世は相対するもので存在して動いているが、三つ巴である。
存在というのは、あるから見えるのではなく刺激とならなければ見えてはこない。
あらゆるものは揺らいでいて、その律動は快いものであるが、ぐらついたときに刺激となる。
完成されてないものは常にぐらついて動き回る。その目的は完成のためである。完成されたものは動くことを必要としなくなる。
見えないものを無いとするのではなく、極度に畏怖の念を抱かずとも、そこに‘ある’、あるいは‘いる’ことを心がけて謙虚であるべきと思う。
釈迦のように完成された者は輪廻も無く、永遠の世界に安住する。完成されたものにぐらつく縁はないために、
迷いの世界に現れることも無い。
迷い憂える凡夫はぐらついて、
暗闇の中に立ち、そこらじゅうの刺激を受けて生きている。そのものを見て惑わされずに、心地よいリズムに触れよ。
かみほとけとて、人のそれぞれの人生知る由も無い。まして凡夫、
占うことなどあたるも八卦あたらぬも八卦である。
人の行為はすべて、人生浄化のための行為となっている。
誤りのない浄化となって生きていくことで予め前は見える。後ろめたさで生きたなら、いつの世も気が咎め、また、その目にあう。
人類の歴史を見れば、誤った浄化の行為となっている。戦争はその際たるもの。
わが神を冒涜するものは悪であり、悪と戦うことで聖戦として、戦争を正当化していく。
その誤った浄化の行為が人の歴史。内外的に常に争い生きてきた。
宇宙は浄化の法則でつくられている。その
浄化の法則に沿わないものは淘汰されていくのが自然である。道理である。
もういつあってもおかしくない淘汰の時期となっている。法則の予言であるために、はずれることは無い。
存在というのは、あるから見えるのではなく刺激とならなければ見えてはこない。
あらゆるものは揺らいでいて、その律動は快いものであるが、ぐらついたときに刺激となる。
完成されてないものは常にぐらついて動き回る。その目的は完成のためである。完成されたものは動くことを必要としなくなる。
見えないものを無いとするのではなく、極度に畏怖の念を抱かずとも、そこに‘ある’、あるいは‘いる’ことを心がけて謙虚であるべきと思う。
釈迦のように完成された者は輪廻も無く、永遠の世界に安住する。完成されたものにぐらつく縁はないために、
迷いの世界に現れることも無い。
迷い憂える凡夫はぐらついて、
暗闇の中に立ち、そこらじゅうの刺激を受けて生きている。そのものを見て惑わされずに、心地よいリズムに触れよ。
かみほとけとて、人のそれぞれの人生知る由も無い。まして凡夫、
占うことなどあたるも八卦あたらぬも八卦である。
人の行為はすべて、人生浄化のための行為となっている。
誤りのない浄化となって生きていくことで予め前は見える。後ろめたさで生きたなら、いつの世も気が咎め、また、その目にあう。
人類の歴史を見れば、誤った浄化の行為となっている。戦争はその際たるもの。
わが神を冒涜するものは悪であり、悪と戦うことで聖戦として、戦争を正当化していく。
その誤った浄化の行為が人の歴史。内外的に常に争い生きてきた。
宇宙は浄化の法則でつくられている。その
浄化の法則に沿わないものは淘汰されていくのが自然である。道理である。
もういつあってもおかしくない淘汰の時期となっている。法則の予言であるために、はずれることは無い。