2,100年という数字は現代人には来ない数字である。
科学の進歩は目覚ましくある。あと90年弱先までどれだけの進歩があるのだろうか。
コンピュウターができてからは、加速して進歩したし、これからは更なるという進歩である。
生命倫理も論じられる状況も生まれ、神のみぞ知ることとする領域に目を覗かせている。
昭和初期、終戦直後、昭和2、30年の頃、そして右肩上がりに、高度成長期へと進んでいく時の頃には、
夢の夢物語の物品が当たり前のようにある時代となっている。「あったらいいなぁ」「でもできるはずがない」の憧れ想像だけの世界だったものである。
現在においても、便利というものにほんの少し顔を覗かせただけのことであるのだろうが、
それにしても、日進月歩である。先進国という日本、また、その肩書が付く他諸国は、その技術の栄華を
謳歌して慢じる。
無くて当たり前の日常の生活が普通、自然である。そんな国は多分である。
自然は、表ざたありとあらゆるものをあってないように見せ、無くてあるように見せつける。
僅かながらも、また、時として垣間見られるものは、すべて存在としているものである。
「できる」「可能」ということは、元あるからで、できないとすることは「知らない」「未だ」と
いうだけである。だから、「できた」ことに超ということはない。
自然を超えてしまうということは有り得ないことだから。
自然を超えてしまったものは、存在しないことになるためである。
無くてあるように見るのは、自然の単純な現し方を見れないためである。
なぜ普通に存在しないのだろうという単純さにある。
超優れものというものが、普通に存在してしまったその後の顛末は、
不具合となるためである。
人の寿命は伸ばすことは可能である。可能となるはずである。
永遠ではないにしても、10倍は可能となる技術の進歩はある。
また、元の肉体をはじめに培養、引き継がれて存在としていくこともできていくが、
あらゆるものが架空の真実となって乱れてしまう。それは、物体だけの存在で、
心無いものとなるためである。気の通らない、つまりは気の通わないものが蔓延ることになる。
どれが真実で真実でないかが定まらず、嘘がまかり通って現実となってしまう。
それは、自然ではない。
人は自然の産物である。自然の産物であるものが作ったものは自然の産物とは言わず、人工というように、
自然の産物以外のものが多く蔓延っていけば、理に合わないものとなる。
浄化されてしまう運命となる。
自然は自然にあった美しさで永遠である。
一時、その上に、いろんなものが理に適おうとして存在しただけである。
釈迦は、法を見て三世を見ることができた。
自分の過去を知り、今を見て、未来を見ることができた。
人が作り出す悪のエネルギーによって、地上の生物は一旦リセットされると知った。
この目覚ましく進歩している科学技術も、それを止めることはできない。
千年も二千年も発達した科学技術を得た生命体であれ、神仏でさえ止めることはできない。