つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

朴直に

2012-10-15 | Weblog
倹しくあり謙虚である。
足るを知ること不自由にして感謝を得る。
恐れ多くして慢を破る。
素朴に適う。
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啓示

2012-10-14 | Weblog
男女の営み、互いに交わり官能を得る。
好きという愛の表現によって得られる充足感は、
阿吽の呼吸に等しい。互いに愛し合った快楽は意思疎通によるもので、
受けるものと出すもの互いを損ねない。えてして、
好きという意思が相手本人に向けられているためである。
これが本人の行為に向いているだけであるなら、作為にほかならず、
不自然となってその報いが現れる。快楽は多大な苦となって訪れる。
不自然というものを訪ねた者の果である。

この世の快楽というのは、男女の夜の営みが極みである。
女は、「あ」という言葉を発しながら仰け反り、それに反応して「うん」と発して男が果てる。
そして、次期世代に繋がっていく。「新た」が母胎に宿るのである。それなりの生き様に応じた縁によって
生じるのである。
母体はその快楽の後、苦しみをもって喜びを得る。そしてまた、苦しみと喜びとを混じりながら、
二人分けあった愛の容を、二人分けあいながら育む。そうして滅して行き、再び、誰かの男女の営みによって母胎に宿る。そうして繰り返すことを輪廻といい、知るべき足りないことの為にその場を与えられる。
与えられるというよりも、自らが選んでいるという縁である。
人生というのは、知るべきことのあるための場を生きるということである。
正しくその無知を破れば、再びという輪廻は受けることがない。永遠の快楽、それを極楽といい
涅槃寂静といって生命の浄化された世界となる。そこの快楽は、この世の快楽など及びもつかないほど
快くそして、永遠となっている。

男女の営みをなくして、この世に誕生した人はいない。
釈迦もキリストもそうである。
そうでなく懐妊したとしているのは、男女の性交が悪で淫らなものとされたためである。
悪で淫らであったなら、生まれてくる者は、すべて悪魔な者となってしまう。
誤解されてしまったことが正しいとなって繰り返され、誤りに気が付かなくなっているために、
神仏によって解決されていくとしているためである。

神と呼ばれ、仏と呼ばれるのも、以前は人であった。人であったために縁となって訓えられるのである。
人の死後の世界が生命の真の世界で、法則の絶対世界であると、
死後の世界から語られたのである。
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自業自得という訓え

2012-10-13 | Weblog
2,100年という数字は現代人には来ない数字である。
科学の進歩は目覚ましくある。あと90年弱先までどれだけの進歩があるのだろうか。
コンピュウターができてからは、加速して進歩したし、これからは更なるという進歩である。
生命倫理も論じられる状況も生まれ、神のみぞ知ることとする領域に目を覗かせている。
昭和初期、終戦直後、昭和2、30年の頃、そして右肩上がりに、高度成長期へと進んでいく時の頃には、
夢の夢物語の物品が当たり前のようにある時代となっている。「あったらいいなぁ」「でもできるはずがない」の憧れ想像だけの世界だったものである。
現在においても、便利というものにほんの少し顔を覗かせただけのことであるのだろうが、
それにしても、日進月歩である。先進国という日本、また、その肩書が付く他諸国は、その技術の栄華を
謳歌して慢じる。
無くて当たり前の日常の生活が普通、自然である。そんな国は多分である。

自然は、表ざたありとあらゆるものをあってないように見せ、無くてあるように見せつける。
僅かながらも、また、時として垣間見られるものは、すべて存在としているものである。
「できる」「可能」ということは、元あるからで、できないとすることは「知らない」「未だ」と
いうだけである。だから、「できた」ことに超ということはない。
自然を超えてしまうということは有り得ないことだから。
自然を超えてしまったものは、存在しないことになるためである。
無くてあるように見るのは、自然の単純な現し方を見れないためである。
なぜ普通に存在しないのだろうという単純さにある。
超優れものというものが、普通に存在してしまったその後の顛末は、
不具合となるためである。

人の寿命は伸ばすことは可能である。可能となるはずである。
永遠ではないにしても、10倍は可能となる技術の進歩はある。
また、元の肉体をはじめに培養、引き継がれて存在としていくこともできていくが、
あらゆるものが架空の真実となって乱れてしまう。それは、物体だけの存在で、
心無いものとなるためである。気の通らない、つまりは気の通わないものが蔓延ることになる。
どれが真実で真実でないかが定まらず、嘘がまかり通って現実となってしまう。
それは、自然ではない。
人は自然の産物である。自然の産物であるものが作ったものは自然の産物とは言わず、人工というように、
自然の産物以外のものが多く蔓延っていけば、理に合わないものとなる。
浄化されてしまう運命となる。
自然は自然にあった美しさで永遠である。
一時、その上に、いろんなものが理に適おうとして存在しただけである。

釈迦は、法を見て三世を見ることができた。
自分の過去を知り、今を見て、未来を見ることができた。
人が作り出す悪のエネルギーによって、地上の生物は一旦リセットされると知った。
この目覚ましく進歩している科学技術も、それを止めることはできない。
千年も二千年も発達した科学技術を得た生命体であれ、神仏でさえ止めることはできない。
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是大神呪・・

2012-10-11 | Weblog
「是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚」
この法則こそ釈迦の訓えた訶であり、この法則こそ観自在菩薩の明らかにした訶である。
この法則こそこの上ない訶であり、この法則こそ比べるものの無い唯一正しい訶である。
一切の苦を除くもので、真実嘘の無いものである。
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無宗派

2012-10-10 | Weblog
仏教は釈迦の訓えである。
その道は一つであり、幾通りあるものではない。
真理が一つであるように、仏の訓えも一つである。

祖師仏教は宗派がある。それは分派、排他的要素を持つ。
釈迦の訓えからはずれている。
仏教は釈迦一人に学び、その弟子たち観音と呼ばれるようになった人たちに学ぶべき事。
訓えは一つである。
八正道という道一つ。
心のあり方である。
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生死の矛盾

2012-10-08 | Weblog
誰一人として死なない人はいない。
つまり、生というのは死を絶対の条件としている。
死というものを目的として生が与えられるのである。
だから、
死ぬために生まれるということ。そして、そのために生きるということである。
死後の世界こそが生命の真実の居場所であるためである。

人の一生というのは、肉体が消滅した後の世界をつくるためである。
死後の世界がどのような世界とするのかの為の人生である。
そのために努力がある。
この世、肉体を持った色の世界は、
様々に誘惑があり、安易に楽を選んで苦を得るような惑わされる世界である。
楽が苦を生み、苦が楽を生むことにつながるように見えてある世界である。
その経験を時どきに受けて、無知を破り無智を破り、
楽は楽に、苦は苦に繋がることを覚って、苦行がイコール幸福となることではないと、
智慧を得る。
精進努力したことは、決して無駄になることはなく、死後に現れる。
生まれてくることはチャンスでもある。生前に知らなかったことの為の誤りをただせるものであるためである。
無知の為に無した事柄に正しく対応するよう、裏返しの場に生まれる。
金持ちであった時に、金持ちであるための正しい生き方がなされたか?
それは、傲慢にならず、利己的にならず、金の力でできる優しさを様々に駆使したか?である。
自利に走り、これでもかと慾張りに明け暮れて終える人生は、
死後にも未来世にも餓鬼の世界と極貧の環境に生じる。
正しい金の使い方、有難さを知るためである。
努力の有無にかかわらず、現、裕福とする環境の者はそのような‘試’しにさらされている。
貧困であるものは、貧困であるがゆえに歪んだ心を持っていれば、いつまでも底辺を行き来する。
貧困であるにもかかわらず、分かち合いながら生きる者は、死後にも未来世にも
恵まれるところにいる。その恵まれるところで、どう生きるかによって行き場は定まる。
そのように、何を知り、善し悪しを知恵をもって分け生きるならば、
苦行難行もいらず、心の判断だけで正しい道を知る。
死ぬために生きるというのは、矛盾ではないのである。
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正される兆候

2012-10-07 | Weblog
天気異常、季節外れに・・・。
地球上の裏表に於いて異変ととらえられる事態が多々報じられる。
過去においても天変地異は多くあり、その時の生物滅亡なる事態はあった。
稀なる事柄とするのは、
人の時間が天空の時間と比較にならないほど短いために、千年万年億年劫年と
いう時の変化で起こる事柄に及ばないからである。ただ、生命の時間も永世であるために、
劫年と経つ時に必ず遭遇する。
天気、大気、空気、元気、病気・・、と気が付いてあらわされる見えないつり合いの動きは、
その時々の変化に応じて対応となってくる。ある部分が多分に刺激されれば、多分の分
力は影響を与えながら、平に成るところに分散する。
もともとは増えもしないし減りもしないものであるが、表面上は動いているための変化によって
その起伏が生じる。
気というのは、その時々に対応して、対応した形をもって生じてくる。
それが、その場、間にそぐわないものであれば悪気であり異常な変化として周りを刺激する。
そぐわないものは歪となって正転となっていかず、円満にならない。円満にならないものは、
はじかれていく。そうでなければ、その気自体が分解してしまうためである。
自然と正すための変化が起こる。異常事態という現象となる。

気はエネルギーである。
これほど多くの人が地上にあふれてきた。その多くが欲望に駆られ、
欲望を満たすための行為として進化している。その進化が誤りの進化となっているために、
この世は生き辛く地獄となっている。争いという行為、暴力の行為となっているために、
人が開発していくものは、破壊によって抑止する軍事行為となって、悪の気、エネルギーとなって作られていく。
私は争いは好まないと思っていても、一個人としてみても、
我欲が先立ち、これは私のもの、あれは私のもの、あの人には負けたくないとか、あの人はずるいとか、
あの人は気にくわないとか、意地悪だとかととかく自分の正義を立て、腹を立てて暮らしている。
優劣を気にして常に優位に立ちたがる。愚かな者だと思えども、それが、大勢となれば、社会、国となって
こだわって生きる。人類は皆平等だと知りながら、人種が違えば、地域が違えばと
差別が絶えない。
さて、宇宙の法則は廻る法則である。
元から始まりまた元に戻る。ゼロからゼロになる法則である。それは、浄化されていく法則でもある。
これが世であるために、人の行為はすべて、生物の行為はすべて浄化の行為となって生きているものである。生きていく間に、知能が豊かになり、この事に気が付いていくもの、そして、
正しい浄化として行為としていけば、法との摩擦も無くなって天変地異に遭遇することも無くなっていくものである。人の短い時間の中に、劫の時間を要する事柄がおこらないものであるのだが。
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こころをみがく

2012-10-06 | Weblog
興味のある本は何度も読み返してみる。
まるでバイブルのように、時の間を越えながらも読み続ける。
自分というもののアンテナを常に出しているなら、
ある時に突然に気づきがある。いままでの
こうである、こういうものである、と思い込んでいたことと
真逆の思いで果に着く。また、同じ果に着いたとしても、
たどりの思いが異なり着けば、深みと広がりが益し、真実が知れてくる。
湧き出る疑問に答えが見いだされてくる。それは、実に単純にして見えていたものであるが、
濃い霧と塵と風と雨とにぶつかって歪んだりして、わずかに見え隠れたりして見えてしまう。
見る力、気が無いためのことで、気が付けば、いとも簡単にそれは見ることができていた。
我が目に見えていないだけで、前には物事が存在しているのである。
時として、その見えていない物事は、我が気のせいでさわる。それは、障りとして
触れる。我が気のせいというのは、邪気である。

無邪気であるために過つ。無邪気の無は心経の無と同じ無である。
それゆえ、邪気を払うために人生となっている。
子供の持つ邪気の無いということではない。純真な心というのではない。
邪は不正といい悪である。
その悪気を正すために、邪悪な心を正すために、人は人生として歩んで行って理に適うものとなっている。
そのため、人の行いはすべて浄化の行為となっている。その浄化の行為が無智であるために、
誤った浄化の行為となってしまって、邪気の無くならない行為となって、互いを傷つけあって生きている。
その人の悪気が進化となって、人は滅亡していくと釈迦の預言となり、キリストの預言となっている。
滅法であり黙示録である。
釈迦もキリストも法を知見した人である。その人の預言であるために、法の預言となって、
絶対となっている。それは、絶対であるために避けられないこととなっている。

心は生命である。エネルギーである。法もエネルギーである。
生命は法によってつくられ、その法が無くならないために生命も無くならないとなって、
死がただ単に肉体の消滅であり、エネルギーの消滅ではないために、人は生滅を繰り返す。
生滅は苦である。生まれることが無ければ滅することもない。
生命エネルギーの真実の世界が死後の世界である。
法の絶対世界である。そのために、キリストは死後の世界を天国とするための
人の行為を説き、釈迦は死が恐怖となるものではないことの心のあり方を説いた。もし、
死が恐怖となれば、死後の世界は恐怖となり、地獄となってしまうためである。それが、絶対世界となってしまうためである。
釈迦もキリストも死が生命の無くなることではないことを知り、死後の世界こそが
生命の永遠の居場所であることを覚った。
そのためのこの世での人の行為を訓えたものである。
仏や神の愛を説いたものではない。
おそらく、釈迦もキリストも、神仏の愛として受け取られたことを嘆き悲しんでいるでしょう。
歎異抄である。そのようなことを言ったつもりではないと歎いているでしょう。
神仏は人の恐怖が作り出したよりどころの現象、そのために、祈っても願っても叶わない。
叶ったとするのは、心の勝手のよりどころとするためである。

死後の世界こそが生命の真実の居場所である。
その真実の居場所を正しく作るために、つまり、苦しみの地獄とするか、楽しい天国とするかが、
人の生きる理由である。自由である。

「心につき従って行為となる」仏は言う。

こころをみがけ!


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2012-10-01 | Weblog
私たちはいつか必ず死ぬ。
生きるということはそういうことである。
人は死ぬために生きる。
これが真実である。
必ず死ぬのであるなら、生まれてくる意味がないとするのは、
死というものがどういうことであるのかを知らないために思う矛盾である。
死後が人の真実の世界である。
けっして恐怖となるものではない。
人という生命の真実の世界が死後の世界である。
生命は魂といい心であり、肉体経験で作られていくエネルギーである。
すべて外部から受ける刺激に対して対応してつくられていくエネルギーである。
どのように対応したかの蓄積が心をつくっていく。
今の自分の心の動きは、何世代にもわたって積まれた心の統一された果である。
自分という性格、性質である。
死は生命のなくなることではないと知るなら、死ぬために生きるという
矛盾も無くなる。
一つ一つ無知をなくして、格の向上と繋げ、質がまるくなって涅槃寂静となっていく。
死がすべての恐怖の根本であるために、
死が恐怖となるものではないと知るなら、恐れるものは何一つなく、
神も仏も必要としないものである。
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