スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

個別の善悪&皮膚科の受診

2023-06-30 19:33:12 | 哲学
 スピノザの哲学で善悪反対概念であるとすれば,第四部定理八に依拠します。僕もそうですが,この定理Propositioを規準に善悪について考える場合は,留意しておかなければならないことがあります。
                                   
 スピノザの哲学では,現実的に存在する人間が感じる感情affectusは,第三部定理五六にある通り,個別のものです。たとえば喜びlaetitiaでいえば,僕たちは一般的に喜びを感じるわけではなく,あの喜び,この喜びというように,区別することができる個別の喜びを感じます。一般的な喜びとは,それら喜びの総体にすぎません。第三部諸感情の定義二でいわれているより小なる完全性perfectioからより大なる完全性への移行transitioというのは,僕たちのうちでは個別的に生じます。前もってこのような定義Definitioがあるからこの種の移行が喜びといわれるのではなく,僕たちのうちに生じるこの種の個別の移行の総体が,一般的に喜びといわれることになるのです。もちろんこのことは悲しみtristitiaの場合にも同様です。
 もしも喜びの認識cognitioが善bonumであり,悲しみの認識が悪malumであるのなら,これと同じことが善悪にも適用されなければなりません。つまり僕たちにとっての善というのは,あの善この善といわれるような個別の善なのであって,一般的な善なのではありません。一般的な善,あるいは普遍的な善という概念notioが前もってあり,各々の事柄や事象が善であるか否かというように判断されるのではないのであって,個別の善の総体が一般的に善といわれるのです。もちろんこのことは悪の場合に同様です。
 このことは第四部序言とか第四部定義一第四部定義二で,善は積極的に定義され,悪は善の否定という観点から書かれている場合にも留意しておかなければなりません。この場合であっても,善は一般的概念あるいは普遍的概念notiones universalesであるわけではなく,個別の善の総体のことを指すのであって,それは悪の場合にも同様です。前もって何らかの善あるいは悪という概念があって,個別の事象や事柄が善ないしは悪と判定されるのではありません。個別の善,個別の悪がそれぞれあって,それらの総体が一般的に善あるいは悪といわれるだけなのです。

 祖父は僕が産まれる前に死んでいるわけですから,僕は会ったことがありません。写真を見たこともそれほどないので,顔をよく知らないのです。だから,祖父がひとりだけで写っている写真があっても,僕はそれがだれであるのかはたぶん分からないでしょう。とはいえ,家にだれであるのか分からない写真があれば,おそらくそれが祖父であろうという推測はできますので,祖父のことを知っている人,たとえば父のきょうだいでまだ生きている長男や次男に確認すればいいのです。祖父の写真が家にはないというのは,そのようなだれであるのかが分からないような写真も存在していない,正確にいえば僕が発見することができないということです。
 8月12日,金曜日。妹の歯科検診がありましたので指定歯科であるみなと赤十字病院に行きました。検診は歯のクリーニングをしただけです。
 妹は2月に皮膚科を受診していました。そのときに,妹の下腹部にできた腫瘍は良性のケロイドなので,放置しておいても大丈夫と言われたのですが,同時に,ケロイドは肥大化してしまうこともあるので,半年くらいが経過したらまた受診するように言われたのです。それからちょうど半年ほどが経過していました。なので僕は当初の予定では,このときに皮膚科の予約を入れて,15日か16日に妹を受診させるつもりでした。これは,5月にこの日に歯科検診の予約を入れたときからの心積もりでした。妹は夏季休暇期間中で,15日と16日は休みであるということがその時点で分かっていたからです。
 ところが実際にこの時期になってみると,新型コロナウイルスの感染が拡大してしまって,移動を控えた方がよい状況になっていました。もしもケロイドが肥大化しているのであれば受診させた方がよいでしょうが,そういった兆候もまったくなかったのです。なので放置しておいても大丈夫なものであれば,実際に肥大化してきたときにまた受診した方がよいように思えてきました。グループホームおよび通所施設からも,不要不急な外出は控えてほしいという依頼が出ていたのです。なので,皮膚科の予約は入れず,受診もしませんでした。現時点でも肥大化していないので,まだ受診していません。
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農林水産大臣賞典帝王賞&写真

2023-06-29 19:08:04 | 地方競馬
 昨晩の第46回帝王賞
 プロミストウォリアの逃げは予想の通りでしたが,僕が思っていたより後ろを引き付けてのものになりました。2番手にライトウォーリアで3番手にクラウンプライドとランリョウオー。テーオーケインズとノットゥルノが並んで続きハギノアレグリアス,ジュンライトボルトの順。2馬身差でミヤギザオウとオーヴェルニュとメイショウハリオ。4馬身差の最後尾がドスハーツ。前半の1000mは60秒4のハイペース。
 3コーナーからプロミストウォリアとライトウォーリアは雁行。ノットゥルノも外から追い上げさらに外からハギノアレグリアス。直線に入るあたりでライトウォーリアは一杯。プロミストウォリアとノットゥルノの競り合いに。その間にプロミストウォリアの内からクラウンプライドが抜けてきました。大外から追い込んできたのがメイショウハリオ。さらにプロミストウォリアとノットゥルノの間からテーオーケインズも伸びてきて優勝争いは3頭。大外のメイショウハリオが差し切って優勝。内を突いたクラウンプライドがハナ差の2着でテーオーケインズはアタマ差で3着。
                                        
 優勝したメイショウハリオかしわ記念からの連勝で大レース3勝目。帝王賞は第45回からの連覇。ここはかしわ記念よりは相手が強くなっていましたが,コースと距離の条件はこの馬にとってよくなっていました。良馬場としては早いタイムでの決着で,おそらくこの開催の馬場はタイムが出やすかったのでしょう。このような馬場状態ではインを回る馬が有利になり,2着馬と3着馬はそうしたコース取りでした。それを後方から大外を回って差し切るという形で勝ちましたので,少なくとも大井の2000mというコースでは,着差以上の力量差があったということだと思います。母の父はマンハッタンカフェ。3代母がバラダの半妹になる同一牝系。馬名は針尾雨燕という鳥から。
 騎乗した浜中俊騎手はかしわ記念以来の大レース13勝目。帝王賞は連覇で2勝目。管理している岡田稲男調教師はかしわ記念以来の大レース3勝目。帝王賞は連覇で2勝目。

 8月11日,木曜日。午後1時5分に,父のきょうだいの次男,父からみるとすぐ上の兄が夫婦で来訪しました。8月はの命日があり,の命日もあります。なのでお寺の会堂に墓参りに行ってきたとのことでした。お寺と僕の家とは近いですから,ついでに僕の家にも寄ってくれたものです。会堂は室内なので線香をあげることはできません。家の仏壇の方にあげてもらいました。この夫婦は保土ヶ谷区に住んでいますので,お寺や僕の家に来るためには自動車を使います。伯父はかつては運転をしていましたが,もう免許証を返納しています。このときに運転したのはこの伯父の長男,つまり僕からみれば従弟で,従弟も夫婦で来ていました。ですからこのときに僕の家を訪問したのは4人です。
 僕はお寺には不定期ですが行っています。会堂の仏壇はそれほど大きくありませんから,多くのものを置くことはできません。また,短い期間で行くことはできないので,僕は生花を飾るということはせず,造花で済ませています。それでも,実際にこの会堂の仏壇を使用し始めたときと比べれば,置いてあるものは増えました。そのひとつに,僕の両親の写真があります。狭いのでふたり分を置くと場所をとってしまいますから,ふたりのスナップショットを使い,それを写真立てに入れておいてあります。たぶん両親が友人たちと台湾に旅行したときに撮影したものだと思います。伯父夫婦はこの写真を見るのは初めてでしたが,とてもいい写真だったといってもらいました。
 この会堂には,僕の両親だけでなく,父の両親つまり僕の祖父母の遺骨も入っています。ですから本来であれば僕の両親だけでなく,祖父母の写真も置いておきたいと僕は思っています。ただ,家の中をいくら探してみても,祖母の写真というのはあるのですが,祖父の写真というのが1枚も見つけられないのです。祖母は僕が大学生のときに死んでいますが,祖父は僕が産まれる前,というより僕の両親が結婚する前に死んでいますから,撮影されている写真自体がそもそも少ないのかもしれませんし,撮影したものがあったとしてもかなり古いものなので,もう家には残っていないということなのかもしれません。
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サンケイスポーツ盃優駿スプリント&2022年8月の通院

2023-06-28 19:50:58 | 地方競馬
 昨晩の第13回優駿スプリント
 好発はメンコイボクチャン。内から出ていったラヴラブクロフネがわりと楽にハナを奪いきり,ポーチュラカが2番手に上がりメンコイボクチャンは3番手に。クラティアラ,ハーンドルフ,フジコチャンの3頭が続き,その後ろもボルドートロギルとデザートウインドとパクスロマーナの3頭で併走。以下はウインドフレイバー,サグアロ,シロイトイキ,マテリアルガール,グリーリー,スタードラマーの順で続き,リベイクフルシティは6馬身ほど離されました。前半の600mは34秒2のハイペース。
 3コーナーからはラヴラブクロフネとポーチュラカが雁行になり,単独の3番手にフジコチャン。直線に入るとポーチュラカがラヴラブクロフネを競り落として先頭に。その外からフジコチャンが末脚を伸ばし,ポーチュラカを差し切って優勝。一旦先頭のポーチュラカが1馬身差で2着。大外から追い込んだメンコイボクチャンが2馬身半差で3着。
 優勝したフジコチャンは南関東重賞初制覇。この馬はデビュー2戦目から連勝して東京2歳優駿牝馬が7着。今年の初戦は準重賞の桃花賞でこれを勝って桜花賞に進んで8着と,トップクラスが相手だと苦戦していました。桜花賞の後は東京プリンセス賞ではなく若潮スプリントに出走。このレースの3着馬に負けていましたが,1200m戦への出走が初めてであったことと,3勝をあげている地元の大井コースに変わることを考えれば,逆転は十分にありそうでした。良馬場にしてはなかなかのタイムで走っていますので,スプリント戦への適性は高いことを窺わせます。父はエスポワールシチー。3つ上の半兄が2019年に兵庫ジュニアグランプリ,2021年に黒船賞,オーバルスプリント,兵庫ゴールドトロフィー,2022年に根岸ステークスを勝っている現役のテイエムサウスダン
 騎乗した船橋の森泰斗騎手川崎マイラーズ以来の南関東重賞53勝目。優駿スプリントは初勝利。管理している大井の荒山勝徳調教師は南関東重賞26勝目。優駿スプリントは初勝利。

 8月8日,月曜日。内分泌科の通院でした。
 病院に到着したのは午後2時10分でした。中央検査室で僕の前に採血を待っていたのはひとりだけでした。なのでこの日は先に採血をしてから採尿をしました。この日はいつもよりも尿の量が少なくなってしまいましたが,検査には問題がありませんでした。僕は外出する前にはトイレに行くようにしていますが,内分泌科の通院のときは採尿がありますから,トイレには行かずにそのまま出掛けます。それでも暑い時期は思ったほど尿が溜まらないということが生じるようです。この日は使用済みの注射針は持参していませんでした。
 診察が開始になったのは午後3時25分でした。HbA1cは6.6%で,7月よりも0.1%下がっていました。ただ7月のときには2回出ていた低血糖が,0になっていました。低血糖なしにHbA1cが低下するのはきわめて良好です。ですから注射するインスリンの量を調整する必要は何もありませんでした。夏場は血糖値が安定する傾向にありますので,HbA1cが下がったのはその影響が大きかったと思いますが,それを低血糖なしに達成できたのはとてもよいことだったと思います。
                                   
 この日はふたつの異常が出ていました。ひとつは総コレステロールで,146㎎/㎗と,下限値である150㎎/㎗を下回っていました。2019年7月に同じように下限値を下回っていたことがあり,およそ3年ぶりに出た異常でした。もうひとつはLDLコレステロールです。これも69㎎/㎗で,下限値の70㎎/㎗を下回っていました。こちらは5月の通院のときに下回って以来でしたから,3ヶ月ぶりでした。
 いつものように薬局に寄ってから帰りました。インスリンも注射針も在庫がありました。帰宅したのは午後4時45分でした。
 8月10日,水曜日。妹を迎えに行きました。7日の電話で連絡を受けたように,8日から妹は通所施設での勤務を再開していましたので,この日は通所施設への迎えでした。この日に迎えに行ったのは以前からの予定でした。12日の金曜日から通所施設は夏休みに入ることになっていて,その前日の11日が祝日であったからです。
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中野カップレース&移動

2023-06-27 19:06:04 | 競輪
 久留米記念の決勝。並びは新山‐新田‐成田‐渡部の北日本,坂井に坂本‐津村の九州,脇本‐東口の近畿。
 成田がスタートを取って新山の前受け。5番手に坂井,8番手に脇本で周回。打鐘周回のバックから津村との車間を開けていた脇本が発進。誘導との車間を開けていた新山がこれに対応し,打鐘から突っ張りました。東口がうまく坂井の前に入ったので,行けなかった脇本が5番手に迎え入れられ,坂井が7番手の一列棒状に。バックから再び脇本が発進しましたが,これは勢いがなく,コーナーで失速。満を持して新山との車間を開けていた新田が踏み込んだのですが,マークの成田がさらに外から鋭い脚で新田を差し切って優勝。新田が8分の1車輪差の2着。渡部も1車身半差の3着に流れ込んで北日本勢の上位独占。脇本マークから渡部の外に進路を取った東口が半車輪差の4着で逃げた新山が半車輪差の5着。
                                        
 優勝した福島の成田和也選手は昨年12月の立川のFⅠ以来の優勝。グレードレースとなると2013年6月の高松宮記念杯以来。記念競輪はその直前の函館記念以来で5勝目。久留米記念は初優勝。このレースは新山が新田を連れて先行し,それを脇本が捲ることができるかということが焦点。脇本の最初の発進は新山が突っ張り,2度目は脇本自身が一杯になって失速ということで,新山と脇本の争いは新山に軍配が上がりました。成田はスタートを取りに行きはしましたが,道中は脇本を大きく牽制する必要はないような形に。その分だけ脚が残り,展開的には最も有利だった新田を差し切ることができたのでしょう。

 妹はPCRの結果で陰性でした。これは妹だけではなく,妹と同時にPCR検査を受けたグループホームの利用者は全員が陰性だったのです。しかし事実として妹が勤務している通所施設ではクラスターが発生していましたし,グループホームの利用者のひとりが新型コロナウイルスに罹患していました。こうした事情を鑑みれば,この時期に妹を移動させることはあまり好ましいこととはいえませんでしたし,グループホームの関係者にとっても,できればそれは避けてほしいところであったと思います。少なくともグループホームに滞在していれば,不特定多数の人と接触するというようなことは絶対に生じないからです。しかし,目薬はどうしても処方してもらわなければなりませんでしたから,このときは僕の方から無理を言ってこのような対応をしてもらいました。О眼科が入っているビルにはI歯科も入っています。僕はこのときに歯科にも立ち寄って,検診の予約を入れました。
 7月25日,月曜日。妹をグループホームに送りました。この時点ではまだ,通所施設の再開の目途は立っていませんでした。
 7月29日,金曜日。I歯科で歯科検診を受けました。この日は歯科の事情があって,10時15分の予約でした。歯茎のチェックをして,クリーニングをしました。
 8月4日,木曜日。午後1時すぎに父の元同僚であったSさんが来訪しました。これは予定されていたものではなく,急なものでした。この日は父の命日でしたので,仏壇に線香をあげて帰りました。Sさんは日野公園墓地にあった父の墓には何度も墓参りをしていたのですが,墓じまいをしてお寺の中の会堂に移骨しました。このことはSさんには伝えていませんでしたので,Sさんは日野公園墓地の方に向かってしまい,墓がなくなっていたので驚いたようです。お寺の中にあるということはこのときに伝えました。
 8月7日,日曜日。午後4時20分にグループホームの妹の担当者のSさんから電話がありました。グループホームの利用者は,翌8日から通所施設に出勤することになったという連絡でした。再開が8日からだったのか,グループホームの利用者の出勤が8日からだったのかは不明です。
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私の個人主義&クラスターの発生

2023-06-26 19:55:47 | 歌・小説
 『文芸の哲学的基礎』と同様に,講談社学術文庫から出版されている漱石の評論集として,『私の個人主義』があります。5つの評論と,編者である瀬沼茂樹の「この本によせて」と解説からなっています。
                                        
 漱石は1911年8月に,関西方面で講演会を行いました。これは大阪朝日新聞が主催したもので,明石,和歌山,堺,大阪の4か所で行われています。各地でそれぞれ漱石は別の話をしました。この『私の個人主義』にまとめられている5編のうちの4編は,その講演で漱石が話したことです。明石でのものが「道楽と職業」,和歌山でのものが「現代日本の開化」,堺でのものが「中味と形式」,そして大阪でのものが「文芸と道徳」です。同じ主催者による各地の講演ですから,分量はそれぞれが同じくらいになっています。また講演の標題から分かるように,文芸評論の趣が強いものもあれば,社会評論のような内容も含まれています。漱石は朝日新聞の社員としてこれらの講演を行ったのですが,作家としての漱石という顔と,評論家としての漱石という顔の,ふたつの顔をもっていたことになります。
 文庫版の標題となっている「私の個人主義」はこれらより後,1914年11月25日に,学習院での講演です。これは学習院輔仁会からの依頼によるものでした。漱石は1916年12月9日に死んでいますが,年表をみますとこれ以降は講演というのは行っていません。よって「私の個人主義」は,漱石が公の場で行った最後の講演であったことになります。
 これらはいずれも講演として行われたものなので,文体が講演の内容そのものになっています。要するに人に対して話しかけるような文体となっています。これはこれらの講演がいずれも文章化されることがなかったためです。たとえば朝日新聞に掲載されるということになれば,新聞の文章として相応しいものに書き直されていたことでしょう。文章化されることがなかったものという点では,貴重なものといえるかもしれません。

 この電話で,通所施設はこの時点で閉鎖しているということを伝えられました。
 僕がグループホームの利用者から新型コロナウイルスの陽性者が出たということを伝えられ,利用者の全員がPCR検査を受けるためにその週末の迎えは控えるようにとの依頼を受けたのは14日です。そして16日の夜にはその結果が伝えられていますから,検査は15日か16日に行われたことになります。その時点で15日から出勤していないといわれましたから,おそらく14日は通所施設に出勤したと思われ,その日は通所施設は閉鎖されていなかったのでしょう。通所施設の閉鎖が15日からであったのか,それとも18日の週に入ってからであったのかは分かりませんが,妹は15日以降はグループホームにずっと待機していたということになります。
 通所施設が閉鎖になったのは,通所施設の新型コロナウイルスの感染者が多数であったからです。要するにこれは通所施設でクラスターが発生したということです。知的障害者が通う施設ですから,新型コロナウイルスの何たるかを理解できない利用者が多く,密を避けるということも困難ですから,クラスターが発生したことは不思議ではありません。グループホームの利用者は全員がこの通所施設を利用しているわけですから,グループホームの利用者の中から罹患者が出たのは,通所施設でのクラスターの影響であったかもしれません。なおこれはクラスターですから,感染者というのは利用者だけに限ったことではなく,職員の中からもおそらく感染者が出たのではないでしょうか。
 妹は幸いにも陰性でしたので,迎えに行くことができました。対応してくれたのはこの日に電話を掛けてきた地域担当支援主任の男性でした。女性職員が不在だったということはないと思いますが,グループホームに滞在している利用者は妹だけではありませんから,少人数で対応していることもあり,妹には対応することができなかったのだろうと思います。このときに25日も通所施設は閉鎖されたままなので,グループホームに送るようにとの指示を受けました。
 この日は直帰せず,О眼科に寄って目薬を処方してもらいました。
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宝塚記念&陽性者

2023-06-25 19:20:55 | 中央競馬
 第64回宝塚記念
 アスクビクターモアはやや躓きましたが,すぐに立て直して大ごとには至りませんでした。押してユニコーンライオンがハナへ。2番手にドゥラエレーデ。その後ろはカラテとアスクビクターモアとダノンザキッドとブレークアップ。3馬身差でライラックとディープボンドとジオグリフ。2馬身差でモズベッロとプラダリア。直後にボッケリーニ。2馬身差でジャスティンパレスとジェラルディーナとヴェラアズール。直後にイクイノックスで2馬身差の最後尾にスルーセブンシーズという隊列。最初の1000mは58秒4のハイペース。
 3コーナーを回るとユニコーンライオンとドゥラエレーデが雁行に。その後ろもブレークアップとアスクビクターモアとジェラルディーナで雁行。直線の入口ではこの5頭が横並びになりました。ここからまずアスクビクターモアが先頭に立つとさらに外からジェラルディーナが前に出ました。3コーナーを回ってから大外を追い上げてきたイクイノックスが直線も外からジェラルディーナを差し切って優勝。イクイノックスの後ろからこちらは馬群を割り,最後はジェラルディーナの内から伸びたスルーセブンシーズがクビ差で2着。直線で外のイクイノックスには置かれたもののフィニッシュまで伸びたジャスティンパレスがジェラルディーナを外から差して1馬身差で3着。ジェラルディーナがアタマ差で4着。
 優勝したイクイノックスはこれがドバイシーマクラシック以来のレースで4連勝となる大レース4勝目。昨年のうちに国内最強であることは証明し,前走で世界最強クラスであることも明らかになっていました。宝塚記念は施行時期とコースの関係で,強い馬でも負けてしまうということがあり,それが懸念材料でしたが,今日は良馬場になりました。2着馬と同じような位置取りでしたが,2着馬が馬群を割ってきたのに対し,こちらは不利を受けないようにずっと外を回ってのものですから,力の違いを見せつけたといえるでしょう。このようなレースをしても勝つことができる馬だったことになります。父はキタサンブラック。母の父はキングヘイロー。4代母がブランシュレインでひとつ上の半兄に2021年のラジオNIKKEI賞を勝ったヴァイスメテオール、Equinoxは春分と秋分。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は天皇賞(春)以来の大レース制覇。第62回以来2年ぶりの宝塚記念2勝目。管理している木村哲也調教師はドバイシーマクラシック以来の大レース6勝目。宝塚記念は初勝利。

 僕が『はじめてのスピノザ』を読み終えたのは昨年の7月13日のことでした。今日からはそれ以降の日記になります。
 7月14日,木曜日。午後6時20分に,グループホームの妹の担当者であるSさんから電話がありました。グループホームの利用者の中から,新型コロナウイルスの陽性者が出たということでした。グループホームというのは男女別の施設です。妹が利用しているところは,同じ建物の1階が男,2階が女となっていますが,それぞれが交わらないようにはなっています。このときの陽性者は男の利用者でした。ただ,建物は同じなので,このグループホームの利用者と職員は全員が保健所による検査を受けることになりました。なので,検査を受けてその結果が出るまでは,迎えを控えてほしいという依頼でした。こういう事情ですから断ることはできませんので了承しました。17日にピアノのレッスンが予定されていたので,15日に迎えに行く予定になっていたのですが,それは中止になりました。中止にしなければなりませんでしたので,ピアノの先生には僕から連絡を入れました。
 7月16日,土曜日。グループホームの職員であるKさんから電話があり,妹のPCR検査の結果が伝えられました。妹は陰性であったとのことです。ただ,陽性反応者が出た関係で,15日からグループホームの利用者は通所施設には出勤せず,グループホームに待機しているとのことでした。僕は22日に妹を迎えに行く予定になっていましたが,22日に出勤しているのかまだ待機しているのかということは,この時点ではまだ決定していないとのことでした。
 7月21日,木曜日。午前9時に地域支援担当主任のSさんから電話がありました。翌日の迎えは通所施設ではなくグループホームにということでした。
 7月22日,金曜日。正午に,グループホームで男性側の地域支援担当主任の方から電話がありました。この日の迎えは通所施設ではなくグループホームにということの確認でした。男性側の地域担当支援主任からの電話になったのは,新型コロナウイルスの罹患者が出て以降は,なるべく少ない職員でグループホームを管理運営していたためです。
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ヒューリック杯棋聖戦&合倫理的な人間

2023-06-24 19:18:25 | 将棋
 淡路島で指された昨日の第94期棋聖戦五番勝負第二局。
 佐々木大地七段の先手で相掛り。中盤で先手が有利になりましたが,一失あったために終盤は後手の藤井聡太棋聖が勝ちの局面になりました。
                                        
 この局面は後手玉が詰めろになっていません。なので後手が先手玉に王手か詰めろの連続で迫っていくことができれば後手が勝ちます。
 ☖7六歩☗8六玉☖7八龍という手順で迫りました。☗同銀なら先手玉が詰みますので,これは条件を満たしているようにみえます。ところが☗5五角という返し技がありました。
                                        
 これは王手になっているので後手は対応しなければなりません。☖同銀が普通の手で実戦もそう指されましたが,その瞬間は先手玉への詰めろが解除されているため,今度は先手が王手か詰めろの連続で迫っていけば勝ちという局面になり,逆転しました。第1図は☖7五銀打としておくのが安全でしたし,☖7八龍では☖7三桂としておけば後手の勝ちでした。
 佐々木七段が勝って1勝1敗。第三局は来月3日に指される予定です。

 XのAに対する愛amorが,XのBに対する愛によって抑制されたり除去されたりすることがあるとしても,愛が一般的に合倫理的な感情affectusであるということには影響しません。XはAに対する愛によってAに対して個別の親切をなし,同様にBに対する愛によってはBに対する個別の親切をなすからです。しかし,だからXが一般的に合倫理的な人間であるということを意味するのではありません。つまり,愛が一般的に合倫理的な感情であるということと,他人を愛する人間が一般的に合倫理的な人間であるということは異なります。愛は個別の感情の集積として合倫理的であるといわれるのですが,人間はある個別の愛あるいは個別の親切だけで合倫理的であるといわれるわけではないのです。ここでひとつの事例として示した国家Civitasの最高権力者の場合のように,自分の子どもに対する愛のゆえに市民Civesに対する愛を抑制したり除去したりするということがあるとすれば,その最高権力者は単に有徳的ではないといわれるだけでなく,合倫理的ではないあるいは非倫理的な最高権力者であるといわれなければならないでしょう。
 なおこのことは,合倫理的であるといわれ得るすべての感情について妥当します。この考察では愛のほかに憐憫commiseratioについてもそれは一般的に合倫理的な感情であるといいましたが,どのような感情であってもそれは個別の感情ですから,XのAに対する憐憫がBに対する憐憫を抑制したり除去したりするということはあり得ますし,XのAに対する憐憫がBに対する愛を抑制したり除去したりするということも起こり得ます。憐憫は悲しみtristitiaの一種ですから,憐憫を感じる時点でその人間は有徳的であるということはできないのですが,憐憫を感じたからといってその人間が全面的に合倫理的であるということができるというわけでもありません。憐憫が合倫理的であるといわれるのも個別の憐憫の集積としてそのようにいわれるのに対し,憐憫を感じる人間について合倫理的であるかそうでないかを決定するのは,個別の憐憫だけでそのようにいわれるわけではないからです。
 『はじめてのスピノザ』に関連する考察はこれで終了します。明日からは日記に戻ります。
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棋士の勝負哲学&国家の合倫理性

2023-06-23 19:23:01 | 将棋トピック
 『透明の棋士』の著者である北野新太の,「報知新聞の北野です」と同様に.棋士の記者会見でよく耳にするのが「朝日新聞の村瀬です」というフレーズです。北野が朝日新聞に転職したことによって,このふたりは現在は同僚になっています。その村瀬信也の著書が『棋士の勝負哲学』です。
                                        
 昨年1月に幻冬舎から出版されました。僕がもっているのは第二刷ですが,1月25日に発行されたものが2月10日に増刷されていますから,発売直後の時点で当初の見込みより好調な売れ行きだったということでしょう。
 村瀬が21人の棋士について記したもの。6つの章に分けられています。
 第1章は「藤井聡太という天才棋士の異次元の強さ」で,この章は藤井聡太竜王・名人だけです。
 第2章は「最強棋士だけに見える前人未到の世界」。ここは渡辺明名人と羽生善治九段のふたり。
 第3章は「時代を築いたトップ棋士の新たな戦い」。佐藤康光九段,森内俊之九段,谷川浩司十七世名人の3人です。
 第4章は「勝負師たちの苦悩と矜持」。木村一基九段,藤井猛九段,先崎学九段,深浦康市九段,久保利明九段,山崎隆之八段の6人です。
 第5章は「若き将棋指しの不屈の闘志」。豊島将之九段,永瀬拓矢王座,佐藤天彦九段,広瀬章人八段,斎藤慎太郎八段,佐々木勇気八段の6人と里見香奈白玲の7人です。
 第6章は「語り継がれるレジェンドの勝負哲学」。米長邦雄永世棋聖と加藤一二三九段のふたりです。
 この21人は,村瀬自身が日々の取材をする中で,とくに書きたいと感じて選抜されています。もともとは連載コラムをまとめたもので,そのコラムのための取材もされています。著書はそのコラムにさらに手が加えられています。

 国家Civitasにとって合倫理的であるということが何を意味するのかといえば,国家を構成する市民Civesが融和することによって,あたかも国家が個物res singularis,第二部定義七でいわれている,多数の個体がすべてある結果effectusに対する原因causaとして,個々の活動actioにおいて協力するような個物になるということです。現実的にはこのことはきわめて困難なことといわなければなりませんが,国家の最高権力者の合倫理性は,国家がこの方向へと進むことを目指すことにあるのであって,これに反するようなことは非倫理的といわなければなりません。そこで,もしも国家の最高権力者が,自分の子どもへの愛amorのゆえにその子どもを権力の中枢に抜擢するということがあるとすれば,それは国家を構成する市民の一致や融和を齎すよりは,亀裂とかあるいは最高権力者自身への政治的信頼の失墜という方向へ向かわせるでしょう。よってこのようなことをする最高権力者は,子どもを愛するという意味では合倫理的であったとしても,国家の最高権力者として合倫理的であるかといえばそういうわけではなく,むしろ非倫理的であるといわなければならないのです。ですから,僕は愛は一般的に合倫理的な感情affectusであるといいますが,個別の愛によって個別の人間に対して親切をなす人間が,全面的に合倫理的であるということを肯定しているわけではなく,その人間のその個別の愛だけでなくその他の事情を考慮すれば,その人間自身は非倫理的であるという場合があるということは認めます。
 僕はここで具体的事例として示した例を,この最高権力者Aの,子どもであるBに対する愛が,市民に対する愛を抑制ないしは除去するという仕方で解します。少なくともAのBに対する愛が,Aの市民に対する愛と同じ程度であるならば,Bに対しても市民に対しても同じだけの親切をなそうとするのですから,Bだけを権力の中枢に抜擢するということは生じ得ない筈だからです。もちろんAは,当初から市民に対する愛を有していなかったという場合がないわけではないのであって,僕の解釈は一面的であるかもしれませんが,たとえその場合であっても,Bに対する愛が市民に対する愛を抑制していることは間違いありません。
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印象的な将棋⑲-2&単独の事象

2023-06-22 19:32:01 | ポカと妙手etc
 第92期棋聖戦五番勝負第三局を採用する理由についてはで説明しましたので,今回から本格的にこの一局を考えていきます。
 実はこの将棋は,このブログで取り上げた以前の局面から,非常に難解で,そのゆえに考えるのが楽しい将棋でした。指されてからかなりの時間が経過しましたので,ここでは取り上げていない局面から始めていきます。あまり遡っても仕方がありませんから,第1図から始めることにします。
                                     
 銀取りになっていますが,たとえば☗5七銀などと逃げると,☖5五角と出る筋が生じてしまいます。なので先手は☗2二飛成☖同金と取って☗5四歩と取り込んでいきました。
                                     
 後手の手番ですが,先手からは☗3一角と☗4四角というふたつの狙いがあって,後手はそれを受けることはできません。また☖3九飛と王手をする手はあるものの,☗5九桂と受けておけば先手玉が簡単に詰むという局面にはなりません。なので第2図のように進めて先手は勝ちであると判断していました。
 実際はこの判断は誤りで,第2図は後手が勝ちになっています。

 説明を容易に理解してもらうために,ここまでは高慢superbiaを経由した愛amorについて考察してきました。それによって,個別の愛のゆえに個別の親切をなしたとき,それは個別的には合倫理的であるけれど,その個別の親切をなしている人間が全面的に合倫理的であるといえるわけではないということは納得してもらえたのではないかと思います。そしてこうしたことは,別に高慢という,それ自体で非倫理的といえるような感情affectusを経由せずとも,単に個別の愛だけを抽出した場合でも成立することがあります。そうした具体例をひとつ呈示しておきましょう。
 ある国家Civitasが存在して,その国家の最高権力者であるAが現実的に存在すると仮定します。そのAが自身の子どもBへの愛のゆえに,Bを権力の中枢に抜擢するとしましょう。このとき,AのBに対する愛は,理性ratioに従っているがゆえに生じる愛ではなく,受動的な愛であるということは明白です。なぜなら,権力の中枢にある人物を抜擢するのであれば,抜擢する人物の能力potentiaを図るべきであって,もしもAが理性に従っているなら,つまり有徳的であるのならそのような仕方で人選することになりますが,ここでは愛のゆえに抜擢するという仮定になっていますから,この愛は受動的な愛なのです。
 AはBに対する愛のゆえにBを権力の中枢に抜擢するという親切をなしました。この個別の親切はBに対しては合倫理的であると僕はいいます。いい換えればAのBに対する愛は合倫理的であるといいます。これは一般に,現実的に存在する人間が隣人を愛することは合倫理的であるということの一部ですし,あるいはもう少し狭く,一般的に親が子どもを愛することは合倫理的であるということの一部です。ですから,AがBを愛し,Bを権力の中枢に抜擢するという個別の親切だけを抽出すれば,僕はAが合倫理的であるということを否定しません。
 しかし,だからAが国家の最高権力者として合倫理的であるといえるかといえば,そうではありません。このことはたぶんここまでの論述からほとんどの人が納得するところだと思います。ただ,なぜそのようにいうことができるのかということについても,論理的に説明します。
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ユダヤ人の帰還&第四部定理五七備考

2023-06-21 19:33:00 | 哲学
 書簡三十三の最後のところでオルデンブルクHeinrich Ordenburgがスピノザに尋ねている,ユダヤ人のパレスチナへの帰還については,まず歴史的事実として確認しておくべきことがあります。
                                        
 この書簡は1665年12月8日付でオルデンブルクからスピノザに宛てられています。この翌年の1666年は,ユダヤ人にとって黙示の年とされていました。書簡が書かれた1665年には,サバタイ・ツヴィSabbatai Zeviという人物が,トルコで自身がメシアであると宣言しました。ユダヤ人のパレスチナへの帰還は,万事の終末に先立たなければならないので,この時期のユダヤ人のパレスチナへの帰還というのは,単にユダヤ人だけの関心事であったわけではなく,オルデンブルクのような非ユダヤ人にとっても関心事ではあったのです。
 ただし,ユダヤ人のすべてが,この路線に従っていたのかというと,そういうわけではありません。たとえばサバタイ・ツヴィをメシアとして信奉した人びとはサバタイ派と呼ばれていて,それはユダヤ教の中での主流な派閥であったわけではありません。しかもサバタイ自身は,黙示の年であった1666年に,サバタイ派ではないカバリストのユダヤ教徒に告発され,オスマン帝国で裁判にかけられました。この裁判の結果として,サバタイはイスラムに改宗してしまいます。カバリストたちがユダヤ人のイスラエルの帰還の時期というのをどのように考えていたかは定かではありませんが,少なくとも1666年までに各地に散り散りになっていたユダヤ人たちがパレスチナに帰還するという考えは,現実的なこととしては,すべてのユダヤ人に受け入れられていたわけではないだろうと思われます。
 スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の第三章で,ユダヤ人はその機会が与えられればユダヤ人国家を打ち立てると信じて疑わないという意味のことをいっています。おそらくユダヤ人が国家を打ち立てるならそれはパレスチナにおいてでしょうから,ユダヤ人のパレスチナへの帰還自体はあり得ると考えていたと思われます。ただ,機会が与えられればとしていますから,『神学・政治論』の発売以前の1665年に,そうしたことがあるとは考えていなかったのではないでしょうか。

 高慢な人間が高慢superbiaという感情affectusを抱いているがゆえに,自身の阿諛の徒adulatorや追従の徒を愛するとすれば,その愛amor自体は合倫理的であると僕はいいます。この愛のゆえに高慢な人間は阿諛の徒や追従の徒に対して親切をなすのであり,このことは合倫理的であるからです。しかし同時に,スピノザが次のようにいっている点に留意する必要があります。
 「高慢な人間はあらゆる感情に支配され,ただ愛および同情の感情から最も縁遠い」。
 これは第四部定理五七備考の冒頭でスピノザがいっていることです。そしてこのことは,第四部定理五七と矛盾しません。なぜなら,この定理Propositioでいわれていることは,高慢な人間が愛するのは追従の徒ないしは阿諛の徒だけで,そうでない人間に対して愛を感じることはないということにほかならないからです。つまりこのような意味において,高慢な人間は愛から最も縁遠い人間であるといわれるのです。
 したがって,高慢な人間が,社会societasなり共同体の一員としてみられる限りは,合倫理的であるどころか非倫理的な人間であることになります。なぜなら,愛に最も縁遠い人間は,他人に親切をなすことから最も縁遠い人間であるということになり,そうした人間は社会なり共同体に融和を齎すことはなく,むしろ亀裂を齎すであろうからです。よって,僕は高慢な人間が,高慢という感情によって追従の徒や阿諛の徒を愛する限り,その個別の愛は合倫理的であるといいますが,だから高慢な人間がその限りにおいても合倫理的であるとはいいません。愛は一般的に合倫理的な感情であると僕がいうとき,それは個別の愛およびその個別の愛から生じる個別の親切の集積についてそのようにいうのであって,それ以外の事情については考慮に入れていないからです。したがって,現実的に他人を愛している人間が存在するとして,その人間がその愛のゆえにその他人に対して親切をなすからといって,他人を愛しまた他人に親切をなしているその人間について,その人間が全面的に合倫理的であるとか,全人格的に合倫理的であるといっているのではありません。あくまでもその愛および愛のゆえの親切だけを抽出して,愛は合倫理的だというのです。
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天龍の雑感⑯&希望と愛

2023-06-20 19:13:39 | NOAH
 天龍の雑感⑮の最後でいったように,天龍源一郎によるジャンボ・鶴田というプロレスラーについての総評をみていきます。
 天龍は鶴田の基礎として,バスケットボールをあげています。天龍は相撲をやっていたのですが,バスケットボールというのは長時間にわたって走り回る有酸素運動であって,その点で大きな相違があると天龍はみています。プロレスでは長時間にわたる有酸素運動によって培われるようなスタミナは重要ですから,これは的を射た意見であると思います。ただ鶴田のスタミナがそれだけで養われたのかどうかは分かりません。鶴田はその後にレスリングをやるようになり,これはプロレスラーとして大きなバックボーンとなりました。これは格闘技経験という意味でのバックボーンになりますが,やはりプロレスのバックボーンとなる格闘技としては,レスリングが最も優れているのは当然でしょう。
 天龍は,鶴田がそのことで一定程度の自信をもって全日本プロレスに入団したとみています。全日本プロレスに就職するといった鶴田の発言から,こうした自信は鶴田にはあったと僕は思います。この発言は,自分の就職先として最適なのはプロレスラーであるという意味が含まれているように思うからです。
 レスリングはプロレスのバックボーンとしては最適ですが,プロレスそのものではありません。だからすぐにデビューすることができるというわけではなく,プロレスとはどういうものであるかということを学ぶ必要があります。その学習の中で鶴田はプロレスラーというのは自分にとって与しやすい職業であるという感触を得ていったのだと天龍はみています。鶴田には器用さがあって,その器用さがプロレスでも生きました。この器用さというのは,いわばプロレスラーにとって必要な器用さといえると思います。鶴田は若い頃は善戦マンといわれましたが,それは器用さの証明であると天龍は言っています。もしも器用さがなければ,いい試合になるか悪い試合になるかのどちらかであって,善戦マンにはなり得なかったというのが天龍の見解で,これは確かにそうだと思えるものです。鶴田がプロレスラーとして器用に立ち回れる面があったので,対戦相手も試合がやりやすかったのでしょう。

 希望spesは能動actioではあり得ません。したがって,喜びlaetitiaの一種ではあるのですが,有徳的であることができる感情affectusではありません。ただし,第四部定理五四備考にあるように,害悪より利益を齎すことが多い感情なので,スピノザによって絶対的に否定されるということはないのです。よって,現実的に存在するある人間Aが,Bに対して憐憫commiseratioを感じることによって,Bに対して愛amorを感じるようになるとすれば,それは合倫理的であるといえます。これと同じように,もしも現実的に存在するある人間が,希望を感じることによって他人を愛するようになるならば,それもまた同様に合倫理的であるといえることになります。そしてこれらの場合には,その人間は全面的に倫理的であるということができるのです。
 しかしこれとは別の場合があります。
                                   
 第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaは,自己愛philautiaの一種とされています。この自己愛というのは,第三部諸感情の定義二五の自己満足Acquiescentia in se ipsoの一種です。したがって高慢というのは喜びの一種であることになります。しかし高慢の定義Definitioから明らかなように,この感情は正当以上に感じられている自分の表象像imagoがなければあることも考えるconcipereこともできない感情,つまり自分についての混乱した観念idea inadaequataがなければ生じ得ない感情ですから,理性ratioから生じるということはありません。いい換えればそれは受動passioです。この定義で自己満足といわれずに自己愛といわれているのは,スピノザは受動的な自己満足についてはそれを自己愛というからです。つまりある感情は自己愛の一種であれば,理性からは生じ得ない喜びであるということになるのです。よって,理性からは生じ得ない喜びであるという点では,高慢は希望に一致します。
 次に,高慢から愛が生じ得ないのかというとそんなことはありません。第四部定理五七にあるように,高慢な人間は追従の徒や阿諛の徒adulatorが現実的に存在することを愛するのですから,自身にとっての阿諛追従の徒については,かれらを愛することになるからです。このとき,それを個別の愛,つまり現実的に高慢であるAという人間がいて,このAの阿諛追従の徒であるBを愛するとき,このAのBに対する愛は合倫理的です。
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性的魅力&憐憫と愛

2023-06-19 19:03:40 | 歌・小説
 石原がいっているように,先生と奥さんとの間に性的交渉がなかったのかということを考えていくために,僕はひとつだけ前提しておきたいことがあります。それは,先生にも奥さんにも性的欲望というのはあったのであって,先生は奥さんをその欲望の対象としてみていたし,奥さんもまた先生を欲望の対象としてみていたということです。つまり先生は奥さんに性的魅力,人間的魅力とは異なった意味での性的魅力を感じていたし,奥さんも先生に対して性的魅力を感じていたのだと僕は解します。
                                        
 僕のこの解釈の根拠は,上の十で先生が私に対して言ったことばの中にあります。そこで先生は,妻以外の女はほとんど女として私に訴えないと言い,さらに妻は自分を天下にただひとりしかいない男だと思ってくれているという主旨のことを続けます。ここでは男であることまた女であることが重要ですから,これが単に各々の人間的魅力について語ったわけではなく,性的魅力を語っているのだと僕は解します。要するにこの先生のことばを,先生は奥さんにしか性的魅力を感じないし,奥さんが性的魅力を感じているのは先生だけであるというように解するということです。
 自分は妻に性的魅力を感じているという先生の発言が虚構であるとは思えません。そのような虚言を先生が私に対して言う理由も必要性もないからです。一方,これは先生の発言ですから,奥さんについて確たることがいえないのは事実です。少なくとも,奥さんが性的魅力を感じているのは自分だけであるということについて先生がある確信をもっているのは事実ですが,その確信の正しさを裏付ける要素があるわけではありません。ただ,先生がそのような確信をもっているのは事実で,確信をもっているのならもっているだけの理由が先生のうちにはあるのでしょう。上は私の手記ですから,私が不在で先生と奥さんだけの間で生じていることは何も書かれていません。おそらくその書かれていないことのうちに,先生にそう確信させる何かがあったのです。なので僕は,奥さんが先生に対して性的魅力を感じていたということは,ただ先生がそのように思い込んでいたというわけではなくて,事実としてそうであったと解します。

 憐憫commiseratioが有用であるといわれるときの有用の意味は,不安metusが有用であるといわれるときの有用の意味と異なります。不安は害悪より利益を多く齎すから有用であると僕はいっているのであって,それは逆にいえば,不安は利益を多く齎すけれど害悪を齎す場合もあるということでもあります。これに対していえば,憐憫は害悪を齎すことはないのであって,利益だけを齎すのです。このことは第四部定理五〇備考から明白です。ここには理性ratioに従えば人間は他人を援助するのであって,憐憫という感情affectusによっても人間は他人を援助するということが明らかに含まれているからです。したがって憐憫という感情は,理性に従っている人間と同じように振る舞うようにその人間に対して作用する感情であることになります。なので,憐憫は悲しみtristitiaの一種ではあるけれど,愛amorが一般的に合倫理的な感情であるといわれるのと同じように,憐憫は一般的に合倫理的な感情であるといって構わないということになります。ただそこに差異を見出すとすれば,憐憫は悲しみであるがゆえに,第四部定理五〇にあるように,理性に従っている限りではそれ自体ではmalumであり,無用であるのに対し,愛は喜びlaetitiaなので,理性に従っているからといってそれ自体で悪とはいえませんし,むしろそれ自体でみれば善bonumといわれなければならず,よって無用であるとはいえないという点です。
 このように,たとえ悲しみであっても,合倫理的な感情もあるのです。いい換えれば第三部定理五九にあるように,能動actioであることができないのだけれども合倫理的な感情というのもあるのです。一方この定理Propositioは,喜びと欲望cupiditasは能動であり得るといっているのですが,だからといってどのような喜びも能動であり得るということを意味しているのではありません。たとえば第三部諸感情の定義一二の希望spesは,喜びの一種ではあるのですが,この定義Definitioからして疑っている物の観念ideaがなければあることができません。つまり何らかの混乱した観念idea inadaequataがある人間の精神mens humanaのうちにあるときにのみ,その人間は希望を感じるということになります。よって現実的に存在するある人間が希望を感じているときには,その人間は働きを受けていることになります。
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高松宮記念杯競輪&有用

2023-06-18 19:32:15 | 競輪
 岸和田競輪場で争われた第74回高松宮記念杯の決勝。並びは新山‐佐藤の北日本,松井‐郡司の神奈川,脇本‐古性‐稲川の近畿,松浦‐山田の西国。
 発走後は牽制になりましたが,脇本がスタートを取って前受け。4番手に松浦,6番手に松井,8番手に新山で周回。残り3周のバックの出口から新山がゆっくりと上昇を開始。誘導との車間を開けていた脇本をホームで叩きにいきましたが,脇本が突っ張りました。4番手に松浦,6番手に新山が下り,松井が8番手の一列棒状になって打鐘。バックから松浦が発進。スピードは悪くありませんでしたが,古性が執拗に牽制して松浦は失速。松浦を止めた古性が直線の入口から踏み込んで優勝。インを回って,直線は古性と稲川の間に突っ込んだ佐藤が1車身半差で2着。古性マークの稲川は4分の1車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は2月の全日本選抜競輪以来の優勝でGⅠ5勝目。ビッグは6勝目。高松宮記念杯は昨年からの連覇で2勝目。2016年12月に当地の記念競輪の優勝もあります。このレースは前で受けた脇本が引いて捲りを狙うのではなく,突っ張り先行を選びましたので,6番手以下になってしまった選手は優勝のチャンスが著しく失われました。圏内になった松浦の捲りはよいスピードでしたが,牽制して自分より最後まで前に出させず,そのまま踏み込んでの優勝ですから,番手選手としてとても価値のある優勝になったのではないかと思います。

 これについてはまず次の点から考えなければなりません。
                                   
 ある事柄が合倫理的であるといわれるのは,それが有徳的であるときの振る舞いに一致するからです。有徳的であるということは,理性ratioに従うということです。いい換えればそれは精神の能動actio Mentisから生じます。しかるに第三部定理五九により,そこから生じる感情affectusは喜びlaetitiaであるか欲望cupiditasであるかのどちらかであって,悲しみtristitiaではあり得ません。よって,何らかの感情がその感情を抱いた人間に何らかの振る舞いをさせるとき,その振る舞いが理性から生じる感情によって決定される振る舞いと一致するのは,喜びか欲望の受動感情だけであって,悲しみから生じる感情は,理性に従うことによって決定される振る舞いへとは人間を決定しないようにみえます。よって,ある感情が合倫理的であるといわれるとすれば,それは喜びか欲望のどちらかであって,悲しみは合倫理的ではあり得ない,もっといえば人間が悲しみによって決定される振る舞いは,すべからく合倫理的ではあり得ないということになるでしょう。
 ところが,このことは成立しないのです。したがって,愛amorが一般的に合倫理的な感情であり,憎しみodiumは一般的に非倫理的な感情であるといわれるとき,それは愛が喜びであり憎しみが悲しみであるからというわけではないのです。これは重要なことなので,分かりやすい一例を示しておきます。
 スピノザは第四部定理五〇で,人間が理性の導きに従っている場合は憐憫commiseratioは悪malumであって無用だといっています。このことの根拠になるのは,第三部諸感情の定義一八にあるように,憐憫は悲しみの一種であるということです。しかしこの定理Propositioは,憐憫が悪であったり無用であったりすることには条件が付せられていて,それは人間が理性に従っているということです。ですから,理性に従っていない場合は,憐憫というのは悪であるとはいえないし無用であるとはいえない,むしろ有用であるといえるのです。しかもこの場合の有用というのは,ここで不安metusが有用だといっているのと同じではありません。不安が有用だといっているのは僕であって,第四部定理五四備考でスピノザがそういっているわけではありません。
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印象的な将棋⑲-1&合倫理性の根拠

2023-06-17 18:59:36 | ポカと妙手etc
 今回からは第92期棋聖戦五番勝負第三局です。最初に,この将棋を取り上げる理由を説明しておきます。
 僕は自身の棋力は大したことがありませんから,記事を書くにあたっては棋譜コメントや,現在であればAIの評価値や推奨手などを参考にします。その上で並べて検討します。それでも変化が大きい中盤は,僕の力では解明することが難しいということが僕自身がよく分かっていますので,それほど時間を掛けて考えることはしません。膨大な変化のすべてを並べることは物理的に不可能ですし,そもそもこのような局面は有利と不利という結論を出すことができるだけであって,一方の勝ちという結論を出せるわけではありません。
 しかし終盤,とくに最終盤になるとこれとは違います。終盤は将棋というゲームの論理的に指すことができる手というのが限られていますから,中盤ほど膨大な変化は生じません。さらにひとつの変化を進めていけばどちらの勝ちかを結論付けることができます。ですから僕程度の棋力しかないとしても,時間を掛けて並べて考えることを,各々の変化について繰り返していけば,その変化のすべてについてどちらの勝ちであるのかということの結論を出すことができますので,そこからある局面まで遡って,たとえばこの特定の局面である特定の手を先手が指せば,先手の勝ちであったというように断定することができます。つまりこうした局面は時間を掛けて考える価値がありますから,その場合は僕も時間を掛けます。第42期棋王戦五番勝負第一局とか第33期竜王戦七番勝負第三局などは,明確な結論を出すところまではいっていませんが,かなり時間を使った結果として,一定の結論を出せたという記憶があります。
 ところがどんなに時間を使って出した結論でも,間違えているということが稀に発生するのです。これから取り上げようとする将棋はまさにそれです。そうした個人的な事情でこの一局は僕の印象に残るところとなったのですが,それと同時に,正確な結論を示しておきたいという思いもあるのです。

 確かに個別の憎しみodiumがそれと別の憎しみを,たとえばXのうちにあるAに対する憎しみがBに対する憎しみを抑制したり除去したりするということはあるのです。しかしだからといって,憎しみは一般的に非倫理的な感情affectusとはいえないとか,憎しみは一般的には非倫理的な感情であるけれど,例外的にそうでない場合がある,あるいは例外的に合倫理的な感情でもあり得るということは,僕は不条理であると考えます。なのでこれと同じ理屈によって,個別の愛amorがそれと別の愛を,たとえばXのうちにあるAに対する愛がBに対する愛を抑制したり除去したりするということはあるのだけれど,だからといって愛は一般的に合倫理的な感情であるとはいえないとか,愛は一般的には合倫理的な感情であるけれども例外的に非倫理的な場合もあるということも,本来は不条理ではないかと僕は思います。よって僕は愛は一般的に合倫理的な感情であるといいます。ただ,個別の愛がそれとは別の愛を抑制したり除去したりすることがあるということは紛れもない事実なのですから,その点を重視して,愛が一般的に合倫理的な感情とはいえないという見解についても,それを強く否定するnegareということはしません。
                                   
 僕は愛は一般的に合倫理的な感情であり,そのゆえに愛の反対感情である憎しみについては一般的に非倫理的な感情であるといいます。ただこのときに気を付けておいてほしいのは,これは各々の感情だけを,より正確にいうならば,各々の感情がその感情を抱いた人にどのような振る舞いをするように仕向けるのかという観点のみに注目しているのであって,その他の事情については何も考慮していないということです。もっともこの場合,憎しみは一般的に非倫理的な感情であり,この感情は第三部定理三九により,憎んでいる相手に害悪を与えるように仕向けるのですから,その他の事情というのは考慮する必要はなく,憎しみという感情を抱くのであればどのような事情があったとしてもそれは非倫理的であるということができます。しかし愛の場合はこれとは異なっていて,その他の事情まで考慮すれば,愛を抱いている人間が全体として合倫理的であるとは限りません。
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反対概念&個別の憎しみ

2023-06-16 19:03:13 | 哲学
 僕たちは善bonumと悪malumを反対概念だと解釈するのが普通です。このこと自体はスピノザの哲学の中でも成立します。ただ,スピノザの哲学で善悪が反対概念であるといわれることには独特の意味があるので,まずこれを確認しておかなければなりません。これを確認しておかないと,確知の矛盾は解消することができませんし,第四部序言および第四部定義一第四部定義二で,悪が善の否定という観点から記述されていることも理解することができません。
                                   
 一般的にあるものが反対概念を構成するときには,ふたつの条件があります。ひとつは少なくともふたつの事物,つまり複数の事物があるということで,もうひとつは反対概念とされる各々の事物が対等な関係を有するということです。このふたつの条件が成立しないと,それらのものは反対概念とみなすことができません。
 ひとつめの条件は,AとBが反対概念であるなら,一方がAで他方がBであるから反対であり得るということから明白です。もしもAだけがあってBがないなら,AとBは反対概念であることはできないからです。ふたつめは,もしもAとBが反対概念であるなら,Aの反対がBでBの反対がAであると規定されなければならないことから明白です。もしもこの関係が成立しないのであれば,AとBは反対概念ではあり得ず,何らかの関係を有するとしても,AはBの否定negatioであるとかBはAの否定であるというようにしか考えられません。たとえばBがAの否定でしかないのであれば,Aは積極的なあるものとして規定され得ますが,Bはそのようなものとしては規定することができませんから,AとBは反対概念であることができないのです。
 これらの条件を満たした上で,善悪を反対概念として規定している部分を『エチカ』の中に見出すとするなら,それは第四部定理八であるということになります。ここでは善が喜びlaetitiaの認識cognitioで悪は悲しみtristitiaの認識とされています。しかるに第三部諸感情の定義二第三部諸感情の定義三から理解できるように,喜びと悲しみは明らかに反対概念です。つまり喜びと悲しみが反対概念であるというのと同じ意味において,善悪は反対概念であると『エチカ』では規定されているということになります。

 現実的に存在する僕たちが感じる愛amorは,一般的な愛でなく個別の愛です。いい換えれば,第三部定理五六により,あの愛,この愛と区別される愛です。これと同じように,現実的に存在する人間が感じる憎しみodiumも,一般的な憎しみでなく個別の憎しみです。したがって,XのうちにあるAに対する憎しみとBに対する憎しみは別個の憎しみと解さなければなりません。ですから,XのうちにあるAに対する愛がBに対する愛を抑制したり除去したりすることがあるのと同じように,XのうちにあるAの憎しみがBに対する憎しみを抑制したり除去したりすることがあり得ます。あり得るというか,こうしたことは僕たちのうちでしばしば生じているといえるでしょう。
 『はじめてのスピノザ』では,第五部定理四二備考でいわれている,無知者が存在することをやめるということがひとつの事例で説明されていました。XのAに対する憎しみがBに対する憎しみを抑制しまた除去するというとき,実はこれと同じことが生じていると考えることができます。現実的に存在するある人間が何かを憎むとき,憎しみは悲しみtristitiaの一種ですから第三部定理五九によりそれは能動actioではありませんから,無知者としてそれを憎むのです。よってXのBに対する憎しみが抑制されるあるいは除去されるというとき,XはBを憎んでいるという意味での無知者であることをやめることになるのです。こうしたことが現実的に存在する人間のうちでしばしば生じるのであって,確かにある憎しみがそれとは別の憎しみによって除去されるのです。他面からいえば,僕たちはあるものに対する憎しみから別のものへの憎しみに,またそれとは別の憎しみへと移ろっていくのであって,そのたびにある無知者であるということをやめていき,それとは別の無知者となっているのだといえます。
 もしもXのAに対する愛がBに対する愛を抑制するということをもって,愛は一般的に合倫理的な感情であるとはいえないというのであれば,これと同じ理屈によって,XのAに対する憎しみがBに対する憎しみを除去することもあるのだから,憎しみは一般的に非倫理的な感情とはいえないといわなければなりません。
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