近年のドラえもん映画は公開翌日に藤子ファン仲間で集まって観に行っていたが、今年は日程の都合で公開日翌週の鑑賞となった。以下に、例年通りに感想を書いておく。
念のために文字は反転させておくが、当然本編のネタを割っているので、未見の方はご注意を。
なお、以前にも書いたように、私は数あるドラえもん映画及び原作の大長編の中で『のび太の宇宙開拓史』が一番好きであり、今回のエントリはあくまで原作及び映画旧作に強い思い入れのある人間による感想だと言う点にご留意の上で、お読みいただきたい。そこのところ、よろしくお願いします。
前置きが長くなったが、本題の映画感想に入る。
と言っても、何から書いたらいいのやら。上でもちょっと触れたが、昨年この映画のスタッフが発表になった時に、「監督と脚本に期待する」と書いた。それを踏まえた上で、一言で感想を書くと「見事に裏切られた」。こうとしか言いようがない。
それほど、今回の映画は脚本も演出も酷かった。
まず脚本についてだが、原作の流れにオリジナル要素を無理に接ぎ足したようで全体の構成が非常に不自然な上に、一回観ただけでも設定上の矛盾点がボロボロと見つかり、とても『新 魔界大冒険』と同じ人が書いたとは思えない。
『新 魔界大冒険』は、オリジナル要素を物語の核として全体のストーリーが作られており、唐突なドラミ登場など原作で無理のある点もフォローされていた。その結果として出来上がった物語に対する好みはともかく、一つの作品としてきちんと成り立っており、さすがに『ドラえもん』に思い入れのあるプロの小説家だと思わされた。
それが、今回はどうだったかと言えば、オリジナルの新要素だったモリーナの物語は、はっきり言って邪魔にしか感じなかった。『新魔界』は元々ゲストのメインキャラだった美夜子さんのエピソードを膨らませていたので無理は感じなかったが、今作は「のび太とロップルくんの友情」と言う作品の核がすでにあるのに、それに加えてもう一人ゲストを登場させた事で焦点がぼけて、ロップルにもモリーナにも感情移入できないまま話が進んだ印象だ。
話を部分毎に分けて観てみると、それぞれのエピソードはかなり原作に忠実な形で描かれてはいる。逆に言えば、原作パートが原作に近いだけに、オリジナルパートが浮いてしまったのだろう。
そして、よりによって個人的に一番観たかった「のび太対ギラーミン」の決闘が、最悪の形でオリジナル部分の影響を受けてしまった。
表面的な映像を観れば、決闘シーンはそれなりに原作に近い形で描かれている。しかし、本来なら決闘は観客(原作なら読者)がコア破壊装置の進行による危機を忘れて見入ってしまうほどに盛り上がる、物語最大の山場だったはずなのに、今回は決闘決着の後にギラーミンが未練がましく銃を撃ったり、「コア破壊装置は止まらないぞ、ワハハ」と捨てぜりふを吐いたりと完全に小物化して決闘の価値を著しく下げた上に、オリジナルでコア破壊装置を止める展開が続き、むしろそちらが山場となっていたため、決闘は完全にストーリーの流れに埋もれてしまった。
これは一番酷いと思った部分だが、このように原作のいいところをオリジナル展開の追加で殺してしまっており、原作を読み込んでいる(はず)の人間が、原作の面白さを理解した上で脚本を書いたとは思えない。
また、舞台となるコーヤコーヤ星の設定が実にいい加減で説明不足であり、観ていて首を傾げたくなる部分が多かった。
たとえば、原作通りの洪水があるのに、その直後に草の茂ったモリーナの牧場が出てきたり、市街地らしき場所まで出てきて「ここはトカイトカイ星の描写なのか?」と思わされたりと、スタッフが作品の基本設定を理解していないのではないかと疑わざるを得ない。
開拓途中の荒野ばかりの星だから「コーヤコーヤ」なのであり、今作でもはっきり「入植して7年」と言っているのだから、きちんと整備された市街地があるのは変だし、そもそも作品世界のイメージにそぐわない。だいたい、洪水の時は市街地ごと全て地下に潜っているのか?…まだ、開拓途中で街が出来ていく描写が少しでもあれば、もう少し説得力があったのかも知れないが、今回の内容では無理がある。
そして、オリジナル要素について。
第三の星を登場させたのは、作品の根幹に関わる設定を破壊しており、これが決闘を差しおいてクライマックスになったのは、決闘の改悪と並んで今回もっともガッカリさせられた部分だった。
本来、宇宙船とタタミの下がつながる事が、とんでもない偶然でめったに起こる事ではないからこそ、のび太とロップル、コーヤコーヤの人達との出会いが大きな意味を持ち、また別れのシーンは「もう、二度と会えない」ことが胸に迫ってきて、自然と感動できる場面となっていた。
それが、今回は地球ともコーヤコーヤとも関係のない第三の未開の星への枝道が登場した事により、「その気になれば超空間はどこへでもつながっているんじゃないか」と言う感じになって、のび太とロップルの出会いの不思議さも薄められてしまった。
さらに、オリジナルキャラのモリーナは、彼女自体「いらない子」だった。
第一印象では「一件冷たい態度を見せながら、ロップルを見守るお姉さん的存在」なのかと思ったのだが、実際には思い込みでコーヤコーヤの大人を勝手に恨んだあげくにギラーミンにコロッと騙されて危機を招く、単なる頭の悪い女であり、全く魅力が感じられなかった。
そんな感情移入できないキャラの父との再会を最後に持ってこられても、全く感動できない。それどころか、「あの星はどこにあるんだ」「その気になればもっと早く見つかったんじゃないか」「いくらなんでも一人で宇宙船を作るのは無理だろう」と、モリーナの父に関する設定にも突っ込みどころが多すぎて、観ていてすっかり醒めてしまった。
とどめに、のび太の「もう一つの宇宙開拓史があったんだ」。第三者視点のナレーションならまだしも、当事者ののび太にこんな事を言わせては、最後の最後にドッチラケだ。
あとは、コア破壊装置の無茶苦茶な処分方法(惑星の中心まで行っている装置があんなに簡単に引っこ抜けるのか、それに抜いただけで惑星の変動がおさまるのか)も、観ていて「これはないだろう」と思ってしまった部分だった。
タイムふろしきにばかり頼っては能がないと考えたのだろうが、それに代わるだけの展開ではなかった。
今回の設定のいい加減さや無理矢理さは、末期大山ドラ映画のそれを思い起こさせられた。どうしても、F先生のセンスを分かった上で新たな面白さを生み出すのは無理なのだろうか。
結局、今回のオリジナル要素追加については、「蛇足」の一言で全て言い表せてしまう。
あらためて、原作の『のび太の宇宙開拓史』がいかに完成度の高い名作であるかがよくわかった。
しっかりと完成されたものに、何を加えてもそれは余計なものでしかなく、それどころか元の作品の価値を低めてしまう事になりかねない。
さて、ここまでは主に脚本面での問題点を指摘したが、演出も酷かった。
何が問題かというと、全体的に平板すぎて、映像として「ここは盛り上げよう」と言う作り手の意志が画面から全然伝わって来ず、退屈で気分が盛り上がらなかったのだ。
これは、既に原作を知っているからと言う問題ではない。『ドラえもん』に限らず、読み込んでよく知っている漫画の映像化作品はこれまでに数限りなく観てきたが、ツボを押さえた演出であれば、話を知っていても思わず画面に見入ってしまうものだ。
ただ「ダメだ」と言うだけではフェアでないので、実際にダメだと思った場面の一例を挙げておく。
非常に残念な事に、一番分かりやすい「ダメ」な場面となると、またしても決闘シーンを取り上げざるを得ない。
のび太とギラーミンの対峙、打ち合い、倒れるのび太、そして倒れるギラーミン…。これらの要素だけを観れば「ほぼ原作通り」なのだが、場面場面の切り替えに「溜め」が足りず、あまりにスピーディーに決闘が終わってしまうため、観ていて緊張感が全くないのだ。
撃ち合いがすぐに始まってしまうので観ていて緊張する間もないし、のび太が倒れた直後にギラーミンも倒れてしまうので、「のび太がやられたのか?」とハラハラする事もない。更には、原作で非常に印象的なギラーミンの「ニヤリ」もなければ「お前の…勝ちだ」もなく、「のび太が数少ない特技で強敵を倒した」と言う一世一代の見せ場らしい盛り上がりが全然感じられない。
漫画で読んでいてすら息詰まる決闘シーンをここまで緊張感なく描けてしまうのだから、逆の意味ですごい事だと言えるかも知れない。
決闘シーンだけでなく、どの場面もこんな感じでメリハリに欠けており、何を盛り上げて何を見せたいのか、さっぱりわからなかった。
もっとも、前述のようにギラーミンは決闘に負けた後も未練がましく攻撃を仕掛ける小悪党に改変されているので、キャラ的に「お前の…勝ちだ」なんて言ったらかえっておかしいだろう。
それにしても、大長編ドラ史上一、二を争う魅力的な悪役だったギラーミンを、ここまでの小物にしてしまうとは、スタッフが何を考えているのか理解しがたい。この方が格好いいと思ったのだろうか。最後、ガルタイトの連中と一緒に逮捕されて捨てぜりふを吐く場面は、目を覆いたくなってしまった。
今作の全体的な評価としては、ドラ映画の中でワースト2にせざるを得ない。ワースト1は言うまでもなく去年のアレだ。
ただ、去年は大長編原作が無く短編ベースのオリジナルだった事を考慮すると、原作付き映画の中ではワースト1になる。原作が素晴らしいだけに、ここまで改悪する事が出来るスタッフの手腕には、ある意味脱帽だ。
しかし、正直言って不思議な事ではある。腰繁男監督も脚本の真保裕一氏も力のある人だと思っていて、それ故にある程度は期待していたのだ。だから、ここまで酷い出来になるとは予想外だった。今回のスタッフには、題材が全く向いていなかったのだろうか。
最後になるが、すっかり恒例になったゲストの芸能人・声の出演者(断じて「声優」では無い)の感想も書いておこう。
案外まともだったのは、チュートリアルの二人。悪役らしい凄みには欠けるが、凸凹コンビのおっさんとしてはそこそこの演技だった。モリーナは、演技自体は上手いとは言えないが、キャラクター自体がやさぐれている感じだったので、イメージには合っていてそれほど気にはならなかった。
一番酷かったのはクレム役だった。クレムが3歳児くらいの設定なら我慢できるが、あの外見であの声はきつい。「おゆうぎ会に出た子供」でしかなく、クレムのセリフが聞こえてくる度に苦痛だった。
あと、全く批判ばかりというのも何なので、よかったところも挙げておこう。
本編冒頭、のび太と空き地を占領した中学生とのやりとりは、テンポがよくて楽しめた。また、「カーペットは洗濯に出しました」と張り紙を画面に映して、いつもと違ってタタミになっている事をわざわざ言い訳しているのはちょっと笑った。
と、評価できるのが最初の方しかない。実に残念だ。思えば『緑の巨人伝』も最初の30分くらい、生活シーンはそれなりによかったなあ。
繰り返しになるが、私は原作&旧映画への思い入れが非常に強いので、そのせいで余計に今回の映画については辛口になっていると思う。
最初は、淡々と感想を書こうと思ったのだが、書いているうちに「あの名作をこんな事にしてしまうなんて」とだんだんと怒りがみなぎってきて、抑えられなくなってしまった。一応、アップロード前に見直して、あまりにも過激な箇所は削ったつもりだが、それでもまだきつい部分は残っているだろう。
F先生の描かれた大長編ドラおよびそれを元にした映画のうち、初期は特に私にとって思い入れの強い作品が多いが、そんな中でも『宇宙開拓史』は別格なので、どうしても感情的になってしまう。
もし、映画未見でここを読んでいる方がいらっしゃったら、「どうかご自分の目で判断してください」と言いたい。悪い方向での先入観を植え付けられただろうから難しいかも知れないが、私が気付かなかった面白さ、魅力があるのかもしれないから、そういったところは、ぜひ教えていただきたい。
念のために文字は反転させておくが、当然本編のネタを割っているので、未見の方はご注意を。
なお、以前にも書いたように、私は数あるドラえもん映画及び原作の大長編の中で『のび太の宇宙開拓史』が一番好きであり、今回のエントリはあくまで原作及び映画旧作に強い思い入れのある人間による感想だと言う点にご留意の上で、お読みいただきたい。そこのところ、よろしくお願いします。
前置きが長くなったが、本題の映画感想に入る。
と言っても、何から書いたらいいのやら。上でもちょっと触れたが、昨年この映画のスタッフが発表になった時に、「監督と脚本に期待する」と書いた。それを踏まえた上で、一言で感想を書くと「見事に裏切られた」。こうとしか言いようがない。
それほど、今回の映画は脚本も演出も酷かった。
まず脚本についてだが、原作の流れにオリジナル要素を無理に接ぎ足したようで全体の構成が非常に不自然な上に、一回観ただけでも設定上の矛盾点がボロボロと見つかり、とても『新 魔界大冒険』と同じ人が書いたとは思えない。
『新 魔界大冒険』は、オリジナル要素を物語の核として全体のストーリーが作られており、唐突なドラミ登場など原作で無理のある点もフォローされていた。その結果として出来上がった物語に対する好みはともかく、一つの作品としてきちんと成り立っており、さすがに『ドラえもん』に思い入れのあるプロの小説家だと思わされた。
それが、今回はどうだったかと言えば、オリジナルの新要素だったモリーナの物語は、はっきり言って邪魔にしか感じなかった。『新魔界』は元々ゲストのメインキャラだった美夜子さんのエピソードを膨らませていたので無理は感じなかったが、今作は「のび太とロップルくんの友情」と言う作品の核がすでにあるのに、それに加えてもう一人ゲストを登場させた事で焦点がぼけて、ロップルにもモリーナにも感情移入できないまま話が進んだ印象だ。
話を部分毎に分けて観てみると、それぞれのエピソードはかなり原作に忠実な形で描かれてはいる。逆に言えば、原作パートが原作に近いだけに、オリジナルパートが浮いてしまったのだろう。
そして、よりによって個人的に一番観たかった「のび太対ギラーミン」の決闘が、最悪の形でオリジナル部分の影響を受けてしまった。
表面的な映像を観れば、決闘シーンはそれなりに原作に近い形で描かれている。しかし、本来なら決闘は観客(原作なら読者)がコア破壊装置の進行による危機を忘れて見入ってしまうほどに盛り上がる、物語最大の山場だったはずなのに、今回は決闘決着の後にギラーミンが未練がましく銃を撃ったり、「コア破壊装置は止まらないぞ、ワハハ」と捨てぜりふを吐いたりと完全に小物化して決闘の価値を著しく下げた上に、オリジナルでコア破壊装置を止める展開が続き、むしろそちらが山場となっていたため、決闘は完全にストーリーの流れに埋もれてしまった。
これは一番酷いと思った部分だが、このように原作のいいところをオリジナル展開の追加で殺してしまっており、原作を読み込んでいる(はず)の人間が、原作の面白さを理解した上で脚本を書いたとは思えない。
また、舞台となるコーヤコーヤ星の設定が実にいい加減で説明不足であり、観ていて首を傾げたくなる部分が多かった。
たとえば、原作通りの洪水があるのに、その直後に草の茂ったモリーナの牧場が出てきたり、市街地らしき場所まで出てきて「ここはトカイトカイ星の描写なのか?」と思わされたりと、スタッフが作品の基本設定を理解していないのではないかと疑わざるを得ない。
開拓途中の荒野ばかりの星だから「コーヤコーヤ」なのであり、今作でもはっきり「入植して7年」と言っているのだから、きちんと整備された市街地があるのは変だし、そもそも作品世界のイメージにそぐわない。だいたい、洪水の時は市街地ごと全て地下に潜っているのか?…まだ、開拓途中で街が出来ていく描写が少しでもあれば、もう少し説得力があったのかも知れないが、今回の内容では無理がある。
そして、オリジナル要素について。
第三の星を登場させたのは、作品の根幹に関わる設定を破壊しており、これが決闘を差しおいてクライマックスになったのは、決闘の改悪と並んで今回もっともガッカリさせられた部分だった。
本来、宇宙船とタタミの下がつながる事が、とんでもない偶然でめったに起こる事ではないからこそ、のび太とロップル、コーヤコーヤの人達との出会いが大きな意味を持ち、また別れのシーンは「もう、二度と会えない」ことが胸に迫ってきて、自然と感動できる場面となっていた。
それが、今回は地球ともコーヤコーヤとも関係のない第三の未開の星への枝道が登場した事により、「その気になれば超空間はどこへでもつながっているんじゃないか」と言う感じになって、のび太とロップルの出会いの不思議さも薄められてしまった。
さらに、オリジナルキャラのモリーナは、彼女自体「いらない子」だった。
第一印象では「一件冷たい態度を見せながら、ロップルを見守るお姉さん的存在」なのかと思ったのだが、実際には思い込みでコーヤコーヤの大人を勝手に恨んだあげくにギラーミンにコロッと騙されて危機を招く、単なる頭の悪い女であり、全く魅力が感じられなかった。
そんな感情移入できないキャラの父との再会を最後に持ってこられても、全く感動できない。それどころか、「あの星はどこにあるんだ」「その気になればもっと早く見つかったんじゃないか」「いくらなんでも一人で宇宙船を作るのは無理だろう」と、モリーナの父に関する設定にも突っ込みどころが多すぎて、観ていてすっかり醒めてしまった。
とどめに、のび太の「もう一つの宇宙開拓史があったんだ」。第三者視点のナレーションならまだしも、当事者ののび太にこんな事を言わせては、最後の最後にドッチラケだ。
あとは、コア破壊装置の無茶苦茶な処分方法(惑星の中心まで行っている装置があんなに簡単に引っこ抜けるのか、それに抜いただけで惑星の変動がおさまるのか)も、観ていて「これはないだろう」と思ってしまった部分だった。
タイムふろしきにばかり頼っては能がないと考えたのだろうが、それに代わるだけの展開ではなかった。
今回の設定のいい加減さや無理矢理さは、末期大山ドラ映画のそれを思い起こさせられた。どうしても、F先生のセンスを分かった上で新たな面白さを生み出すのは無理なのだろうか。
結局、今回のオリジナル要素追加については、「蛇足」の一言で全て言い表せてしまう。
あらためて、原作の『のび太の宇宙開拓史』がいかに完成度の高い名作であるかがよくわかった。
しっかりと完成されたものに、何を加えてもそれは余計なものでしかなく、それどころか元の作品の価値を低めてしまう事になりかねない。
さて、ここまでは主に脚本面での問題点を指摘したが、演出も酷かった。
何が問題かというと、全体的に平板すぎて、映像として「ここは盛り上げよう」と言う作り手の意志が画面から全然伝わって来ず、退屈で気分が盛り上がらなかったのだ。
これは、既に原作を知っているからと言う問題ではない。『ドラえもん』に限らず、読み込んでよく知っている漫画の映像化作品はこれまでに数限りなく観てきたが、ツボを押さえた演出であれば、話を知っていても思わず画面に見入ってしまうものだ。
ただ「ダメだ」と言うだけではフェアでないので、実際にダメだと思った場面の一例を挙げておく。
非常に残念な事に、一番分かりやすい「ダメ」な場面となると、またしても決闘シーンを取り上げざるを得ない。
のび太とギラーミンの対峙、打ち合い、倒れるのび太、そして倒れるギラーミン…。これらの要素だけを観れば「ほぼ原作通り」なのだが、場面場面の切り替えに「溜め」が足りず、あまりにスピーディーに決闘が終わってしまうため、観ていて緊張感が全くないのだ。
撃ち合いがすぐに始まってしまうので観ていて緊張する間もないし、のび太が倒れた直後にギラーミンも倒れてしまうので、「のび太がやられたのか?」とハラハラする事もない。更には、原作で非常に印象的なギラーミンの「ニヤリ」もなければ「お前の…勝ちだ」もなく、「のび太が数少ない特技で強敵を倒した」と言う一世一代の見せ場らしい盛り上がりが全然感じられない。
漫画で読んでいてすら息詰まる決闘シーンをここまで緊張感なく描けてしまうのだから、逆の意味ですごい事だと言えるかも知れない。
決闘シーンだけでなく、どの場面もこんな感じでメリハリに欠けており、何を盛り上げて何を見せたいのか、さっぱりわからなかった。
もっとも、前述のようにギラーミンは決闘に負けた後も未練がましく攻撃を仕掛ける小悪党に改変されているので、キャラ的に「お前の…勝ちだ」なんて言ったらかえっておかしいだろう。
それにしても、大長編ドラ史上一、二を争う魅力的な悪役だったギラーミンを、ここまでの小物にしてしまうとは、スタッフが何を考えているのか理解しがたい。この方が格好いいと思ったのだろうか。最後、ガルタイトの連中と一緒に逮捕されて捨てぜりふを吐く場面は、目を覆いたくなってしまった。
今作の全体的な評価としては、ドラ映画の中でワースト2にせざるを得ない。ワースト1は言うまでもなく去年のアレだ。
ただ、去年は大長編原作が無く短編ベースのオリジナルだった事を考慮すると、原作付き映画の中ではワースト1になる。原作が素晴らしいだけに、ここまで改悪する事が出来るスタッフの手腕には、ある意味脱帽だ。
しかし、正直言って不思議な事ではある。腰繁男監督も脚本の真保裕一氏も力のある人だと思っていて、それ故にある程度は期待していたのだ。だから、ここまで酷い出来になるとは予想外だった。今回のスタッフには、題材が全く向いていなかったのだろうか。
最後になるが、すっかり恒例になったゲストの芸能人・声の出演者(断じて「声優」では無い)の感想も書いておこう。
案外まともだったのは、チュートリアルの二人。悪役らしい凄みには欠けるが、凸凹コンビのおっさんとしてはそこそこの演技だった。モリーナは、演技自体は上手いとは言えないが、キャラクター自体がやさぐれている感じだったので、イメージには合っていてそれほど気にはならなかった。
一番酷かったのはクレム役だった。クレムが3歳児くらいの設定なら我慢できるが、あの外見であの声はきつい。「おゆうぎ会に出た子供」でしかなく、クレムのセリフが聞こえてくる度に苦痛だった。
あと、全く批判ばかりというのも何なので、よかったところも挙げておこう。
本編冒頭、のび太と空き地を占領した中学生とのやりとりは、テンポがよくて楽しめた。また、「カーペットは洗濯に出しました」と張り紙を画面に映して、いつもと違ってタタミになっている事をわざわざ言い訳しているのはちょっと笑った。
と、評価できるのが最初の方しかない。実に残念だ。思えば『緑の巨人伝』も最初の30分くらい、生活シーンはそれなりによかったなあ。
繰り返しになるが、私は原作&旧映画への思い入れが非常に強いので、そのせいで余計に今回の映画については辛口になっていると思う。
最初は、淡々と感想を書こうと思ったのだが、書いているうちに「あの名作をこんな事にしてしまうなんて」とだんだんと怒りがみなぎってきて、抑えられなくなってしまった。一応、アップロード前に見直して、あまりにも過激な箇所は削ったつもりだが、それでもまだきつい部分は残っているだろう。
F先生の描かれた大長編ドラおよびそれを元にした映画のうち、初期は特に私にとって思い入れの強い作品が多いが、そんな中でも『宇宙開拓史』は別格なので、どうしても感情的になってしまう。
もし、映画未見でここを読んでいる方がいらっしゃったら、「どうかご自分の目で判断してください」と言いたい。悪い方向での先入観を植え付けられただろうから難しいかも知れないが、私が気付かなかった面白さ、魅力があるのかもしれないから、そういったところは、ぜひ教えていただきたい。