まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

デンマーク王スヴェン2世妃 ガイダ

2010-02-20 12:40:03 | デンマーク王妃
            肖像画がないのでいろんなところから拾ってきてます。
           上の絵はヴァイキング物語の挿絵みたいですが可愛らしいので拝借しました。


なんだかすごいことになった母娘
スヴェン2世妃 ガイダ・アフ・スヴェリエ


生年不詳~1048/在位 1047~1048

スヴェン2世は、スヴェン1世の王女エストリドが摂政ウルフ伯と結婚して生まれた王子です。
クヌート1世が亡くなるとノルウェー王マグヌス1世がデンマーク王に即位しましたが
マグヌス1世の遺言で指名されて即位しました。
ここから王家がスキョル家からウルフ家に変わります。

スヴェン2世にはお子様が18人いてですね、名前がわかってる奥様は3人です。
そのうちひとりは99.9%子供を生んでいないので、他にもたくさんの妃がいたと思います。
とりあえずわかっている最初の妃を…

ガイダはスウェーデン王アーヌンド・ヤーコブの王女で
スヴェンがスウェーデンに追放されている時に結婚したとみられています。
結婚の翌年に亡くなりました。
言い伝えではスヴェンの恋人トーラに毒殺されたことになってます。

       

この後、スヴェン2世は驚きの再婚をっっ!!


で、娘の後に嫁いできたお母様
スヴェン2世妃 グンヒルド・スヴェンスダター


生年不詳~1061/在位 (スウェーデン王妃)1022~1050
            (デンマーク王妃)せず
       
グンヒルドは、アーヌンド・ヤーコブ、すなわちガイダのお父様の妃、ってえことは
ガイダのお母様です(異説あり)

アーヌンド王が亡くなった1050年、スヴェン2世と再婚したっていうじゃないの
しかしスヴェンには恋人もいたことだし、これは完全に政略結婚でしょうねっ?
スウェーデン王の親族に誰か年ごろの娘はいなかったのかしら?

       

さすがにこの結婚は教会から許されず、破門を言い渡されそうになって離婚しました。
グンヒルドはヴェステルイェートランドの自分の領地に戻り懺悔の日々を送りました。

でも、もともとアクティブな人だったのかしらね?
僧服のための生地や小物を作る工房を設立したそうです。
ロスキレ大聖堂の聖歌隊のガウンの注文も受けたって言うからやり手だね。

もしかしたら、このアクティブさが男性を惹き付ける魅力だったのかも…
政略結婚と考えるよりは素敵ですよね。

と思いきや…
グンヒルドと侍女たちは礼拝服を着て世間から孤立していたので
Gudhem修道院を建てたという噂がたつほどひっそり暮らしていたらしい…
(修道院は実際には100年後に建ってます)

はっきりしませんが1061年に亡くなった説が有力みたいです。

もうひとり名前が分かっている妃トーラについては詳細が分かりません。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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デンマーク王クヌート1世妃 エンマ

2010-02-20 12:33:33 | デンマーク王妃
二度イングランド王妃になった
クヌート1世大王妃 エンマ・アフ・ノーマンディエ


985頃~1052/在位 (エセルレッド2世妃)1002~1016
           (クヌート妃)1017~1035

“ ノルマンの宝石 ” と謳われた美女エンマはノルマン公リシャール1世の娘でした。
ノルマンディーももともと北欧のヴァイキングがフランスに進出して築いた土地です。

        

エンマは1002年に、イングランド(サクソン)王エセルレッド2世と結婚しました。
エセルレッドはその年に前妃エルギフ・オブ・ヨークを出産で亡くしていて再婚でした。
イングランドではエルギフの方が尊敬を集めていたそうです。

エンマはこの時にアングロサクソン式の名前エルギフに変えたみたいで
これが後々、クヌートの最初の妃エルギフ・ノーサンプトン
一緒くたになってしまった原因じゃないかと…ややこしいのでエンマでいくね。

エセルレッド2世と王太子エドマンド・アイアンサイドが1016年に亡くなると
クヌートはエンマと結婚します。
エルギフ(ノーサンプトン)のところでも書いたけど、奥さんと離婚したわけではなくて
完全に重婚でございます。

これはイングランド王になったクヌートが、ノルマンディーからの攻撃をそらすための
政略結婚には違いないんですけど、なにしろ “ 宝石 ” だからね

エンマはエセルレッド2世との間に男の子がふたりいました。
これがエドワード(後の1世)とアルフレッド。
クヌート王との間にはハーディカニュート(後の王)が生まれました。
ハーディカニュートが急死しないで、イングランドとスカンジナビア一帯を治めていたら
歴史は大きく変わっただろう、というのが歴史家の見解みたいです。

エルギフ(ノーサンプトン)にもハロルド(後の1世)とスヴェンがいたし
エセルレッド王とエルギフ(ヨーク)の子エドワード・アジリングとエドレッドも
王位を主張していました。

王位継承ぐちゃぐちゃ
結局最後にはノルマン家に持ってかれてしまったじゃないの…

1035年にクヌート大王が亡くなった時、ハーディカニュートはデンマークにいて
ノルウェイのマグヌス1世とスウェーデンのアーヌンド・ヤーコブと戦っていました。
エドワードとアルフレッドは、クヌートに征服された時から
ノルマンディーへ避難していて、頼みの息子はみな不在。

そんなわけでエンマは敵陣にひとり残っていたようなものなのね。
1036年にエドワードとアルフレッドはエンマに会いにイングランドを訪ねました。
母親に会いに里帰り…あたりまえのことですよね?

でもこれは異母兄ハロルド1世に対する挑戦みたいに受け取られてしまって
アルフレッドは捕らえられ、中世的なむごい殺され方をします。
エドワードはノルマンディーへ、エンマはフランドルへ逃げて
再びイングランドの地を踏んだのは、ハロルド1世の死後でした。

しかし、エンマはこの時次の王に息子エドワードでなく
ノルウェー王マグヌス1世を推しています。
最初の結婚でできた息子は嫌いだったみたい… 幸せな結婚じゃなかったのかしら?

妻がいるところへしゃあしゃあと嫁いできたというだけであまり好感を持てないのだが
当時は悪いことじゃなかったんだし、女性が生き抜くのも大変だったでしょうから…
17歳で最初の結婚をして、次の結婚も政治絡みで
恋愛なんか望むべくもなかった人生って可哀相ね…

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

英国王室史話〈上〉 中央公論新社


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