる悪malumと小なる悪が対比されているのに対し,系の方では大なる善と小なる悪,また小なる善と大なる悪が対比されていることになります。
 このことは,第四部序言および第四部定義一第四部定義二から明らかであるといえます。というのは,僕たちが有益であると確知するcerto scimusものが善であるといわれるのであれば,もし現在の悪を受け入れることによって未来の善を手に入れることができるのであれば,この現在の悪はむしろ善といわれなければなりません。同様に,もしも善を所有することの妨げになるものが悪といわれるのであれば,現在の善を入手することによって未来による大きな悪を被らなければならないとすれば,現在の善はむしろ悪といわれなければならないからです。そして第四部定理一九にあるように,人間は善を希求し悪を忌避するような現実的本性actualis essentiaを有しているのですから,未来の善の原因causaであるような悪についてはそれは実際には善であるから希求することになりますし,未来の大なる悪の原因となるような現在の善についてはそれは実際には悪であるとみなすのでそれを忌避するあるいは断念するということになるでしょう。
 未来の善とか現在の善といわれているのは,それ自体では第四部定理八により喜びの認識cognitioで,未来の悪とか現在の悪といわれているのはそれ自体では悲しみの認識です。ですが,未来の善の原因である現在の悪は,悲しみの認識ではあっても善であり得ますし,未来の悪の原因である現在の善は,喜びの認識ではあっても悪であり得るのです。

 なぜreferreをおしなべて帰すると訳すべきなのかということについて,河井は,この動詞は,事態の原因causaなり根拠なりに遡ることを要求する表現であるからだといっています。僕はこの点に関しては河井に同意します。ただし,遡るということは,ある結果effectusの原因,その原因,さらにその原因という具合に遡及するという意味を含んでいます。僕は考察の過程で示したように,このような考え方はスピノザの哲学にとって妥当でないと考えますから,それは僕にとってはとくに重要な意味を有するわけではありません。したがって,関係するということよりも,帰するという動詞の方が,原因なり根拠なりを要求するという点が僕にとっては重要です。第二部定理三二は,平行論を前提とする定理Propositioであって,そのゆえにここには何らかの因果関係が含まれているという河井の指摘は的確なものだと僕は考えているからです。
 スピノザの哲学では,僕たちの思惟作用自体が,自然Naturaの一部とみなされるので,神の観念idea Deiなしには僕たちの認識cognitioは成立しません。これは,第一部定理一五で,神なしには何ものもあり得ずまた考えられないnihil sine Deo esse, neque concipi potestといわれていることから明白です。すなわち,神なしには何も存在できないというのと同じように,神の観念なしには一切の観念あるいは思惟作用は存在することができないのです。なので,真の観念idea veraがあるとか,僕たちが事物の真の観念を有するということは,神の観念に訴求されることによって証明されるのでなければなりません。すなわち,ある人間の精神mens humanaの本性essentiaを有する限りで神のうちにXの真の観念があるといわれるとき,その人間の精神のうちにXの真の観念があるということが保証されるのです。
 よって,第三部定理三二は,すべての観念は神に帰せられる限り真verumである,と訳された方が,神が真の観念の原因となっているということが理解しやすくなるでしょう。僕が示したこの定理の意味でいえば,僕たちの精神のうちにある誤った観念idea falsaは,神に帰せられるのであれば真の観念であるといわれれば,その観念の原因としての神に訴求されているということが理解しやすくなります。つまりこの定理の意味にさらに近づくのです。
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共同通信社杯&宗教心

2023-09-18 19:35:46 | 競輪
 第39回共同通信社杯の決勝。並びは渡辺‐深谷の静岡,三谷‐南の近畿,佐々木‐清水‐隅田の瀬戸内で新山と嘉永は単騎。
 三谷がスタートを取って前受け。3番手に渡辺,5番手に新山,6番手に佐々木,最後尾に嘉永で周回。残り3周のバックから佐々木が上昇。嘉永も続きました。前まで上がらず渡辺に蓋をしようとすると,渡辺は引きました。これによって3番手に佐々木,6番手に嘉永,7番手に渡辺,最後尾に新山という隊列に。ホームの出口から佐々木が再上昇すると,三谷は突っ張りましたがバックに入って佐々木が叩きました。打鐘から渡辺が発進して佐々木をさらに叩くとこのラインに続いていた新山はこの渡辺の勢いに乗ってそのまま発進。ホームで渡辺を叩いて単騎の先行になりました。嘉永も捲ってきたのですがこれは深谷がブロック。嘉永を止めた深谷は最終コーナー手前から自力で発進。新山と渡辺の車間は開いていたのでどうかと思いましたが,直線であっさりと新山を差すとそのまま突き抜けて優勝。逃げ粘った新山が3車身差で2着。渡辺,南,佐々木,隅田の3着争いになり,大外の隅田が1車身半差で3着。佐々木が半車輪差の4着。渡辺が半車身差の5着で南が微差で6着。
                                        
 優勝した静岡の深谷知広選手は前回出走の松戸記念に続いて連続優勝。ビッグは2014年のサマーナイトフェスティバル以来となる6勝目。共同通信社杯は初勝利。青森では2016年2017年に記念競輪を連覇しています。競輪はラインができた方が有利なのですが,このレースはラインの前を走る選手より単騎のふたりの方が脚力は上なので,予想が難解でした。新山は結果的にいえばかましていくタイミングが早く,もう少し静岡ラインを追ってから発進した方がよかったのかもしれませんが,そうすると嘉永が捲ってきて捲るタイミングを逸するということもあり得ますので,致し方なかったのかもしれません。深谷は嘉永をしっかりと止めてから新山を追っていき,突き抜けていますから内容は文句なし。番手での走りというのに慣れてきたという面もあるように感じました。

 第四部定理三七備考一のこの部分でいスピノザがいいたいのは,Deusを認識するcognoscere限りにおける僕たちから生じるすべての欲望cupiditasと行為について,それを一般的にいわれている宗教心religioという語と関係づけるということではありません。そうした欲望および行為の源泉を宗教心というということなのです。したがって,いってみればこれは『エチカ』における宗教心の定義Definitioに類することなのであって,宗教心とは,現実的に存在する人間が神を認識する限りにおいて生じる欲望および行為の十全な原因causa adaequataであるとか,そうした欲望および行為の原因となる能動的な感情affectusであるということなのです。
 これでみれば分かるように,スピノザの哲学における宗教心というのは,僕たちが普通に使うような宗教心,あるいは僕たちがもっと慣れ親しんでいることばでいえば,信心といったこととはだいぶ異なったものです。だから本当は,この宗教心という語自体を,もっと適切な日本語に訳し直した方がいいだろうと僕は思っています。ただ,では何が適切な訳語であるのかということは現在の僕には思い浮かびませんし,何よりこのことは現在の考察とはまったく関係がないことですから,ここではこの点についてはこれ以上のことはいいません。それでも,スピノザのいう宗教心というのが,やや特殊な意味を有しているという点については留意しておいてください。
 畠中は,この部分でスピノザが何をいいたいのかということについてはよく理解していたので,ここでは宗教心と関係させるとは訳さないで,宗教心に帰するというように,一種の意訳をしたのです。この意訳はとても有意義なことであって,確かに宗教心に帰するといういい方をすることで,スピノザの意図を的確に日本語として表現したといえるでしょう。このようないい方をすることで,これは宗教心の定義に類することなのだということが容易に理解することができるようになっているからです。
 河井が指摘しているのは,この部分だけを例外的に関係させるではなく帰すると訳すのではなくて,スピノザがreferreという語を用いているときには,おしなべて帰するという訳を用いるべきだったということです。
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ヒューリック杯白玲戦&第四部定理三七備考一

2023-09-17 19:03:52 | 将棋
 金沢で指された昨日の第3期白玲戦七番勝負第三局。
 西山朋佳女流三冠の先手で三間飛車。先手がやや挑発的にもみえる駒組を目指したので,後手の里見香奈白玲が三間飛車に振っての相振飛車となり,すぐに後手から仕掛けたので,双方が居玉のまま大決戦になりました。
                                        
 第1図で☖4六桂と打って攻め合いに出たため,☗4二角成☖同金に☗8二飛と打たれて一遍に先手の勝ち筋に入りました。
 第1図で☖7三歩と受けると先手は☗7六飛と逃げることになります。それでも先手がリードしている局面のようですが,すぐに先手が勝つような将棋とはなりませんでした。
 西山女流三冠が勝って2勝1敗。第四局は30日に指される予定です。

 そこまでの過程に相違がありますが,僕が河井による畠中の第二部定理三二の訳業に対する指摘に同意するということを前提として,河井が具体的にどのような指摘をしているかということをみていくことにします。
 第二部定理三二の,関係するという部分を示すラテン語の原型はreferreでした。このreferreという動詞は,『エチカ』のほかの部分でも使用されていると河井はいっていて,その一例として第三部定理五八をあげています。ここでもreferreは受動形で使用されていて,この部分は,我々に関係する,という形で訳されています。第三部定理五九備考の冒頭にもこの動詞が受動形で使われていて,この部分は精神に関係する諸感情affectibus, qui ad Mentem referunturというふうに訳されています。そのほか,第四部定理七の論証Demonstratioにおいてやはり受動形でこの動詞が用いられ,これは精神に関する限りという訳になっています。また第五部定理二〇備考の中でも受動形で使われ,ここは神に関係する感情という訳になっています。そして第五部定理三九備考ではこの動詞が多用されているのですが,これはいずれも関係すると訳されています。
 これでみれば河井はこの動詞を,関するとか関係するというように訳しているようにみえますが,実際には一ヵ所だけ例外があります。それは第四部定理三七備考一です。これはこの備考Scholiumの中の宗教心religioについて語られている部分です。
 「神を認識する限りにおける我々から起こるすべての欲望および行動を私は宗教心に帰する」。
 ここの部分ではreferoという形で用いられていますから,これはたぶん受動形ではないのでしょう。というか,文章自体が受動形としては解せませんから,これがラテン語の受動形でないということは間違いありません。よって,もしもreferreという動詞の活用形として,ほかの部分と相違が生じないように訳するのであれば,欲望cupiditasおよび行動を私は宗教心に関係させる,というようにするべきであったことになります。しかしこの訳は日本語としては理解し難いものとなるでしょう。この訳だと単に欲望と行動が宗教心と関係しているというだけであって,意図が理解できないからです。
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王座戦&能動と受動

2023-09-16 19:31:18 | 将棋
 12日に指された第71期王座戦五番勝負第二局。
 永瀬拓矢王座の先手で角換わり。後手の藤井聡太竜王・名人が右玉に構えて先攻するという将棋になりました。
                                        
 勝敗を大きく分けたポイントは第1図だったとされています。実戦は☗4一金と打ったのですが,☖6二銀☗3一金の飛車角交換になった後,☖4三玉と逃げて入玉が見込める形になった後手がよくなりました。
 なのでここでは☗4四馬と引くのが有力だったようです。☖3三金☗5四馬☖4三銀引☗4五馬と進みます。
                                        
 第2図は後手玉が固くて手番なのですが,香車取りと桂馬取りが掛かっていて,香車を受けるために金を使ったために戦力が不足。入玉も不可能ということで,勝つまでには時間を要しても,先手が有望な局面でした。
 藤井竜王・名人が勝って1勝1敗。第三局は27日に指される予定です。

 僕が修正した第二部定理三二の意味というのは,たとえば人間の精神mens humanaのうちに誤った観念idea falsaがあるのだとしても,その観念は神Deusと関係する限りでは真の観念idea veraなので,たとえば無限知性intellectus infinitusのうちにあるとみられるのであれば真の観念であるということでした。
 このとき,これを単に観念としてみるのであれば,神と関係している方が真の観念で,神と関係していない方が誤った観念であるということです。ただ,神と関係させるのは知性が関係させるのですから,知性がその観念を認識するcognoscereという立場からも考えることができます。このとき,第三部定理一により,知性が真の観念を有するというのはその知性の能動actioであって,知性が誤った観念を有するというのはその知性の受動passioを意味します。よって,知性がある観念を神と関係づけるというのはその知性の能動を意味するのに対し,知性がある観念を神と関係づけない,他面からいうと,ある知性が神と関係づけることができない観念を有するということは,その知性の受動を意味することになります。つまり,神と関係するということは,知性の能動と受動によっても考えることができるのです。
 『エチカ』は第二部定理三二をターニングポイントとして,その主題が誤った観念から真の観念へ移行するのでした。これはつまり,知性の受動から知性の能動へと移行するということでもあるのです。よって,観念が神に関係する限りで真であるということが,観念からみたときに受動形であるとみられるのは,あまり適当ではないということができます。この定理Propositioは真の観念について語っているのですから,知性が観念を有するという観点からみるのであれば,それは能動であるといわなければならないからです。
 河井はこの観点から畠中のこの部分の訳業を問題視しています。したがって,ここに至る過程は河井と僕とでは異なっているのですが,確かにこの定理の文言が受動形を意味しているのであるとすれば,それはあまり好ましくないと僕は考えます。つまり,河井はここに至るまでは僕には納得することができないことを主張しているのですが,最終的に結論として出そうとしている点については僕も河井に同意します。
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