スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ピストル&絶好機

2020-08-31 18:59:56 | 歌・小説
 ラスコーリニコフとソーニャの間で,ラスコーリニコフの殺人の告白とソーニャの応答という最も決定的な出来事が生じるのは第五部の4節です。これと同じように,スヴィドリガイロフドゥーニャの間でも決定的な出来事がひとつ生じます。これは第六部の5節です。これはスヴィドリガイロフの部屋での出来事ですが,このスヴィドリガイロフの部屋というのは,ラスコーリニコフとソーニャが会っている部屋の隣にあたります。それでスヴィドリガイロフはふたりの話を盗み聞きして,ラスコーリニコフが殺人犯であることに気付き,これをネタとしてドゥーニャと会う機会を設けたのです。
                                        
 この場面ではひとつのアイテムが重要な役割を果たします。それがピストルです。このときドゥーニャはピストルを携えてスヴィドリガイロフと会っていました。スヴィドリガイロフが自分を監禁しようとしていると感じたドゥーニャは,その銃口をスヴィドリガイロフに向けるのです。ドゥーニャはこういうこともあろうかと思って,このピストルを隠し持っていたのです。
 ドゥーニャは以前,スヴィドリガイロフの家で家庭教師をしていました。そのときに,スヴィドリガイロフはドゥーニャに射撃のレッスンをしたことがありました。ドゥーニャはその頃からスヴィドリガイロフが怪しげな人物だと感じていたので,そのときに1丁のピストルを入手しておきました。つまりこのピストルの入手経路はスヴィドリガイロフにあったことになります。
 ピストルを向けられたスヴィドリガイロフは,このピストルが自身のピストルであることに気付きます。懐かしい昔馴染みのピストルで,紛失したときにはずいぶんと探しました。紛失したわけではなく,ドゥーニャに盗まれたのだということを,このときに理解するのです。ただしソーニャは,このピストルはスヴィドリガイロフによって殺された妻のマルファのものであると言っています。この相違が何を意味するのかは分かりませんが,ドゥーニャにとっては,これがマルファのものであるということもおそらく重要なのでしょう。ドゥーニャはマルファはスヴィドリガイロフに毒殺されたと思っているからです。

 スぺイクHendrik van der Spyckはスピノザの死を看取った日のうちにアムステルダムAmsterdamに帰り,その後は自分の前に一度として姿を現すことがなかった医師に対して,悪意を抱いたとしても不思議ではありません。というか,スピノザに対するスぺイクの敬愛の情の深さからすれば,そのような気持ちをもつ方が自然であるとさえいえるでしょう。ですからこの医師に対して濡れ衣を着せることはあり得るのであって,ネコババの件自体が,実際にあった出来事であったかもしれませんが,スぺイクの作り話,あるいは作り話とまではいかなくても,勘違いとして作られた物語であったかもしれません。ですからこの部分を評価することによって,この医師がだれであるかを決定することは,僕には危険なことのように思えます。僕自身はスピノザの最期を看取ったのはシュラーGeorg Hermann Schullerであると解していますが,それが史実であったといいたいわけではありません。スぺイクのいう通りであったらシュラーであった可能性が高いでしょうが,それが勘違いであったら,マイエルLodewijk Meyerであった可能性も否定はできないでしょう。
 ここでの物語では,たとえこの医師がマイエルであったとしても,シュラーには当該の書簡を抜き取る好機があったということはすでに説明した通りです。ですがここではこの医師がシュラーであった場合の物語を語っているのですから,その線で話を進めます。そしてこの場合は,シュラーは容易にこれらの書簡を抜き取ることができたでしょう。スピノザが死んだとき,スピノザの傍らにいたのはシュラーだけであり,しかもこの家にもシュラーとスピノザしか存在していなかったのですから,シュラーはスぺイクの一家のだれにも気付かれることなく,書簡を抜き取ることができたからです。そもそもこの物語においては,シュラーはスピノザが死ぬ以前から,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizにその指令を受けていたということになっていますので,シュラーが指令を遂行するためにこれほどまでに絶好の機会を逃すわけがないといっていいほどだと僕には思えます。したがって当該のすべての書簡は,スピノザの遺稿がリューウェルツJan Rieuwertszの手に渡る前に,すでに抜き取られていたという可能性も大いにあるのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北条早雲杯争奪戦&ネコババの件

2020-08-30 19:12:42 | 競輪
 小田原記念の決勝。並びは吉沢‐佐藤の東日本,松井‐郡司‐和田の神奈川,松浦‐東口の西日本。
 郡司がスタートを取って松井の前受け。4番手に吉沢,6番手に松浦で周回。残り3周のホームから松浦が上昇。前を叩きにはいかず,郡司の横で併走。そのまま残り2周を迎えて松井が徐々にペースアップ。郡司と松浦の併走は残り1周のホームまで続きましたが,郡司が番手を死守。バックから吉沢の捲り。これはいいスピードでしたが郡司のブロックに遭って失速。このあおりで佐藤が落車。直線の手前から郡司が自転車を外に持ち出したので,松井と郡司の間を割った和田が伸び,フィニッシュ手前で松井を差して優勝。逃げ粘った松井が半車輪差の2着。3着に入線した郡司は最終周回のバックの走行により失格。和田と郡司の間に進路を取り,4着に入線した松浦が1車身差の3着に繰り上がり。
 優勝した神奈川の和田真久留選手は3戦前の大垣のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2017年11月の防府記念以来の2勝目。このレースは自力のある選手が3人で並んだ地元勢が強力。ということで松浦は分断を狙いにいきましたが,どうしても小回りコースは内で競った方が有利なので,郡司が番手を死守。これは前受けをしたのが功を奏した形で,この時点で地元勢には有利になりました。最終コーナーの郡司の走り方は,和田に進路を開けた面があります。すでに自身に余力が残っていなかったからかもしれませんし,あるいは失格になることを悟っていたからかもしれません。

 医師がネコババ行為に及んだとスぺイクHendrik van der Spyckが証言している部分は,この医師がだれかを特定するのに,研究者によってよく言及される部分です。コレルスJohannes Colerusはスぺイクの証言に基づき,この医師をL.M.と記述しています。スピノザの親友でこの頭文字に該当するのはマイエルLodewijk Meyerです。しかしマイエルがこのような行為に及ぶとは考えられないので,実際はこの医師はシュラーGeorg Hermann Schullerであったとするのが,スピノザの死を看取った医師がシュラーではないかという根拠のひとつとなっています。他面からいえば,研究者の共通認識として,シュラーであればこのような行為に及んだとしても不思議ではないというのがあることになります。もちろんこれは根拠のひとつであって,たとえばシュラーは後にチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに対し,自分がスピノザの死を看取ったという主旨のことを伝えていて,そうしたこともこの医師がシュラーであったことの根拠のひとつとされます。ただ,ネコババ行為に及んでも不思議ではない人間であると認識されているシュラーのことですから,チルンハウスに対して嘘をつくような人間でもあるということはいえるのであり,確実にこの医師がシュラーであったと断定できるわけではありません。
                                        
 さらに次のような事情が加味されます。
 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaはスぺイクの証言に基づくものですが,スぺイクはコレルスに対して,スピノザに好印象を抱いてもらうための証言をする理由があったと僕はみています。このために,コレルスの伝記は,たとえコレルスが反スピノザに立つ人物であったとしても,全面的に信用してはいけないと僕は考えているのです。したがってこのネコババの件も,スぺイクがスピノザに対して抱いていた印象から,スぺイクが誤って医師がネコババをしたというように認識したという可能性があります。つまり実際は医師は死ぬ前のスピノザの承諾を得てそれらの品を持ち帰っただけかもしれません。例えば形見として小刀をもらうとか,お礼として金を受け取るということがあったとしても何ら不自然ではないからです。ですからこれがスぺイクの勝手な判断であったとしたら,この医師がマイエルであっても不思議ではないことになります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

活動&医師への言及

2020-08-29 19:01:35 | 哲学
 『愛するということThe Art of Loving』におけるスピノザの哲学に対するフロムの言及は,それ自体では適切なものです。しかしスピノザの哲学の観点からこの言及を読むときには,気を付けておかなければならない語句がふたつ含まれています。そのうちのひとつが活動です。
                                        
 フロムErich Seligmann Frommは活動というのをごく一般的な意味で用いています。確かに寸暇を惜しんで働き回る人間は,その原因の如何に関わらず活動的な人間であるとみなされます。これはフロムがそこで指摘している通りです。
 ところがスピノザの哲学で活動という場合には,このことは当て嵌まらないのです。スピノザが活動的という場合には,それは本来的には能動的である場合だけを意味しなければならないのであって,受動的な行為は活動的であるとはいわれてはなりません。いい換えれば,スピノザの哲学でXが活動するという場合に含まれる意味は,Xが働くagereということなのであって,Xが働きを受けている場合にはXは活動するとはいわれるべきではないのです。フロムのいい方に従えば,能動的な理由であれ受動的な理由であれ,あくせくと働き回る人は活動的であることになり,これは活動という語句を一般的に解すればおかしいことを何もいってはいないということになりますが,受動的な理由によって働き回っている人のことを,スピノザの哲学では活動的な人間であるというべきではないという点には気を付けておかなければなりません。
 厳密にいうとこれは,スピノザの哲学の問題というよりは,スピノザが哲学において使用するラテン語の語句を,どのような日本語に翻訳するのかということと関連している問題です。岩波文庫版の『エチカ』では,能動actioと訳される語句が活動と訳されている場合があります。これはスピノザがこの語で必ずしも能動だけを意味せずに使用している場合があるからです。この観点からはフロムの活動もスピノザの活動も同じですが,使われている語の意味からすれば,そこには違いがあるべきであるという点には留意してください。

 スぺイクHendrik van der Spyckの一家は総出で教会に出掛けたのですから,このときにこの家に残っていたのはスピノザとアムステルダムAmsterdamから来た医師のふたりだけだったことになります。
 一家が帰宅したとき,スピノザはすでに死んでいました。スぺイクが午後に教会に行くとき,スピノザはスープに舌鼓を打っていたのですから,スぺイクからみたら,確かにスピノザは急死したようにみえたことでしょう。スぺイクは,医師はこの日の夜の船でアムステルダムに出発したとし,二度とスピノザのことを顧みなかったといっています。スピノザの葬儀は,スぺイクが喪主のような立場で行われましたから,スピノザを顧みなかったというのは,この医師がこのときを最後にスぺイクの前に姿を現さなかったという意味であり,したがって葬儀にも参列しなかったということなのだろうと思います。もっともスピノザの葬儀には6台もの馬車が随行し,多数の名士が参列したとされていますから,スぺイクが参列者のすべてを把握していたかどうかは分かりません。ただ少なくともこの医師は,仮にスぺイクの知らないところで葬儀に参列していたのだとしても,スぺイクに挨拶をするということはなかったのでしょう。
 スぺイクは医師がこのような態度をとった理由として,アムステルダムに帰るときに,スピノザが机の上に置いておいたいくらかの金と銀の柄の小刀をポケットに入れて持っていったからだとしています。要するにスぺイクからみると,医師はネコババ行為に及んだため,もうスぺイクと顔を合わせることができなかったと認識しているわけです。ただスぺイクの証言はあまりに生々しすぎて,これが真実であったかどうかを疑わせる側面があります。たとえば,スピノザが置いておいた金銭と小刀がなくなっていたということに気が付いたというなら分からないでもないのですが,医師がそれをポケットに入れたということになれば,このネコババの犯行現場をスぺイクは目撃していたということになり,これは医師がスぺイクの目の前でそういう行為に及んだということを意味しなければならないことになりますから,著しく不自然であるということができるのではないでしょうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竜王戦&前日と当日

2020-08-28 19:01:51 | 将棋
 25日に指された第33期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第二局。
 丸山忠久九段の先手で角換り早繰り銀。後手の羽生善治九段は腰掛銀で対抗。先手が銀を6四まで繰り出して歩得を果たしましたが,そこまでとそれからの銀の動きによる手損のデメリットの方が大きく,作戦負けになってしまったようです。
                                        
 後手が歩を突いた局面。局後の感想によると,先手は5八の金を攻めに活用する構想を有していたようですが,ここでは破綻していたために☗6八金右と寄りました。後手も☖4三金右
 6八に金を寄ったので,☗5八飛から攻めがあればよいのですが,ここでは成立しません。ということで☗6九金と手待ち。ここから☖4五銀☗5八金☖5四歩☗6八金右☖5五歩と先手は手待ちを繰り返し,ここで☗5八飛と回りましたが☖5六銀と防がれました。
                                        
 ここで先手が待っている間に後手が有効手を指せたことにより,差がついてしまったようです。待ってカウンターを狙うというのは将棋にはある戦術ですが,どちらかといえば後手の作戦であり,先手でそういう手順に進めるほかなくなってしまった時点で,先手の作戦負けだったのでしょう。第2図から先手はカウンターの反撃に出ましたが,やや無理な攻めで,後手が勝っています。
 羽生九段が勝って1勝1敗。第三局は来月19日です。

 『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』によれば,スピノザは1677年2月21日の日曜日に死にました。スぺイクHendrik van der SpyckがコレルスJohannes Colerusに証言したその日と前日のことを,詳細に確認しておきます。
 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,2月22日の土曜日に,スぺイクは妻を連れて牧師の説教を聞きに行ったとされています。ただし1677年のカレンダーを調査したところ,この年の2月は21日が日曜ですので,これは20日のことであったと思われます。スぺイク夫妻が教会から帰ったのは午後4時でした。スピノザはスぺイクの家の2階を借りていたのですが,夫妻が帰宅すると階下に降りて,煙草をふかしながらスぺイクと話をしました。スぺイクはこの日に行われた説教の話をしたとしていますが,以前にいっておいたように,スぺイクの証言というのはそのすべてを信じてはいけないのであり,この部分は聞き手のコレルスも牧師であったがゆえの発言であったかもしれません。
 土曜日の説教は翌日,すなわちスピノザの死の当日の日曜の説教の予備の説教だったそうです。21日は懺悔節前の日曜日にあたっていたとのことで,特別の行事があったようです。ですからこの日も一家は教会にいくことになっていました。スピノザはその礼拝の時間の前,朝のうちに階下に降り,スぺイク夫婦と話をしました。そしてアムステルダムAmsterdamの医師を呼んでもらいました。この医師が,伝記ではL.M.とだけ表記されています。これはスピノザの友人としてはマイエルLodewijk Meyerを指します。ですがここでの物語では,これはスぺイクの勘違いで,シュラーのことだったとしておきます。この医師はスぺイクに対し,年老いた鶏を買ってきて,朝のうちに調理をして昼にスピノザにそのスープを飲ませるように言いつけたそうです。これがどのような意味の治療であるかは僕には分かりません。とにかくスぺイクは,というかスぺイク家の人はこの言いつけを守りました。
 スぺイクは午前の礼拝を終えて帰宅しました。そのときはスピノザはそのスープに舌鼓を打っていたそうです。そして午後は一家が総出で教会に出掛けました。このときにはアムステルダムの医師すなわちここでいうシュラーは家にいました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戸口の雑感⑤&指示の時期

2020-08-27 19:30:33 | NOAH
 戸口の雑感④の続きです。
 戸口がジャンボ・鶴田と初めて戦ったのは,全日本で戦い始めたシリーズ中の10月1日でした。戸口のパートナーはもちろん大木金太郎。鶴田のパートナーは高千穂明久すなわち後のザ・グレート・カブキでした。このシリーズの最終戦で,戸口と大木が組んで馬場と鶴田が保持するインタータッグに挑戦するというカードが決定していたのですが,前哨戦は意図的に避けられ,戸口と鶴田が当たったのはこの試合のほかにもう1試合だけだったそうです。一方,高千穂とは何度も対戦が組まれたようで,戸口には鶴田の印象より高千穂の印象が強く残っているようです。高千穂は受けるだけ受けてその後に自分を出すというタイプの試合運びをしていて,戸口は巧みな選手であったと評価しています。
 大木と戸口のチームはこのシリーズでは全勝でした。つまり,インタータッグの王者も獲得したことになります。その時点で24戦無敗となっていますから,おそらくシリーズを通じてほとんどの試合,もしかしたら全部の試合で,戸口は大木とのタッグで仕事をしたのかもしれません。このときの大木の状況からするとシングルマッチを行うには無理がありそうですし,かといってほかの選手とタッグを結成するというのも変なので,このような形になったものと思われます。またこのことから,大木が自身のパートナーとして戸口を全日本プロレスに迎えることを要求したのも,当然のことだったといえるかもしれません。
 この頃の鶴田は戸口からみると,足腰の強さは凄かったけれども,試合運びはきわめて単調という選手でした。一方,馬場は試合の組立も攻守の切り替えも絶妙で,休むときは休み,行くときは行くというリズムも素晴らしかったと絶賛しています。戸口からみて,最高のレスラーだったそうです。このとき戸口は,レスラーとしては最高,といういい方をしていて,これはつまり経営者としてはそうではなかったという思いの裏返しでしょう。
 戸口は馬場が最高のレスラーであった理由も分析しています。これについては次回に詳しく紹介しましょう。

 スピノザの死の状況を総合的に勘案すれば,実際にスピノザが死ぬ以前の段階で,その余命がそうも長くはないということを,シュラーGeorg Hermann Schullerが知っていたとしてもおかしくはありません。もちろんそれは医師としての自身の診断なのであって,スピノザは間もなく死ぬということを確実に知るということはだれにもできないことではありますが,そんなに長くスピノザが生きられる可能性はきわめて低いということくらいは,シュラーが分かってたとしてもおかしくはありません。そこでもしもそうした事情をシュラーがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに伝えていたとしたら,スピノザが死ぬ以前の段階,これはつまり遺稿集Opera Posthumaの編集に入る前の段階という意味であり,同時に編集者たちが遺稿を入手する前の段階という意味でもありますが,この段階において,当該の書簡を削除するという要求が,ライプニッツからシュラーに伝えられていたとしてもおかしくはありません。スピノザが死ねばその遺稿集が出版されるであろうということは,ライプニッツには容易に予見できることだったからです。なぜならライプニッツは実際にスピノザと書簡のやり取りをしていたわけですし,未出版の『エチカ』が存在するということも知っていたからです。いい換えればスピノザには未発表の原稿があるということを知っていたからです。
 したがって,ライプニッツの指示がスピノザの死の前にシュラーに伝えれていた可能性はあるわけで,そうであるなら,スピノザが死ぬ前あるいは死の直後に,いい換えるなら遺構がスぺイクHendrik van der Spyckの作業によってリューウェルツJan Rieuwertszの手に渡る前に,シュラーは当該の書簡を抜き取ったとしても不思議ではありません。これがもうひとつの可能性として示す物語の,原理的な部分を構成します。
                                        
 もしもスピノザの死を看取った医師が,スぺイクが証言しているようにマイエルLodewijk Meyerではなくてシュラーであったとしたら,おそらくシュラーはだれにも,というのはほかの遺稿集の編集者たちのことだけを意味するのではなく,スぺイクをはじめとするこの一家の人びとも含めた意味で,だれにも知られないように,遺稿の一部である当該の書簡を抜き取ることが可能であったと思われるのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

燦燦ダイヤモンドカップ&別の可能性

2020-08-26 18:58:59 | 競輪
 昨晩の松戸記念の決勝。並びは岩本‐鈴木の千葉と山田‐村上の京都で平原と深谷と清水は単騎。
 村上がスタートを取って山田の前受け。3番手に岩本,5番手に平原,6番手に清水,最後尾に深谷で周回。山田は誘導との間隔を開けていきましたが,だれも動くことなく打鐘。周回中の隊列のまま,山田の成り行き先行のようなレースになりました。最終周回のホームから清水が発進。これに合わせるように岩本が発進。清水はこの影響で浮いてしまいました。バックで村上が岩本をブロックしたものの,岩本はそれを乗り越えました。ただ,清水の外から深谷も捲ってきたため,鈴木はマークすることができず。単独の動きになった岩本があっさりと山田を捲り切ると,そのまま抜け出して快勝。内を回って直線で山田と村上の間から伸びた平原が3車身差で2着。最後尾から大外を捲り追い込んだ深谷が4分の3車身差で3着。
 優勝した千葉の岩本俊介選手は5月の豊橋のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2011年9月の取手記念以来の2勝目。ただしこの取手記念は松戸での代替開催でした。このレースは実力では上位の3人が単騎戦を選択。それでも3人の上位独占があるのではないかと見立てていたのですが,その3人が後方に位置して動かないというまさかの展開。このために3番手にいた岩本が恵まれることになりました。牽制したわけではなく,たまたま清水とタイミングが合ったのでブロックする形になったのではないかと思います。もっと待っていたら清水に先を越されたかもしれませんから,発進のタイミングが勝利を引き寄せたといえそうです。

 スピノザの遺稿がリューウェルツJan Rieuwertszの手許に渡ってから,その編集作業が始まるまでにどれほどの時間があったかということ自体が不明なので,シュラーGeorg Hermann Schullerが当該の書簡を抜き取るだけの時間的余裕があったかということは分かりません。同様にそのための物理的条件,それはつまりだれにも気付かれずにそれらを抜き取るために必要な諸条件のことですが,そういう条件が整っていたのかどうかということも分かりません。ですがそれらの両方を否定することもできないのですから,確かにシュラーはそのような方法で書簡を抜き取ったという可能性はあるでしょう。
 ここではもうひとつ,これとは別の方法もあり得たのではないかということも指摘しておきましょう。
                                       
 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaによれば,スピノザの死を看取ったのはマイエルLodewijk Meyerであり,マイエルただひとりであったことになっています。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』も,基本的にこの説を採用しています。ですがそこで別の可能性として指摘されているように,これはコレルスJohannes Colerusに対して証言したスぺイクHendrik van der Spyckの勘違いであって,実際にスピノザの死を看取ったのはシュラーであったという説もあります。スぺイクがスピノザの死に際して証言した内容は,その死を看取った医師がマイエルであるとするより,シュラーであったとする方が合理性が高いように思われるからです。そしてもしもこれが真相であったとしたら,シュラーは遺稿がリューウェルツの手に渡る前の段階で,当該の書簡を抜き取り得た,少なくともそういう機会を得ていたことになると思われます。
 スぺイクの証言では,スピノザは急死したと受け取れます。ですが,診察している医師からすると必ずしもそうではなく,スピノザは徐々に衰弱しているのであり,余命はそう長くないということが分かっていたとしても不思議ではありません。そもそもスピノザがスぺイクに対して,遺稿の処置の方法を伝えていたのは,スピノザ自身に自分の死が近いという判断があったからだと考えられます。それはもちろんスピノザ自身による自身の身体に対する認識から生じたものかもしれませんが,医師の診断を参考にしたものであった可能性もないとはいえないでしょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

印象的な将棋⑰-2&物語の骨子

2020-08-25 18:54:32 | ポカと妙手etc
 ⑰-1の第1図では僕にも目につく一手があります。それは☖5七飛と王手馬取りに打つ手です。実際にその手が指されました。
                                        
 先手はいくら詰まないからといって馬を取られてはいけません。ですからここでの応手が☗6六玉しかないことも僕には分かります。当然その手が指されました。
 僕程度の棋力ですと,この局面で最初に思い浮かぶのは☖5八飛成になります。飛車取りになっているので飛車を処置しなければなりません。逃げるとすれば4七,3七,2七,5八,5九の5ヶ所ですが,5八なら金取りになるので,それが一番得と思えるからです。ただしこれは最初に思いつくというだけで,考えてみて負けということなら別の手を探すでしょう。そのうちのひとつは☖5五飛成ですが,これは☗同玉とされて角2枚では後手が勝てる気がしません。
 実戦は☖4八角という手が指されました。
                                        
 指されてみれば飛車を動かすよりはこの方が優れていることは僕にも分かりますし,おそらく時間を掛けて考えれば発見できる手だとは思います。この種の手がどの程度の時間で思い浮かぶのかということは,おそらく棋力を計測する上での指標となるのではないでしょうか。
 実戦はこの角が後に妙に働くことになるのですが,後手がそのことまで視野に入れていたかどうかは不明です。

 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を主題としたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとスピノザとの間の書簡のやり取りと,そうしたやり取りがあったことを確実に証明してしまう書簡七十および書簡七十二は,遺稿集Opera Posthumaの編集作業に入る前の段階で,シュラーGeorg Hermann Schullerによって抜き取られいていたというのが,僕が作る物語の骨子になります。そしてもちろんシュラーはその行為を,ほかの編集者たちに知られないように遂行しなければなりません。というか,ほかの編集者たちに知られないうちに遂行したとしなければ,この物語は成立しないでしょう。この実行の方法は,ふたつ考えることができます。
 遺稿集が発刊されたのである以上,スピノザの遺稿は編集者たちが入手できるような措置が実際に講じられたのです。それが,この遺稿集が収められた机を,スぺイクHendrik van der SpyckがリューウェルツJan Rieuwertszに送ったということです。送られた遺稿がどのように管理されていたかは分かりません。ただ,スピノザの遺稿集を発刊することは,そのこと自体が罪に問われかねない行為でしたから,作業自体は水面下で進められたと考えるのが自然です。もっとも,この作業に関しては,編集者たちに対する未必の協力者もおそらくは存在したでしょう。そもそもライプニッツ自身が,だれがこの作業を行っているかということは知っていたにも関わらず,そのことをステノNicola Stenoには秘密にしておきました。カトリックの有力者であるステノにこのことが伝われば,編集作業は中断あるいは中止を余儀なくされるからです。つまりライプニッツは遺稿集を読んでみたいと思っていたからそうしたわけで,そのように思っていた人がほかにいて,その作業自体に積極的に協力するのではなくても,その作業が中止に追い込まれることは避けるべく行動したということがあったとしても,それはそれで不自然な話ではありません。
 少なくともシュラーは,編集作業が始まる前に,どんなに遅くとも当該のすべての書簡の存在がほかの編集者のひとりにでも知られる前に,それらを抜き取っておかなければなりません。遺稿がリューウェルツに送られてから,そのための時間がシュラーにどれほどあったか分かりませんが,それができた可能性も否定はできません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バラ色の未来②&物語の想定

2020-08-24 19:14:49 | 歌・小説
 「バラ色の未来」は次の歌詞から始まります。

                                   

     今より未来のほうが きっと良くなってゆくと
     教えられたから ただ待っている


 「僕たちの将来」との関連付けとしていっておいたように,この歌はある男が自分のことを歌っています。この男すなわち歌い手は,未来,これは自分の未来でありまた世界全体の未来でもあると解せるでしょうが,それはよくなると思っていました。しかしなぜそう思っていたのかといえば,それはそのようにいわれたからであって,自分の中に何らかの確信があってそのように思っていたわけではないのです。僕たちの将来はよくなってゆく筈だ,と歌っていた「僕たちの将来」の歌い手のひとりである男も,実はこの程度の理由からそのように歌っていたのかもしれません。

     星はまたたいて笑う 星はころがって笑う 今夜,月のかげに入る

 星が月の影に入るというのは,自然現象のひとつで,星食といいます。ただこの現象が何を暗示するものであるのかは,正直なところ僕にはよく分かりません。

 スピノザとライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとの間で交わされた文通が,スピノザの親しい友人たちにも知らされていなかった極秘事項であったとしたら,ライプニッツもその事実を,マイエルLodewijk MeyerやイエレスJarig Jellesと会ったときに伝えなかったと推測されます。ライプニッツはスピノザと接触を図るためにこのことをチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに伝え,チルンハウスを介してシュラーGeorg Hermann Schullerも知るところとなったのですが,アムステルダムAmsterdamでマイエルおよびイエレスと会ったときは,その目的すなわちスピノザと会見することは決まっていたのですから,そのことをマイエルにもイエレスにも伝える必要はないからです。したがって,マイエルもイエレスも,ライプニッツがスピノザに会うということ,事後的にいえばスピノザとライプニッツが面会したということは間違いなく知っていたと考えなければなりませんが,スピノザとライプニッツの間で書簡のやり取りがあったことは,知らなかった可能性があるということを想定しなければなりません。僕が作る物語は,この想定の下での物語です。したがって,書簡四十五書簡四十六は,遺稿集Opera Posthumaを編集するときにスピノザの遺稿の中に残されていたので,それによってマイエルとイエレスは,スピノザとライプニッツが書簡を交わしていたことを初めて知ったということになります。同時に,これらの書簡からは,その後にも文通が継続したことを匂わせる記述があったのですが,そうした書簡は遺稿の中に残ってなく,さらに書簡七十書簡七十二も残っていなかったために,マイエルもイエレスも,またほかの編集者たちも,実際にはふたりが計画していた秘密裏での文通は行われなかったのだと判断したのでしょう。よってシュラー以外の編集者は,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を主題としたやり取りがライプニッツとスピノザの間に存在したという事実を知らなかったのです。
 『神学・政治論』を主題とした文通および書簡七十と書簡七十二がスピノザの遺稿の中に残っていなかったのは,遺稿集を編集する以前の段階で,それらすべてが抜き取られていたからです。もちろんそれは意図的に抜き取られたのです。だれがそれらを抜き取ったのかといえば,ここまでの物語から,シュラー以外にはあり得ないことになるでしょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブル・中野&極秘事項

2020-08-23 18:49:18 | NOAH
 神鳥忍が女子プロレスラーとしてただひとり認めているといっているブル・中野は,僕の女子プロレスキャリアの中の,ライブ観戦の時代が始まったときのトップ選手,すなわちWWWAの王者だった選手です。
                                         
 中野は小学校4年生の時,猪木の試合をテレビで視てプロレスファンになりました。したがってプロレスか女子プロレスかという二者択一では,プロレス派に属します。中学1年生の時に全日本女子プロレスのオーディションに合格。卒業後に正式に入団しました。このとき好きだったのはデビル・雅美だったそうです。中野はデビルはヒールだったけれどベビーフェイスの面ももった選手だったといっていて,これは後の中野のファイトスタイルに大きな影響を与えたのではないかと思います。
 中野はこの後,ダンプ・松本が率いる極悪同盟の一員となったのですが,これは本人の意志によるものではありませんでした。ただし会社の命令ではなく,ダンプの意向だったのではないかと推測しています。中野のダンプの評価は二律背反で,クラッシュギャルズとくに長与千種の相手をするヒールレスラーとしては完璧な仕事をした選手で,それに徹するプロ根性も高かったとしていますが,そのヒール像というのは,中野からみると古いヒール像であって,中野はそれは改めなければならないと考えていたそうです。
 中野の後輩として極悪同盟に加入したのはアジャ・コングです。そして中野の後を継いだのもアジャでした。1992年11月に,ブルはWWWA王者の座をアジャに譲っています。川崎市体育館で行われたこの試合は僕は例の友人と一緒に観戦しています。ただ試合の内容より,全試合の終了時刻がとても遅くなったことの方が強い印象に残っています。このあたりは当時の経営陣の無能さの表れともいえるでしょう。
 デビルはジャガー・横田のライバルであって,必ずしも単独でトップに立ったわけではありません。真の意味で初めてトップに立ったヒールはブル・中野であったといっていいでしょう。

 書簡七十二でスピノザがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizについて言及するとき,手紙を通して私の知っているその人物,といういい回しとなっています。この手紙とは,書簡七十シュラーGeorg Hermann Schullerが言及している,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を主題とした手紙のことに間違いありません。したがって,ライプニッツとスピノザの間に,『神学・政治論』を主題とした書簡のやり取りがあったことは史実です。ライプニッツとスピノザの双方が,それを肯定しているからです。そして同時に,このやり取りは極秘裏に行われていたというのも間違いないでしょう。というのは,シュラーはこのことを伝聞として書いている,すなわちそれが事実であるかどうかを知らないという前提でこのやり取りについて言及していますし,スピノザの返事も,もしもこのやり取りをシュラーが知っていたと仮定すれば,奇妙な表現であるといわなければならないからです。他面からいえば,手紙を通して私の知っている人物,という表現は,それを読む当の相手,この場合はシュラーが,その事実を知らないという前提で記述されていると解するのが適切でしょう。
 ここから分かるように,スピノザとライプニッツが文通をしていたということは,ほとんど知られてはいないことだったのです。すでに説明したように,書簡四十五でライプニッツはスピノザに対し,秘密裏に文通をすることを要求し,書簡四十六ではスピノザはその提案に応じています。だからスピノザは,自身がライプニッツと文通をしていることをシュラーには明らかにしませんでしたし,文通が途絶えた後も,文通をしていたという事実を明かすことはなかったのです。そしてスピノザがそのことを明かさない限り,スピノザの友人たちはその事実を知ることはなかったでしょう。シュラーはライプニッツがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに話したことを契機としてこの事実を知ることとなったのですが,そうした機会を有さなかった友人たちは,それを知る機会がなかったと思われます。そしてスピノザは,シュラーにその事実を教えなかったように,マイエルLodewijk MeyerにもイエレスJarig Jellesにもおそらくそれを秘密にしておいたでしょう。よってふたりはそれを知る機会がなかったことになります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蜘蛛の意味&伝聞

2020-08-22 19:02:38 | 哲学
 ドゥルーズGille Deleuzeの『ニーチェ』には,「ニーチェ的世界の主要登場人物辞典」という章があり,その中に蜘蛛という項が含まれています。正確にいえば,蜘蛛(あるいは舞踏蜘蛛)という項です。ちょうどスピノザの哲学に対する僕の美的感覚を説明するのに,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheによる蜘蛛の比喩を例材として用いたばかりですので,ここでドゥルーズが指摘していることを紹介しておきましょう。
                                        
 まずドゥルーズは,ニーチェが蜘蛛というとき,それは復讐あるいは怨恨の精神のことであって,蜘蛛が有する毒がその伝染力になるといっています。これが,ニーチェが蜘蛛という場合の最も基本的な意味であるとドゥルーズは捕えているということです。
 次に,蜘蛛の意志というのをドゥルーズは説明しています。それによれば,蜘蛛の意志というのは処罰しようという意志,あるいは裁こうとする意志のことです。蜘蛛は怨恨あるいは復讐の精神のことですから,その精神は,他人を裁きまた処罰しようとする意志へと向かう精神であるということになります。
 最後に,蜘蛛の武器は糸であるとされています。この糸というのは道徳の糸です。蜘蛛の糸は,蜘蛛が巣を張るための糸です。要するに蜘蛛が体内から紡ぎ出す糸によって,道徳の巣を張るのです。この部分はスピノザに対する蜘蛛の比喩と最も関連していそうです。そしてこの道徳の教えは,平等の教えであるとされています。ここでいう平等とは,すべてのものが蜘蛛と同類になるという意味での同類です。
 このうち,蜘蛛の意志に関する部分については,間違いやすい点が含まれていると思いますので,僕が改めて詳しく説明することにします。

 書簡四十六の最後のところで,スピノザはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対し,もし『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を所有していないのであれば贈呈するという主旨のことを書いています。これはこれで重要な部分です。というのは『神学・政治論』は匿名で出版されたものであり,著者はスピノザであることは噂にはなっていましたが,断定的にいえることではありませんでした。ところがこの部分ではスピノザは,私の『神学・政治論』という書き方をしていて,著者が自分であるということを認めているからです。つまりスピノザはこの手紙を書くときに,『神学・政治論』の著者が自分であるということをライプニッツに対して明らかにしてもよいと考えていたということになります。1通の手紙を受け取っただけの関係でも,スピノザはライプニッツに対してそれくらいの信用は置いたとみていいでしょう。
 ライプニッツがどのようにして『神学・政治論』を入手したのかは分かりません。確実なのはライプニッツはそれを読んだということです。そしてその内容に関して,手紙のやり取りをスピノザとしました。それが分かるのが書簡七十です。この中でシュラーGeorg Hermann Schullerは,ライプニッツは『神学・政治論』を高く評価していて,その主題についてスピノザに手紙を送ったことがあるそうだが,それを記憶しているかという意味の問いをスピノザにしています。
 僕がここで注目したいのは,シュラーは,ライプニッツがスピノザに手紙を送ったということについて,断定的にでなく,伝聞として記述しているという点です。これは直接的にはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからの伝聞であり,間接的にはライプニッツからの伝聞であるといえるでしょう。チルンハウスと出会ったライプニッツは,チルンハウスがスピノザと親しい間柄であるということを知り,自身もスピノザと接触したかったために,本心かどうかは別に『神学・政治論』を高評価しているとチルンハウスに伝え,同時にそれについて文通したことも伝えました。チルンハウスはライプニッツには『エチカ』の草稿を読ませたかったので,よい返事を得るためにこのエピソードをシュラーに伝えて,スピノザに取り次いでもらったということだと思われます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王位戦&訪問と文通

2020-08-21 19:08:54 | 将棋
 一昨日と昨日,大濠公園能楽堂で指された第61期王位戦七番勝負第四局。
 木村一基王位の先手で相掛かり。後手の藤井聡太棋聖が横歩を取る展開に。今日はこの将棋そのものとは別の話をしようと思います。
                                        
 第1図はこの将棋の封じ手の局面。常識的には☖2六飛ですが,AIが☖8七同飛成を最善手として示していたこと,また,王位戦は1日目の午後6時の時点で手番の棋士が封じることになっていますが,午後6時を過ぎても20分ほど後手が考えた上で封じたことも相俟って,2日目は朝からどちらが封じ手として選ばれているのかということが注目の的に。果たして封じ手☖8七同飛成でした。
 こうした楽しみ方はAIの棋力が相対的には人間の棋力を凌駕したがゆえに生じることとなったものだといえます。しかし一方で,もしAIというものが存在せず,☖8七同飛成という手に気付く人間がごく少数であったとしたら,封じ手が☖8七同飛成であったときに僕たちが受けた衝撃はもっと強烈だったと推定されます。
 ここから分かるように,AIが強くなったことによって,新たに得られることになったものもあれば,失われてしまったものもあるのです。このとき,AIは今後も存在し続けるのですから,失われたものについてそれを嘆くよりは,そのことによって新たに獲得されたものを生かしていくということが,古くからの将棋ファンにも求められているのだと僕は考えます。AIとの共存というのは,棋士にだけ妥当するのではなく,ファンにも問われていることなのではないでしょうか。
 しかしそこには留意するべき点もあります。僕は第四部公理と人間の精神という表題で,『エチカ』の第四部公理は人間の身体にだけ妥当するのではなく人間の精神にも妥当するのだといいました。実はそのとき僕は,AIの棋力が人間の棋力を相対的に上回るということを念頭に置いていたのです。ですがこの公理は,すべての個物に該当するのですから,実は個物であるAIにも該当します。つまりどんなAIにもそれを凌駕する知能があるのです。簡単にいえば,第1図で☖8七同飛成を最善手とするのは,現在のAIの判断なのであって,何年か後のAIは☖2六飛を最善手として認知する可能性があるということは,AIと共存して将棋を楽しんでいく場合にも,忘れてはならないことでしょう。
 実戦は第1図の後,先手に受けの誤りが生じたこともあり,後手の攻めが繋がって勝っています。
 4連勝で藤井棋聖が王位を奪取。通算2期目のタイトルを獲得し,八段に昇段しました。

 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがオランダを訪問した最大の目的は,スピノザとの面会であったと思われます。ライプニッツはそのための準備として,スピノザと面識があった人物を事前に訪ねたとするのが妥当な解釈だと思います。ですからそうした人物に対しては,その後でスピノザと会うということをライプニッツは伝えたとするのが妥当です。それを伝えることによって,ライプニッツはスピノザと面識があった人びとからの協力を得やすくなるからです。もちろんライプニッツは,事後にスピノザとの面会を否定したように,自身がスピノザと会うことについては,この時点でも秘匿しておきたいと思っていた可能性はあります。しかしスピノザと面識のある人物,とくに親しい人物に対しては,それを伝えたとしても,極秘の情報として守られる可能性が高いでしょうから,ライプニッツはスピノザと会うことは,面会の相手に伝えたと僕は推測するのです。したがって,スピノザとライプニッツが面会したという事実を知っていた遺稿集Opera Posthumaの編集者は,シュラーGeorg Hermann Schullerだけでなく,マイエルLodewijk MeyerもイエレスJarig Jellesも同様であったとしておきます。何度もいっていますが,これは僕が作る物語なのであって,歴史的事実がそうであったということを強硬に主張しようというものではありません。
 ただしこのことは,ライプニッツとスピノザとの間で文通があったということが,シュラーやマイエル,イエレスの間で共有されていたということにはならないと僕は考えるのです。いい換えれば,シュラーはスピノザがライプニッツと手紙のやり取りをしていたということは知っていたのですが,マイエルやイエレスはそれを知らなかったのではないかと僕は推測します。スピノザを訪問するということは伝えたとしても,以前に文通をしていたということはライプニッツは秘匿しておいたのではないでしょうか。このことについてはとくに伝えなくても,スピノザに関する情報を提供してもらうということはできたと思われるからです。
 書簡四十五を読む限り,ライプニッツは秘密裏にスピノザと文通をしたいと思っていました。そして書簡四十六から推測されるのは,スピノザはそれに応じたということです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日刊スポーツ賞黒潮盃&フッデとレーウェンフック

2020-08-20 19:02:53 | 地方競馬
 北海道から2頭,佐賀から1頭が遠征してきた昨晩の第54回黒潮盃。真島大輔騎手が8レースで落馬し鼻骨と頸椎を骨折したためカズベナートルは繁田騎手に変更。
 モリノブレイクはタイミングが合わず1馬身の不利。押してファルコンウィングがハナを奪い,3馬身くらいのリードに。2番手以降はワイルドホース,アベニンドリーム,インペリシャブル,モリノブレイク,ピュアオーシャン,サンエイウイング,チョウライリンとアマルインジャズとコパノリッチマン,コバルトウィングとストーミーデイの順で差がなく続きました。2馬身差でカズベナートルとエアーポケット。3馬身差でブラヴール。2馬身差の最後尾にブリッグオドーンという隊列。最初の800mは50秒0のスローペース。
 このペースにも関わらず3コーナーでファルコンウィングのリードはまだ2馬身くらい。インペリシャブルが単独の2番手に追い上げ,4馬身差の3番手にコパノリッチマン。直線に入ると絶好の手応えで前を追ったインペリシャブルがファルコンウィングを差し,先頭に立ってからは後続を離す一方になっての圧勝。コパノリッチマンが最後までしぶとく伸びて6馬身差で2着。逃げ粘ったファルコンウィングが半馬身差で3着。
 優勝したインペリシャブル鎌倉記念以来の勝利で南関東重賞2勝目。鎌倉記念まで4連勝して素質の高さをみせていましたが,1600mのレースで連敗したため,クラシック路線は走らずスプリント路線を選択。陣営が適性を見込んでの選択と考えていましたので,距離が伸びたここは軽視していました。それがこの圧勝ですから,むしろ2歳の時は素質で走っていて,本質的には長距離の方がよかったのかもしれません。ただこのレースはスローペースなのに前の方で差が開くという隊列となりましたから,その部分で恵まれたという面はあります。父はエスポワールシチー。祖母の父はフジキセキ。5代母がロッタレースの祖母にあたる同一牝系です。Imperishableは不滅。
 騎乗した川崎の山崎誠士騎手は東京湾カップ以来の南関東重賞16勝目。黒潮盃は初勝利。管理している川崎の高月賢一調教師は南関東重賞6勝目。黒潮盃は初勝利。

 書簡四十五ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizはフッデJohann Huddeとの仲介を求めています。書簡四十六は,スピノザがその要望に応えたというように読めます。つまりこの時点で,フッデとライプニッツは相識の間柄であったと思われます。ですからオランダを訪れたライプニッツがフッデと会うために,だれかの仲介を必要としていたとはいえません。もちろんそれがあった可能性は否定できないわけですが,フッデに関しては,それはなかったのではないかと僕は推測しています。
                                        
 『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』と『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』で,オランダを訪れたライプニッツがスピノザと面会するときに会った人として名前があげられているもうひとりのレーウェンフックAntoni von Leeuwenhookは,『フェルメールとスピノザBréviaire de l'éternité -Entre Vermeer et Spinoza』ではスピノザとフェルメールを結び付けた人物とされていますが,この面会はスピノザとは関係なかったと思われます。レーウェンフックは顕微鏡学者として著名であり,それに対して関心をもったライプニッツが,レーウェンフックを訪問したといったところではないでしょうか。スピノザが住んでいたハーグは,シュラーGeorg Hermann Schullerやフッデ,またマイエルLodewijk MeyerとイエレスJarig JellesがいたアムステルダムAmsterdamからは遠いのですが,レーウェンフックはアムステルダムよりハーグに近いところに住んでいましたから,アムステルダムからハーグへ向かう途中あるいは帰途に,ライプニッツがレーウェンフックにも会ったというのはおかしなことではありません。おそらくライプニッツの最大の目的はスピノザと会うことだったのですが,スピノザと近くに住んでいるレーウェンフックにもついでに会っておいたというところでしょう。もちろんこれはスピノザからみたからついでということになるのであって,ライプニッツの関心の広さからいえば,必ずしもついでのことであったとはいい難いかもしれません。
 これでライプニッツがスピノザを訪問する前に会った人たちとの会見の理由の僕の推測はすべてです。そしてもうひとつ,レーウェンフックに関しては確実にそうだとはいいきれませんが,少なくともそれ以外の人びとは,自分と会った後に,ライプニッツがスピノザと会うということは知っていただろうと思われます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒューリック杯清麗戦&面会の準備

2020-08-19 19:05:45 | 将棋
 昨日の第2期清麗戦五番勝負第五局。
 振駒で上田初美女流四段の先手となり,里見香奈清麗のごきげん中飛車。①-Aから4筋で銀が向い合う形に。途中で先手に攻め間違いがあり,そこからは後手が有利に進展していました。
                                        
 先手が歩を打った局面。ここから☖7一角☗1一角成☖7六香☗7七香と進んでいますが,これは手順前後のような気がします。第1図ですぐに☖7六香と打てば,持駒に香車がない先手は困ったことでしょう。
 後手は☖7七同香成☗同金☖8五桂と攻めを続けました。ここで手番を得た先手は☗9三歩成☖同角☗9二歩☖7一王と進めました。
                                        
 第2図で☗6四香と打ったのが最終的な敗着だったと思われます。☖3三香が攻防の一着となりました。第2図では☗4四馬と王手銀取りに引いておけば,混戦に持ち込めていました。
 3勝2敗で里見清麗が防衛第1期からの連覇になります。

 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは著名人ですから,面識はなくても,マイエルLodewijk MeyerもイエレスJarig Jellesも名前は知っていたと推測されます。一方,マイエルとイエレスはライプニッツと比べれば著名とはいえませんから,もしライプニッツがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからその存在を聞き及んでいなかったとすれば,名前すら知らなかった可能性があります。つまりライプニッツがオランダに着いたとき,マイエルのこともイエレスのことも,何も知らなかったという可能性は想定しておかなければなりません。
 ライプニッツがパリからすぐにドイツに戻らずに旅をした最大の目的は,スピノザとの面会にあったと推定できます。ロンドンまで行ってオルデンブルクHeinrich Ordenburgと面会したのは,そのための準備の一貫であったかもしれません。実際にそこでライプニッツは,オルデンブルクとスピノザの間で交わされていた書簡を見せてもらっているからです。ですからオランダでシュラーGeorg Hermann Schullerと会ったのも,スピノザとの面会の準備であったと思われます。そしてそうであれば,ライプニッツがシュラーに,ほかのスピノザの友人との仲介を求めたとしても不自然ではないことになります。シュラーはその求めに応じ,マイエルとイエレスをライプニッツに紹介したことによって,ライプニッツとマイエル,そしてライプニッツとイエレスの面会も成立したというのも,可能性のひとつとしてはあるでしょう。もちろん僕はこれが史実であったといっているわけではなく,このような物語を作ったとしても,成立はするといっているだけです。そして史実として確実であるといわなければならないのは,どういう経緯であったにせよ,ライプニッツがマイエルおよびイエレスに会ったということです。これはこれで重要なことなのですが,その重要性については後回しにします。
 ライプニッツはフッデJohann Huddeにも会いました。これももしかしたらスピノザとの会見の準備の一貫だったかもしれません。書簡三十四,書簡三十五,書簡三十六がフッデに宛てたものであったということが判明したのは,ライプニッツの研究家による発見によります。つまりこの3通の手紙については,このときのフッデとの面会でライプニッツは読んでいたと思われます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竜王戦&マイエルとイエレス

2020-08-18 18:59:16 | 将棋
 昨日の第33期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局。対戦成績は羽生善治九段が38勝,丸山忠久九段が19勝。
 振駒で羽生九段の先手となり丸山九段の一手損角換り4。ただし☖4二銀ではなく☖2二銀。先手の早繰り銀に後手が飛車を4筋に回る展開。後手が角銀交換の駒損の代償にと金を作る分かれに。先手は居玉で,できたと金が4七でしたので,後手の方が分がよかったのではないかと思えます。
                                        
 先手が☗8二角と打ち込み,後手が桂馬を跳ねて銀取りを受けた局面。ここから☗6三歩☖同玉☗4五角☖5四銀☗2三角成☖同金☗同飛成という二枚換えの攻めに出ましたが☖4八歩と反撃されて先手陣は収拾がつかなくなりました。
                                        
 一直線の攻め合いに出たのは先手のミスで,第1図か,☗6三歩☖同玉とした局面で,実戦の攻め筋は含みに残し,一旦は☗6八王とでも早逃げしておくのが優ったのではないでしょうか。それなら☖4八歩は実戦ほどは厳しくないので,手番を渡してももう少し戦えたように思います。
 丸山九段が先勝。第二局は25日です。

 面識はなくても,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausを介することによって,ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizとシュラーGeorg Hermann Schullerは互いの存在を知っていたのですから,スピノザに会いにいく直前にライプニッツがシュラーと会ったのは,チルンハウスの仲介によるものであったと思われます。
 チルンハウスは『エチカ』の草稿を所有することをスピノザによって許されていた人物でした。マイエルLodewijk MeyerとイエレスJarig Jellesも同様でしたので,チルンハウスがオランダにいた時代に,マイエルやイエレスと会うということはあったかもしれません。ただし,マイエルやイエレスがオランダ人で,古くからのスピノザの友人であったのに対し,チルンハウスはドイツ人であり,留学のためにオランダにやってきたのはおそらく1668年です。その後でシュラーを介してスピノザを知ったのですから,スピノザとの交流が始まったのはもっと後になってからになります。スピノザとの間での知られている書簡の最初のものが遺稿集Opera Posthumaに掲載された書簡五十七で,これは1674年10月のものです。チルンハウスがオランダを離れたのはこの翌年の夏ですから,実際にスピノザと顔を合わせての交流があった期間はごく短い間だった可能性もあります。ですから,チルンハウスはマイエルやイエレスを知らなかったとしても不思議ではありませんし,知っていても会ったことはなかったという可能性も残ります。これらはいずれもそういう可能性があるということであって,僕は確定させることができないと思っています。
 ライプニッツはアムステルダムAmsterdamで,マイエルおよびイエレスとも会ったのだと思われます。おそらく別々に会ったのではないでしょうか。そしてその仲介は,チルンハウスによるものであったかもしれませんし,そうでなかったかもしれません。そうでなかった場合は,シュラーが仲介したとするのが妥当です。シュラーはイエレスともマイエルとも面識があった筈だからです。また,チルンハウスはそもそもマイエルやイエレスと会ってなかっただけでなく,よく知らなかった可能性もあるのですから,ライプニッツもまた,アムステルダムに到着したときには,ふたりのことをあるいは片方を,知らなかった可能性もあります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドゥーニャ&文通の期間

2020-08-17 19:07:27 | 歌・小説
 『『罪と罰』を読まない』ではスヴィドリガイロフのソーニャになり得た存在として指摘されているのが,ラスコーリニコフの妹のドゥーニャです。ドゥーニャは愛称で,ドゥーネチカが本名です。
                                        
 『罪と罰』に登場するのは第二部ですが,実質的に描かれているのは第三部の冒頭からです。ドゥーニャは母親と一緒に一家の故郷に住んでいて,ペテルブルグに出てきたラスコーリニコフを訪ねます。母親は3年も別れていたと言っていますから,おそらくこのときが3年ぶりの再会であったのでしょう。
 このとき,ドゥーニャはルージンという男と結婚することが決まっていました。しかしラスコーリニコフはその結婚を望んでいません。ドゥーニャが一家の経済的事情によって嫁がざるを得ない状況にあるから結婚するのであって,そのような結婚は卑劣であると思えたからです。この結婚に関する話が,第三部の冒頭の親子3人の話の中心です。このとき,そこにはラスコーリニコフの唯一の親友といえるラズミーヒンが同席していました。ラズミーヒンはドゥーニャに恋心を抱きます。ラスコーリニコフもラズミーヒンのことを応援します。ただこれは微妙なところもあって,ラスコーリニコフがドゥーニャにルージンとの結婚を諦めさせるためにラズミーヒンを利用した,というような読み方も可能かと思います。
 第三部の最後に登場するスヴィドリガイロフは,かつてドゥーニャを家庭教師として雇っていました。その頃は妻があったのですが,その妻は死に,というかおそらくは殺し,ドゥーニャを追ってペテルブルグへ来たのです。要は妻があった頃から,スヴィドリガイロフはドゥーニャが好きだったということになります。
 ルージン,ラズミーヒン,スヴィドリガイロフの3人に惚れられるという役回りを与えられていますから,分かりやすくいえば,ドゥーニャは『罪と罰』では「もてキャラ」ということになります。

 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがパリに滞在していた頃,ホイヘンスChristiaan Huygensもパリにいました。そしてふたりは知り合っています。ホイヘンスはフッデJohann Huddeやスピノザの研究の成果を知るために,オランダに残っていた弟に手紙を送っています。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,スピノザと本当に仲がよかったのは,ホイヘンスより弟だったとされています。ですからライプニッツがそうしようと思えば,パリにいた時期も,極秘裏にスピノザと書簡のやり取りをすることは可能であったと思われます。しかし書簡七十二でスピノザがいっていることの意味に,ライプニッツがパリにいることを知らなかったということが含まれているとすれば,ライプニッツがパリに移って以降は,スピノザとライプニッツの間で文通がなされていなかったことになります。この場合,ライプニッツが初めてスピノザに送った書簡四十五が1671年10月付で,先述したように翌1672年にはライプニッツはマインツの選帝侯の指示によってパリに行っているので,スピノザとライプニッツとの間で文通が行われていたのはきわめて短い期間であったということになります。ただし書簡七十二では,スピノザはライプニッツのことを,手紙を通して私の知っている人物,と表現しているので,書簡四十五と書簡四十六以外にも,ライプニッツとスピノザの間で手紙のやり取りがされていたことは確実です。
 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausはオランダを離れてからは,基本的にシュラーGeorg Hermann Schullerを介してスピノザと書簡のやり取りをしていました。ただし書簡七十の内容から,チルンハウスがパリに到着したのは1675年になってからです。ですからライプニッツがシュラーを利用してスピノザと書簡のやり取りをしていた可能性はきわめて低いといわなければなりません。ですがチルンハウスがパリに到着してライプニッツと出会ってからは,シュラーという存在のことをライプニッツは知っていたと考えられます。一方,シュラーは書簡でチルンハウスからライプニッツのことをきいていますから、ライプニッツとシュラーは,オランダでの初対面の以前の段階で相識であったと確定していいでしょう。ただし,マイエルLodewijk MeyerとイエレスJarig Jellesについては分かりません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする