皇帝一家公認、とは言ってもね・・・
マリーヤ・アントノーヴァ・ナルイシキナ
1779~1854/愛妾 1799~1818
マリーヤはポーランド貴族アントーニ・スタニスワフの娘で
16歳の時にドミトリー・ナルイシキンと結婚しました。
4年後にはアレキサンドル1世と愛人関係になっていたというから
宮廷というところは本当に酒池肉林の世界だったのね…
アレキサンドル1世という方は、古代のギリシャ彫刻に例えられるほどに
とてもハンサムだったそうで、そりゃあモテましたとも!
浮気のひとつやふたつや…十個ぐらいはあるでしょうが
そんな中でも皇帝の家族にものすごく気に入られた愛妾がマリーヤでした。
そりゃ、奥さんは別よ
皇后エリザヴェータは、他の愛妾同様彼女を黙認していました。
マリーヤは人々をうっとりさせる魅力に富んでいて、おつきあい上手な女性でした。
“ 北のアスパシア ” と呼ばれていたそうです。
さすが、艶っぽいです…
たしかにうっとりしてしまいますな
1803年、マリーヤはアレクサンドルとエリザヴェータを別れさせて
自分が皇后の座につこうと画策します。
ちょっとアスパシアっぽくなくなってきたわよ…
でもこれは失敗。
1814年にはウィーン会議に行くアレクサンドルに同行しましたが
これがアレクサンドルの評判を落とします。
ナポレオン打倒の立役者だったのに…
だんだん目に余るようになってきたのですかね?
アレクサンドルは説得されて、とうとうマリーヤと別れることを決心しました。
1818年にふたりは別れましたが、子供もいるし…ってことで
以降も家族同様のおつきあいをしていた模様。
ところで、マリーヤの夫は子供のうちふたりを自分の子供と認めなかったんだけど
離婚したと言う記述が見当たらないのよね。
皇帝に認知してもらった方が後々なにかとさぁ… なんてことを考えたりしたのかしら?
ちなみにマリーヤが生んだ娘のうち、ソフィーヤが16歳で亡くなったことで
アレクサンドルは自分の不貞に罰が下ったと思って皇后と仲直りしたそうですよ。
(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)
写真やこぼればなしなどもあり読みやすい
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね
マリーヤ・アントノーヴァ・ナルイシキナ
1779~1854/愛妾 1799~1818
マリーヤはポーランド貴族アントーニ・スタニスワフの娘で
16歳の時にドミトリー・ナルイシキンと結婚しました。
4年後にはアレキサンドル1世と愛人関係になっていたというから
宮廷というところは本当に酒池肉林の世界だったのね…
アレキサンドル1世という方は、古代のギリシャ彫刻に例えられるほどに
とてもハンサムだったそうで、そりゃあモテましたとも!
浮気のひとつやふたつや…十個ぐらいはあるでしょうが
そんな中でも皇帝の家族にものすごく気に入られた愛妾がマリーヤでした。
そりゃ、奥さんは別よ
皇后エリザヴェータは、他の愛妾同様彼女を黙認していました。
マリーヤは人々をうっとりさせる魅力に富んでいて、おつきあい上手な女性でした。
“ 北のアスパシア ” と呼ばれていたそうです。
さすが、艶っぽいです…
たしかにうっとりしてしまいますな
1803年、マリーヤはアレクサンドルとエリザヴェータを別れさせて
自分が皇后の座につこうと画策します。
ちょっとアスパシアっぽくなくなってきたわよ…
でもこれは失敗。
1814年にはウィーン会議に行くアレクサンドルに同行しましたが
これがアレクサンドルの評判を落とします。
ナポレオン打倒の立役者だったのに…
だんだん目に余るようになってきたのですかね?
アレクサンドルは説得されて、とうとうマリーヤと別れることを決心しました。
1818年にふたりは別れましたが、子供もいるし…ってことで
以降も家族同様のおつきあいをしていた模様。
ところで、マリーヤの夫は子供のうちふたりを自分の子供と認めなかったんだけど
離婚したと言う記述が見当たらないのよね。
皇帝に認知してもらった方が後々なにかとさぁ… なんてことを考えたりしたのかしら?
ちなみにマリーヤが生んだ娘のうち、ソフィーヤが16歳で亡くなったことで
アレクサンドルは自分の不貞に罰が下ったと思って皇后と仲直りしたそうですよ。
(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)
写真やこぼればなしなどもあり読みやすい
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