つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

時は迫る

2010-10-16 | Weblog
世は相対するもので存在して動いているが、三つ巴である。
存在というのは、あるから見えるのではなく刺激とならなければ見えてはこない。
あらゆるものは揺らいでいて、その律動は快いものであるが、ぐらついたときに刺激となる。
完成されてないものは常にぐらついて動き回る。その目的は完成のためである。完成されたものは動くことを必要としなくなる。
見えないものを無いとするのではなく、極度に畏怖の念を抱かずとも、そこに‘ある’、あるいは‘いる’ことを心がけて謙虚であるべきと思う。
釈迦のように完成された者は輪廻も無く、永遠の世界に安住する。完成されたものにぐらつく縁はないために、
迷いの世界に現れることも無い。

迷い憂える凡夫はぐらついて、
暗闇の中に立ち、そこらじゅうの刺激を受けて生きている。そのものを見て惑わされずに、心地よいリズムに触れよ。
かみほとけとて、人のそれぞれの人生知る由も無い。まして凡夫、
占うことなどあたるも八卦あたらぬも八卦である。
人の行為はすべて、人生浄化のための行為となっている。
誤りのない浄化となって生きていくことで予め前は見える。後ろめたさで生きたなら、いつの世も気が咎め、また、その目にあう。

人類の歴史を見れば、誤った浄化の行為となっている。戦争はその際たるもの。
わが神を冒涜するものは悪であり、悪と戦うことで聖戦として、戦争を正当化していく。
その誤った浄化の行為が人の歴史。内外的に常に争い生きてきた。

宇宙は浄化の法則でつくられている。その
浄化の法則に沿わないものは淘汰されていくのが自然である。道理である。
もういつあってもおかしくない淘汰の時期となっている。法則の予言であるために、はずれることは無い。
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2010-10-14 | Weblog
願い事は三度。
三度にわたり、
再三尋ねて、
仏の顔も・・・、
二度あれば三度、
三度と無く、
参は要だ。
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純心

2010-10-13 | Weblog
自分の損得が無く、素直に相手の利を願ってわが身の骨をおる。
他の幸せを願って心を配り、それだけである。
よくよくことが便宜に図られ、幸せ者と感謝する。
世のため人のためとして自分のためとなるが、下心では後々悲しむ破目だけである。
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心の自由

2010-10-11 | Weblog
無を無いと訳すのではなく、無くならないとすることである。

無が無くならないとしてしまうと、すべてのものが無くならないとなってしまう。その場合、
悪が作られ恐怖が作られてしまえば、恐怖が無くならないものとなってしまい、どんなことをしても希望が閉ざされてしまう。
そこで、無くならないものは無いと顛倒して思えば、希望が見え道は開かれていく。
現象(夢想)となっている世界から悪を消していくことである。
それが、衆生の救われていく術である。心の問題である。そのために、心経と謳われる。心が、無という文字にさまたげられないのは、心の自由である。
心を摩(みがく)訶(しかる・うた)として摩訶とつけている。

「故心無罣礙 無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃三世諸佛 依般若波羅蜜多」と説かれている。
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井の中の蛙

2010-10-10 | Weblog
地球外生命体がいないという人がいる。
他の星から見たら地球人も宇宙の人。
そう考えたらいとも簡単に答えが見える。
私たちは、自分のおかれた環境で物事を考えがちだが、
あたり前であるとして物事を当てはめてしまう常識など非常識なこと。

人の脳の90%以上はいまだ使われていないとされている。
とても人間業とは思えないほどのしぐさを備えた人もいる。
人もまだ未知未知ている。自分がどこからきてどこへ行くのか、何者なのかも人は知らない。
なぜ?と自問自答して生きているのはおかしなものだ。
生命とは実になぞに満ちている。自分を自分が知らないのだから。

高度に発達した知的生命体が宇宙には数多くいて、まだまだ未発達の生命体は
それらに守られて生きている。
瞬時に時間を越え、空間を操る彼らは、地球人からすれば神ともとれるだろう。
そんなことが常識的あるはずもないと思うのは、知能遅れというようなもの。
未発達では仕方も無いことだが・。
さほど昔でもないころから、人々の前に彼らは頻繁に現れはじめてきた。
人類の悪のエネルギーが満たされてきているために、地球変動が起こってきたシグナルとして、
救うものと阻止するものと阻害するものとの入り乱れて。
私たちが、生物多様性を思い始めたように、知的生命体によって宇宙は秩序を保たれている。
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礙げられて

2010-10-07 | Weblog
人の一生は死ぬための一生である。
死が人の絶対条件であるのは、生命が、肉体を持って生きた記憶の現象の世界を真実として、
そこに生きているためである。その世界が生命の真実の世界で、その世界を幸せの世界とするためである。
生命には死がないためで、死がないのは、すべての創造主である法則に終わりがないためである。
その法則とはエネルギーの法則である。エネルギーの円運動によってすべての存在が作られている。
円運動が始まりと終わりのないものとなって、永遠につながっていく存在となっているためである。
そのエネルギーの中のすべての出来事で、エネルギーのないところには存在がない。
「百千万劫難遭遇」であるために、唯一の存在法則で、他の法則は無い。法則の外側は存在とならないために、
考えることすらできないもの、思議のできないものとなっている。不思議、いや不可思議といえるものである。
人はよく宇宙の外側はどうなっているのかと考えるが、答えることができないものとなっている。不思議、不可思議である。

エネルギーは性質上円い形をして有限となっているが、閉じられた世界であるために、永遠の果てである。
エネルギーの中はうつろである。諸行無常となっているのは、円運動による変化のためである。その変化が常住となって、
常にゼロに戻り連なっていく。円運動となっているエネルギーの法則である。永久不滅となっている。
そのために、生命も不滅となっていて輪廻となっている。
変化に対応した生命が作られて、さまざまな命が存在となっている。性質上
生じては滅してを繰り返す。そして、行為(業)によって、縁が生まれ
縁によって場が現れていく。下等なものは、思い煩うことが無いために、いつまでも下等で、そこから抜け出すことが無い。
ただ食して死に食して死にを繰り返すだけの生き物。食って食われての世界である。
人もまた変わらないが、思い省みる心を在するために、生命の目的である真の幸せ、楽の世界にたどり着くことができる質をつくり、
その術を持つが、いまだほとんどが無知であるようだ。
智慧を持ってその術はかなえられるが、般若心経はその方便である。悲しくも心経の解釈を間違えた。
仏の憂いたことが的中し、心経の文字に礙げられて。
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人間なんてラララララ

2010-10-06 | Weblog

時は思い出を作り、遠く過ぎ去って、ただ
あの頃はとなつかしむ。戻ることのできない日々は、
苦しみも寂しさも切なさを交えて、楽しかったと口にする。
喜びなんて無かったものを。
恋にときめき、愛にまどろみ、見失って戸惑う途方の日々は、人生のすべての値と、あぁ
人間なんてラララララ、ラララララ人間なんて・・・。
切なくて儚いものだ。
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荒唐無稽

2010-10-04 | Weblog
私たちはまだこの世の中の真実をよく知らない。
過去と現在と未来がただ時間の矢によって創られていると思っている。
時間の矢は成長しながら戻ることを知らず、過去と現在と未来が交差しながら、
現在を交えて現れることも、現在が過去においても未来においてもあることも知らない。
過去にある現在も、現在の今も、未来の現在も、現在としての時間の矢は持っている。

68億6千万人の地球人口が80億となるころ、
儚くもとして人類は滅ぶ。この宇宙から見れば、芥子粒のごとくに小さな数と、
刹那な時間。存在しない如くだが、私たちは生きている。
私たちの一日と蟻んこの一日も同じ一日にして異なる長さ。
すべての存在に、私たちは無知で今を生きている。
常識というものを作り出しながら、人の都合から見て・・・。

現在から、遠い未来も過ぎ去りし日々も、
垣間見ることができる時間の矢もある。
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無知なために誤解

2010-10-03 | Weblog
「汝、姦淫するなかれ」とキリストは説いた。
倫理にそむいた肉体関係を否め戒めているのであって、性交そのものを
否めているのではない。
この言葉を誤って判断し、性交を淫らな行為としてしまい悪いこととしてしまった。
性交が悪であるならば、生まれてくるものすべてが悪魔となってしまう。
性交は人としての絶対善の行為である。愛の行為であり、天国を作る行為である。
人としての行為である。

この人としての行為を滅していったならば、どこに生じることがありましょう。
生まれる原因を絶てば生じることが無いのが道理である。
生まれなければ四苦八苦もなく、一切皆苦の世から解き放たれるものである。
十二の縁起を踏まえてその元を絶ったなら、生命は苦より離れられるものである。
そのゆえに、禁欲を行うのである。しかしながら、煩悩ある人であるために、
異性がいればどうしても気にかかる。そこで、目に付くところにいなければ
仕方が無いであろうと、人里はなれ山にこもり修行するのである。
そうして、気を養い人としての行為を滅していくのである。

愛の行為はいつくしむ行為である。喜びであり幸せを作る行為である。
悪の無い行為である。
倫理にそむく行為があってはならない。
不倫は悪の行為である。はじめに愛した人が邪魔となってしまうために・・・。
もろもろの悪いこと、わりの合わないことが起こっていく。
悪に縁を結んでしまうために・・・。

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?皮をかぶった者

2010-10-02 | Weblog
高度な教育を受け、鎬を削って頂点に上ってきた人でも、
ただの人である。慢心を持ち合わせ、それを消し去ることには無知で、
あるいは、魔がさすことを侮るために、正しき姿を装うだけで、
その姿を映す影は貘である。貘は人の目には見えない悪魔の姿を指す。
頭が良いとして学力に優れても、道徳を持ち得ない者は凡人より劣る。
想いと行為と識において創られていく悪魔を三貘として、その三貘を正していくのが
菩提心である。省みる心を宿し、情けを持ち、煩悩を戒めていく、よくよく道徳を身につけて、悪魔となっている三貘を三菩提としていくことが真の人としての教育であり、道である。でこぼこでいばらの
けものみちを分け入り、ととのえ平坦にして人の道となる。その人を道の人と呼び、
一目置いて崇めるのである。
敬い信頼に値する人は、高教育受講者には無く徳を備えた人にある。
?皮をかぶった者が多いのが俗世である。ひとつの地獄かもしれない。
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