スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ふるさとカップ&入所の日

2018-07-31 18:36:20 | 競輪
 弥彦記念の決勝。並びは坂本‐菅田の北日本,鈴木‐諸橋の関東,和田‐簗田の南関東で椎木尾と岩津と湊は単騎。
 前受けとなった和田をまず叩きにいったのが坂本で,それが残り2周のホームに入るところ。坂本はそのまま誘導の後ろに。3番手は椎木尾で椎木尾の後ろは内で和田,外が鈴木。鈴木マークの諸橋の後ろに湊が続き,岩津が最後尾でホームを通過。バックに入って鈴木が発進。坂本を叩いて打鐘。湊と岩津も続き,コーナーで椎木尾も5番手にスイッチ。6番手に坂本,8番手に和田の一列棒状に。鈴木のスピードがよく,後ろの選手は動けず。車間を取って直線の入口から踏み込んだ諸橋が優勝。諸橋マークのレースになった湊が4分の1車輪差で2着。3番手から前のふたりの間を割ろうとした岩津は届かず4分の3車輪差で3着。
 優勝した新潟の諸橋愛選手は昨年10月の松戸記念以来となる記念競輪6勝目。地元となる弥彦記念は昨年に続く連覇で2勝目。このレースは単騎の選手が多かったこともあり,地元の諸橋を連れた鈴木の先行は予想できたところ。脚力の面からは和田がライバルになりそうでしたが,坂本が抑えた後で鈴木がうまく封じ込め,8番手に置くことができました。また,単騎の選手も競り掛けてはこない上に3人ともラインに続いてくれましたので諸橋にとっては絶好の流れ。和田はもっと早く引ききってしまった方がよかったように思います。

 搬入を終えてバスで上大岡に戻ったのが正午近く。Kさんと僕と母の3人で,近くの店で昼食を摂りました。Kさんの自宅は上大岡から近いのですが,僕の家まで自転車で来ていました。なので3人で僕の家まで戻りました。それが午後1時15分。Kさんはそれから自転車で自宅に戻りました。
 12月20日,水曜日。妹の本牧脳神経外科の通院がありましたので,この日は通所施設までの送りのサービスは中止にし,僕が通院に同行しました。予約は午前10時でした。この日は診察だけでなく採血もあったのですが,妹は血管が浮き出にくい体質で,大概の場合は採血は肘の裏の部分からするものだと思うのですが,手の甲から採血しました。それでも1度目は失敗して十分に血液を採取することができなかったため,妹は左右の両方の手に注射されることになってしまいました。この通院を終えたら妹を通所施設まで送り,僕はその帰りに根岸駅の薬局に寄り,妹の薬をもらって家に戻りました。帰宅したのは11時45分です。
 12月21日,木曜日。母が業者に依頼して家の大掃除が行われました。3時間ほどで終了しています。
 12月22日,金曜日。妹がこれまでの通所施設に通う最後の日でした。妹のために施設の方でありがとうの会というのを開催してもらいました。これは午後2時からで,母も同席しています。妹はきちんとお別れの挨拶ができたようです。
 12月25日,月曜日。妹がグループホームに入所する日です。これは僕が送って行きましたが,場所の関係で,グループホームではなく通うことになる通所施設の方に行きました。10時から10時半の間にということでしたので,その時間に間に合うようにしました。この時間はこの日に限ったことでなく,この日以降,送るときには定まった時間です。施設はキリスト教関連で,これまでもそうだったのですが月曜は全体礼拝というのがあります。その後で,グループホームから通っている人の専用の部屋で,グループホームの人たちによる朝礼があり,僕はそのふたつにはこの日は出席しました。ただしこれはこの日限りのことです。全体礼拝でも朝礼でも,妹は挨拶しました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

印象的な将棋⑮-2&搬入

2018-07-30 18:55:03 | ポカと妙手etc
 ⑮-1の第2図から,後手は☖9五馬という手を指しました。
                                     
 この馬は7三に利いています。部分的にいえば☗7三香成を☖同馬と取ったところで☗7五桂で後手玉は詰みです。ただ,☖7三同馬と取った手は先手玉に対する王手になっているので,この詰みの受けにはなっているのです。
 先手はここでは☗7三香成とはできません。ただこの馬は8四にも利くようになっているので,打ち歩詰めのために打てなかった☗8四歩は打てるようになっていて,以下☖同馬☗同銀☖同王と進めておけば先手が勝てたろうと思います。ただ,この手順は後手玉を上に逃がすような感があるので,先手は不満に感じたようです。そこで別の手を指しました。それが☗7七桂です。
                                     
 これはただですが☖同馬なら今度は☗7三香成を☖同馬と王手で取ることができなくなっているので,その順は先手の勝ちです。 

 搬入にはKさんに応援を依頼してありました。Kさんは自宅からグループホームに行く方が便利だった筈ですが,場所が分かりません。ですからまず僕たちの家に来てもらい,9時半過ぎにバスで上大岡に向いました。場合によっては上大岡からタクシーで行くことも視野に入れていましたが,ターミナルでバスを降りたすぐのところに,グループホームの最寄りの停留所へ向う京急のバスが停車していましたので,それに乗り込みました。この日は行きだけでなく帰りもバスでの移動だったのですが,母はそれで大丈夫だったのです。
 バスを降りてから道に迷ってしまいました。グループホームは見学のときに行ったきりで,しかもそのときは自動車で案内されましたから,迷ってしまったことは仕方ないかと思いますが,母に余計な身体の負担をかけてしまうことになりました。バスを降りたら少し直進して,左に曲がるのですが,曲がらなければならない道よりひとつ前の道を曲がってしまったようで,その後でぐるりと1周するような形でホームに到着したのです。建物の横に,荷物の運搬を依頼した業者の軽トラックはすでに到着していました。
 ホームの方に挨拶をして,荷物を妹の部屋に搬入しました。搬入といっても,これは単に運び入れるという意味ではありません。たとえば寝具などはベッドの上に敷かなければなりませんし,衣類なども整理して箪笥にしまうといった作業を伴っています。時期的なものもあり,1年を通して使用するものを除外すれば大体のものは冬用のものだけでしたが,妹ひとり分の,通常より量が少ない引越しに伴う作業を行ったというように解釈してくれた方が,実情には近かったと思われます。妹の部屋は2階ですが,すでに説明したようにエレベーターがありますので,搬入はそれほど大変ではありませんでした。
 Kさんと母が親しくなったのは,単に同僚であったということだけでなく,母と同様に特殊学級,現在の特別支援学究を担当していたということもありました。このホームで暮らしている人のひとりは,かつてのKさんの教え子であったということが,これは偶然ではありましたが判明することになりました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第三部定理二〇&&妹の理解

2018-07-29 19:53:24 | 哲学
 第三部諸感情の定義一一で示されている嘲弄という喜びlaetitiaは,喜びとしてはあまり基礎が固いものとはいえません。これはこの感情affectusが,だれかを憎んでいなければ発生し得ない感情であるということに由来します。だれも憎んでいなければだれかを嘲弄し得ないということは,嘲弄の定義Definitioそのものから明白でしょう。
                                
 憎しみodiumがなければ存在し得ないような喜びについて,もっと一般的な形で示している定理Propositioがあります。それが第三部定理二〇です。
 「自分の憎むものが破壊されることを表象する人は喜びを感ずるであろう」。
 憎んでいるものが破壊されることで感じられる喜びですから,もし何も憎んでいなければこの喜びが人のうちに発生し得ないことは明白です。
 この定理の証明Demonstratioは容易です。
 第三部定理一三により,僕たちは僕たちに悲しみtristitiaを齎すものを表象すれば,そのものの存在existentiaを排除する事物を表象しようとするコナトゥスconatusが働きます。しかるに憎しみは第三部諸感情の定義七によって悲しみの一種なのですから,僕たちが憎んでいるものは僕たちに悲しみを齎していると表象しているものです。ですからそれが破壊されることを表象するimaginariこと,他面からいえば僕たちが憎んでいるものの存在を排除するものを表象することは,僕たちに喜びを齎します。なぜならそれは単に憎しみという悲しみが除去されているということではなく,悲しみを齎しているものの存在が排除されているということであり,こうした表象imaginatioは第三部定理一三で示されているようなコナトゥスを促進していると考えられるからです。
 したがって,この種の喜びは憎しみという悲しみなしには存在し得ない喜びです。つまり悲しみがあることによって発生し得る喜びです。このために喜びとしての基礎はあまり固くないのです。

 契約はしたもののなかなかその後の連絡がありませんでしたので,僕と母はやきもきしていました。契約書を交わしたのが4日でしたから,9日が経過していたわけです。妹の必要な荷物はこれより後ならばいつ搬入してもよいということでしたので,日時はこちらから指定させてもらいました。
 12月14日,木曜日。荷物の搬入の日時が決定していましたので,この日にその荷物を運搬してもらう業者を決定しました。
 12月15日,金曜日。妹の通所施設での保護者会がありました。これは母が行きました。荷物を搬入してしまえば妹もグループホームで生活するようになり,その場合は日野にある施設に通うことになります。ですからこの施設の保護者会に参加するのはこれが最後でした。そういう理由もあって母は自分が出向き,お礼や挨拶をしておきたいと思ったようです。少なくともこの頃の母は,これくらいの体力はありました。
 12月16日,土曜日。妹の土曜出勤でした。土曜日はガイドヘルパーによるサービスがありませんから,これは僕が送りました。この日はクリスマス礼拝とパーティーが開催されましたが,参加したのは妹だけです。新しく通うことになる施設にも,名称は異なりますがこの土曜出勤に該当するものがあります。ただ,この施設での土曜出勤は妹にとってこれがラストでした。僕たちは妹に対して,11月14日に見学に行ったグループホームで暮らすようになるということ,またその場合には同じ日に見学に行った日野の施設で作業を行うようになるということは説明していました。ただ,知的障害者ですから,それをどこまで把握しているのかということは不分明なところがありました。もうすぐこの施設に通っている人たちや職員とはお別れになるということは理解していた筈ですが,たとえばここでの土曜出勤はこれが最後であるというような細かいことまできちんと理解できていたのかどうかは,今となっても分かりません。
 12月19日,火曜日。この日が僕たちが荷物の搬入に指定した日でした。まず依頼した業者に来てもらい,すべての荷物は先にグループホームの近辺まで持っていってもらいました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王座戦&手帳の提出

2018-07-28 18:59:21 | 将棋
 昨日の第66期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は渡辺明棋王が0勝,斎藤慎太郎七段が1勝。
 振駒で斎藤七段の先手になり角換り相腰掛銀。渡辺棋王が銀を交換して,その銀を自陣に打つという新手を披露。結果として先手玉は薄く,後手玉は銀矢倉の堅陣になり,そこから攻め合いになりましたので,この新手はうまくいき,後手に分のある将棋で進展していたように思います。
                                     
 先手が銀を被せていった局面。ここから後手は☖6七との攻め合いを選択し☗4二銀不成☖6六とと進めたのですが,そこで☗3五桂と打つ手が生じました。後手はこの順は避けるべきで,☖6七ととするところか☗4二銀不成とされた局面では一旦は受けておかなければならなかったようです。
 後手は☖5六とと寄って☗3八玉の局面で☖3二金と受けましたが☗3三銀成☖同金のときに☗4三金と詰めろに打たれました。
                                     
 第2図となっては後手は受け難いとみて☖4七銀と打ちましたがこの攻めは足りず,先手が勝っています。どうも☗3五桂と打たれた局面では後手は修正ができなくなっているようです。
 斎藤七段が挑戦者に。タイトル戦は昨年度の棋聖戦以来となる2度目の出場。第一局は9月4日です。

 12月6日,水曜日。午前中にO眼科に眼科検診に行きました。検診では最初に視力検査と眼圧の測定を行います。この日はそのときに糖尿病眼手帳の提出を求められました。これは普段はO先生による診察の終了後に,O先生から提出を求められるもので,この日は異例だったことになります。実際にこの日より後にも僕は網膜症の検査をしていますが,その段階で手帳の提出を求められたことはありません。
 視力と眼圧の測定の後,網膜症の検査の散瞳のために目薬を点眼します。点眼してから瞳孔が開くまでには時間が掛かりますので,常に待ち時間が発生します。この日はこの待ち時間の間に,同じビルの中にあるI歯科に赴き,歯科検診の予約も入れておきました。検査の方は異常なし。この日は空いていて,午前11時35分に帰宅することができました。帰宅したとき,11月24日に契約した新しいガス台の設置の作業中でした。
 12月8日,金曜日。眼科検診の中途で予約を入れた歯科検診がこの日でした。予約は午前10時。クリーニングをしただけです。
 12月10日,日曜日。母と妹が美容院に行きました。前回の11月12日は母が行くことができず,僕が妹に同行したのですが,この日は母自身が行って,自分の髪を切ってもらうまでの体調に戻っていたということです。10月は来日中だった伯母が妹を連れて美容院に行っていますので,母が美容院に行くことができたのは9月10日,すなわち大腸癌を切除する手術をする前以来のことでした。美容師と母は単に仕事上の関係でなく,友人といっていい間柄です。11月に僕が妹を連れて行ったとき,母のことも尋ねられたので,抗癌剤を用いた延命治療については断念することになったということは伝えておきましたが,この日は直接会ったわけですから,僕の想像ではありますがもっと詳しい話がされたのではないでしょうか。
 なお,美容院の予約は午後1時が通例ですが,この日は午後2時でした。これは1時には先約があったためです。
 12月13日,水曜日。妹が入所することになるグループホームから電話がありました。これは妹の荷物の搬入に関する件でした。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南三条⑥&往復

2018-07-27 18:58:44 | 歌・小説
 で知った意外な事実によって,歌い手は新たな感情に捉われることになります。
                                     

     そんなこと知らなかった
     彼といると思ってた
     ずっと憎んで来た無駄な日々返してと
     何を責めればいいの


 で歌っていたように,歌い手は相手の女のことを憎んでいました。本当は相手の女は自分にとって憎まれなければならないことをしたわけではないということを知りつつ憎んでいました。それは恋人を失った心の傷は,そうした八つ当たりでしかない憎しみによってしか癒したり贖ったりすることができなかったからです。ところがその男と今もいると思っていた女は,そうした八つ当たりの憎しみすら成立しない女であったのです。だから歌い手の女には,その憎しみ自体が無に帰し,憎んでいたこれまでの日々が無駄だったと感じられました。
 歌い手は何を責めればよいのかと問うています。しかしそもそも,憎んでいた日々が無駄でなかったとしても,相手は自分の憎しみを受けなければならない存在ではないということは知っていたのですから,この問いの答えは難しくありません。

     許せないのは許せなかったのは
     あの日あいつを惚れさせるさえ
            できなかった自分のことだった


 最終的には責任はすべて自分に帰ってきます。この「南三条」の終幕から,僕は「ノスタルジア」や「かもめの歌」の一節を連想します。

 通所施設と僕の家との往復は,まず僕の家の最寄りのバス停から根岸駅に出て根岸線で洋光台に行き,駅前からバスに乗るのが最速です。ですが通所施設と洋光台駅を結んでいるバスは上大岡駅の発着なので,最寄りのバス停から上大岡駅まで出て,バスを乗り換えるという方法もあり,僕は基本的に,というのはよほど急がなければならない場合を除いてという意味ですが,こちらを採用しています。その理由はふたつあって,ひとつはこれらはいずれも横浜市営の路線バスで,僕は市営バスについては定期券を持っていますから,定期代を別にすれば乗車賃を払う必要がないということです。もうひとつは,妹と一緒の場合,バスに乗る方が電車に乗るより楽ということです。改札からホームまでの往復というのは,意外と負担がかかるのです。
 ですからこの日も僕はひとりでしたが,上大岡経由でバスで行き,同様にバスで帰りました。ただ,契約を終了した時点で正午が近くなっていましたから,上大岡で昼食を摂ってから帰宅しています。帰ったのは午後1時45分で,この時点では呼吸器科の診察を終えた母は先に帰っていました。
 12月5日,火曜日。お寺の住職の奥さんが来訪しました。お寺とはK伯母が亡くなってからは,別の信者を通して連絡し合っていたのですが,その信者の方が体調を崩され,この時期にはこの奥さんがお寺と僕の家の連絡係のような役回りになっていたのです。このときの来訪の意図は,この年にお寺のために要した費用の清算がひとつと,もうひとつは今後のことについてです。その中にはもちろん,母は治癒の見込みはなかったわけですから死んだときの話も含まれていましたし,また,お寺に新たに建立される予定の会堂,これは納骨堂を兼ねたものですが,その会堂の話なども含まれていました。
 奥さんと話をしたのは基本的に母で,母は会堂が建立され,そこに納骨堂ができたら,今は日野公園墓地にある僕の家の墓は返し,入っている遺骨,父と父の両親の3人の遺骨は納骨堂に移し,自分と僕と妹もそこに納骨してもらうということを希望していました。納骨のためには費用が必要で,そうした話もあった筈です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

習志野きらっとスプリント&契約

2018-07-26 19:03:02 | 地方競馬
 北海道から1頭,笠松から1頭,兵庫から1頭,高知から1頭,佐賀から3頭が遠征してきた昨晩の第8回習志野きらっとスプリント
 好発はエイシンテキサス。これを内からラディヴィナが抜き去るとさらに内から押していったフラットライナーズがまた抜き去ってハナを奪う形に。クルセイズスピリツが追い上げてきてエイシンテキサスと並んで3番手。競り合いましたのでこの4頭から3馬身ほど間があってシュダイカが5番手。その後ろはアピア,サトノタイガー,サクラレグナムの3頭で併走。さらにタイセイバンデットが続きその後ろがサトノスピードオー,モンドール,ワイルドジークの3頭になり,5番手からここまでは一団。離れて後方2番手がコウギョウダグラス。さらに離れた最後尾にジョーオリオンという隊列。最初の400mは22秒8でハイペース。
 4コーナーを回っても先頭はフラットライナーズ。これに並び掛けようと単独の2番手にクルセイズスピリツ。後退加減のラディヴィナと内を回って追い上げてきたアピアの2頭が3番手。直線でクルセイズスピリツがフラットライナーズを抜きにいくと,アピアがその2頭の間に進路を選択。フラットライナーズは一杯で,クルセイズスピリツとアピアの争いにはなりましたが,脚はアピアが断然で,楽に内から先頭に立ち優勝。クルセイズスピリツが1馬身差で2着。1馬身差の3着争いは差してきたサクラレグナムとサトノスピードオーの2頭で接戦。内のサクラレグナムが3着で外のサトノスピードオーはハナ差の4着。
 優勝したアピアは1月の船橋記念以来の南関東重賞制覇で通算3勝目。その後,3月にA1のレースを使って勝ち,東京スプリントは9着でした。ただ,地方馬だけでの争いでは能力的にはっきりと上位ですからここは順当な優勝。東京スプリントは僕自身は意外なほど負けてしまったという印象。船橋のキタサンミカヅキほどの力はないようですが,重賞でももう少し上位を争えるくらいの力はあるのではないかとみています。母の父はアグネスタキオンビューチフルドリーマーオーマツカゼの分枝で,母のはとこに2011年に目黒記念と函館記念を勝ったキングトップガン。馬名の英語表記はAppearです。
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は東京湾カップ以来の南関東重賞29勝目。習志野きらっとスプリントは初勝利。管理している大井の藤田輝信調教師は南関東重賞9勝目。習志野きらっとスプリントは初勝利。

 妹のグループホームおよび通所施設への契約には僕が行きました。先方は,契約はグループホームで行ってもよいし通所施設で行ってもよいということでしたので,僕の方で通所施設で行うようにお願いしました。これは場所でいえばグループホームよりも通所施設の方が近いので,僕にとって便利であったという理由だけです。グループホームの利用者は自動車で通所施設に送ってもらうということはすでに説明した通りです。ただ,グループホームの利用者数に対して自動車の数が十分ではないので,何回かに分けて往復するということでした。そのために,グループホームの利用者の全員が通所施設に到着するのは午前10時を過ぎ,したがってそれまでは十分な時間を取れないということでしたので,10時半という時間が設定され,僕はそれに間に合うように通所施設に向いました。
 契約は通所施設のものとグループホームのものが別々にあり,つまり同じような内容のものが2通ありました。また,それらは先方で管理するものとこちらで保管するものがありましたから,要するに同じような内容のものが4通あり,その4通の組がまたそれぞれ何通かありましたので,説明を受けるだけでなく,その契約書にサインするだけでもそこそこの時間を要しました。なお,それらの契約書の説明をしてくれたのは,この時点でのグループホームの責任者の方でした。契約はグループホームとだけするわけではなく,通所施設ともしたのですが,通所施設の専属の担当者はこの契約書のサインには参加していません。これはこのときだけのことではなく,僕は通所施設の方とは顔を合わせて挨拶をするというようなことは当然ながらありますが,込み入った話をするということはその後も1度もありません。基本的に連絡を取り合うのは,グループホームで妹を担当する担当者です。
 この日は契約だけでなく,細かい打ち合わせもありました。たとえば妹は通院がありますが,それをどうするのかとか,妹を家からあるいは家に送迎するときに,グループホームに送迎するのか通所施設に送り迎えをするのかといったことなどです。結局,この契約は正午近くに終わりました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王位戦&高額医療費給付金

2018-07-25 19:18:03 | 将棋
 有馬温泉で指された第59期王位戦七番勝負第二局。
 豊島将之棋聖の先手で菅井竜也王位のノーマル向飛車。先手が銀冠穴熊,後手が銀冠の持久戦になりました。
                                     
 後手の☖4五歩に先手が2八の飛車を寄った局面。ここから後手は☖4六歩☗5六銀☖4七歩成☗同飛☖2八角成と馬を作りにいきました。
 これには実戦のように☗4三飛成と切ってしまい☖同金に☗3二銀と両取りに打つ手があります。後手は☖5一飛と逃げ☗4三銀成で先手の駒得になりました。ただこれは見落とすような手順ではあり得ないので,後手はこれでもやれるとみていたのでしょう。
 後手が☖4九飛と打ったのは,予定の手順だったと思われます。先手はそこで☗5二金と飛車取りに打ちました。
                                     
 第2図から後手は☖4三飛成と成銀を取って☗5一金に☖5五歩と突きました。ですが☗4四歩と打たれて困ったようです。
 これは☖同龍と取ってしまうと☗6五歩と突かれて銀を取ることができなくなります。なので☖4二龍と逃げ☗5二飛☖同龍☗同金と飛車を交換してから☖5六歩と取ったのですが☗4三歩成とと金を作られてしまいました。
                                     
 後手も☖5七歩成でと金はできますがそこで☗5三とと寄った形は金がいる分先手の攻めの方が強力です。よって第3図は先手が優勢でしょう。
 豊島棋聖が勝って1勝1敗。第三局は来月1日と2日です。 

 11月28日,水曜日。磯子区役所へ出掛けました。これは母の高額医療費給付金を請求するためです。小脳出血で入院していたときも給付を請求したことがあります。ただその当時は,先に医療費が高額になり得る旨を届け出ておかなければなりませんでした。ですが今回はその届け出はしていません。制度が変わったからかもしれませんが,たぶん母が高齢になっていたので,最初の届け出が不要になっていたものと思われます。何もしていなかったのですが,10月の医療費が高額であったので,給付金の請求が可能であるという主旨の手紙が届きましたので,その請求に行ったということです。10月は大腸癌を切除する手術があった上に化学療法も行いましたので,給付された額もまあまあのものでした。
 11月30日,木曜日。午前中に母がKさんと買い物に行きました。これは妹が入所するときに必要になる小物類を買うためでした。
 12月1日,金曜日。母は大腸癌を切除するために入院して以降は,家の2階に上がることはなかったのですが,この日に上がりました。妹の衣類の一部は2階にありますので,それを見て,入所に際して必要なものを確かめておきたかったようです。なお,入所施設を見学したときに,妹が入所する部屋は建物の2階にあるという意味のことをいいました。ですが施設は2階建てですがエレベーターが備え付けられてあり,そのときはそれを利用したのです。同様に病院でも7階とか5階に行っていますが,それもエレベーターの使用。僕の家はエレベーターがあるわけではありませんから,これは階段を使って2階に上がったという意味です。一時的なものであれ,母の体力はそこまで回復したのです。
 12月4日,月曜日。この日が電話で連絡を受けていた,グループホームが正式に契約を交わしたいと指定してきた日でした。ただ,この日は母の呼吸器科の診察が入っていましたので,母は行くことができません。本来なら僕がその通院にも同行するところですが,僕は契約の方を優先することにして,通院はKさんに同行してもらいました。呼吸器科はレントゲン撮影と診察で,肺の癌には進捗はありませんでした。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不死鳥杯&2017年11月の通院

2018-07-24 18:57:50 | 競輪
 福井記念の決勝。並びは山崎‐成田の福島,山中‐桐山の南関東,脇本に中川,松浦‐桑原の中国で武田は単騎。
 中川がスタートを取って脇本の前受け。3番手に山崎,5番手に松浦,7番手に武田,8番手に山中の周回。残り2周のバックから山中が上昇。ホームの手前で脇本を叩きました。桐山の後ろに続いたのが松浦で,武田もこのラインを追走。叩かれた脇本が引いたので武田の後ろに山崎で8番手に脇本という一列棒状に。山中はここからぐっとペースを落としました。バックで山崎が上昇。脇本も続きました。山崎が山中を叩いたあたりで打鐘。脇本は外を発進。ホームで山崎を叩いてかまし先行に。この先行に3番手となった山崎は離れてしまい,バックの時点で優勝争いは後ろを千切った脇本と中川に絞られました。しかし直線に入っても中川はほとんど差を詰められず,危なげなく押し切った脇本が優勝。マークの中川が1車身差の2着でこのラインのワンツー。山崎は第二先行のような形態のレースでしたが,後ろから捲り上げようとする選手と山崎マークの成田のもつれがあり,そのまま8車身差の3着に流れ込みました。
                                     
 優勝した福井の脇本雄太選手は昨年9月のいわき平のFⅠ以来の優勝。記念競輪は昨年の福井記念以来で通算6勝目。2014年2015年も優勝していて,地元の福井記念は連覇で4勝目。ここは現状の力量がほかの自力選手と違いすぎるので,よほどレースで失敗しない限り,脇本か中川が優勝するだろうとみていました。ほかに先行を得意とするタイプの選手が不在でしたから,前を取って押さえられたらあっさりと引き,自分のタイミングで仕掛けるというレースになりましたので,マークの中川も寄せ付けない順当なレースに。ビッグを制覇する日もかなり近付いていると思います。

 HbA1cは6.9%になっていました。これは10月の通院のときと同じ数値です。ですが昼食前と夕食前には低血糖を示す数値が出ていました。サマリーによれば昼食前は5.0%が低血糖で,夕食前は10.0%が低血糖でした。なおここでいう低血糖は,血糖値が70㎎/㎗未満の場合で,それ以外,すなわち朝食前と就寝前は低血糖は0でした。主治医はHbA1cは上がっても低血糖の頻度を抑制することを目標とするタイプでした。そして低血糖が発症する時間帯が限定されていましたから,超即効型のインスリンの注射量を減らすように指示が出されました。持続効果型のインスリンはそれまでと同様に0.11㎎の注射を続け,超即効型については朝食前に0.11㎎,昼食前が0.06㎎,夕食前が0.08㎎の注射に変更するというものです。実際に僕はこの量で注射をするようになりました。
 この日にほかの結果で異常が出ていたのはLDLコレステロールだけで,64㎎/㎗で下限値を下回っていました。これも10月に続いての異常ですが,これについては何もいわれていません。
 次回の通院が翌年,というのは今年のことですが,1月に設定されました。これは何度かいっていることですが,血糖値を記入する自己管理ノートは,僕の場合は1月から12月で1冊が終了するようになっています。したがって年明けの分は記入できませんので,このノートをもらいました。
 いつものように薬局に寄ったのですが,この日はインスリンの在庫が足りていませんでした。これはオーダーはしていたのだけれども,この日は診察が早く始まった関係で薬局に寄る時間もいつもより早まったため,まだ到着していなかったようです。僕の通院は月曜なので,たぶん前日や前々日の土曜や日曜に注文しておくのは難しいのでしょう。この日のうちに配達してくれるということでしたので,代金だけ支払い,配達を依頼して帰りました。僕が帰宅したのは午後2時20分でした。インスリンはこの日の夜に配達されました。
 またこの日,14日に見学した入所施設から電話がありました。入所の正式な契約を12月4日に行いたいというものでした。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メシドール賞&ガス台

2018-07-23 19:18:38 | 海外競馬
 日本時間の昨日の深夜にフランスのメゾンラフィット競馬場で行われたメシドール賞GⅢ芝1600m。
 ジェニアルは逃げるレース。出走馬が4頭と少なく,半馬身差の外に1頭,ジェニアルの直後に1頭,2番手の馬の直後に1頭いう,4頭が2列になる一団で進展。動きがないまま勝負処に。画面の角度があるかもしれませんが,2番手の馬が一旦は先頭に立ったように見えました。ですがそこからジェニアルが差し返すと,その差し返したときの差をそのまま保ってフィニッシュ。逃げて差し返すという競馬で優勝しました。
 優勝したジェニアルは昨年3月デビュー。7月に未勝利戦で初勝利を上げると続く500万も連勝。しかし1000万は2戦して勝てず,この夏からまた500万に降級していた馬で完全な格下。日本では重賞に挑戦するというレベルに達していませんでした。ただ,ヨーロッパのコースへの適性が高いのではないかとみて,果敢に挑戦。それで結果を出したのですから,陣営の慧眼を褒め称えるほかないでしょう。出走馬が4頭とはいえ,重賞の勝ち馬が2頭いて,GⅢレベルには十分に達している競走でした。このように日本では下級条件に甘んじているけれども,条件を変えれば重賞でも通用という馬はほかにもいる筈ですが,海外遠征となると費用の問題があり,なかなか踏み切れない事情も理解できます。その意味では馬主の決断も高く評価しなければならないでしょう。父はディープインパクト。12代母がパロクサイドの8代母にあたります。Genialeはイタリア語で華麗あるいは天才的。
                                     
 日本馬による海外重賞制覇は昨年のクイーンエリザベスⅡ世カップ以来。フランスでは一昨年のニエユ賞以来。メシドール賞は初勝利。騎乗した武豊騎手は一昨年のイスパーン賞以来の海外重賞制覇。管理している松永幹夫調教師は一昨年のUAEダービー以来の海外重賞3勝目。フランスでは初勝利。

 11月24日,金曜日。僕の家のガス台はリース契約になっています。そのリースの期限が迫っていたので,契約を続けるためにガス会社の職員が家を訪れました。契約はそのまま維持することににしたのですが,それまでに使っていたガス台と同じタイプのものはもう存在しないということなので,これまでとは異なる新しいものを取り付ける必要が生じました。その取り付けはこの日のうちにはできないので,日を改めて取り付けることになり,その日程を決めました。
 11月25日,土曜日。妹の土曜出勤でした。土曜日はガイドヘルパーに送ってもらうことができないので,僕が通所施設まで送りました。この日は施設のバザーでした。母は痔の薬の効果が出始め,この日からそれ以前と同じくらいまで動けるようになりました。
 11月26日,日曜日。ガイドヘルパーを利用しました。これはカラオケです。9月までは原則的に月に2度,ガイドヘルパーを利用していたのですが,10月からは月に1度の利用になりました。これは通所施設までの送りのサービスを導入したからで,利用できるサービスには限度があるためです。なお,このように利用するサービスの内容が変更になりますと,実施するサービス利用者証という,保険証のような証書も新しいものになります。妹はこの後,グループホームに入所することになるのですが,そのときにもこのサービス利用者証は変更されました。変更の手続きはサービスを実施する側で行なってくれますので,僕たちに負担が掛かるわけではありません。
 11月27日,月曜日。内分泌科の通院の日でした。
 この日は中央検査室で採血を待っている患者が7人もいました。これはとても珍しいことです。時間に余裕がありましたから,採尿して注射針の処理を行い,それから採血という順序になりました。この後,院内の食堂で昼食です。
 診察の予約は午後1時でした。通例でいうと,中央検査室が混雑しているときは内分泌科の診察も混雑していて,待たされるということが多いので,この日もそうなるのではないかと思っていたのですが,1時になるとすぐに診察が開始になりました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第三部諸感情の定義四&麻薬の入手

2018-07-22 19:00:40 | 哲学
 第三部諸感情の定義五の軽蔑は,ある事物の表象imaginatioであり,感情affectusではありません。これと同じように,感情ではないものの諸感情の定義に示されているある種の事物の表象があります。これは軽蔑に対立するような表象のあり方で,驚異と命名され,軽蔑のひとつ前の第三部諸感情の定義四で明らかにされています。
                                
 「驚異とはある事物の表象がきわめて特殊なものであってその他の表象と何の連結も有しないために,精神がその表象に縛られたままでいる状態である」。
 僕たちは大抵の場合は,ある事物を表象すればその表象像imagoから別の表象像に移行し,その別の表象像からさらにまた別の表象像へと移行するということを延々と繰り返します。こうしたことはスピノザがいう自然の秩序ordo naturae,知性の秩序とは逆の意味における自然の秩序に応じて生じます。知性の秩序は万人に共通ですが,自然の秩序はそうではないので,たとえばAという人間はXからYへと移行する,つまりXによってYを連想するけれども,Bという人間はXによってZを連想するということも起こり得ます。
 こうした連想は,AについていえばかつてXとYを結び付けたことがあるということから生じ得るのであり,BについてはXをZと結び付けいたことがあるということから説明できます。しかしここにAがSを表象し,このSをほかの一切の表象像と連関させることが不可能なら,AはSから何も連想できず,Sを表象した状態に縛り付けられます。これがスピノザがいう驚異であり,同時にそれが発生する簡単な仕組です。
 ですから驚異は表象したものに対しては肯定的でもあり得ますし否定的でもあり得ます。たとえばあまりに聡明であることを発見したがゆえに驚異するなら肯定的ですが,あまりに残虐であることを発見したがゆえに驚異するなら否定的でしょう。一般的には前者は尊敬といい,後者は戦慄というのが的確かと思いますが,その表象像に縛り付けられてしまうという点において,尊敬も戦慄も同じように驚異であるのです。

 11月20日,月曜日。母はKさんと本牧まで買い物に出掛けました。本牧は根岸駅まで出て,また乗り換える必要がありますが,このときもバスを使っています。このときに買ったのは,妹が入所施設に入ったときに必要になる寝具でした。寝具は重いですから持ち帰ることはせず,配達を依頼しています。
 11月21日,火曜日。この日も母は夕食の支度をするなど,この時点で自身にとって可能な家事をこなしていましたが,僕が見ている限りではそれまでより辛そうにしていました。ただしそれは癌の影響だったわけではなく,痔が出てしまったからだそうです。
 11月22日,水曜日。消化器内科の通院日でした。この日は11時半の予約でしたが,実際に診察が始まったのは正午を過ぎてから。この日はとくに何かするということはなく,主治医と話をしただけでした。前にもいったように主治医は母が延命治療をするべきと考えていましたから,このときも化学療法を勧められはしましたが,僕たちはその治療を断念するという方針を変更する気はないということを伝えました。食堂で昼食を摂り,午後1時15分に帰宅しました。薬の処方はありましたので,その後で僕は薬局へ。ついでですから痔の薬も買い求めました。これは注入軟膏です。痔の薬はいろいろと種類がありますが,注入軟膏にしたのは母がそれを所望していたからです。
 父も同じように横行結腸癌は末期,母よりもずっと進捗した状態で発見され,最終的に延命治療が不可能な状態になってしまいました。その後,癌による痛みを和らげるために麻薬を処方されています。このとき薬局で担当していた薬剤師から,今後に関して何か心配な点はないかということについて尋ねられましたので,ゆくゆくは麻薬が処方されるかもしれないが,それをこの薬局で入手することが可能であるかどうかを尋ねておきました。答えは,ここでも麻薬を処方することは可能であるけれども,すぐに処方することは難しいという,やや曖昧なものでした。僕は入手できるという意味に解したのですが,なぜこのような答え方をしたのかは,後に実際にそれを処方されたときに理解することになりました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1993年の女子プロレス&裁判員

2018-07-21 19:05:50 | NOAH
 『1964年のジャイアント馬場』を書いた柳澤健には『1993年の女子プロレス』という著作もあります。いずれ詳しく示しますが,僕は学生の頃は女子プロレスも観戦していました。1993年は社会人1年生で,時期が重なる部分もありますので,この本も読んでみました。
                                     
 元は2011年に単行本として刊行されました。僕が読んだのは2016年に単行本を公刊したのと同じ双葉社から発売された文庫版です。一部に加筆と訂正があるとなっていますが,それがどの部分であるのかは,僕は単行本は所有していないので不明です。
 『1964年のジャイアント馬場』は柳澤が独自に取材したものをまとめた一冊です。『1993年の女子プロレス』はそれとは大幅に異なっていて,むしろ選手や関係者へのインタビュー集といっていいでしょう。第1章から14章まではすべてインタビューで,順に,ブル中野,アジャ・コング,井上京子,豊田真奈美,伊藤薫,尾崎魔弓,唯一スタッフとして登場するロッシー・小川,ジャガー横田,デビル雅美,ライオネス飛鳥,長与千種,里村明衣子,広田さくら,神鳥忍です。柳澤は北斗晶にもインタビューをしたかったようですが,北斗が拒否したようで,最終章は北斗について柳澤自身が書いています。さらに巻末に里村とファン代表のような形の雨宮まみ,柳澤による三者対談が収録されています。
 僕は女子プロレスを観戦していた時期はとても短く,ジャガーやデビル,飛鳥や長与の頃は,テレビ放送を見ることはありましたがライブで観戦したことは一度もありません。また里村や広田になると生観戦はおろかテレビ放送も見たことはないです。ですから僕がこの本について書けることは限られるのですが,内容には興味をそそられる部分もありましたから,それは何回かに分けて掲載していくことにします。

 11月15日,水曜日。僕に1通の手紙が届きました。これは裁判所からのもので,抽選で僕が裁判員の候補者に選ばれたことの通知でした。これは翌年,つまり今年のことですが,僕が裁判員になる可能性があるということを知らせるものです。現時点ではちょっとした動きがあったのですが,そうしたことを具体的にどこまで記すことが許されるのかは不明ですので,もし今後,もっと大きな動きがあったとしても,ここに書くことは控える可能性があることをあらかじめご了承ください。
 11月16日,木曜日。母が買い物に行きたいと言いましたので,昼食後にふたりで出掛けました。根岸駅までですが,往復ともにバスを使っています。母がバスに乗ったのは,大腸癌を切除する手術のために入院した日,具体的にいえば9月29日以来のことです。この時点で母の体力はそこまで回復していたことになります。なお,このときに買ったのは,妹が入所するときに必要になるいくつかの備品と,母の化粧品などでした。もちろん荷物は僕が持ちました。というか,そのために同行したわけです。
 また,この日の夕食にKさんを招きました。すでにいったように11月6日からはまた母が夕食の支度をしています。Kさんはとても親しい友人なので,客人というのとはちょっと違うのですが,Kさんを招いての夕食も可能であると母自身も判断していたということです。たぶん14日に通所施設とグループホームの見学に行って,見学のためにそこそこは歩いたのですが,それでもあまり問題が発生しなかったということが,母の自信になっていたのではないかと僕は推測しています。
 11月19日,妹のピアノのレッスンがありました。これは午後2時から。妹はいつからになるかはまだ分かりませんでしたし,正式に契約をしたというわけでもありませんが,グループホームに入所するということはほぼ決定していました。なので12月はどう予定を立てればよいのかがいまひとつ分からない状況でしたので,12月はレッスンはしないということになりました。他面からいえば,これが妹にとって最後のレッスンになってしまう可能性があったということです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

論者の評価&見学

2018-07-20 18:57:07 | 歌・小説
 伝記作家の評価について記述したことは,伝記を読む場合に特有に注意しなければならないことであるとは必ずしも限りません。評論家が作家の作品を評論する場合にも,先に作家に対するある評価があり,これに合わせて作品を評論するという場合もあるからです。そういう傾向を有する評論はすでに論評してありますので,その特徴を再掲しておくことにしましょう。
                                     
 宮井一郎は,利益社会と人格社会,我執と自由との対立の中で,漱石は人格社会および自由に重きを置いていたと評価しています。この評価は漱石の作品から結論づけられるようになってはいますが,実際には評価の方が先行していて,それに合わせて評論しているのだと僕は解します。『漱石の世界』はそういう評論集であると僕は考えます。この本は評論集であって,漱石の伝記ではありません。実際にこの本の中で漱石の評伝に関連している事柄はほとんどないといっていいです。ですがもし宮井が漱石の評伝を記述すれば,きっと漱石は人格社会と自由を重視するひとりの人間として描かれるでしょう。宮井が漱石の伝記を書けばどのような内容になるのかということはおおよそ推測できるのであって,その推測された内容は,評伝とは無関係な作品評論とも関係するのです。
 『ドストエフスキー『悪霊』の衝撃』で亀山郁夫と対談しているリュドミラ・サラスキナは,明らかにドストエフスキーをひとりの人間として神格化しているように僕には思われます。したがってもしサラスキナがドストエフスキーの伝記を書いたなら,ドストエフスキーはさぞかし人格者として描かれることになるだろうと思われます。こうした神格化はサラスキナがドストエフスキーの作品を読解するときにも影響を与えるのであって,サラスキナのドストエフスキー論はおそらくその点を度外視しては評価できません。つまりサラスキナのドストエフスキー観は,先行条件として作品の読解に影響を及ぼすのです。
 このように,論者の論評対象に対する見方は,論評そのものに影響します。蓮実重彦の『夏目漱石論』の序章で,漱石と呼ばれる人影との遭遇をひたすら回避しなければならないといわれているのは,そうした影響を回避するためでもあります。どこまで回避しているのかは,論評を理解する上できわめて重要な要素なのです。

 11月12日,日曜日。美容院の予約が入っていました。もし可能であれば母が行って自分の髪も切ってもらう予定でしたが,体力的に厳しいということで,僕が妹に同行し,妹の髪だけを切ってもらいました。切ってもらっている間に読書をしました。読書のためにまとまった時間を充てることができたのは,母の大腸癌の切除の手術中以来のことでした。美容院の予約は午後1時。僕たちが帰宅したのは午後2時半。その後でKさんが来訪し,母と話をして帰りました。これは妹のグループホームの話が含まれていて,そのための協力を要請しました。
 11月14日,火曜日。この日は妹が入居することになるであろうグループホームと,その場合の通所施設の見学でした。この時点での妹の通所施設の担当の方が,自動車で家まで迎えに来てくれました。僕と母,そして妹の3人が同乗し,家を出たのは午前10時半です。まず,通所施設に向いました。通所施設の方の案内で,施設の中にどのような部屋があるのかなど,一通り案内してもらいました。この施設には,母が小脳出血で倒れたとき,妹が通っていた通所施設で妹を担当されていた方がいらっしゃいました。僕も妹の支援を決定する際に会ったことがある方でした。
 この後,同じ自動車でグループホームの見学に向いました。グループホームは2階建てになっていて,1階が男性用の施設,2階が女性用の施設です。グループホームは男性と女性が同居するということができない規定になっていますので,1階と2階は名目上は違った施設,1階が第一で2階が第二というようになっています。
 妹の入所が可能になったのは,空きができたからです。したがってその空いた部屋というのが妹の部屋になります。前に入っていた亡くなった方は,亡くなる直前に入居されたようで,テレビなど,わりと新しいものがそのまま置いてありました。遺族の方が後に入る方に寄付をするということでしたので,使わせてもらうことになりました。部屋は概ね6畳ほど。ベッドと箪笥はしつらえてありました。
 見学を終えて家まで送ってもらったのが午後1時前。妹はそのまま同乗して通所施設に行きました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒューリック杯棋聖戦&医師の勧め

2018-07-19 19:11:03 | 将棋
 17日に千代田区で指された第89期棋聖戦五番勝負第五局。
 振駒で羽生善治棋聖の先手になり角換り相腰掛銀。後手の豊島将之八段は4筋から仕掛けさせる順を選択しました。
                                    
 先手が4筋の歩を取り込み後手がそれを飛車で取った局面。ここで先手が☗4七角と打ったのが新手で,この局面を打開しようという意図の一手。
 後手は☖4一飛と引き上げ☗7五歩にも怯まず☖6三金と上がり☗7四歩☖同金と進めました。
 先手は☗4五桂と跳ねていますが,新手は事前の研究があった筈で,これは予定通りの進行だったのではないかと推測します。後手は☖4四銀と逃げました。
 先手は☗2四歩☖同歩の突き捨てを入れてから☗5五銀。金取りなので☖6五歩の受けは当然。先手はどちらの銀も取れますが☗4四銀とこちらを取ったので後手は☖同飛の一手。先手はそこで☗4六歩と受けました。
                                    
 たぶんここで受けるようでは先手の構想はうまくいってなかったのだと思います。後手は☖8六歩と反撃し,これで後手が有利に戦いを進めているということだったのではないでしょうか。終盤で千日手に持ち込めそうな局面を先手から打開するという不思議な順があったのですが,先手が千日手を狙っても後手は打開できたようなので,仕方なかったということだと思います。4四の飛車も展開的に好位置になったので,先手は4四ではなく5四の銀を取っておいた方がよかったのかもしれませんが,目立った悪手というのがあったわけではなく,うまく表現できませんがとてもきれいでさわやかな将棋という印象が残りました。
 3勝2敗で豊島八段が棋聖を奪取。ようやく待望の初タイトルを獲得しました。

 母はこの日もタクシーで僕と病院に来ました。消化器内科の主治医が言うには,そのくらいの体力があるのであれば,治療を行って延命を図るのが得策とのことでした。SOX+Bvによる治療は副作用が強すぎるので中止するとしても,従来より量を減らしても治療は可能であるし,ほかにも方法はあるので,化学療法に関しては継続するように強く勧められました。しかし母はもう化学療法を断念するという決意を固めていましたから,それらの提案についてはことごとく拒否しました。主治医は僕にも意見を求めてきましたが,僕は母の治療法に関しては母が決定するのが最善という考え方でしたから,母が決定したことに同意するということだけを伝えました。主治医はまだ諦めきれない様子ではありましたが,患者が拒否している治療を医師が独断で遂行することはできないということで,正式にこれ以上の延命治療は行わないということがここで決定しました。この後も何度か通院はあり,その際にもこの主治医は化学療法を行う気はないかということを確認してきました。それはやはり主治医として担当の患者である母は化学療法を行った方がよいという考えを,その後もずっと持ち続けていたからだと思います。当然ながら母は再開するつもりはありませんでしたから,この後もそれを拒否し続けましたし,僕もその母の判断を尊重し続けました。
 次回の予約を入れてこの日の診察は終了しました。会計の窓口へ行ってから食堂で昼食。昼食が終れば計算も終了していますから,支払いを済ませて帰宅しました。午後1時25分ごろのことでした。この日は母は僕につかまることなく歩くことができました。副作用からの回復はそこまで進んでいたのです。
 11月10日,金曜日。僕の家の近辺は,月曜,水曜,金曜の週3回,八百屋が自動車で移動販売にやってきます。母は以前はそれをよく利用していましたが,大腸癌を切除する手術を終えてからは途絶えていました。そしてこの日,実に久しぶりにその八百屋へ買い物に出ました。そもそも母は手術後は,通院以外の外出は一切していませんでしたから,それ以外の目的で久々に外出できたことになります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サマーナイトフェスティバル&化学療法室

2018-07-18 18:57:58 | 競輪
 16日に松戸競輪場で争われた第14回サマーナイトフェスティバルの決勝。並びは菅田‐渡辺の北日本,平原に中村,深谷‐竹内‐浅井の中部で古性と松浦は単騎。
 浅井がスタートを取って深谷の前受け。4番手に菅田,6番手に平原,8番手に松浦,最後尾に古性で周回。残り4周の3コーナーから平原が上昇。松浦と古性も続きました。ホームに入って平原が深谷を叩くと深谷はすぐに引いて平原は誘導の後ろに。古性の後ろの5番手に菅田が入り,深谷が7番手の一列棒状に。深谷はバックから外に持ち出し,山おろしをかけるように残り2周のホームから発進。平原は合わせていき,打鐘で竹内のところに飛びつきました。ちょうどコーナーに差し掛かるところでインの平原が番手を奪取。残り1周のホームにに入ると菅田が発進。平原のブロックは凌いだものの深谷の前までは出られず。しかしバックに入ってから自力で出ていた渡辺は深谷を捲って優勝。2周の先行になりましたがよく粘った深谷が1車身差で2着。渡辺の後ろにスイッチした松浦が8分の1車輪差で3着。
 優勝した福島の渡辺一成選手は昨年10月の寛仁親王牌以来の優勝でビッグ5勝目。サマーナイトフェスティバルは初優勝。このレースは深谷の先行が有力で,スムーズなレースになれば中部勢から優勝者が出るだろうと思われました。ただ,深谷が前で番手が竹内,3番手に浅井という並びになりましたので,竹内の位置に平原か古性が斬り込むということは大いに考えられ,その場合には菅田が不発というケースは考えにくく,瞬発力は随一の渡辺の優勝はあり得るとみていました。このレースの深谷はかなり強い内容でしたから,これなら中部勢は浅井が番手の方がうまく対応できたのではないかと思います。平原の斬り込み方も巧みでした。

 5階に向ったのは放射線治療を行う部屋,化学療法室があるからです。これは1クール目の退院の前日のオリエンテーションがあったときに説明しました。母はこの時点では飲み薬の服用を中止していましたし,どのような方法であれ抗癌剤による治療を再開するつもりはありませんでした。僕もそれを理解していました。ただ,この通院は前回の退院時に定められていたもので,そのときはまだ治療を断念する前でしたから,採血をしたら化学療法室で放射線治療を行うということになっていて,予約票にもそのような指示が記載してありました。なので僕たちはその指示に従ったのです。
 化学療法室で僕たちを迎えたのは,オリエンテーションのときに僕たちを担当した看護師でした。まずこの看護師による問診がありましたが,飲み薬の服用を中止してもよいということは,10月27日に母を診察してくれた医師の許可を得てのものでしたから,母がそれを飲んでいないということは看護師にも伝わっていました。また,そのオリエンテーションのときには,単に治療のことだけでなく,延命治療中の生活に関する話もあったのですが,この日もそれは同様で,オリエンテーションからこの日までの生活の様子なども尋ねられ,母はそれにも答えました。たとえば妹がグループホームに入所することができそうだというようなことも伝えました。本来なら放射線治療を行うところですが,この日は行わずに中断するという話が最後に看護師からありました。看護師が中止とは言わずに中断と言ったのは,おそらく中止を最終的に決定するのは消化器内科の担当医なので,看護師の一存で中止すると言うわけにはいかなかったのだろうと推測します。
 放射線治療は行わなかったので,僕たちはそのまま1階の消化器内科に向いました。この診察の予約は午前11時半になっていましたが,実際に診察が始まったのは12時15分くらいでした。
 薬を飲むのをやめたことはもちろん医師も知っていました。ただ,前にいったかと思いますが,この医師は延命治療をすることを強く勧めるタイプの医師でした。とくに母がそれをしないのはもったいないと思っていたのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラチナカップ&自己の有

2018-07-17 19:07:33 | 地方競馬
 昨日の第1回プラチナカップ
 10頭のうち5頭が同じ厩舎ということで作戦は難しいところもあったと思いますが,最内枠でしたのでウェイトアンドシーの方が逃げ,ノブワイルドが2番手に控える形になりました。3番手はニシノラピート。4番手にキタサンミカヅキで5番手がリアライズリンクス。その後ろはインフォーマーとアンサンブルライフで併走。ここから大きく離れてトキノエクセレントとジョーオリオン。テムジンはさらに大きく離されての追走に。最初の600mは35秒6のハイペース。
 逃げたウェイトアンドシーと2番手のノブワイルドは競り合いながら直線に。内のウェイトアンドシーはノブワイルドは振り切ったものの,楽に追走して2頭の外から差し込んだキタサンミカヅキが突き抜けて優勝。逃げ粘ったウェイトアンドシーが4馬身差で2着。大外からよく伸びたインフォーマーが2馬身差の3着に届き,ノブワイルドはハナ差で4着。
                                
 優勝したキタサンミカヅキは昨年の東京盃以来の勝利。その直前にアフター5スター賞を勝っていて,南関東重賞は2勝目。重賞の勝ち馬ですから力量は上位であるものの,その後は南関東重賞はおろかオープン特別でも勝ちきれないというレースが続いていました。それでもここ2戦は重賞で連続2着でしたから,能力通りの結果とはいえます。勝ちきれないのは脚質の面も影響していたかもしれず,このレースはハイペースで流れた上に程よい位置を確保できたのが,大きな着差をつけて勝つことができた要因でしょう。能力を出せばこのメンバーではこのくらい離して勝つ力がある筈なので,このようなレースを継続することができれば,まだ活躍が見込めそうです。父はキングヘイロー。母の父はサクラバクシンオー。母の8つ上の半兄に1998年に埼玉新聞杯を勝ったキタサンシーズン
 騎乗した船橋の森泰斗騎手金盃以来の南関東重賞26勝目。管理している船橋の佐藤賢二調教師と共に第1回にその名を刻みました。

 11月4日,土曜日。妹のピアノのレッスンがありました。この日は午後2時半の開始でした。
 11月6日,月曜日。伯母がロサンゼルスに帰国してからは,僕が母と妹の分も合わせて3人分の夕食を作っていたのですが,この日は母が作ってみると言いました。これは延命治療を断念し,飲み薬の服用をやめたために,副作用がそこまで治まってきたことを意味します。母の申し出でしたので,この日は母に任せました。そしてこの日以降,以前のようにまた母が夕食の支度をするようになりました。そもそも母はこのような生活を送りたかったために最初から抗癌剤を用いた治療はしたくないと考えていたのであり,実際にそれを断念することによってそうした生活を送ることができるまで回復したのですから,これはよかったのだと現時点でも僕は思っています。病気が発覚した後,母が自分自身に関して最も大きな喜びを得られたのは,このときの体調の回復であったのは間違いないと僕は確信しています。人間は喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避するという現実的本性actualis essentiaを有しているのですが,母にとって治療の断念とは,辛い副作用という悲しみの忌避であっただけでなく,喜びの追求でもあったのです。そして人間はそういう現実的本性を有しているとはいえ,追求すればその喜びを確実に手にすることができるというものでもありません。母は単に悲しみの忌避に成功しただけでなく,喜びの追及にも成功したのですから,母の現実的本性いい換えれば母のコナトゥスconatusは,母をより良い方向に向かわせたといえるでしょう。第三部定理七は,現実的本性すなわちコナトゥスは,自己の有suo esseに固執するといっていますが,自己の有に固執するというのは,必ずしも生き永らえるということだけを意味するのではないのです。
 11月8日,水曜日。母の消化器内科の通院,SOX+Bvの2クール目の開始の日でした。予約は午前10時半で,僕が同行しました。
 保険証確認を済ませて採血のために中央検査室へ。この日は検査の患者がとても多かったので,5人の技師がフルに稼働していました。時間を要して採血を終えると,僕たちはエレベーターで5階に向いました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする