スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

完全性&自然権の制限

2023-10-31 19:02:09 | 哲学
 悪の確知に関してはまだ考えなければならないことが残されているのですが,少なくともそれが十全な認識cognitioであり得るということは分かりました。なので第四部序言でスピノザが人間の本性の型と関連付けて善bonumと悪malumについて言及しているとき,それは十全な観念idea adaequataである,あるいは十全な観念であり得るというように解釈して,さらにスピノザが何をいっているのかをみていきます。
                                     
 スピノザはこの後で,この人間の本性natura humanaの型を,善悪だけでなく完全性perfectioとも関連付けます。そこでいわれているのは,人間がこの本性の型により多く近づく限りにおいてその人間のことをより完全といい,より少なく近づく限りにおいてその人間のことをより不完全というということです。ここで注意しておかなければならないのは,人間がより不完全といわれるのは,人間の本性の型により少なく近づく限りにおいてなのであって,人間の本性の型から遠ざかる限りにおいてではないということです。ではなぜそのようにいわれなければならないのかといえば,現実的に存在する人間がより大なる完全性からより小なる完全性に移行するとか,より小なる完全性からより大なる完全性に移行するといわれるとき,これは前者は第三部諸感情の定義三により悲しみtristitiaを,後者は第三部諸感情の定義二により喜びlaetitiaを意味するのですが,そうした喜びも悲しみも,ある本性ないしは形相formaから別の本性ないしは形相に変化するという意味ではないからです。たとえば馬の本性が人間の本性ないしは形相に変化するということは,馬がゴキブリの本性ないしは形相に変化するのと同じ意味で,馬が馬ではなくなるということを意味するのであって,それでは馬の本性の型により多く近づいているともより少なく近づいているともいえません。つまり馬がより完全であるともより不完全であるともいえないのです。
 したがって,ここで人間の本性の型により多く近づくとかより少なく近づくとかいわれているのは,近づく人間の本性の力potentiaについてそういわれているのです。つまりその人間の力が増大しているか減少しているかがいわれているのです。いい換えれば事物の完全性,すなわち第二部定義六により実在性realitasとは,力という観点からみられた事物の本性なのです。

 政府が市民Civesに対して優っている度合いに相当するだけの権利juraしか有し得ないのは,僕の考えでは当然であるように思えます。このことは,乳児が泣くことが乳児の自然権jus naturaeに属するということから考えれば明白でしょう。どのような政府であっても,乳児が泣かないようにする権利を有するということはできないからです。他面からいえば,乳児に対して泣かないように要求するということは,乳児に対して不可能なことを要求しているに等しいからです。そしてこのようなことが,諸個人の自然権に対して適用されるのです。これは僕がいっている受動的自由に関連することですが,ある種の受動passioに対して政府が市民に対してその自由libertasを制限するということは,実際には政府が市民に対して不可能なことを要求しているに等しいのです。ですから仮に政府が市民に対してそうした要求をしているとしても,市民はその自然権を行使することになるでしょう。
 したがって政府が市民に対して力potentiaを発揮するのは,市民の自然権が拡充するような方向である必要があるのです。そしてそのようにすることで,国家Imperiumの平和paxも道徳心も保たれまた発展していくことになるのです。スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の冒頭で,哲学する自由libertas philosophandiを認めても道徳心や国の平和は損なわれず,むしろそれを制限したときにそれは損なわれるのだという意味のことをいっていますが,それはまさにこの哲学する自由が市民の自然権に属するからです。そしてスピノザのこうした哲学的な自然権を考えることが,具体的なスピノザの政治論を導くことになるであろうと僕は考えます。
 ここまでに示してきた例でいえば,養育者が乳児を養育することは養育者の自然権に該当します。そしてより多くの人が協力して乳児を養育することで,その自然権というのは拡充します。政府が乳児の養育に対して何らかの支援をする,つまり社会福祉の政策としてそれを実行するのであれば,それは養育者の自然権が拡充されるがゆえにそうした政策が実行されるべきである,あるいはそうした政策が実行されるのが好ましいとされなければなりません。単にそれが政府にとって有益であるという観点からなされてはならないのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒューリック杯白玲戦&譲渡と拡充

2023-10-30 19:46:41 | 将棋
 28日に浅草で指された第3期白玲戦七番勝負第七局。
 振駒で西山朋佳女流三冠が先手となって三間飛車からの向飛車。後手の里見香奈白玲の向飛車で相振飛車に。この将棋は先手が1筋の位を取らせて菊水矢倉に組むという作戦を採用。後手の腰掛銀が使いにくくなって先手の作戦勝ちとなりました。
                                        
 第1図で☗2六歩と突いたのが決め手。☖同飛は☗8四角の十字飛車から銀を取った手が角取りになり,後手が角を取ってくれば先手も角を取るし,後手が角を逃げれば先手も逃げて,先手が銀を得することになります。そうなってはいけませんからここで☖9五香と角を取るのは仕方がないところ。先手も☗2五歩と飛車を取りました。もし先手の玉が2八にいれば☖2六同飛が王手になりますから,この順が可能になったのも先手が菊水矢倉に組んだからです。
 後手は☖7七角成と桂馬を取りました。これは思わしい受けがないので首を差し出したような手。☗8四飛☖8三歩☗同桂成☖同桂☗9一銀☖同王に☗9三歩で後手玉は寄りとなりました。
                                        
 ☗8三飛成ではなく☗9三歩と打つのが肝心なところ。☗8三飛成だと☖9二銀でもうひと粘りを許すことになります。
 西山女流三冠が勝って4勝3敗で白玲を奪取第1期以来となる2期目の白玲です。

 ホッブズThomas Hobbesによれば,自然権jus naturaeというのは自分自身の生命を維持するために各人が意志する通りに自分の力potentiaを用いる自由libertasのことをいうのでした。そして実際に各人がその自由に従って行為する状態が自然状態status naturalisです。しかしこの自然状態は,万人の万人に対する戦争状態でもあります。そのゆえに各人はその自然権を全面的に譲渡することによって国家Imperiumを形成するのです。しかしすでにみたように,これは理念的な説明であって,このような意味での自然状態というのを人類は歴史の中で経験してきたわけではありません。
 ここから理解することができるように,各人が各自の自然権を全面的に譲渡するということも理念的にいえることです。そこに実在的な意味を見出そうとするのであれば,むしろ各人は自然状態にあろうと国家の中にあろうと同じように自然権を有しているのであって,国家が形成されるのは各人の自然権が拡充されるからであると説明するべきなのです。これがスピノザのいう自然権の説明として適切であると僕は考えます。
 スピノザは『国家論Tractatus Politicus』の第一三節ではこの種の自然権の拡充の基本を説明しています。また,イエレスJarig Jellesに宛てた書簡五十の冒頭でホッブズの国家論と自身の国家論の相違,すなわち,スピノザは国家においても各人の自然権をそっくりそのまま残しているといった後で,そのゆえにどのような政府であっても,力において市民Civesに優っている度合に相当する権利しかもっていないといっています。たぶんこのときスピノザは,単にホッブズと自身の相違だけを語ろうとしているのではなく,ホッブズを暗に批判しようとしているのです。なぜなら,各人が国家に対してその自然権を全面的に譲渡してしまうなら,各人は国家に対して一切の力をもつことができなくなるので,政府は思うように市民に対して力を発揮することができるということが帰結してしまうからです。これは政治論の文脈でいえば,独裁制あるいは貴族制に対する批判になっているといえますが,そうした政治論の部分を抜きにしても,市民が政府に対して一切の力をもっていないということは,政治体制がどうであってもあり得ないことであるとスピノザはいいたいのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

競馬法100周年記念天皇賞(秋)&理念的状態

2023-10-29 19:51:16 | 中央競馬
 第168回天皇賞(秋)。武豊騎手が5レースの終了後に騎乗していた馬に蹴られて右の太腿を負傷したためドウデュースは戸崎騎手に変更。
 逃げたのはジャックドール。向正面の周回コースに入って4馬身くらいまでリードを広げました。2番手にガイアフォースで3番手にイクイノックス。4番手がノースブリッジとヒシイグアス。6番手にドウデュースとアドマイヤハダル。8番手がエヒト。9番手にダノンベルーガ。2馬身差でジャスティンパレス。3馬身差の最後尾にプログノーシス。前半の1000mは57秒7のミドルペース。
 3コーナー付近でジャックドールのリードは2馬身くらいに。コーナーではイクイノックスが単独の3番手となり,2番手のガイアフォースとの差は3馬身くらい。直線の入口で馬群が凝縮。坂に入ってガイアフォースが先頭に立ったものの,イクイノックスがほぼ持ったままで並び掛けると仕掛けられて抜け出し,後は引き離してレコードタイムで快勝。馬場の外からダノンベルーガ,プログノーシス,ジャスティンパレスの3頭が並んで追い込み,ガイアフォースを差して2着争い。大外のジャスティンパレスが2馬身半差で2着。真中のプログノーシスが1馬身4分の1差で3着。内のダノンベルーガはアタマ差の4着。
 優勝したイクイノックスはこれが宝塚記念以来のレース。5連勝で大レース5勝目。第166回に続き天皇賞(秋)は連覇。ここははっきりと能力上位といえるメンバー構成で,不利も生じにくい頭数となりましたので,よほどのことがない限りは勝つだろうと思っていました。タイムはさすがに早すぎる感がありますが,無理をしたような内容ではありませんから,通常以上の負担がかかったということはないのではないかと思います。父は第156回を制したキタサンブラックで父仔制覇。母の父はキングヘイロー。4代母がブランシュレインで母は2015年にマーメイドステークスを勝ったシャトーブランシュ。ひとつ上の半兄が2021年にラジオNIKKEI賞を勝ったヴァイスメテオール。Equinoxは春分と秋分。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は菊花賞に続く大レース制覇。第158回,160回,162回,166回に続き,連覇となる天皇賞(秋)5勝目。第159回,161回,167回に続き天皇賞は三連覇となる8勝目。管理している木村哲也調教師は宝塚記念以来の大レース7勝目。第166回からの連覇で天皇賞(秋)は連覇となる2勝目。天皇賞も2勝目。

 ここまでの考察から,ホッブズThomas Hobbesがいうような,万人の万人に対する戦争状態とされる自然状態status naturalisというものが,あくまでも理念的なものであって,実際に人類がそういう状態を経験したというわけではないということは明らかになったと思います。また同時に,スピノザがいっているように,人間は国家状態においても自然権jus naturaeを全面的に放棄したり譲渡したりするというわけではなく,むしろ国家Imperiumの中においても,ホッブズがいうのと同じような自然状態において保持している自然権を,そっくりそのまま有しているということも明白になったと思います。乳児は自然権によって泣き,養育者は自然権によって乳児を養育するのであれば,そのことは自然状態であろうと国家の中においてであろうと同様であるからです。
 ただし,僕は次のことは認めます。
 ひとりの乳児を養育するというときに,ひとりの養育者で養育するよりも,何人かで協力して養育することによって,質の面でも量の面でもよりよい養育を行うことができます。このことはそれ自体で明らかでしょう。養育者は自然権に基づいて乳児を養育するのですから,何人かで協力することによってひとりの乳児を養育すればよりよく養育することができるのであれば,それは養育者の自然権が拡充しているということになります。ですから自然権を拡充するために,ある養育者が別の養育者と協力するということはあり得るのであって,そのときに養育者たちは互いに互いの自然権だけを行使することは放棄していることになります。
 ごく一般的にいえば,人間はひとりで何かをするよりも,何人かで協力してそれをなす方がより多くのことをなし得るのであって,そのときに協力する人が多くなればなるほどより多くのことをなし得ることになります。よってこのような方向で国家の形成あるいは社会契約説というのを理解することは,必ずしも理念的なものではないのであって,少なくとも部分的には実在的な意味をもち得ることになるでしょう。他面からいえば,自然権という概念notio,あるいは社会契約という概念を用いて国家を理解するのであれば,こういう方向で理解するのが適切だと僕は考えているのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竜王戦&養育者の自然権

2023-10-28 18:50:31 | 将棋
 25日と26日に旧安川邸で指された第36期竜王戦七番勝負第三局。
 伊藤匠七段の先手で相掛り。歩を得した先手が棒銀で攻め込み,それに対して後手の藤井聡太竜王が受けるのではなく反撃するという将棋。この将棋は後手の強さが際立ったという感想しか残りません。
                                        
 第1図まで後手が踏み込んでいるのも驚きなのですが,ここからさらに☖5九角☗7九玉☖4八角成☗3九歩の王手まで決めておいて☖3三桂と取りました。
 今度は先手の攻めのターンで☗同飛成☖3二金☗4二銀☖同金☗5四桂。
                                        
 第2図まで進むと後手玉は部分的には受けはありません。ただ,☖3九龍と歩を取る手が王手となり,これに対して☗同龍と取るしかないので受かるという仕組みです。
 第2図というのは前から想定される局面ですから,このように進んでも大丈夫という読みが後手にはかなり前からあって,そのためにこのように進めているわけです。前々から深く読んで実際に第2図に進めるのはよほど読みに自信がなければできない筈で,これが現在の藤井竜王の強さの原点になっていると僕には思えるのです。
 藤井竜王が勝って3連勝。第四局は来月10日と11日に指される予定です。

 人類の滅亡を防ぐためには,乳児がひとりで生きていくことができない以上,人類は乳児を養育する必要があります。いい換えれば人類にはそうしたコナトゥスconatusがあるといわなければなりません。ですから現実的に存在するある人間が,現実的に存在する乳児を養育するということは,その人間のコナトゥスであるということができるのです。つまり乳児が泣くことで何事かを要求することがその乳児のコナトゥスであるとみなすことができるのと同様に,養育者が乳児を養育することもその人間のコナトゥスであるということができるのであり,したがって乳児が泣くことが乳児の自然権jus naturaeであるのと同様に,養育者が乳児を養育することも養育者の自然権に属するといえるのです。
 こうしたことは,スピノザが自然権というのを人間に特有の権利としていないことといくらかの関係をもっています。人類は人類の自然権を行使し,またたとえば馬は馬の自然権を行使しといった具合に各々の個物res singularisがそれぞれに自然権を行使する中で,乳児を養育することが自然権になる個物もあればそうでない個物もあることになります。他面からいえば,人類は人類の自然権に基づいて人類の乳児を養育するのであって,それ以外の個物の自然権に関してそれに留意する必要はないのです。要するに,いわゆるスピノザの哲学における人間中心主義というのがここから帰結してくるのであって,人類は人類の自然権に基づいて,人類以外の自然Naturaについては思うままにそれを利用する権利を有するということになるでしょう。環境保護とか動物愛護といった思想が,スピノザの哲学と相性が悪くなる理由はこの点に存するといえます。
 ただ,自然権はコナトゥスに由来するのですから,それが人類のコナトゥスに反する限りでは,環境保護とか動物愛護といった思想もスピノザの哲学から出てこないわけではありません。たとえばある自然を破壊していくことが人類の滅亡を招くのであれば,それは人類のコナトゥスにむしろ反することになりますから,それが人類の自然権に属するとはいえません。要はこうしたこともすべて人類の利益および害悪から人間によって判断されることになるのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リコー杯女流王座戦&人類の歴史

2023-10-27 19:04:05 | 将棋
 25日に目白で指された第13期女流王座戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王座が37勝,加藤桃子女流四段が12勝。
 リコーの会長による振駒で里見女流王座の先手となり5筋位取り中飛車。左美濃にした後手の加藤女流四段が中盤で優位に立ち,端から猛攻して終盤の寄せを目指しました。
                                        
 第1図では☖3七銀成☗同金として☖2四桂と打つ順があったと思われます。☗2五銀が最善の受けなのでしょうが☖3三桂があるので,この順は先手玉が寄っていたのではないかと思います。
 ただ第1図のような局面では先手玉を下段に押し戻すのが本筋で,この順を逃したのは致し方なかった面もあったと思います。実戦は☖1五香と取り☗同銀に☖1六香☗2八王の順で押し返し,☖1八飛☗3九王☖4七銀成☗同金寄☖1九飛成☗2九香☖1八香成☗4九王と進めました。
                                        
 第2図まで進んで先手玉に寄せがなかったのが後手の誤算。それでも寄せようと☖6八銀と打ったのが敗着で☗5八飛と銀取りに逃げられて手段を失いました。第2図まで進めたのは仕方なかったので,ここは☖2九成香として1五の銀を抜く順で我慢しなければなりませんでした。手順としては変調ですが,局面としてはまだ難しかったと思います。
 里見女流王座が先勝。第二局は来月10日に指される予定です。

 養育者が養育を放棄するという事態になれば,被養育者はひとりでは生きていくことができないのですから死ぬことになるでしょう。これは最終的には人類が滅亡することを意味します。しかし事実として,人類の歴史は継続しています。これが何を意味するのかといえば,養育者はホッブズThomas Hobbesがいう意味での自然権jus naturaeを行使しているわけではないということです。よって,人類の歴史が続いてきたということが証明しているのは,たとえホッブズがいうような自然状態status naturalisにおいても人間は自然権を譲渡していたのであるということであって,他面からいえば,ホッブズがいうような自然状態というのは,人類の歴史において存在しなかったということです。いい換えればこの種の自然状態,万人の万人に対する戦争状態というのは,人類の歴史の中で現実に存在した時代を意味するのではなくて,社会契約説によって国家Imperiumを説明するときの,ある理念型,スピノザの哲学でいえば理性の有entia rationisとしてのみ存在するということです。スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では社会契約説を利用して国家を説明していますが,確かにそこでは自然状態というのは,国家の成立を容易に説明するための概念notioのようなものになっています。
 こうしたことは,ホッブズが解するような自然権に妥当するのであって,スピノザがいっている自然権に妥当するわけではありません。コナトゥスconatusというのはあらゆる個物res singularisが有するものであって,それは現実的に存在する個々の人間が有するものではありますが,スピノザがいう個物というのは,第二部定義七でいわれているように,多数の個物が協同したものにも妥当するので,たとえばすべての人間が協同した人類というものにも固有のコナトゥスがあるからです。コナトゥスは現実的本性actualis essentiaなので,現実的に存在するものだけが有する本性ですが,人類というのは現実的に存在すると解することができますから,人類には人類に固有のコナトゥスがあるということはできると僕は考えます。
 この場合,人類に固有のコナトゥスは,人類という自己の有esseに固執しますperseverare。それはつまり,人類が人類として存在し続けることを希求し,滅亡することを忌避するということです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典平和賞&乳児の自然権

2023-10-26 18:52:03 | 地方競馬
 北海道から4頭が遠征してきた昨晩の第69回平和賞
 4頭の先行争いとなりましたが,逃げたのはカプセルで2番手にコルベット。3番手にキタノヒーローとメイプルケンジという並びになりました。3馬身ほど開いてリュウノメディナとオオイチョウとプラズマ。また3馬身ほど開いてビッグショータイムとルーラーオブダートで最後尾にバハマフレイバーという隊列。前半の800mは50秒2のハイペース。
 3コーナーを回るとコルベットがカプセルに並び掛けていき,直線の入口ではカプセルの前に出ました。しかしここからまたカプセルが巻き返していくとコルベットの方が一杯に。逃げて差し返したカプセルを追ってきたのはキタノヒーローでしたが届かず,優勝はカプセル。キタノヒーローが4分の3馬身差で2着。内を回ったビッグショータイムと大外を回ったオオイチョウの3着争いとなり,外のオオイチョウがクビ差の3着。内のビッグショータイムが4分の3馬身差で4着。
 優勝した北海道のカプセルは南関東重賞初制覇。このレースは南関東勢の実績上位が前走でこのレースのトライアルを勝ったバハマフレイバー。鎌倉記念はもっと実績があった馬が出走していたものの北海道からの遠征馬が制しましたので,ここは北海道勢が上位だろうとみていました。実際に3着までを独占しましたので,その見立てでよかったのでしょう。その中でカプセルはブリーダーズゴールドジュニアカップで2着になっていた馬ですから実績で上位。能力的に順当な優勝だったといえそうです。一旦はコルベットに前に出られたのは一杯になったからではなかったのは明白で,気を抜くところがあったのかもしれませんし,左回りのカーブに苦戦したからかもしれません。また,スピードアップをするのに時間が掛かるタイプである可能性もあり,もしそうであるなら,距離の延長は歓迎という馬であることになります。母の10歳上の全兄に2001年に黒船賞と群馬記念と北海道スプリントカップとクラスターカップと東京盃とJBCスプリント,2002年に群馬記念,2003年に黒船賞を勝ったノボジャック
 騎乗した大井の笹川翼騎手はアフター5スター賞以来の南関東重賞18勝目。平和賞は初勝利。管理している北海道の田中淳司調教師は鎌倉記念に続いて南関東重賞3勝目。平和賞は初勝利。

 もしスピノザのように,自然権jus naturaeはコナトゥスconatusに由来し,人間の自然権は欲望cupiditasに由来するとするなら,乳児にも自然権があるとみなすことができないわけではありません。なぜなら,乳児が泣くのは何かを求めてのことであり,何かを求めるというのは欲望とみなすことができるので,泣くことは乳児の欲望の発露であるとみなすことができるからです。つまり乳児が泣くことは乳児が自然権を行使しているのだといえないことはありません。とくにスピノザがいうコナトゥスも欲望も,人間が能動状態にあろうと受動状態にあろうと成立する概念notioになっていますので,乳児が泣くことは乳児の自然権の行使であるといえないわけではないからです。ですからこの場合は,ホッブズThomas Hobbesがいう自然状態status naturalisというのが仮にあるとしても,その状態において人間は一様に自然権を有するということはできるでしょう。
                                        
 しかしホッブズがいう自然権というのは,人間が自身の生命を維持するために自由な意志voluntas liberaによって行使する力potentiaです。乳児が泣くことが,乳児が生命を維持するための行為であるということはできるでしょう。しかしそれが乳児の自由な意志によるものであるというのはさすがに無理があります。ですから,ホッブズがいうような意味で自然権を解するのであれば,そしてこれはきわめて現代的な問題にもなるので,現代的な意味で自然権を解するという場合にも,もしも自然状態というのがあるのなら,そこには一切の自然権を有さない人間がいるといわなければなりません。そしてこれは当然のことですが,たとえ国家Imperiumの中にあっても,乳児に自然権があるということはできなくなります。なので,自然状態が万人の万人に対する戦争状態であるという見方が,必ずしも正しいとはいえないことになります。
 一方,乳児はひとりでは生きていくことができませんので,生きていくためには養育者が必要とされます。このときに養育者が自身の自然権だけを行使するのであれば,つまり養育者が自身の生命だけを維持するために自身の力を行使するのであれば,養育者はむしろ養育を放棄するということになると考えられます。その方が自身の生命を維持するだけなら有益だからです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新人王戦&個人と国家

2023-10-25 18:58:30 | 将棋
 24日に指された第54回新人王戦決勝三番勝負第二局。
 藤本渚四段の先手で相掛り。先手の引き飛車に後手の上野裕寿四段の高飛車という戦型になりました。この将棋は中盤で中央を手厚く指した先手がリードを奪ったのですが,終盤は後手にもチャンスがありました。
                                        
 この王手に対して☖8二玉と逃げました。このために☗7一角☖8一玉☗7二歩成以下の王手の連続で先手玉が安全になり,先手が勝っています。
 第1図は☖8一玉と逃げる手がありました。今度は角を打っていないので☗7二歩成は無効。よって☗5一龍と王手を掛けることになりますがそこで☖9二玉と逃げます。このとき先手には☗6五角と☗9三銀というふたつの有力手段があるのですが,どちらも後手玉は詰まずに先手玉が詰むという展開に進みそうです。なので第1図で☖8一玉なら逆転で後手の勝ちだったようです。
 藤本四段が勝って1勝1敗。第三局は31日に指される予定です。

 ホッブズThomas Hobbesが考える国家Imperiumの特徴として,国家において個人が自然権jus naturaeを放棄するということは,自然権を国家に対して全面的に譲渡することを意味します。したがってこの状態は理念的にいえば,国家がなければ個人というものは存在し得ないという帰結になります。これはひとつの考え方ではありますが,スピノザのように,国家においても個人の自然権が残るという考えからは,それとは逆に個人が存在しなければ国家というものは存在し得ないということが帰結しますから,この種の対立が生じます。これは政治論に関わることですから,ここではどちらが正しいかということを検討することはしませんが,基本的に社会契約説を導入して国家論を組み立てると,まず国家というものがあって,その国家の中で国民が形成されるといわなければならなくなるということは間違いありません。スピノザの国家論は明らかにこの考え方を否定するものであって,それはまたホッブズが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読んだときに衝撃を受けた要因のひとつになっているかもしれません。
 ここでより詳しく考えておきたいのは,この国家以前の状態としてホッブズがあげている自然状態status naturalis,すなわち万人の万人に対する戦争状態の現実性です。本当に人類の歴史においてそのような状態があったというようには僕には考えられません。これは,ひとりの人間が生きていくということを考えれば,容易に理解することができるのではないかと思います。
 人間というのは,これはとくに幼少期を思い浮かべれば分かると思いますが,単独で生きていくことができるわけではありません。もしひとりの人間が産まれてきたとしても,産まれてきたその状態ではその人間は何ひとつをなすことはできないのであって,ひとりで放置されれば死を迎えることになります。いい換えれば,産まれてきたときの人間に何がしかの自然権があるというのは無理があるのであって,人間にとっての自然権というのは,人間が育っていく過程において徐々に獲得してくものであるといわなければなりません。とくにホッブズのように,自然権を人間の自由意志voluntas liberaに関連させるなら,なののことそういわなければならないでしょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒューリック杯白玲戦&自然状態

2023-10-24 19:03:28 | 将棋
 21日に札幌で指された第3期白玲戦七番勝負第六局。
 里見香奈白玲の先手で西山朋佳女流三冠の向飛車。先手が袖飛車を匂わせたので三間飛車に戻り,先手も後手も飛車を3筋,2筋と動かすような対抗形に進みました。この将棋は中盤で後手が動き過ぎたために形勢を損ねそのまま挽回できないという一局でした。
                                        
 ここで後手は☖9五歩と動いていきました。先手は☗4三と☖6二銀の交換を入れてから☗9五歩と手を戻しました。後手はさらに☖7四歩として☗6五桂に☖7五歩。ただ☗3三角と受けに利く角を打たれてこれ以上は攻めを継続することができませんでした。
                                        
 後手の手順は不利とみて戦線を拡大したようにみえるので,すでに局面を悲観していたかもしれません。ただこの動きは大敗を招くことになりましたので,第1図は☖6二銀と先に逃げておき,☗4三となら☖6六歩のように指しておくのがよかったのではないでしょうか。
 里見白玲が勝って3勝3敗。第七局は28日に指される予定です。

 スピノザがいう自然権jus naturaeは諸個人の現実的本性actualis essentiaに由来します。個人の現実的本性というのは,個人が現実的に存在する限りは必ずその個人に属する本性です。ですから個人がどのような状況の下に存在しようと,その人間に属する自然権が変じるということはありません。このためにスピノザは書簡五十でいっているように,たとえ国家Imperiumの中においても個人の自然権というものをスピノザは消去しません。というか,何らかの状況において消去することができるものとしては,スピノザは最初から自然権を考えていないのです。
 これに対してホッブズThomas Hobbesがいう自然権は,諸個人の自由意志voluntas liberaに由来することになっています。したがって,意志を発揮することもできれば発揮しないこともできるということが前提となっていますから,自然権を自分が思うままに行使するかしないかということを,個人が自身の意志によって決定するdeterminareことができます。なので,特定の状況によっては人間は自然権の行使を放棄するという主張が成り立ちます。
 それでも,基本的には人間は,自分自身の生命を維持するという目的finisに制限はされているものの,その自然権を行使します。この状態のことをホッブズは自然状態status naturalisと定義しています。他面からいえば,自然状態においては何が自分の生命を維持するために有益であるのかということを,自身の自由意志によって決定することができるとホッブズは考えているのです。しかしこの場合,Aという人間が自身の生命を維持するために有益な事柄と,Bという人間が自身の生命を維持するために有益な事柄が,同一であるとは限らず,むしろ相反する場合が大いに生じ得るでしょう。なのでホッブズはこの種の自然状態は,万人の万人に対する戦争状態であるといいます。この戦争状態を回避するために,国家においては各人がその自然権を全面的に放棄することになります。これが社会契約説に繋がっていくのですが,前もっていっておいたようにここでは政治論や国家論についての考察はしません。
 このようなホッブズの論理というのは,その自然権が諸個人の自由意志に由来するということを離れても,別種の問題を孕んでいるように僕には思えます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寛仁親王牌・世界選手権記念&生命の維持

2023-10-23 19:12:15 | 競輪
 弥彦競輪場で争われた昨日の第32回寛仁親王牌の決勝。並びは小松崎‐佐藤‐渡部の福島,古性‐南の大阪,犬伏に諸橋で和田と河端は単騎。
 佐藤がスタートを取って小松崎の前受け。5番手に古性,7番手に和田,8番手に犬伏,最後尾に河端で周回。このまま上昇の動きがなく打鐘を迎えました。打鐘後のコーナーから犬伏が発進。諸橋がダッシュについていかれなかったので単騎の捲りに。犬伏は前の隊列から少し離れた外を回ったのでなかなか前に追いつけず,バックに入って古性の横あたりまで来たときに古性が発進して犬伏は不発に。古性が前を捲ると佐藤が古性マークの南を牽制。南が外に浮いたので南を追走していた和田が落車。後ろの動きとは関係なかった古性が優勝。番手を奪った佐藤が1車身半差で2着。佐藤マークの渡部が1車身差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は7月の福井記念以来の優勝。ビッグは6月の高松宮記念杯以来の7勝目。寛仁親王牌は初優勝。このレースは脚力では古性が断然というメンバー構成になりましたので,あとは位置取りがどうなるかがポイント。福島ラインの後ろを回り,だれも福島ラインを抑えに来なかったのでそのまま福島ラインが先行するという展開は,このラインの番手の佐藤にとって最高でしたが,このラインを追走していた古性にとっても悪いものではありませんでした。犬伏は自分が勝てるところから発進したということだったのでしょうが,それまでに何も動きがありませんでしたので前に追いつくところまで至りませんでした。これは厳しくいえば,自分の脚を過信しすぎていたということになるでしょうし,作戦負けともいえるでしょう。

 現実的にAという人間とBという人間のふたりの人間が存在すると仮定します。このときAの現実的本性actualis essentiaとBの現実的本性は異なります。このことも第三部定理二から明らかです。この定理Propositioによれば事物と事物の本性は一対一で対応し合うことになっています。このことは当然ながら事物の現実的本性にも適用されます。したがってAの現実的本性とBの現実的本性が一致するということは,AとBが同一人物であるということを意味しなければなりません。これはAとBというふたりの人間が存在するという前提に反します。したがって,Aの現実的本性とBの現実的本性は異なるのです。
                                   
 個物res singularisの現実的本性は,自己の有esseに固執します。それは,自己の存在existentiaに固執するperseverareという意味でもありますし,自己の力potentiaに固執するという意味でもあります。本来的にはこのふたつは一致するのですが,引き裂かれてしまった場合は,自己の存在に固執する場合もあるでしょうし自己の力に固執する場合もあるでしょう。したがって,Aは存在に固執し,Bは力に固執するという場合があり得ます。僕が示した実例でいえば,Aは副作用を忍耐して延命治療を受けるけれど,Bは副作用を回避するために延命治療を固辞するという場合があり得るのです。そしてここが重要なことですが,それはAの現実的本性でありBの現実的本性なのです。つまりどちらを選択するとしても第三部定理七に一致するということになるのです。よって,ホッブズThomas Hobbesは生命を維持するために力を行使することが自然権jus naturaeを行使することだといっていますが,AもBもその力を行使していることになります。つまり,生命を維持するということを,単純に生命を永らえることであると解することはできません。少なくとも存在するということが力の発現であるということを肯定するaffirmare場合には,力を維持するということが生命を維持するということと同じ意味になるので,文字通りに生命を維持するというように解釈することはできないのです。
 ここのところはスピノザとホッブズの間で一致するのですが,スピノザはそれを個物の現実的本性とみなすのに対し,ホッブズはそれを自由意志voluntas liberaに帰するので,乖離が生じてきます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菊花賞&存在と力

2023-10-22 19:05:17 | 中央競馬
 第84回菊花賞
 発走後に前にいこうとしたのはパクスオトマニカとリビアングラスとドゥレッツァ。先手を取ったのはドゥレッツァで2番手にパクスオトマニカ。2馬身差の3番手にリビアングラスという隊列になって1周目の直線へ。この3頭の後ろはダノントルネードとノッキングポイントとハーツコンチェルトとファントムシーフの集団。2馬身差でタスティエーラとシーズンリッチとショウナンバシット。11番手にサトノグランツ。その後ろがサヴォーナとナイトインロンドンとソールオリエンスの3頭。15番手にマイネルラウレア。2馬身差でウインオーディン。発馬で2馬身ほどの不利があったトップナイフが最後尾。2周目の向正面にかけてパクスオトマニカがドゥレッツァに並び掛けていき,向正面に入ると単独の先頭に。そのまま4馬身くらいの差をつけていくと,リビアングラスがドゥレッツァに並んでいき,3コーナーまでにかなり外の方からパクスオトマニカに並び掛けていきました。最初の1000mは60秒4のスローペース。
 3コーナーからはパクスオトマニカとリビアングラスの雁行の後ろにドゥレッツァとトップナイフとサヴォーナ。その後ろにダノントルネードとハーツコンチェルト。直線に入ると先頭に立ったリビアングラスのすぐ外からドゥレッツァがまた追い上げてきて先頭に。このまま抜け出すと後ろとの差を広げていって快勝。途中までは追ってきていたタスティエーラが最後は突き放されて3馬身半差で2着。大外から脚を伸ばしたソールオリエンスが1馬身半差で3着。
 優勝したドゥレッツァはこれが重賞初挑戦での大レース制覇。昨年の11月に2戦目の未勝利を勝った後は出走取消を挟んで1勝クラス,2勝クラス,3勝クラスとすべて勝利。これで5連勝となりました。逃げてから道中で先頭を譲って勝つというのは簡単な芸当ではなく,ここは能力の高さと同時に騎手の手腕も大きかったと思います。2着馬がダービー馬で3着が皐月賞馬。その2頭をこれだけ突き放して勝ったわけですから,かなり高い評価が必要かと思います。父はドゥラメンテ。Durezzaは音楽用語で激しさ。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は宝塚記念以来の大レース制覇。第77回,79回に続き5年ぶりの菊花賞3勝目。管理している尾関知人調教師は2021年の香港ヴァーズ以来の大レース5勝目。国内では2017年のスプリンターズステークス以来。菊花賞は初勝利。

 存在することがひとつのpotentiaなので,ホッブズThomas Hobbesがいっている自分自身の生命を維持するということは,自分自身の力を維持するということを同時に意味することになります。これはスピノザの場合にも該当するので,一致していることになります。そして,存在することが力を有しているということなのですから,そのふたつは本来は一致することになります。ところが,現実的に存在する人間は,時として存在するということと力を有するということ,あるいは存在するということと力を発揮するということが引き裂かれてしまう場合があるのです。これは例外的な事象とはいえるのですが,現実的にそうしたことが生じるのですから,その場合についても考えておかなければなりません。
 最も分かりやすい例は,延命治療のために強烈な副作用が生じるという場合です。この場合,ホッブズのいい方だと,生命を維持するために力を用いるということが自然権jus naturaeであるとされていますので,たとえどのような副作用が生じようと延命治療を受けるということがその人間の自然権であるということになります。他面からいえば,副作用を回避するために延命治療を避けるということは自然権を放棄しているということになります。しかし,生命を維持するということが力でもあるとみるなら,このようにいうことはできません。なぜなら,強烈な副作用によってなし得たことがなし得なくなるとすれば,それはある力が無力impotentiaになるということを意味するのであって,これはむしろ生命という力を維持することを放棄するという意味になります。つまりこの場合には,延命治療を受けることが自然権を放棄することで,それを避けることが自然権を行使するということになるでしょう。
 これについてはどちらが正しいということはないのです。つまり,副作用を忍耐して延命治療を受けるということも,延命治療は受けずに副作用を回避することも,同じように生命を維持するために力を維持しているということなのであって,スピノザの哲学でいえばそれぞれのコナトゥスconatusなのです。
 このことはコナトゥスを個物res singularisの現実的本性actualis essentiaとしているスピノザの場合で考えると分かりやすいでしょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コーフィールドカップ&一致点

2023-10-21 19:06:55 | 海外競馬
 オーストラリアのコーフィールド競馬場で行われたコーフィールドカップGⅠ芝2400m。
 このレースは前にいこうとした馬が多く,普通の発馬となったブレークアップは自然と8番手という位置取りになって発走後の正面を通過。向正面に入ったあたりで先頭からの差は7馬身くらい。出走馬が縦2列に並ぶような隊列でした。3コーナーを回ってから漸進していき前から4馬身差くらいに。この時点で前にいたのは4頭で,その4頭の外に出して直線へ。内に1頭入られましたが,残り300mあたりでは前にいた馬たちと雁行状態に。しかしそこからの伸びを欠いて,最終的には勝ち馬から5馬身4分の3差ほどの8着でした。
 この馬は昨年のアルゼンチン共和国杯を勝っているのですが,大レースでは通用していませんでした。それでも長距離戦のレベルはオセアニアより日本の方がはっきりと高いですから,通用するかもしれないとは思っていました。直線でタイトなレースになってしまった面はありますが,瞬発力を欠いたというような内容だったと思います。大レースで最も善戦したのは天皇賞(春)ですから,もっと距離が延びた方が通用する可能性は高くなりそうです。

 スピノザは第三部定理五七備考では,非理性的動物の感情affectusについて言及しています。ですからスピノザが厳密に感情が人間に特有のものであると考えているわけではありません。ただ,『エチカ』の対象は人間であるがゆえに,第三部諸感情の定義一では,欲望が人間の本性natura humanaに限定されているのです。備考Scholiumでは馬は馬らしい情欲libidoに駆られるとスピノザはいっていますが,情欲というのは欲望の一種であるとしか考えられません。ですから少なくとも馬が欲望を有することをスピノザは認めていると僕は考えます。なのでこの点に関してはとくに問題視することはないでしょう。
                                   
 第三部定理七の,自己の有に固執するin suo esse perseverareということは,ホッブズThomas Hobbesがいうところの,自分自身の生命を維持するということと関連付けて解釈することは可能でしょう。人間が自分自身の生命を維持するということと,人間が自己の有に固執するということは,いい方が異なっているだけで同じことをいっていると考えることはできるからです。ホッブズにとってはこれは自然権jus naturaeの目的finisのようなものであって,自然権というのはそのために自分の意志する通りに自分の力potentiaを用いる権利のことを意味するのでした。ですから,その部分をスピノザがいう自然権に適用することはできないとしても,たとえば,人間が自己の有に固執するためにその人間が力を行使する権利を自然権という,というよういえば,ホッブズがそのことに大きく反対するように思えません。なのでこの点は,ホッブズとスピノザとの間で一致させることが可能であると僕は考えます。
 ただし,スピノザがいうコナトゥスconatusというのは,それ自体が力という側面を有しているので,このような仕方でホッブズとスピノザとの間に折り合いをつけようとする場合には,注意しておかなければならないことがあります。存在するということは力であり,存在し得ないということは力と反対の意味で無力impotentiaを意味します。これはスピノザが第一部定理一一を証明するときに用いていることなので,スピノザは否定しませんし,ホッブズが否定するnegare必要は何もありません。だから,自己の有に固執するとは,自己の力に固執するということを同時に意味します。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竜王戦&コナトゥスと欲望

2023-10-20 19:21:00 | 将棋
 25日と26日に仁和寺で指された第36期竜王戦七番勝負第二局。
 藤井聡太竜王の先手で角換わり相腰掛銀。この将棋は後手の伊藤匠七段が金の繰り替えをしている間に先手が9筋の位を取り,この位の大きさの分だけ先手が有利に展開していたようです。しかし,不利に陥った後手が終盤で乾坤一擲の勝負手を放ちました。
                                        
 第1図から☖6六角☗同王と捨てて☖8四角と打つのがその手順。これに対しては☗7五歩と打つのが普通ですが,そこで☖7三角と取って龍取りに当てて粘ろうというもの。この順はたぶん☗5二龍として先手の勝ちだと思うのですが,この手順を嫌って☗6七王と逃げました。
 実戦はここで☖4六銀としたために☗同金☖同歩の局面で後手玉に詰みが生じ先手の勝ちになりました。しかしここでは☖5八銀不成と王手をして☗同王に☖4六歩と突く手があったようです。同じように銀を渡すのですが,これは3五に銀が残っていて後手玉は詰みません。また☗5七金と逃げてしまうと☖7六飛成と金を取られてこれは逆転模様です。なので☖4六歩には☗6八玉と逃げ☖7六飛成とさせて☗7七金と受けることになりそうです。後手も龍を逃げてはいられないので☖4七歩成☗7六金☖5七角成と進めるしかなさそう。ここから☗7七王☖5六馬☗8八王が変化の一例。
                                        
 第2図は先手玉は残っていそうですが,後手は受けに回ることもできそうなのでまだ簡単ではなさそうです。感想戦が時間の都合でこの局面に至る前に終了してしまったのですが,この変化を先手が見据えていたかどうかは気になるところです。
 藤井竜王が勝って連勝。第三局は25日と26日に指される予定です。

 個々の人間に固有の現実的本性actualis essentiaは,『エチカ』ではふたつの仕方で考えることができます。ひとつは第三部定理七でいわれているコナトゥスconatusです。もうひとつは第三部諸感情の定義一欲望です。第三部定理七では現実的本性という語がそのまま使用されています。第三部諸感情の定義一では,人間の本性natura humanaそのものといわれていて,現実的本性という語が使用されているわけではありません。しかし各々の変状affectioが与えられるのは人間が現実的に存在する限りにおいてのことなので,この人間の本性は人間の現実的本性を意味します。
 このふたつは違ったことをいっているように思われるかもしれませんが,そういうわけではありません。ごく単純に説明すれば,第三部定理七でいわれている,事物が自己の有esseに固執しようとするということは,感情affectusとしてみれば欲望であるといえるからです。相違があるとすれば,第三部定理七は一般的な真理veritasであって,人間にだけ妥当するというわけではありません。いい換えればこれは現実的に存在するすべての個物res singularisの本性を意味するのであって,人間は現実的に存在する個物のひとつであるということからこの定理Propositioが適用されるのです。スピノザの思想における自然権jus naturaeは,自然権を有する事物の現実的本性に由来するので,第三部定理七が現実的に存在するすべての個物に適用される以上,現実的に存在するすべての個物が自然権を有するという結論が出てくることになるのです。これに対して第三部諸感情の定義一は,そこでいわれている通り,人間にだけ,つまり現実的に存在する個物のうち人間だけに適用される本性です。これは欲望に限ったことではなく,スピノザは,ごく一部の例外を除き,感情というのを人間にだけ適用されるものであるとしています。欲望はいうまでもなく感情のひとつですから,欲望が現実的本性であると規定されるのは,人間だけであるということになるのです。
 このスピノザの見方については反論もあるでしょう。僕も人間だけが特有に感情を有するというように解する必要はないと思っています。とくに欲望のような感情を人間にだけ適用するのは,現実的にいって無理がある見解ではないかと思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霧島酒造杯女流王将戦&固有の権利

2023-10-19 19:20:59 | 将棋
 17日に指された第45期女流王将戦三番勝負第二局。
 香川愛生女流四段の先手で西山朋佳女流王将の三間飛車。先手の左美濃から後手が先攻。後手が攻めて先手が受けるという将棋になりました。
                                        
 ここで後手は☖7五歩と打ちました。先手が☗同金と取ったので☖6六角と打ち☗7六金☖5七角成で馬を作ることに成功。先手が☗5九飛と銀取りを受けたところで再び☖7五歩。先手が☗8六金と逃げたので後手も☖4八馬と逃げました。
                                        
 第1図の☖7五歩を取ったのなら,2度目の☖7五歩のときに☗5七飛と馬を取れるのでなければ,先手は後手に馬を作らせただけになってしまいます。馬を取るわけにはいかなかったので第2図になりましたが,これは後手が一方的に得をして差がついてしまいました。なので第1図からの☖7五歩にすぐ☗8六金と逃げておいた方が,先手としてはよかったということになるでしょう。
 西山女流王将が連勝で防衛。第41期,42期,44期に続く連覇で4期目の女流王将獲得となりました。

 自然権jus naturaeが,自分自身の生命を維持する権利であるという点については,スピノザとホッブズThomas Hobbesの考え方を一致させることができると僕は考えます。
 スピノザの哲学における自然権は,事物の現実的本性actualis essentiaに由来します。現実的に存在する事物はどんなものであれそれに固有の現実的本性を有します。このことは第二部定義二の意味から明白です。事物の本性はその事物の存在existentiaを鼎立するのですが,それは逆にいえば,事物の存在はその事物の本性によって鼎立されるという意味ですから,ある事物に本性がない,本性がないというのは奇妙ないい方なので,ここでは本性が矛盾を含むといい換えますが,もし本性が矛盾を含んでいるのであれば,そうした本性を有するものは存在できません。よって事物が現実的に存在するためにはその事物に固有の現実的本性が必要になります。これはつまり,事物が現実的に存在しているならその事物は固有の現実的本性を有しているということになります。
 このために,スピノザの哲学における自然権は,人間に固有の権利ではありません。現実的に存在するのは人間だけでなく,むしろ無限に多くのinfinitaものが存在するのであって,そうしたものはすべて現実的に存在する以上は現実的本性を有しているからです。この現実的本性が自然権の由来となっている以上,現実的に存在するすべてのものが自然権を有するといわなければならないのです。
 たぶんホッブズはそのようには考えてなく,自然権は人間に固有の権利であると考えていると思われます。ホッブズが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読んで衝撃を受けた理由のひとつは,スピノザが自然権をこのような権利として考えていることが理由になっているかもしれません。だからこの点でもスピノザが考えている自然権とホッブズが理解している自然権との間には相違があるといわなければならないのですが,この点もここでは無視します。というのは,仮に自然権が人間に固有の権利であると考えるとしても,スピノザがいう自然権とホッブズがいう自然権との間には一致する点を見出すことができるからです。なのでここではホッブズが考えているように,自然権を人間に固有の権利と解します。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埼玉新聞杯埼玉新聞栄冠賞&現代的問題

2023-10-18 18:56:33 | 地方競馬
 第33回埼玉新聞栄冠賞
 マンガンはダッシュが鈍く1馬身の不利。逃げたのはランリョウオー。2番手はヴェルテックスとなり,3番手にジョエル。4番手がオーヴェルニュで5番手にエルデュクラージュ。3馬身差でユアヒストリー。7番手にカイル。3馬身差でナムラカメタローとミヤギザオウ。10番手にコスモセイリュウとコパノジャッキー。2馬身差の最後尾にマンガンという隊列で1周目の正面を通過。前半の1000mは62秒9のハイペース。
 3コーナーを回ると前の2頭の外からジョエルが接近。ヴェルテックスは苦しくなり,ランリョウオーとジョエルが並ぶように直線に。直線に入っても競り合いは続きましたが,最後はジョエルがランリョウオーを差して優勝。ランリョウオーの外から追い込んできたユアヒストリーが逃げたランリョウオーに迫ってフィニッシュ。こちらは写真判定になり,逃げ粘ったランリョウオーがクビ差の2着。ユアヒストリーがハナ差で3着。
 優勝したジョエルは前走のオープンから連勝。南関東重賞は一昨年の黒潮盃以来となる3勝目。この馬は古馬と対戦するようになった後,昨年の3月までは勝てないまでも善戦を続けていたのですが,その後は大敗も目立つようになりました。今年の5月に入ってオープンを連勝して復活。その後の2戦は負けていましたが前走は6馬身差の圧勝。その勢いのまま古馬の南関東重賞を制覇しました。今年の5月以降の連勝は所騎手が乗ってのものだったのですが,騎手との相性がよほどよいのだろうと思います。ただ,戦績からは調子の浮き沈みが激しいタイプと思えますので,安定した成績を残すのは難しいかもしれません。父は2004年にサラブレッドチャレンジカップ,2009年に黒船賞兵庫ゴールドトロフィー,2010年に兵庫ゴールドトロフィーを勝ったトーセンブライト。母の父はダイワメジャー
 騎乗した船橋の所蛍騎手はデビューから半年で南関東重賞初制覇。管理している船橋の張田京調教師は南関東重賞13勝目。埼玉新聞栄冠賞は初勝利。

 ホッブズThomas Hobbesによる自然権jus naturaeの解釈が,その時代において主流なものであったかどうかは分かりません。ただ,もしもそれが確かにそうであったとしたのなら,スピノザによる自然権の理解の方が,かなり変わったものであったということになります。もっともスピノザは,人間には自由意志voluntas liberaがあるということを否定しているのですから,もしも人間の自由意志が自然権という概念notioと関係しているのであれば,そうした自然権についてスピノザが認めることができなかったのは当然です。ですからこのことは単にホッブズやスピノザが生きていた時代についてだけそのようにいえるというわけではないのであって,現代的な問題も含んでいることになります。すなわち現代でも人間には自由意志があるという錯覚は主流な見解opinioとみなすことができるのであって,もしもそのことが自然権と関係して理解されているのであるとすれば,スピノザの見解は現代においても異質なものとならざるを得ないからです。少なくとも刑法などは,人間には自由意志があるということを前提として制定されていると理解する必要があると僕は考えますので,それを自然権と結びつけるかどうかということは別にしても,人間に自由意志を認めないスピノザの哲学は,現代においても異質な哲学であるのは間違いないと僕は思っています。いい換えれば,ホッブズがいうような自然権という概念は,スピノザがいう自然権の概念よりも,現代においても受け入れやすい概念になっているのは確かでしょう。
                                      
 次に,ホッブズは自然権の目的finisとして,現実的に存在する諸個人が,自分自身の生命を維持するということをあげていて,このことがホッブズにとっては重要だったと伊豆蔵は指摘しているのですが,この点に関してはスピノザの考え方と一致する,少なくともある程度の調整を加えれば一致させられると僕は考えます。スピノザは目的論を排除しますので,人間の自然権というものが何らかの目的を遂行するために存在するという考え方は採用しませんが,この部分は単にいい方としてそのようになっているだけで,ホッブズが目的論を意識していたと解する必要はありません。なのでこの相違は無視します。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒューリック杯白玲戦&自然権と自由意志

2023-10-17 19:15:40 | 将棋
 14日に京都で指された第3期白玲戦七番勝負第五局。
 西山朋佳女流三冠の先手で三間飛車。先手が玉の囲いを後回しにしたのをみた後手の里見香奈白玲が大模様を張っての三間飛車の相振飛車に。この後の後手からの攻めに先手は矢倉に組めましたので,作戦として悪くはなかったと思うのですが,その矢倉の金銀が進出していく展開に進んだので,形勢は互角でも先手が勝ちにくい将棋になってしまった印象です。
                                        
 ここでいずれ7七の桂馬が跳ねていくときに飛車を成られるのを防いで☗7九歩と打ったのですが,☖8四歩☗4六金☖9六飛と回られて先手が一気に苦しくなりました。
 第1図では後手が局後に指摘しているように☗7九銀と引くのがよく,それならまだ五分の形勢を維持できました。ただここで銀を引いて立て直していくのはやりにくそうに感じます。ですからすでに第1図の時点で,後手の方が勝ちやすい局面となっていたということなのではないかと思います。
 里見白玲が勝って2勝3敗。第六局は21日に指される予定です。

 ホッブズThomas Hobbesは『リバイアサンLeviathan』において,著作家たちが自然権jus naturaeといっている権利とは,諸個人が自分自身の本性essentia,すなわち自分自身の生命を維持するために自らが意志する通りに自分自身の力potentiaを用いる自由libertasのことであって,自分自身の判断および理性ratioによってそのために最も適していると考えられることについて,どのようなことについても行うことができる自由のことであるという主旨のことをいっています。したがってホッブズは,自然権という語に特殊な意味を与えようとしているわけではなく,著作家たちがいっている通りの意味でこの語を用いようとしていることになります。著作家たちがいっている自然権というのが,確かにこのような意味であるかということは,このことだけで断定することができるわけではないのであって,本来であれば考察するべきことです。しかし少なくともホッブズは自然権という語をそのように理解していたのであって,ここではホッブズがどう理解していたということの方に意味がありますから,確かに自然権という語がそのように使われていたかどうかは探求しません。
 このことのうち,自分自身の生命を維持するということが,ホッブズにとっては重要であったと伊豆蔵は指摘しています。このことは,各人が自身の生命を維持するということが,それら各人,すなわち人間が集団で生活していく場合にどのような事象になるのかという観点から重要なのであって,これはホッブズの理論の核心となる社会契約説とも関係することになります。しかしここではホッブズの理論を深く考察することを目的としているわけではありませんから,この関係についての詳しい説明は省略します。ただ,ホッブズが自然権を解するにあたって,このことを重視していたということは,この考察にとっても重要ですので,押さえておいてください。
 再びホッブズにとっての自然権がいかなるものであったのかということに戻れば,それがスピノザが解する自然権とは大きく異なっていることは明白だということが理解できます。というのも,スピノザは人間に自由な意志voluntas liberaがあるということを認めていないのですから,これと同じではあり得ないのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする