スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

中野カップレース&公理系の認識

2019-06-30 19:07:54 | 競輪
 久留米記念の決勝。並びは杉森‐平原‐木暮‐神山の関東,山崎‐中川の九州で桜井と三谷と松浦は単騎。
 中川がスタートを取って山崎の前受け。3番手に三谷,4番手に松浦,5番手に杉森,最後尾に桜井で周回。残り3周の最終コーナーから杉森が上昇開始。ホームで山崎を叩いて誘導は退避。続いた桜井が5番手,6番手に山崎,8番手に三谷,最後尾に松浦の一列棒状となってバックから打鐘。ホームに入って山崎が反撃。最終コーナーでインを掬っていた三谷が中川をどかして番手を奪取。しかしコーナーで木暮が牽制し,山崎が大きく浮いてしまい三谷も共倒れ。バックから自力に転じた中川が発進。ですが最終コーナー手前から平原に番手から発進されて中川は一杯。そのまま粘った平原が優勝。マークの木暮が半車身差の2着に続いて関東のワンツー。中川に乗る形となった松浦が1車輪差で3着。
                                        
 優勝した埼玉の平原康多選手は昨年9月の共同通信社杯以来の優勝。記念競輪は昨年5月の京王閣記念以来の19勝目。久留米記念は初優勝。このレースは杉森の先行が有力。ただ,山崎,三谷,松浦の力は明らかに杉森より上なので,平原が番手捲りができるような展開になっても簡単にはいかないのではないかと思っていました。実際に木暮の牽制がなければ勝負はどうなっていたか分からないと思います。ただ,雨になったのは,その分だけスピードが出にくくなるため,関東ラインには幸いしたのではないでしょうか。

 公理系全体の正当性を公理系で証明することはできないということは一般的な真理veritasなので,当然ながら『エチカ』の公理系にも適用されます。ところがゲーデルの不完全性定理は,公理系の正当性を証明することは不可能であるということをいっているわけではなく,それを公理系によって証明することができないといっているように解釈することができます。逆にいえば,公理系の正当性は,公理系以外の要素によって証明される,証明され得るというように理解できるのです。僕が前に再構成したカヴァイエスJean Cavaillèsの方法は,これを前提として進められていると解せます。カヴァイエスは不完全性定理のうちに,理性ratioによる推論の限界というのをみてとったわけですが,理性による推論以外の認識方法でなら,公理系の正当性を証明することができると考え,そういった認識cognitioを目指していたのだと考えられるからです。
 同時にここにはもうひとつの前提が含まれています。それは,公理系によって僕たちが何事かを認識するのであれば,それは僕たちが理性による推論でそれを認識しているのだということです。カヴァイエスが探求していたのは,公理系を認識するcognoscereのとは異なった認識のあり方であるといえますから,カヴァイエスがそれを前提としていたのは間違いないと僕は思います。一方,それが本当に前提となり得るのかということは,一般的には僕は分からないです。ただ,スピノザの哲学でいえばたぶんこの前提は成立します。なぜなら,スピノザの哲学では,理性による推論は第二種の認識cognitio secundi generisと規定されるのですが,この第二種の認識の基礎をなすのは共通概念notiones communesであって,スピノザはこの共通概念を公理Axiomaと等置しているからです。これは要するに第二種の認識の基礎をなすのは公理であるといっているのと同じことですから,公理系は第二種の認識に基づいて認識されるということになるでしょう。その第二種の認識のことをスピノザは理性による認識であると説明しているので,僕たちが公理系を認識するのは理性によってであるということが,少なくともスピノザの哲学の中では成立します。というより,このことは成立していなければならないというように僕は考えます。
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ヒューリック杯棋聖戦&不完全性定理の意義

2019-06-29 19:19:19 | 将棋
 沼津倶楽部で指された第90期棋聖戦五番勝負第三局。
 渡辺明二冠の先手で矢倉。後手の豊島将之棋聖は雁木。後手が端から攻めていったタイミングが悪く,苦戦を招いてしまいました。
                                        
 後手が5筋の歩を伸ばした局面。ここではすでに駒損でも先手が指しやすい筈ですが,ここからシンプルな手順の連続で決めました。
 まず☗2二歩☖同金と形を乱します。それから☗5四桂☖同銀で駒損を回復。露骨に☗6三銀と打ち込み☖同銀☗同歩成☖同金寄に再び☗6四歩☖5三金寄☗6三銀と露骨に打ち込みます。
 ここで清算すると☗5五銀で先手の飛車まで攻めに参加してきてしまうので☖6一金と引くのは止むを得ないところ。さらに☗5四歩☖4三金と拠点を作っておいて☗7四銀成としました。
 一見すると緩い手ですが,と金を作る先手になっています。そこで☖6二歩と受けたのですが☗6三歩成☖同歩に☗7三角成。これが☗6三馬の先手なので☖6二銀と受けますが☗5五馬と引いて先手は盤石の態勢です。
                                        
 受けるのも難しい後手は反撃に出ましたが,あっさりと攻めが切れてしまいました。この将棋は先手の快勝譜といっていいでしょう。
 渡辺二冠が勝って2勝1敗。第四局は来月9日です。

 第二部公理四は,僕たちは身体corpusが多様な仕方で刺激されるafficiことを感じるといっています。これが公理Axiomaとして成立するのは,僕にはどう考えても経験に訴えているとしか思えません。岩波文庫版の旧版なら117ページ,新版では140ページの第二部自然学②要請三は,自然学Physical Digressionの中で証明され得るということはでき,これが証明され得るなら第二部公理四も証明され得ると僕は考えますが,この公理は自然学より前の部分にあたる第二部定理一三で,僕たちの精神を構成するMentem constitutens観念の対象ideatumが身体であることを証明するのに必要とされていて,公理として成立していなければならないのです。ですがこれが公理として成立し得る要素が経験にしかないのであれば,僕たちが経験し得ることは何であれ公理的性格を有し得るということになるでしょう。しかるに,僕たちがあることを知っているならそれを知っているということを知り得るということは,やはり僕たちの経験に訴えることはできる筈です。第二部定理四三の重要な点は,僕たちがあるものについて真の観念idea veraを有するなら,それが真の観念であることを疑い得ないという点にあるのですが,その理由は,僕たちの精神のうちにたとえばXの真の観念があるなら,Xの真の観念の観念も僕たちの精神のうちにあるということに依拠するので,結局のところこれもまた公理的性格を帯びているのではないかと僕には思えるのです。
 さらに,これが公理的性格を帯びるのであるとすれば,それはすべての公理系において公理的性格を帯びるといわなければなりません。たとえば僕はゲーデルの不完全性定理が真verumであるということを知っていますが,僕は同時に,それが真であるということを知っているということを知っていることになるからです。
 これでみれば分かるように,どのような公理系にあっても,その公理系の内部にある単一の事項だけを抽出するなら,それが真であるということを否定することができないものがあるということは,僕自身は認めざるを得ないのではないかと思います。不完全性定理の意義はそういう点にあるのではなく,公理系全体の正当性は公理系によって証明できないという点にあると僕は解します。
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同意できない内容&『エチカ』への影響

2019-06-28 19:22:37 | 哲学
 第二部公理五の意味のうちには,確かに僕たちが認識するcognoscereことができる属性attributumは,延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumだけであるという意味が含まれていると僕は考えます。一方で,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが書簡六十三書簡六十五で示している論理構成によれば,僕たちは無限に多くのinfinita属性を認識することができるのでなければなりません。こちらは第二部定理七備考でスピノザがいっていることに端を発する論理になっています。しかもその論理構成は,すべてスピノザが同意しなければならないと思われるようなものによって構成されていました。つまりチルンハウスは第二部定理七備考と第二部公理五には矛盾があるといっているのですが,実際には単に矛盾があるといっているのではなく,第二部公理五の方は誤りなのではないかといっているのです.
 しかし,書簡六十四書簡六十六のチルンハウスへのそれぞれの返信では,スピノザはそれらの間には何の矛盾もなく,したがって第二部公理五は成立するといっています。これはいい換えれば,スピノザがすべて同意しなければならないと思われるようなチルンハウスの論理構成のうちには,実際にはスピノザが同意できないような内容が含まれているということになります。
                                        
 これはどのようなものであるのかということを探求したのが,『個と無限』の中の「竝行と同一」という論文です。そのタイトルから理解できるように,佐藤一郎は,XとYが同一であるということと,XとYが平行関係にあるということは異なるのであって,チルンハウスは,あるいはチルンハウスの質問の解釈者はそれを正しく理解していないという観点から説明しています。これはこれで有益な議論であり,また佐藤がいっていることは正しいと僕は考えます。ですが前にもいったように,僕はこのことを,別の観点から考えてみます。
 第二部定理七備考から思惟以外のXの属性にAという様態modiがあれば,やはり思惟以外のYという属性には,Aと原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoが同一のA´という様態があります。このとき,AとA´は実在的に区別されなければなりません。これは第一部定理四から明白でしょう。

 カヴァイエスJean Cavaillèsにとってゲーデルの不完全性定理がどのような意味があり,それをどのように受け止めたのかはお分かりいただけたものと思います。ただし具体的にカヴァイエスがどのようにそれを解決したのかということについてはここでは探求しません。事前に示唆しておいたように,僕はゲーデルの不完全性定理についてはかねがね考えてみたいことがありましたので,そちらを考察の対象とします。カヴァイエスにとって不完全性定理がもつ意味がどのようなものであったのかということ,またそれをどのように受け止めたということについては,その考察と関連するので紹介したのです。その部分については鼎談における近藤の発言をそのまま記述するのではなく,僕が再構成したのはそういう理由からです。
 ゲーデルの不完全性定理は,一般に公理系は公理系の内部でその真理性を証明することができないというものでした。ですからこれは数学の公理論だけに適用されるものではなく,公理系で記述されているようなものについてはすべて適用されるのです。ですから幾何学的秩序によって記述されている『エチカ』にも適用されなければなりません。したがってゲーデルの不完全性定理によれば,『エチカ』は『エチカ』の内部においては『エチカ』の真理性を証明することができないということになります。
 僕はゲーデルの不完全性定理についてはずいぶん前のことになりますが触れたことがあり,この定理が成立するということは肯定します。ですから『エチカ』が『エチカ』の内部において『エチカ』の真理性を証明することができないということは認めます。僕は真理veritasというものを認識されるものと考えていることはすでに説明しました。スピノザの哲学ではこの意味での真理というのは真の観念の観念という意味であって,これは第二部定理四三に示されています。実はこの定理Propositioというのは必ずしも証明されなくても成立するのではないかという要素が含まれていると僕は思います。僕たちがXを知っているときには,僕たちはXを知っているということも知ることができるということは,必ずしも証明されなくともそれ自体で明白であるかもしれないからです。
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農林水産大臣賞典帝王賞&推論の限界

2019-06-27 18:58:30 | 地方競馬
 昨晩の第42回帝王賞
 スーパーステション,インティ,シュテルングランツと逃げたい馬が3頭いましたので,まず先行争いに注目していました。押していったスーパーステションを外からインティが楽に抜いて前に。シュテルングランツはさらにその外から押していき,インティを抜いて強引に逃げに持ち込みました。2番手にインティ,3番手にスーパーステションと前の並びが決まり,4番手がチュウワウィザードで5番手にモジアナフレイバー。6番手はリッカルドとミツバ。8番手にアポロケンタッキーとノンコノユメ。10番手にグレイトパールとオールブラッシュ。12番手にオメガパフュームとサブノクロヒョウ。最後尾にサウンドトゥルーという隊列で1周目の正面を通過。向正面に入るあたりでシュテルングランツのリードは3馬身。3番手のスーパーステションと4番手のチュウワウィザードの差が2馬身。さらに5番手のモジアナフレイバーとの差も3馬身と,前はばらばらになりました。前半の1000mは61秒2のハイペース。
 3コーナーでシュテルングランツのリードは1馬身半くらいに。インティは楽に追い掛けましたがスーパーステションは脱落。チュウワウィザードが外から追い掛けてきました。直線に入るとすぐにインティが先頭に。追ってきたチュウワウィザードがインティを抜いて先頭に出ると,一旦は抜け出したのですが,コーナーでよい手応えで外から追い上げていたオメガパフュームが大外から伸び,チュウワウィザードを差して優勝。チュウワウィザードが1馬身4分の1差で2着。チュウワウィザードとオメガパフュームの間から鋭く伸びたノンコノユメがアタマ差まで迫って3着。
 優勝したオメガパフューム東京大賞典以来の大レース2勝目。ここはチュウワウィザード,オメガパフューム,インティの能力がほかより上。ただ,大井の2000mとなるとスピード寄りのインティは苦しむケースも考えられ,優勝候補はチュウワウィザードとオメガパフュームではないかと思っていました。結果的にその2頭での決着となったわけですが,オメガパフュームの方に凱歌が上がったのは,展開の影響が大きかったと思いますので,はっきりとした能力の差があるわけではないと思われます。思い切って控えた騎手の判断が最大の勝因といっていいかもしれません。母の父はゴールドアリュール。従姉に昨年の愛知杯を勝ったエテルナミノル
 騎乗した船橋の短期免許を取得しているダミアン・レーン騎手は宝塚記念に続き日本での,また日本馬での大レース3勝目。管理している安田翔伍調教師は東京大賞典以来の大レース2勝目。

 近藤はバディウAlain Badiouについて,数学を集合論だと思っていて,公理論的方法を理解していないという主旨のことをいっていました。それに続けて,カヴァイエスJean Cavaillèsの立場に立つのであればそれは違うといっています。カヴァイエスが考えたスピノザ主義は,集合論と無関係であるとはいえないけれど,本質的な意味では関係ないと断定しています。これでみれば分かるように,カヴァイエスはスピノザについては,公理論的方法を用いる哲学者,数学的にいえば公理論者として理解していたことになります。一方,カヴァイエス自身は数理哲学者であって,数学者ではありません。ですがこの近藤の一連の発言からみれば,数学的には公理論者であったとみることができます。そうであるなら,公理系が真verumであるということを公理系では証明できないというゲーデルの不完全性定理が,カヴァイエスにとって重大な問題となったということは大いにあり得そうです。
                                        
 カヴァイエスがそれをどのように受け止めたのか,あるいは受け止めざるを得なかったのかということも,近藤は説明しています。これについては僕が再構成します。
 カヴァイエスにとって数学は,理性ratioによる推論によって成就されるものであれば最も好ましいものでした。カヴァイエスにとってそうした認識cognitioが学知scientiaといわれるものでなければならなかったからです。公理系の証明Demonstratioはこうした方法によってなされるものでしたから,カヴァイエスは公理的方法による認識を学知と考えていたと判断してもいいでしょう。ところがゲーデルの不完全性定理は,それだけでは学知が充足され得ないということを意味していました。ではどのような仕方で学知を成就させることが可能になるのかということをカヴァイエスは考え,その考えの下に成立したのがカヴァイエスに独自の数理哲学であったのです。
 理性による推論に限界があるという点は,カヴァイエスもゲーデルKurt Gödelに従っていました。ですが理性による推論ではないような認識というのはあるのであり,かつそういう認識があるということ自体は推論だけで肯定できるというのが基本的なカヴァイエスの立場です。つまりここには推論の限界という問題があったのです。
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サンケイスポーツ盃優駿スプリント&ゲーデルの不完全性定理

2019-06-26 19:22:17 | 地方競馬
 昨晩の第9回優駿スプリント
 好発はマルパソでしたがすぐに控えました。内からアジュディカグラ,ヴァルラーム,トーセンボルガ,レベルフォーの4頭が並んで出る形。2列目にポッドギル,ロイヤルビクトリー,ケンガイア,ナガタブラックの4頭。3列目はスマートドレイクとホールドユアハンドで4列目にフォルベルスとマルパソ。以下はマルヨキング,カンゲキ,ニーマルティアラが単独で続き,離れた最後尾にグローリアスライフ。前半の600mは34秒4の超ハイペース。
 前の4頭から抜け出したのはトーセンボルガで2番手にはレベルフォー。3コーナーではこの後ろに3馬身くらいの差がつき外からナガタブラックが捲ってきました。直線に入るとレベルフォーは一杯。懸命に逃げ粘るトーセンボルガに残り150mあたりでナガタブラックが追いつき,あとは離していって快勝。大外から差し込んできたロイヤルビクトリーが1馬身4分の3差で2着。逃げ粘ったトーセンボルガが4分の3馬身差で3着。
 優勝したナガタブラックは南関東重賞初挑戦での優勝。これまでの戦績は900mで6戦5勝,1200mは3戦2勝,1500mと1600mでそれぞれ1戦ずつして着外と,典型的なスプリンター。前々走の900m戦は初の古馬相手のレースで5着。前走の1200m戦で古馬相手に勝っていました。この時期に古馬相手のB2クラスで勝ち負けする馬は,3歳戦では高く評価しなければならないのですが,前走は勝ちタイムが遅かった上,1200m戦での唯一の2着のときに負けた相手が出走していましたので,半信半疑の部分もありました。見た目通りの快勝で,時計も1秒つめてきましたから,現状の能力では抜けていたようです。この後,習志野きらっとスプリントに出走しても,能力的には通用しそうですが,この馬は発馬に難を抱えていますので,そのあたりは課題となってくるでしょう。父はクロフネ。祖母のふたつ上の半兄に,2001年に関屋記念,2002年に関屋記念と毎日王冠,2003年にアメリカジョッキークラブカップを勝ったマグナーテン
 騎乗した川崎の伊藤裕人騎手はデビューから10年2ヶ月で南関東重賞初勝利。管理している川崎の岩本洋調教師は南関東重賞6勝目。優駿スプリントは初勝利。

 それでは再びカヴァイエスJean Cavaillèsに関連した探求へ戻ります。
                                        
 カヴァイエスの思想について説明したときにいったように,カヴァイエスが独自の数理哲学を構築したのには,スピノザには思い至る由もなかった理由がありました。これについて鼎談の中で発言しているのは近藤和敬です。近藤には『構造と生成Ⅰ カヴァイエス研究』という著作があり,鼎談を行っている3人の中では,最もカヴァイエスの数理哲学に詳しい人物であると思われます。
 近藤によれば,カヴァイエスが数理哲学を構築するにあたって重要なポイントとなったことがふたつあり,そのうちのひとつとしてゲーデルの不完全性定理の証明があったそうです。これは1930年に証明されたものですから,スピノザが知ることがなかったものです。よってそれがカヴァイエスにとって重要なポイントとなるということをスピノザが知ることは不可能でした。
 ゲーデルの不完全性定理について詳しく探求するとなればよほどの時間をかけなければなりません。ここではそのような時間的余裕はありませんから,関連するポイントだけを説明しておきます。
 この定理が証明しているのは,どのような公理系であったとしても,その公理系が正しいということ,いい換えれば真verumであるということについてはその公理系の内部で証明することはできないというものです。気を付けてほしいのは,内部だけでは証明することができないというだけであり,一般に証明することが不可能であるということではありません。ただし,ある公理系が真であることを証明するために別の公理系を用いるとすれば,その公理系もまたその内部ではその正しさを証明することができません。よってこの循環は無限に続くことになります。ですから不完全性定理がもっていた実質的な意味は,公理系が真であるということを公理系によっては証明することができないということだったと僕は考えます。
 次にこの定理は仮説ではなく定理であって,きちんと証明されています。ですから公理系が公理系によっては真であることを証明できないというのは一般的な真理veritasなのであり,すべての公理系に妥当すると考えなければなりません。
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五稜郭杯争奪戦&推奨理由

2019-06-25 19:10:53 | 競輪
 函館記念の決勝。並びは新山‐守沢‐斉藤の北日本,諸橋‐稲村の上越,渡辺‐小埜‐内藤の南関東で南は単騎。
 新山が前受け。4番手に南,5番手に諸橋,7番手に渡辺で周回。残り2周のホームで上昇してきた渡辺が新山を叩いたところで誘導が退避。切り替えた諸橋が4番手,やはり切り替えた南が6番手,引いた新山が7番手で,わりと長めの一列棒状となってバックから打鐘。ホームに入って単騎の南が発進。バックで諸橋が切り替え,コーナーの手前で南が前に迫ると渡辺の番手から小埜も発進。後方にいた新山はこれらの外から捲り,最終コーナーの途中で前をすべて捲り切って先頭。2番手が内から小埜,南,諸橋,新山マークの守沢の4人で併走に。捲り切った新山はそのまま後ろを離して優勝。諸橋に執拗に絡まれる形になった守沢ですが,持ち応えて直線は外から伸び,5車身差の2着に続いて北日本のワンツー。3着は南と,直線で小埜と南の間に進路を取った諸橋マークの稲村,小野の後ろから大外に回った内藤の3人で接戦。写真判定の結果,4分の3車身差の3着は南。内藤が微差の4着で稲村は8分の1車輪差の5着。
 優勝した青森の新山響平選手は3月の別府のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2016年の函館記念以来となる2勝目。この開催は有力選手の敗退もあり,決勝メンバーをみた限りでは新山と渡辺が優勝候補で,そこに南や諸橋がどこまで絡めるかというレースになるのではないかと思いました。新山が前を取ったのは,最初から引いて捲る競走をするつもりがあったからだと思います。そう考えれば渡辺は前に出た後,もう少し流してしまってもよかったのではないでしょうか。あまりペースを緩めずにそのまま駆けたために渡辺が苦しくなり,後方の新山に向く展開になったように思います。南は単騎ながらいいレースをしたのではないでしょうか。

 さらにもう一点,以下のような事情があり,これが僕が同一の事物に形相的側面と客観的側面があるという解釈を推奨する最大の理由になります。
 この考察で具体的な質問として示した,スピノザの哲学において「我」というのは形相的にformaliter存在するといえるのかという類の疑問は,唯物論的思考に慣れた人から発せられやすいものだといえます。この質問は客観的有esse objectivumすなわち観念ideaが「我」として存在するということは暗黙の前提とした上で,それが形相的にもすなわち物体corpusとしても存在しているといえるのかということを問おうとしているといえるからです。
 ところが,もしどんな事物にも形相的側面と客観的側面があるという解釈を採用すると,この質問に対する答えは,それは事物の客観的側面だけに注目するから出てくる疑問なのであり,その形相的側面に注目するなら自ずから答えは明らかであるというようなものになります。つまり,事物の客観的側面ばかりに捉われている,いい換えれば認識論的な思考に偏っているからそのような疑問が発生するのであって,形相的側面にも着目する,すなわち唯物論的思考も取り入れればそのような疑問が生じてくる余地はないと答えることになるのです。
 実際のところ,どんな事物にも形相的側面と客観的側面があるというように解釈してしまえば,何であれXが形相的に存在するかという質問自体が無効になります。これだけでもこういう解釈を採用することには大きな意味があるといえるでしょう。すでにみたように,この解釈は平行論の理解に対しては何の問題も齎さないからです。しかしそればかりではなく,本来であれば唯物論的な思考に慣れている立場から発せられそうな問いが,実は認識論的な立場に立っているがゆえに発せられてしまうような問いへと移行するのです。ここに大きな意味があります。なので僕は,スピノザの哲学において「我」は,厳密にいうなら「我」に限ったわけではなく何でもいいのですが,それが観念としてではなく形相的にも存在するといえるのかという類の疑問を感じる人には,形相的側面と客観的側面は同じ事物の異なった側面あるいは観点であるという解釈を推奨するのです。
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生まれた時から④&利点

2019-06-24 19:10:17 | 歌・小説
 までで歌い手であるあたしと,あたしが好きになってしまったあんたとの関係の全貌が明らかになりました。ですからで歌われていた部分の,あの娘の魅力のおこぼれ,というのが何を意味するのかが分かったことになります。そしてあの娘を失ったあんたが飲んだくれるようになったのと同じように,あんたが本当に好きなのはあの娘だということを知ってしまったあたしも飲んだくれることになるのです。

                                       

     いまさら嫌いに変われるはずもなし
     聞かなかったふりして もろともに飲んだくれ


 この,聞かなかったふり,というのは二重に受け止めることができます。ひとつはあんたの仲間から聞かされた昔のあんたのは姿のことであり,もうひとつはあんたがあたしに浴びるように聞かせた恋の歌のことです。

     飲んででもいなければ 悲しみは眠らない
     あの娘の魅力のおこぼれで 夢を見た


 悲しみが眠らないのはあんたもそうであり,またあたしもそうなのです。なのでこの部分には気持ちのシンクロがあるのです。もしかしたら飲んだくれるようになったあたしは,いずれだれかに恋の歌を浴びせ,そのだれかを勘違いさせることになるのかもしれません。

 僕が推奨する解釈は,実際には「我」あるいは人間という同一の事物に,形相的側面と客観的側面があり,それが形相的観点からみられたら身体corpusといわれ,客観的観点からみられた場合は精神mensといわれるというだけに留まるものではありません。むしろ第二部定理七備考が,文字通りにならそう解釈できるように,すべての事物に客観的な側面と形相的な側面があるのであり,それらは単に観点の相違に帰着するというものです。
 この解釈にはいくつかの利点があります。そのうち最も重要なのは,この解釈はスピノザの哲学の中心をなす平行論と齟齬を来さないという点にあります。この部分の考察の最初にいったように,スピノザの哲学が平行論であるというのは,観念論あるいは認識論ではなく平行論であり,かつ唯物論ではなく平行論であるという意味がありました。ですから平行論と齟齬を来さずにスピノザの哲学を解釈するのはとても大切なことなのです。
 スピノザの哲学に平行論を論理的に導入するのは第二部定理七です。そこでは観念とその観念の対象の原因と結果の連結と秩序は同一であるOrdo, et connexio idearum idem est, ac ordo, et connexio rerumといわれています。ところが,僕が推奨した解釈は,この定理Propositioに合わせていうなら,観念と観念の対象とを同じ事物のふたつの観点あるいは表現とみなすものです。ですから原因と結果の連結と秩序はひとつしか存在しないことになります。いい換えれば第二部定理七というのは,この解釈を採用する限りでは,証明するまでもない自明なこととなるのです。
 ただ,実際は第二部定理七が証明されているということは,観念と観念の対象が,文字通りには同一の事物ではなく,区別することが可能な事物であるということの証明のようなものです。この定理は第一部公理四にのみ訴求して証明されているのですが,この公理Axiomaは,認識されるべき原因と結果が認識cognitioの外にあって,それが認識されなければいけないということをいっていると解せるからです。とはいえこれを同一の事物と解したとしても,第二部定理七が成立するという点では同じなのですから,観念とその対象が同一のものであると解釈したとしても,スピノザのいわんとする主旨を逃すことにはなりません。
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宝塚記念&第二部定理七備考

2019-06-23 19:16:27 | 中央競馬
 第60回宝塚記念
 好発はスティッフェリオでしたが最内のキセキがハナへ。2番手は内のアルアインに,行きたがるように上がってきたリスグラシューが外から並ぶ形。4番手に控えたスティッフェリオとスワーヴリチャード。あとは1馬身の間隔でレイデオロ,クリンチャー,タツゴウゲキ,ノーブルマーズ,エタリオウ,ショウナンバッハと続きました。12頭は集団で4馬身離れた最後尾にマカヒキ。最初の1000mは60秒0のスローペース。
 道中でリスグラシューが単独の2番手に上がり,逃げるキセキを追う形で3コーナーに。アルアインとスワーヴリチャードが3番手で並びました。直線に入るところでもキセキの手応えには余裕があるように見えましたが,やや失速。2番手で追っていたリスグラシューが楽に差して優勝。3馬身差の2着にキセキ。前の4頭では最も手応えが悪く見えたスワーヴリチャードでしたが外からしぶとく伸びて2馬身差の3着。逆に手応えがよさそうだったアルアインは意外に伸びを欠き2馬身差で4着。
 優勝したリスグラシューエリザベス女王杯以来の大レース2勝目。牡馬相手の大レースは勝てていませんでしたが,海外でも2着があったくらいで相応の力はありました。序盤は明らかに掛かっていたと思うのですが,2番手でしっかりと折り合うことができたのが勝因でしょう。キセキが昨秋ほどのペースでは逃げず,スローになったため,前の位置を取った馬だけが勝負圏内でした。その点で,決め脚に優るこの馬には幸いしたといえます。とはいえこのペースにしては考えられないくらい上位に差がついての入線になりました。なので僕には分からないのですが,何かそうなる要因がほかにあったのかもしれません。父はハーツクライ。Lys Gracieuxはフランス語で優雅なユリ。
                                        
 騎乗したオーストラリアのダミアン・レーン騎手はヴィクトリアマイル以来の日本馬でのまた日本での大レース2勝目。管理している矢作芳人調教師オークス以来の大レース10勝目。宝塚記念は初勝利。

 スピノザは第二部定理七備考の冒頭で,すべての属性attributumは唯一の実体substantiaに属しているという意味のことをいいました。それに続く文章では,以下のようなことをいっています。
 「思惟する実体と延長する実体とは同一の実体であって,それが時にはこの属性のもとにまた時にはかの属性のもとに解されるのである」。
 このことは第一部公理五第一部定理一四から明らかで,ここではこれ以上のことは説明しません。さらに続けてスピノザは次のようにいいます。
 「同様に,延長の様態とその様態の観念とは同一物であって,ただそれが二つの仕方で表現されているまでである」。
 同様に,といわれているので,これは延長Extensioの実体と思惟Cogitatioの実体が同一であるのと同様に,という意味でなければなりません。このとき,延長する実体と思惟する実体は,いい換えれば延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumは区別することが可能な別の属性であり,その区別distinguereは実在的区別です。延長の様態modiとその観念ideaについてもそれと同様でなければならないのですから,たとえばある物体corpusとその物体の観念は区別が可能であり,延長の属性と思惟の属性が実在的に区別されるのと同様に,実在的に区別されることになります。これは僕が区別によって人間の身体humanum corpusは形相的にformaliterあるといったことを帰結させる論理です。このとき,備考Scholiumの文言が,延長の様態とその観念が同一物であるといっているのは,文字通りに同じもの,すなわち区別することができないものであるという意味には解することができなくなるので,これは平行論における同一個体であるといっているという意味に解することになります。
 しかし,この部分は文字通りに,延長の様態とその観念は同じものである,区別することができないような同じものであると解せなくありません。延長の属性と思惟の属性とは実在的に区別されなければならないとはいえ,延長する実体と思惟する実体は,文字通りに神Deusという同一の実体であるからです。この場合には,僕が推奨した解釈を,さらに一般的にいっていることになります。つまり,どんな事物にもその形相的側面と客観的側面があり,その相違は観点あるいは表現の相違に帰着するからです。
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畠中説の不都合&推奨する解釈

2019-06-22 19:06:59 | 哲学
 第三部諸感情の定義一四の安堵securitasと第三部諸感情の定義一五の絶望desperatioは反対感情です。また,第三部諸感情の定義一六の歓喜gaudiumと第三部諸感情の定義一七の落胆conscientiae morsusも反対感情です。このことはスピノザが示した各々の定義Definitioの文言から明白だといえるでしょう。
                                   
 しかし,安堵および絶望と,歓喜および落胆との間には文言に明白な相違があります。安堵と絶望は未来あるいは過去の物の観念ideaから生じる喜びlaetitiaないしは悲しみtristitiaといわれているのに対して,歓喜と落胆は過去の物の観念を伴った喜びないしは悲しみであるといわれているからです。つまりここにはふたつの相違があります。ひとつはものの観念から生じるのかそれともものの観念を伴っているのかという相違であり,もうひとつはそのものが未来と過去の両方と関係するのか,それとも過去とだけ関係するのかという点です。
 僕はまずこの点に,畠中のような解釈,すなわち希望spesから生じる喜びが安堵で悲しみは落胆,不安metusから生じる喜びが歓喜で悲しみが絶望であるという解釈には不都合があると思います。なぜ希望から生じる喜びと不安から生じる悲しみは未来および過去と関係し得るのに,希望から生じる悲しみと不安から生じる喜びは過去だけとしか関連し得ないのかを十分に説明するのが難しいと思うからです。また同様に,希望から生じる喜びと不安から生じる悲しみは,ものの観念が原因causaとなるのに対し,希望から生じる喜びと不安から生じる悲しみの場合には,ものの観念が原因であるわけではなく単に伴われているだけであるのがなぜなのかということも十分に説明することができないと思うからです。
 僕は第三部諸感情の定義一三説明から,希望と不安は表裏一体の感情affectusなので,希望から生じる感情は不安からも生じると解し,喜びは安堵で悲しみは絶望であると解するといいました。少なくともこのように解すれば,畠中説のような不都合が生じないのは確かだといえるでしょう。

 僕はここまでのような区別distinguereの論理によって,「我」はスピノザの哲学においては形相的にformaliter存在すると解します。いい換えればスピノザの哲学は人間の身体humanum corpusが形相的有esse formaleであるということを排除しない哲学であると解します。ですが,もしスピノザの哲学に触れて,「我」というのは形相的に存在するとスピノザは考えているのだろうかということを疑問に感じるのであれば,これとは別の解釈を採用することを僕は推奨します。
 第二部定理一三系は,人間は精神と身体とからなっているhominem Mente, et Corpore constareといっています。僕はこのとき,身体と精神は区別され得る別のものであり,各々が別個のものとして存在すると解するのです。ですがこれは,人間という単独の事物が存在して,それはある観点からみれば人間の精神といわれ,それと別の観点からみられるなら人間の身体といわれるというように解釈することも可能です。僕が推奨するのはこの解釈です。すなわち精神と身体を別個の事物と解するのではなく,同じ事物の異なった側面であると解する方法です。喩えとして適切であるかは分かりませんが,円柱というのは上部からみれば円であり,真横からみると長方形です。これと同じように,人間には客観的側面と形相的側面があるのであって,それが客観的側面からみられたときは精神としてみられ,形相的側面からみられたなら身体としてみられるというように解するのです。これはいってみれば身体と精神を区別され得る別個のものとみるのではなく,同一のものを異なった観点からみているわけですから,真上からみようと真横からみようと円柱が円柱であることに変わりはないように,形相的観点からみられても客観的側面からみられても人間は人間であるといっているので,真上から見た場合の円と真横からみた場合の長方形というのが実質的に無効な区分であるように,精神と身体との区別を無効化してしまうような解釈であり,思い切った解釈であると思われるかもしれません。ですがこの解釈はたぶんスピノザの哲学の理論を損なうことはありません。しかもそればかりではなく,『エチカ』のテクストの中には,こういった解釈を許容すると思われるものも含まれているのです。
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プリンスオブウェールズステークス&人間の存在

2019-06-21 18:55:29 | 海外競馬
 日本時間で19日の深夜にイギリスのアスコット競馬場で行われたプリンスオブウェールズステークスGⅠ芝1990m。
 ディアドラは好発から3頭が並んだ真中の2番手。このレースはこのときに外にいた馬が勝ち,内にいた馬が2着になるのですが,この2頭は最初から牽制し合うようなレースでした。おそらくそれを避けるために下げ,外に出して4番手に。最初のコーナーに向けて隊列が徐々に長くなっていき,そこから後ろの馬が追い上げるという展開。ディアドラは手を動かしながら外目を上昇。直線に入ってからやや挟まれるようなところはありましたが,立て直されてからの伸び脚からすると大勢に影響するような不利ではなく,勝ち馬からおよそ13馬身4分の1差の6着でした。
 ここは相手が強く,先着された5頭のうち何頭を負かすことができるのかというようなレースだと思っていました。1頭も負かせなかったわけですが,逆にいえば順当な結果だったということでしょう。コース自体が傾斜が多いタフなものであり,なおかつ土砂降りの雨という悪コンディションでしたから,日本で走るのとはわけが違った筈で,仕方がない結果だったと思います。

 延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumは異なった属性です。ですから延長の属性の個物res singularisと思惟の属性の個物とは実在的に区別されなければなりません。つまりある人間の身体humanum corpusとその人間の精神mens humanaは実在的に区別される別の事物であるということになります。
                                   
 次にスピノザの哲学では観念ideaというのは必ず何かの観念です。他面からいえば観念には必ず観念対象ideatumが存在します。たとえば第一部公理六はこれを前提としないと成立しないからです。スピノザの哲学では観念の観念idea ideaeという思惟の様態cogitandi modiが存在します。この場合は観念も観念の対象も同じ思惟の属性の様態であるということになります。しかしこの場合を別とするなら,観念の対象となる属性は思惟の属性と異なる属性です。よって観念とその対象は,基本的に実在的に区別されるといわなけれなりません。区別されるということは,同一の事物ではなく異なった事物であるという意味です。
 さらに,第二部公理三は,思惟の様態の第一のものは観念であるということを意味します。したがって人間の精神というのは思惟の属性の個物ですから,その有esseの最初のものは観念によって構成されていなければなりません。これは人間が現実的に存在するといわれる場合には,第二部定理一一とか第二部定理一三から明らかです。よって人間の精神は観念であり,観念であるからにはその対象があります。つまり人間の精神とその有を構成する観念の対象は実在的に区別される別の事物でなければなりません。
 ここから理解できるのは,もし人間の精神が存在するというならその有を構成する観念の対象も存在するといわなければならないということです。よって人間の精神の有を構成するその観念の対象がその人間の身体であるのなら,人間の精神が存在するならその人間の身体もまた存在しなければなりません。いい換えれば,人間が存在するのなら実在的に区別されるものとして身体と精神が存在するのであって,そうでないなら人間は存在しないといわなければならないのです。ですが人間が存在しないというのはそれ自体で不条理です。つまり人間の身体は形相的にformaliter存在します。よって「我」は形相的にも存在するという結論が出てきます。
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京成盃グランドマイラーズ&区別可能性

2019-06-20 18:46:49 | 地方競馬
 昨晩の第22回京成盃グランドマイラーズ
 モンドアルジェンテは大きく立ち遅れて5馬身の不利。ベンテンコゾウが無理なくハナへ。ミッシングリンクとディアデルレイが並んで2番手。4番手はリコーワルサー,クリスタルシルバー,サダムリスペクトの3頭。7番手にリアライズリンクス。8番手にトキノエクセレントとゴールデンバローズでこの9頭は一団。3馬身ほど離れてコンドルダンスとトーセンブル。発馬で不利があったモンドアルジェンテが後方2番手で最後尾にクラトリガー。前半の800mは50秒1のスローペース。
 逃げたベンテンコゾウは残り1000mからペースアップ。ミッシングリンクが単独の2番手になりましたが,3コーナーを回ると押してようやくついていく形で,ベンテンコゾウに並び掛けるまでには至らず。その間に内を回ったリコーワルサーが単独の3番手に。直線に入ってベンテンコゾウのペースはやや緩んだものの,止まるというほどではなく,余裕をもって逃げ切って優勝。直線でミッシングリンクの外に出されたリコーワルサーが2馬身半差で2着。ミッシングリンクが3馬身差の3着。ペースのわりには大きな差がつくレースとなりました。
 優勝したベンテンコゾウは岩手デビュー。2歳時に岩手チャンピオンとなり,3歳時は北海道に遠征して二冠を制覇。4歳の1月,岩手の冬休みの時期に南関東に一時移籍してA2を連勝。岩手に戻った後,昨年の12月に南関東に本格的な転入。オープンを3連勝しました。それだけに南関東重賞初挑戦となった前走の5着は物足りなかったのですが,すぐ巻き返しに成功し南関東重賞初制覇。前走は川崎コースが合わなかったのかもしれませんし,あるいは強敵相手のレースに前走で慣れたため,ここは本来の力量を発揮することができたのかもしれません。キャプテンキングにはやや及ばないかもしれませんが,この距離なら上位の能力をもった馬であることは間違いありません。父はサウスヴィグラス。祖母は1990年にサファイヤステークス,1991年に朝日チャレンジカップ,1992年に北九州記念と愛知杯,1993年に京都牝馬特別を勝ったヌエボトウショウ
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は羽田盃以来の南関東重賞36勝目。京成盃グランドマイラーズは初勝利。管理している船橋の川島正一調教師は南関東重賞17勝目。京成盃グランドマイラーズは初勝利。

 僕が「我」は形相的にformaliterも存在する,一般的にいえば人間の身体humanum corpusが現実的に存在すると考えるconcipereもうひとつの理由を説明します。ここでは考察との関連から,こちらの理由に重きを置くことにします。
 僕はある人間が存在するとき,これは現実的にあるひとりの人間が存在すると考えてもいいですし,人間一般なるものが神Deusの属性attributumに包容される限りで存在すると考えてもいいのですが,その人間の精神mens humanaとその同じ人間の身体は,区別され得ると解します。他面からいえば,その人間の精神とその人間の身体とは,同一の事物ではないと考えるのです。これはきわめて当たり前のことをいっているようですが,根拠としては意味を有するのです。
                                   
 まず一般的に,AとBが知性intellectusによって正しく区別され得るなら,AとBは同一の事物ではありません。これに反してAとBが知性によって正しく区別することが不可能であるのなら,AとBとはことばの上でそのようにいわれているだけで,実際には区別することができない同一のものです。このことは第一部定理五を論証する際の前提となっていることなので,少なくともスピノザの哲学の中では成立するものと解さなければなりません。
 スピノザは第一部定理四証明で,一般にあるものと別のものはどのようにして区別することが可能であるのかということを示しています。それは,属性の相違によって区別されるか,それとも様態modiすなわち実体の変状substantiae affectioの相違によって区別されるかのどちらかでなければなりません。第一部公理一の意味は,自然Naturaのうちには実体と実体の変状だけが存在するということであるからです。このとき,もしAとBが属性の相違によって区別されるなら,それは実在的区別といわれ,実体の変状の相違によって区別されるのであれば様態的区別といわれます。したがって,区別distinguereは本来的には実在的区別と様態的区別のいずれかしかありません。いい換えれば,AとBが,実在的にも区別され得ないし様態的にも区別され得ないなら,AとBは単に別の記号を与えられているというだけで,実際は同一のものです。
 人間の身体は物体corpusなので延長の属性Extensionis attributumの個物res singularisです。人間の精神は観念なので思惟の属性Cogitationis attributumの個物です。
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ヒューリック杯棋聖戦&テクスト

2019-06-19 19:20:42 | 将棋
 万松寺で指された第90期棋聖戦五番勝負第二局。
 豊島将之棋聖の先手で角換り相腰掛銀。わりとスピーディーに進みましたので双方に研究があったと推測されますが,先手の研究に穴があったようで,渡辺明二冠が角を打ち込んだところでは優位に立ったのではないかと思います。
                                        
 後手が6六に歩を打って先手の金が6七から逃げたところ。ここで☖8六歩☗同銀と突き捨てて☖6九銀と打ちました。
 この手は最善ではなかったらしく,本当は☖7六銀☗7八王☖5六桂と進めて下に落とした方がよかったようです。先手は☗6六金と取りました。数手前に打った歩で,その段階では取れなかったため,ここで取られる手を後手は軽視していたかもしれません。
 目につくのは☖同銀☗同王☖6八角成ですが,これは☗2四飛と走られたときに先手玉に詰めろを掛けるのが難しくなってしまうようです。よって☖7六銀☗同金☖同桂と進めました。
 これでも先手は☗2四飛です。後手は☖3一金と引いて銀を取りにいきました。
                                        
 ここで☗2三飛成としましたが,飛車が2四から動くと先手玉に詰みがありました。ここで先手に手がないとなると逆転には至っていなかったということになります。
 渡辺二冠が勝って1勝1敗。第三局は29日です。

 僕がスピノザの哲学において「我」は形相的にformaliterもある,もっと一般的にいえば人間の身体humanum corpusは形相的に存在すると考えるのにはふたつの理由があります。そのうちのひとつは,純粋に『エチカ』のテクストはそれを肯定していると読解できるという点にあります。
 スピノザは人間の本性natura humanaということで,人間の精神mens humanaを意味させる場合があります。これには確固たる理由があるのですが,それはここでは措いておきます。ただ,スピノザがこのようにいうので,「我」というのは形相的にも存在するのかという主旨の疑問が生じやすくなっていることは事実でしょう。
 確かにスピノザは人間の本性といって人間の精神を意味させる場合がありますが,これと別に身体の本性があることも認めます。たとえば第五部定理二二には人間の身体の本性という意味のことがいわれています。この定理Propositioでいわれている本性は現実的本性actualis essentiaのことなので現実的に存在するあるいはしている人間の身体の本性,いい換えれば時間tempusのうちに持続している人間の身体の本性のことです。しかるに第二部定義二の意味は,事物の本性はその事物の存在existentiaを鼎立するということでした。よって人間の身体の現実的本性とは,その人間の身体の現実的存在を鼎立する本性なのです。よって人間の身体に現実的本性があるということは,人間の身体は現実的に存在するという意味でなければならないことになります。
 同じようなことは,第二部定理一三系からもいえます。ここでははっきりと人間の身体は僕たちがそれを感じる通りに存在するCorpus humanum, prout ipsum Sentimus, existereといわれているからです。この系Corollariumは第二部定理一三からの帰結,すなわち僕たちの精神Mentemの現実的有を構成するconstitutens観念の対象ideatumが僕たちの身体であるということからの帰結ではあるのですが,だからといって精神だけが現実的有であるというわけではなく,その観念の対象である身体の方も現実的有なのであるということも事実なのです。認識cognitioは思惟作用ですから,僕たちが何かを認識するとすれば僕たちの身体が認識するのではなく僕たちの精神が認識するのですが,認識されているものも認識しているものも,同じように現実的有として存在するのだとこのテクストはいっています。
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I love him④&我

2019-06-18 19:02:39 | 歌・小説
 で自分が何も失わずに,他面からいえば何かを失うことを恐れて生きていたということに気付いた歌い手は,自分自身に問い掛けます。

                                        

     それで生きたことになるの?
     それで生きたことになるの?


 ここでは生きるということの意味の転換があります。何も失わずに生きること,何かを失うことを恐れながら生きることは,本当に生きることなのかと問われているからです。

     長い夢のあと 本当の願いが胸の中 目を醒ます
     I love him I love him I love him I love him
     I love him I love him 返される愛は無くても


 で歌われていたように,何も失わないで生きていくこと,失うことを恐れながら生きていくことは,愛さずに生きていくことでした。けれども本当の願いが愛して生きていくこと,失うことを恐れずに生きていくことだったと歌い手は気付きます。だから生きていくことの意味も転換することになったのです。
 この最後の一行は「MEGAMI」に通じるところがあると僕は感じます。

 「我」というのを概念notioとして考えないというのは,そもそも「我」はどのような概念であるのかということを哲学的に追究しないという意味です。たとえばデカルトRené Descartesは「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」といいました。これに対してカントImmanuel Kantは,子どもはずいぶん後になってから「私は」というのであって,自己意識は自然なものであっても生得的なものではないといって批判しました。ですがここではこのような意味で「我」とは何かは問いません。そもそもスピノザの哲学の特徴のひとつは主体の排除という点にあるのであって,「我」とは何かということ自体にはさほどの意味がないからです。
 デカルトの「我思うゆえに我あり」は三段論法ではなく,思惟している私は確実に存在するという意味でした。この意味において「我」とは思惟している「我」のことです。いい換えればその「我」とは精神mensとしての「我」なのであって,身体corpusとしての「我」ではありません。ではスピノザにとっての「我」はどうであるのかということをここでは問うていくことにします。つまりスピノザにとって「我」とは何かという問いを,「我」とは自分の精神のことだけを意味するのかそれとも自分の身体のことも意味するのかという主旨の問いとして考えるということです。他面からいえば,もしスピノザの哲学に「我」という概念を導入したとすれば,その「我」とは「我」の客観的有esse objectivumすなわち「我」の観念ideaだけを意味するのか,それとも「我」の形相的有esse formaleも意味するのかという主旨の問いとして考えるということです。つまり,客観的な「我」だけが存在するというべきなのか,それとも形相的にも「我」は存在するというべきなのかを探求していきます。
 まず,端的にこの問いを上述のような意味に解する限り,スピノザの哲学において「我」というのは形相的にも存在すると僕は考えます。この考え方の前提となるのは,第二部定理一三により,人間の精神を構成する観念idea, humanam Mentem constitutensの対象ideatumはその人間の身体であるという点にあります。よって形相的有としての「我」はその人間の身体であり,客観的有としての「我」はその人間の精神であると解さなければなりません。つまり形相的有があるとは,身体があるという意味です。
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ジャガー・横田&問い

2019-06-17 19:06:58 | NOAH
 全日本女子プロレスの経営陣の無能さについて触れたとき,コーチ役を務めていたジャガー・横田の発言をその根拠のひとつとしました。横田がコーチになったのは引退後であり,それ以前はプロレスラーでした。僕の女子プロレスキャリアの初期,会場での観戦はしなかったもののテレビでは視聴していた頃のトップ選手が横田です。全日本女子プロレスのトップというのはWWWA選手権王者のことです。プロレスか女子プロレスかという観点では女子プロレス派の選手でした。
                                        
 僕が見始めた頃にはトップだったわけですから,それ以前のことは詳しく知りません。デビューは1977年6月。当時はビューティペアのブームで新人が多く,しかし経営陣は自分たちの手でスターを育てる能力には欠けていたので,実力で勝った選手を上で使うという方針を決定しました。つまり全日本女子プロレスでセメントが行われるようになったのは横田がデビューした頃からだったことになります。
 同期の新人たちによる新人王戦は1回戦で判定負けしたものの,1980年1月に全日本ジュニアで初タイトルを獲得。そして翌年の2月にジャッキー・佐藤を破ってWWWAの王者になりました。これらの試合もすべてセメントで,横田はそれが当然の時代だったと発言しています。つまりトップであるWWWAの選手権もセメントいい換えれば押さえ込みルールで行われていたわけで,横田は文字通りにその実力でトップを勝ち取った選手であることになります。
 1985年8月にライオネス・飛鳥を相手にWWWA選手権を防衛した後,12月のデビル・雅美戦を前に脱臼。王者を返上して翌年の2月に全日本女子プロレスを引退しました。一時的に王座を明け渡すことはあったのですが,4年半にわたってトップに君臨。そしてその原動力は押さえ込みの実力だったわけです。柳澤はこの点から,世界中を探しても横田くらい偉大なチャンピオンはひとりもいないといっています。プロレスなのでそれを偉大と表現していいのかどうかは僕には分からないのですが,横田のようなチャンピオンがほかにはいないということは事実だと思います。
 後に復帰していますが,それは僕の女子プロレスキャリアが終った後です。

 認識論に近い立場から平行論へ移行していった僕が,平行論は認識論より唯物論に近いという印象を抱いたのはごく当然のことといえます。ですから,平行論という理論が,認識論あるいは観念論より唯物論に近い論理であるというのは,一般的には肯定しにくいと思います。とはいっても,スピノザの哲学すなわち平行論を貫いているのは神Deusの本性の必然性であって,それを僕たちは自然法則という語で認識しているというのは事実です。したがって平行論のうちには物理法則や化学公式といったものも含まれていると解さなければなりません。ですから当然ながら精神mensを離れた事物の形相的有esse formaleが,スピノザの哲学の対象となっているということは間違いないのです。しかも,物理法則とか化学公式というのは,現実的に存在している,いい換えれば時間的に持続しているといわれる物体corpusにも適用可能な法則です。つまり,理性ratioの本性naturaは事物を永遠の相species aeternitatisの下に認識するcognoscereことにあり,この場合はそうして認識された観念の対象ideatumも永遠の相の下に,すなわち神の属性attributumに包容される限りで存在する形相的有でなければならないのですが,スピノザの哲学の射程は,その限りでの形相的有に限られているわけではなく,現実的に存在している物体にも及ぶのです。同時にそれは,そういう物体の観念idea,つまり現実的に存在している事物の観念にも及ぶということです。
 ここまでのことが概略つまりこれから示すヒントとなることの前提です。ここからはあるひとつの問いを具体的に検討していくこにします。そこからヒントが生じてくるからです。
 問いは事物の形相的有と客観的有esse objectivumすなわちその事物の観念とが関係するようなものであれば何でもよいのですが,ここではスピノザの哲学において「我」というのは,観念の集合としてのみ存在するものなのか,それとも観念すなわち観念の集合である知性intellectusを離れて形相的にformaliterも存在するもなのかというものを立てることにします。語句の使用は異なりますが,こういう主旨の質問はかつてこのブログで受けたことがあり,同時に現在の考察についてとても適切なものだからです。
 ただし,今は「我」というのを概念notioとは考えないことにします。
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高松宮記念杯競輪&自然法則

2019-06-16 19:21:09 | 競輪
 岸和田競輪場で行われた第70回高松宮記念杯競輪の決勝。並びは新田‐渡辺の福島,平原‐木暮の関東,脇本‐中川の西日本,清水‐小倉の中国四国で小原は単騎。
 スタートを取ったのは平原。おそらくそれならということで1周目のバックで清水が外から上昇。平原の前に出て誘導の後ろに入りました。3番手に平原,5番手に新田,7番手に脇本,最後尾に小原で周回。残り2周のバックで脇本が一気に上昇。小原が3番手に続き,打鐘で清水を叩いて脇本のかまし先行に。4番手に清水,6番手に平原,8番手に新田の一列棒状に。新田がホームから発進。平原が牽制しましたがそれを乗り越え,バックから最終コーナーにかけて前に接近。渡辺は離れました。中川は新田を十分に引き付けてから踏み込み,そのまま新田を前に出させずに優勝。新田が4分の3車身差で2着。中川マークのレースになった小原が4分の3車輪差で3着。
 優勝した熊本の中川誠一郎選手は2月の全日本選抜競輪以来の優勝でGⅠおよびビッグは3勝目。高松宮記念杯は初優勝。このレースは先行意欲の高そうな選手が不在で,結果的に脇本の先行に。後ろからになってしまったことと,小原が3番手につけたことで先行に肚を決めたものでしょう。脇本に先行されると後ろはなかなか動いていくのが大変。脇本を出させるときにいささか脚を使ったとはいえ,4番手を取った清水でもまったく動けませんでした。それを考えれば8番手から捲って前まで迫った新田はかなり強いレースをしたといえるでしょう。脇本は現状は打鐘から脚を使っての先行になると,最後まで粘ることはできないようです。新田が来たので中川の踏みだしも早くなった分,入着もできませんでした。

 スピノザの哲学では意志voluntasは思惟の様態cogitandi modiです。僕がスピノザの哲学を詳しく研究する契機のひとつになった絶対的な意志は,思惟の様態というよりは神Deusあるいは絶対に無限な実体substantiaの本性essentiaに属するべきもので,様態というよりは属性attributumに近いものといえるかもしれません。ただ,スピノザの哲学の中でいえば,それが思惟の属性Cogitationis attributumを超越するような概念notioではないこと,逆にいえばどんなに広く見積もっても思惟の属性よりは広きに渡らないものであることは確かです。
                                   
 これに対して本性の必然性は,スピノザの哲学ではすべての属性を貫く必然性necessitasですが,僕たちが通常の場合にこれをどういうものとして認知しているのかといえば,いい換えれば僕たちはこれを普通はどういうことばで表現するのかといえば,それは自然法則です。そして僕たちは大抵の場合,この自然法則というのを具体的には物理法則とか化学公式として理解しているわけです。本性naturaの必然性がすべての属性に貫徹されるというのは,思惟作用についても物理法則や化学公式に類する形で示すことができるという意味だと理解しておくのが,分かりやすいといえば分かりやすいと思います。そしてこの部分は確かにスピノザの哲学の真骨頂です。第三部とか第四部の一群の定理Propositioの中には,自身のことを反省的に鑑みれば思い当たるような定理のひとつやふたつはだれにでも必ずあるだろうと僕は思います。
 ここから分かるように,僕はまず意志が神の絶対的本性に属さなければならないという立場から,意志は思惟の様態であって,それは神の絶対的本性の法則によって決定されるという立場に移行したのですが,これは端的に,認識論的な立場から唯物論的立場をも含むような立場,唯物論的に説明されるようなことが観念論の世界にも適用されなければならないという立場に移行したということです。もちろん物理法則や化学公式がそのまま精神mensに適用できるというのはスピノザの立場ではありません。物理法則や化学公式は物体corpusに特有の法則であって,観念ideaには適用され得ないし,観念の原因causaともなり得ないからです。ただこの僕の過去の経験が,僕のスピノザの哲学への印象に影響を及ぼしているのは確かでしょう。
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